批評|人工と自然 都会と田舎

千種成顕
建築討論
Published in
10 min readJan 31, 2020

[202002特集:建築批評《チャウドックの家》―東南アジア浸水域の建築 -近代化の境界線上からの視座- ]REVIEW : Artificial and Natural / Urban and Rural

西澤俊理の自然観

《ビンタンハウス》(photo©矢野英裕)

《チャウドックの家》へ向かう前日、サイゴンに建つ西澤俊理の自宅兼事務所である《ビンタン・ハウス》を訪れた。9か月振り2度目の訪問である。この住宅は VoTrongNghia architects、Sanuki+Nishizawa architects の協同設計プロジェクトであるが、その多くを西澤が設計したと聞いている。長い設計期間をかけて建てられた不思議な形のコンクリートスラブが積み重ねられた多層の2世帯住宅である。細部までハンドメイド感溢れる様々なディテールがちりばめられており、特にル・コルビュジエからの大胆な引用(本人談)のPCブレーズソレイユは強烈に建築の印象を決定づける。あたかも20世紀初頭に建てられたモダニズム住宅を見学に来たような印象を受けた。どのフロアも、正面通りと裏の川側に向かってほぼ全面的に開口部になっている。全ての開口部を開け放つと、「ほぼ外」もしくは「かろうじて内」のような状態となって面白い。サイゴンの気候環境を様々な造形的なディテールに翻訳し、建築的な統合がなされた住宅である。環境装置の強い造形化は、建築家が得意とする抽象化の手法であり、知的で都市的な建築だという印象を改めて受けた。

次に同市内に建つ《Restaurant of Shade》を見学した。レストランということもあり、《ビンタン・ハウス》よりガラスを多用しており、よりいっそう開放感がある。地震のないベトナムならではの極細のスチールを使った手すりや建具は建築に軽さというよりここでは涼しさを与えているように思えた。この建築の最大の特徴は屋根にあり、下から農業用の半遮光シート、オーニング膜、熱反射シート、そして樹木を用い、重層的に日射の制御を作り出している。内部席においても、まるでテラス席のような不思議な感覚を得ることができる。西澤いわく、この建築の表現上のテーマは熱帯の太陽の光だという。周囲の環境との視覚的・環境的な連続性、それをパッシブに制御する機構を設けることで、熱帯の太陽の光がブレーズソレイユとは違う建築言語で抽象化されている。この建物も力作だと感じた。

《Restaurant of Shade》(photo©️大木宏之)

そして翌日、旅の一番の目的である《チャウドックの家》を訪れた。チャウドックはサイゴンから車で7時間、メコンデルタ流域に位置する田舎町だ。東南アジアの田舎であるから、流通する建材も少なく、その町の建築資材のうち設備系を除くほぼ全てが、通りに建つ小さな建材屋で賄えてしまうほどである。当然、施工できる工法も限られる。そのような建築家にとって不利な場所にあって、《チャウドックの家》は西澤の設計力が爆発している。地元民に親しみのある木造工法とコルゲート板、竹網代、古材のフローリングなどを用いた、シンプルな素材構成である一方、空中に軸組の立体グリッドが敷かれ、その中に床が浮遊するというダイナミックなプランが展開されている。その中に3家族が離散的に住んでいる風景は圧巻で、計画学的にも面白い。最も低いレベルにあたる土間的な空間はレベル的には高床式住居の床下にあたる。周囲に建つヴァナキュラーな高床式住宅ではみすぼらしい床下空間であるが、《チャウドックの家》では浮遊したフロアを見上げる一つの建築の見せ場となっている。これらはすべて建築全体を中間領域と位置づけ、内外の連続性を表現するための設計意図を感じるものであった。そして、中間領域が最もよく建築的に表現されていると思ったのが、バタフライルーフと波板鋼板の大型軸回転窓である。この屋根形は風景や風、音といった外部性を一挙に内部に取り込む空間装置である。屋根と同一素材で作られた窓が開かれることで、屋根と窓の視覚的連動が引き起こされ、中間領域を象徴するかのように空間が定義づけられる。

あえて雨仕舞の悪いバタフライルーフを西澤が熱帯の建築表現の要である屋根に選んだところに着目してほしい。これは自然と人工の境界を審美的にも扱おうとする西澤の建築に対する態度の現れである。今回見学した西澤の設計するどの建物もすべてこのような具合で、自然と人工の相互に浸透しあい明確に区別できないさまが建築言語に翻訳され表現されている。それは、屋根や建具に留まらず、ペーブメントや鉢植えなど、自然とソフトタッチするような様々な場所に現れる。これらは、旅の途中に本人が語ってくれた自然と人間の共存・境界についての独自の考え方から来ており、これを「自然観」と呼んでしまっても差し支えないだろう。西澤の自然観には特徴がある。それはル・コルビュジエがパリの《ヴォワザン計画》に見られるような自然にマウンティングしながら取り込もうとする態度でもなく、石上純也のように自然を建築化するような態度とも違う。彼が少年期に魅了された日本の古建築と庭園の分かち難い関係性のように、自然を人工的なものの優位におきながらも、人工的なものの実存を賛美するところにある。安藤忠雄やロバート・スミッソンのようなランドアーティストに近いと言えば近いが、自然との対峙よりも自然との共生を目指すところは彼らにはない西澤の顕著な特徴であるし、その点で西澤の建築からはより現代的な印象を受ける。聞くところによると、西澤は気候条件に惹かれてベトナムに住む建築家となり、空調機器も十分に普及したサイゴンで、内なのか外なのかわからないような家でエアコンレスの暮らしをしている。西澤の自然観は彼の生き方とも同化しており、《チャウドックの家》はその実践の結晶であると感じた。

《チャウドックの家》グランドレベルにある家族共用空間( photo©大木宏之)

建築における田舎らしさ

《チャウドックの家》に関して、それが西澤の自然観に基づいて設計されている点のほかに、私が興味深いと思う点は、それが田舎の家らしさを有している点である。前述した通り、田舎は建築家にとって不利である。限られた流通材や工法を用い、その地の環境条件を受け入れなくてはならない。しかし、その設計条件がまさに田舎の家らしさであることが、奇しくも99年前の1921年に出版された今和次郎『日本の民家』の中で述べられている。

今日我々が「民家」という言葉を用いるきっかけとなった『日本の民家』には、民俗学者の柳田國男の誘いで始めた各地の農家のドローイングや、農家についての建築的な論考が収められている。初版には副題として「田園生活者の住家」がつけられていたように、都市と田舎の中間領域である田園に対する問題意識を背景に、建築と自然、都会と田舎の関係性について論理的な立場が述べられている。民家、つまり田舎の建築に文化的な市民権を与え、日本の建築文化の基盤を押し広げた名著である。田舎の人たちの家についての書き出しは、都会の家の話から始まる。以下に抜粋する。

都会に住み慣れている人たちは田舎の人たちの家を本当に考えることはできない。何故ならば、都会の人たちは自分の家の住み勝手をば、都会という大きな背景の下で考え、また、各産地から貨物として入って来る瓦、材木、レンガ、またはコンクリートその他の材料を買入れて自分たちの家を作るのであるから。そして生活に都合のいいように、都会の人たちの喜びを表現するように作っているのであるから。
(中略)
都会地でない田舎の土地で働いている人たちの家はそんなわけには行かない。どこからでも便利ないい材料をもって来るわけには行かないので、自分たちの土地で得やすい材料を主として作らなければならない。また、土地によって気候風土がちがうから、雨の多いところでは、それに備えるように、寒いところでは、寒さを防げるように、それぞれ自分たちで工夫して作らなければならない。都会の人たちは物好きに汽車の窓から変わった恰好の田舎の家をながめて、その建築の工夫に驚くことがあるかも知れないが、でもそれは、その土地の人たちにとっては極めて自然な建築的工夫なのである。
※1

建材の流通や近代建築の知見が少なく、ヴァナキュラーな高床式住居が多く残るチャウドックはこの本で語られる日本の田舎と大きくは変わらない。そして、日本人であれば、残念ながら今の述べるような都会の家と田舎の家の対比が現在の日本ではすでに消滅してしまっているという事に目を向けなければならない。「日本の民家」は駆逐され、都会・田舎問わず、高気密化と空調による環境制御を推し進めた商品化住宅で溢れかえっている。自然をコントロールする近代化の理論に今のいう田舎の風景はいとも容易く負けてしまった。チャウドックでも瓦やコルゲート板で作られた高床式の民家が少しずつジェネリックなコンクリート造の住宅に取って代わられている姿を旅の最中に幾度となく目にした。西澤が言うには、チャウドックでは高床式住居に比べてコンクリート造の住宅は都会(サイゴン)的な存在として憧れの対象であるらしい。この理由から、西澤もチャウドックの家の施主から都市住宅を作るよう依頼された。結果的に西澤は施主の要望に抗って、田舎らしさに逆らわない高床式を取り入れた無気密・エアコンレスの家を設計した。ここで、西澤が自然と人工の境界をテーマに田舎らしさを受け入れて設計した家が、前述の日本の田舎の風景を駆逐した商品化住宅とは真逆の方向性の建築であったことに注目したい。ここに私は《チャウドックの家》の最大の批評性を感じる。これは、環境制御という画一的な住宅近代化の波に対する抵抗である。我々が西澤の住宅、とりわけ《チャウドックの家》に強い説得力を感じるのは、西澤による自然との共生というテーマの追求が、結果的に都会・田舎の問題に対して一つの立場を打ち出すことにもなっており、こうした文明的な問題にかんしてとるべき方策を示しているように感じられるからであろう。

最後に私見を述べて拙文を閉じたい。《チャウドックの家》や『日本の民家』の考察を通して、田舎の家が生き残るかどうかは、住宅の気密性の話に換言できるのではないかという仮説が生まれた。日本ではベトナムよりも住宅に求められる気候条件が厳しく、気密性の高い商品化住宅に軍配が上がったのはそのためだとも考えられる。一方、ベトナムのヴァナキュラーな高床式の民家は無気密で十分に快適で、快楽的ですらある。私はそこに「ベトナムの民家」が生き残る可能性を感じる。ベトナム人よりベトナムらしい熱帯の建築を設計している西澤には、これからも魅力的な無気密住宅を作り続けることを期待したい。

※1 『日本の民家』,29p,今和次郎,岩波文庫,2018

《チャウドックの家》ラムさん家族の居間から後方を望む( photo©大木宏之)

--

--

千種成顕
建築討論

ちぐさ・なりあき/1982年東京都出身。2008年東京大学大学院新領域創成科学研究科修了。NAP建築設計事務所を経て、2012年東京藝術大学美術研究科先端芸術表現専攻修了。中国寧波市での2年間の設計事務所勤務を経て、2015年からICADA共同主宰。