批評|アジアにおける「表面」の再発見

伊藤孝仁
建築討論
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11 min readJan 31, 2020

[202002特集:建築批評《チャウドックの家》―東南アジア浸水域の建築 -近代化の境界線上からの視座- ]REVIEW : Rediscovering “Surface” in Asia

「統合」から「サスペンス」へ

アスガー・ファルハディー監督による『別離』*1というイランを舞台とした映画がある。アカデミー賞外国語映画賞を受賞している本作は、グローバリゼーションの中で近代化を積極的に受け入れていくリベラルな層と、厳格にイスラム教を信仰する保守的な層が混在する現代イラン社会の中で、その「ねじれ」がもたらすモーメントが緊張感のあるサスペンスを生み出していく。婚約者以外の男性との接触が制限されるイスラムのルールがある一方、社会の高齢化に伴う福祉や介護の問題が顕在化している状況において、アルツハイマー病の父の介護という家庭問題が、物語の端緒になる。場所に固有の宗教や風習や文化と、近代的な社会システムとの重なりが生み出す矛盾は、日常の中の小さな思い違いや嘘を、誰の責任とも言いきれない複雑で大きな出来事・事件へとドライブさせる。現代イランが抱えるコンテクストの上でしか成立し得ない物語であり、同時に人間の普遍性を描き出そうとする試みでもある。また見方を変えれば、物語によって社会を取りまくものの複雑性が顕在化されていると取ることも可能である。

この映画に限らず、近代的なものと非近代的なものの衝突を契機とするクリエイションは数多く存在する。建築の文脈においては、例えばケネス・フランプトンの「批判的地域主義」*2の考えは、地域に根ざした素材や技術や質感に着目しながらも、その保存や郷愁を目的化せず、普遍的な事象(例えばモダニズム)との弁証法的統合が目指されている。今回取り上げる《チャウドックの家》も、このテーマの延長線上にあると言って良いだろう。

『別離』に見られる近代・非近代の重なりへの着目と創作への展開の方法と、「批判的地域主義」のそれは、似ているようで異なる。「批判的地域主義」においては、対立する2つの概念の「統合」を前提とするための理想化、つまり「地域」という像を都合よく解釈するようなイデオロギーが差し挟まれるという批判がある。対して『別離』では「統合」へと向かわない。断片的なねじれの力を、文字通り「サスペンス=宙吊り」にし、図と地が反転を繰り返すだまし絵のように、揺れ動く共存のあり方が目指されている。今回《チャウドックの家》を訪れて感じたのは、このサスペンスに近い感覚であった。その感覚を手がかりに、この建築の批評性について考えたい。

まだらな近代

西澤俊理が活動のフィールドとするベトナムは近代化の過程にある。とはいえ、それは右肩上がりのグラフのような成長過程ではなく、地域ごとにさまざま次元で「まだら」に起きている現象と言える。ホーチミンのような都市において、高層ビルが立ち並ぶエリアから目と鼻の先に水上違法住居群がまだまだ多く存在しており、チャウドックのような周縁の地域ではコンクリート造の建物さえまだ珍しく、道路や川沿いに並ぶ木造家屋の節穴だらけの壁の内側で、人々がスマートフォンを握りしめ世界と繋がっている光景を目の当たりにした。(小さなブラウン管のテレビには「名探偵コナン」のアニメが映し出されていた)

スラムの住宅の中で使われるスマートフォン(筆者撮影)
キッチンの様子、ローカルな生活風景も色濃く残っている(筆者撮影)

離散的で多次元的な現象として近代化が進行する状況において、ローカルとグローバルという二元論的な対比から地域を捉えることは難しい。ティモシー・モートンの『自然なきエコロジー』*3における、批判的地域主義のような態度が「自然」や「場所」に対して内面化しかねないイデオロギーへの批判は、その難しさを物語っている。

「第三世界」の環境主義はしばしばグローバリゼーションに対抗するローカルなものを熱烈に守ろうとする。だが、ローカルなものを抽象的にかもしくは美的に賛美するのは — — — たとえば、ローカルな詩をただそれがローカルだからという理由で絶賛したり、「小さなものは美しい」という美学化された倫理を提唱したりするのは — — — 、たいていは解決の一部分というよりはむしろ問題の一部分である。われわれの場所の概念は、近代の腐食作用にまさしく規定されている事後的な幻想の構築物である。」*4

遠い地から来た(ホーチミンから7時間かけて)他国の建築家が小さな家を設計する時(周辺の一般的な家と同等の建設費で)、オリエンタリズムに陥らずにどのように「場所」を捉え、建築を生み出せるのか。私が《チャウドックの家》に対して感じた批評性の一つは、「場所性と普遍性」や「内と外」のような単純化した二元論では捉えがたい、前述の「サスペンス=宙吊り」の感覚に対してである。そしてもう一つ、その感覚を建築に定着させるための、「表面」という概念の再発見から建築の可能性に迫る戦略に対してである。

中間領域の背景にあるエコロジー

《チャウドックの家》を単純化して表現するならば、コンクリートと木の立体格子を波板の外皮が覆い、側面は現場打ちPC板が覆う。そこに生活を支える床と建具が立体的に配置された構成である。丸ごと半屋外の空間であり、「内と外」の対比とその中間領域という空間論的な読解では捉えがたい建築である。中間領域や半屋外の空間は、日本の住宅建築創造の中心的な主題といってよく、空間の快適性や、住宅と社会との接続が表象される場としてさまざまな試みがなされてきた。本建築においても、半屋外的な空間体験の快適性や新しさの追求は主題であったと考えられる。

中間領域は、その環境の気候条件や生活の歴史と紐づく人々のメンタリティと社会の特質など、多くの成立背景がありエコロジカルである。一概に空間論として取り出して比較するのは難しい。むしろ、中間領域を丸ごと覆う薄い外皮のあり方、「表面」の概念がこの建築の経験に与えている影響の大きさが重要ではないだろうか。

ファブリケーションと風景

足繁く通うことができない距離と、ローコストでつくるという条件によって、ローカルな資材や施工のアソシエーションを前提として設計することは必然的に選択されたという。

ローカルな資材で特筆すべきは、川沿いにたつ近所のマテリアルショップで仕入れることができる製材と波板鋼板である。どちらも原木やロール状の鋼板という「資源」というべき状態で川から効率よく搬入される。工房の中にある道具によって加工され「建築資材」になる。マテリアルショップの中に転がっていた材料が、周辺の街並みの中に何度も反復して現れるという連続性は、工業的であり土着的であるという「二元性」を示している。

波板鋼板の材料となるロールと加工する機械(筆者撮影)
同じショップの中で、製材も行なっている(筆者撮影)
周辺環境に繰り返し現れる波板鋼板(筆者撮影)

資源から建築資材へと加工される場がどこか遠い地にあるのではなく生活環境に埋め込まれ、小規模多品種であり、誰もがアクセス可能であること。チャウドックの地理的制約から見出される一つの合理性であり、ファブリケーションと地域の関係の現代的な可能性(と同時に危うさ)をはらんでいる。「製品」にまみれる社会の中で、それを「資源」と「技術」と「流通」の問題に解体し、そのネットワークに意識的な設計することで、単体の建築を超えた環境や風景を更新する可能性が、このチャウドックの地にはまだまだあるように思える。

視触覚的な近似性

人々と材料の距離が近い。そのため施主家族が自ら材料の買い付けを行い、現地の職人に分離発注をすることでこの建築は施工されたという。人件費が相対的に安いため、人海戦術によって人の手の痕跡を空間に定着させるという方法が成立し、竹型枠の現場打ちPC板が側面の壁を埋めつくしている。人の手で運べるサイズのPC板が生むリズムと表情は、土着的な素材感がありながら、波板がもつ質感に似せられている。

つまり2つの表面、波板と現場打ちPC板の質感は視触覚的な近似が生まれるようなチューニングがされている。波板=工業的、現場打ちPC板=土着的のような二元論へと回収し統合を試みるのではなく、環境をとりまくものを触知しながら、工業的であり土着的でもあるという二元性を捉え、宙吊りにしたまま2つの表面が純粋に美学的な判断でトーンが整えられ共存している。

2つの表面が光の質感を際立たせる(photo©️大木宏之)

建築家の鈴木了二は「表面」という概念から建築を再考する可能性について語っている*5。 近代の初めこそ「表面」が建築を揺り動かした最初のタイミングであり、例えば「カーテンウォール」の登場は、「いまあるような、すっかり自尊心を失ってしまった外装材などでは断じてなかった。発生当初のそれは、重力から解放されて宙に舞い上がった「表面」にほかならなかった。」*6

「表面」の建築

土着的なものに「場所」の概念を押し付けず、工業的なもののうちに「手触り」を感じ取る西澤の場所への感覚は、離散的・多次元的にまだらな近代化が進行するアジアの地での実感から立ち上がる思想であろう。前述の『自然なきエコロジー』の中で語られる「とりまくものとしての自然」や「ダークエコロジー」の考え、場所と空間、ローカルとグローバル、主体と客体、背景と前景、音とノイズといった二元論的な批評空間に、私たちが無意識のうちに押し付けてしまうイデオロギーを回避する戦略、弱さや曖昧さを含む二元性を宙吊りにしながら戯れようとする態度には、共通するものがある*7。「韻を踏む」ような軽やかで寛容な感覚は、イデオロギーから自由になれる。

建築の「末端」に追いやられている「表面」の概念を通して、二元論から自由になり、建築を揺り動かす可能性があるとすれば、それはアジアの気候風土とまだらな自然観の中での実践から生まれるのではないか。

*1 アスガー・ファルハディー『別離』(2011年、イラン映画)https://www.magichour.co.jp/betsuri/

*2 ケネス・フランプトン「批判的地域主義にむけて」ハル・フォスター編『反美学』(1983年所収)

*3 ティモシー・モートン著 (篠原雅武 訳)『自然なきエコロジー』(2018年)

*4 上著p.22より引用

*5 鈴木了二『寝そべる建築』(2014年)

*6 上著p218より引用

*7 『自然なきエコロジー』より、関連する言葉をいくつか引用する。

「ダークエコロジーはメランコリー的な倫理である。他者の観念を十全に同化し咀嚼することができないので、私たちはそれが前方に向けて発する光の中に捉えられ、行為できずに行為することの可能性において宙吊りなっている。」(p.360)

「ダークエコロジーは、私たちがいかに自然へと巻き込まれているかについて私たちが語る物語にある自然さを掘り崩す。」(p.361)

「私たちは世界を「より清潔」で毒性がなく、感覚能力のある存在者にとって有害でないものにしようと働きかけるが、他方で、私たちの哲学上の冒険は、なんらかのやり方でその正反対のものになるべきである。」(p.364)

「私たちは粘着性の汚物の中にいると言うだけでなく、私たち自身が汚物なのだが、私たちはそこにひっつくやり方を見出すべきであり、思考をより汚いものにし、醜いものと一体化し、存在論ではなくてむしろ憑依論(デリダの言い回し)を実践すべきである。」(p.364)

吹き抜けの見上げ(photo©大木宏之)

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伊藤孝仁
建築討論

1987年東京生まれ。2010年東京理科大学卒業。2012年横浜国立大学大学院Y-GSA修了。乾久美子建築設計事務所を経て2014年から2020年tomito architecture共同主宰。2020年よりAMP/PAM主宰、UDCOデザインリサーチャー。