批評|治癒的建築

西島光輔
建築討論
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16 min readJan 31, 2020

[202002特集:建築批評《チャウドックの家》―東南アジア浸水域の建築 -近代化の境界線上からの視座- ]REVIEW : Healing Architecture

メコンのイカロス

インドシナ半島に悠々と恵みをもたらす大河メコンは、カンボジアのプノンペンで分岐し、二流となってベトナム南西部に到達する。ベトナムでティエンザン(前江)、ハウザン(後江)と呼ばれるこの流れは、国内で更なる分流を生みだしながら南シナ海へ流れ込む。大河の下流域を取り巻く無数の人工水路は、自然の小川に擬態するもの、大地を無情にも幾何学形状に切り裂くものなど様相は多彩、メコンデルタに遍く毛細血管のごとく浸潤している。自然と人工の対比を虚しくするほど複雑に絡まりあった水系が、ベトナム随一の穀倉地帯の生業を支えている。

ハウザンのベトナム国内流域最上流のほとり、カンボジアとの国境近くにチャウドックの街は広がっている。最上流とは言え、自然堤防と浜堤の微高地が広がる下流に比べて、チャウドック周辺はむしろ標高が低い。そのため、毎年発生するメコン氾濫の影響を大規模に被るのはこの地域であり、雨季には広い範囲で大地が冠水する。彼地の農民は、自然条件を与えられたものとして、周期的に起こる氾濫に適応した農法(氾濫農耕)と生活様式(杭上住居)を育んできた。しかし近年に至り、そのようなライフスタイルに変調の兆しが見られるという。きっかけは西暦2000年に起こった大水害の苦い経験、そしてその後に政府主導で行われた農地の「輪中」化にある。

輪中とは堤防による農地の囲い込みのことである。メコンでは、河川や水路に沿って走る道路に土盛りを施し、もしくは新たに堤防を敷設し、季節外れの洪水から稲を守ることを言う。輪中とは、農地から自然の気まぐれを締め出すことであり、自然と人工の混然状態から人工性のみを蒸留する工程である。また、それは大地の不動産化でもある。輪中以前の大地は、際限なき恵みと災いの源であり、あらゆる点において平等とは言えないにせよ、万人にとってのマザー・ネイチャーであった。ところが輪中によって大地に閉曲線が引かれると、所有の意識が立ち上がる。数学的には、閉曲線の内部では面積の有限要素分割が可能である。それは、公の「大地」が個の「敷地」の集積物として認識/管理されうるということを意味する。輪中は、「体制にとって」という括弧付きで、土地の有形化=制度化という重要なプロセスの一端を担っている。

輪中はまた、時間と空間の双方に対して、多産のパラダイム・シフトを引き起こす。第一に、氾濫期=休耕期という自然サイクルのくびきから解放されるため、二期作が三期作にとって変わる。米の生産量と街の人口が一気に増加する。第二に、土地の境界が視覚化することによって、身体的な必然性というよりは、敷地の単純な上方拡大という形で、住居のヴォリュームが定義されるようになる。それはつまり、住居計画の原則が、最小化の論理から最大化の論理に移行することを意味する。

田園のスカイラインは一変し、メコンの蒼空を侵食するだろう。輪中はメコンに授けられたイカロスの翼であり、農民を自然の隷属から救済するという英雄的側面の裏には、伝統文化の不可逆的破壊というダークサイドを併せ持つ。その影響は多方面で露見するのであろうが、以下では住居と集落の空間構造の変化という視点に限って話を進める。

チャウドック周辺。手前は輪中堤に沿って立ち並ぶ住居。奥には、農地を小区画に分割する輪中堤のラインが幾重にも見える。
メコンデルタの衛星写真。ティエンザン(右)、ハウザン(左)と、無数の人口水路。右下に見切れている密集地はホーチミン市。

高床と地床の家

ベトナムの文化模様は、東南アジア的な素地上に中華と西洋のインクをぶちまけた「まだら模様」である。このインクは、都市化のプログラムを宿す溶媒でもあって、着床点は遅かれ早かれ、今日的な景観に埋もれてしまう。その飛沫は津々浦々に浸透して久しく、もはや辺土にでも足を伸ばさない限り、土着的要素を発見することは叶わない。素地とインクは、辺境と中央の、スケール横断的な相対関係の別称でもある。チャウドックのような田舎町でさえ、中心部はサイゴンの街並みと大差がない。

東南アジア的=土着的とみなされる住居形式は、高床(杭上住居)である。高床の家は、古くから東南アジアの熱帯地域で、自然と共存するもの、災害を受け流す知恵として扱われてきた。そもそも熱帯とは、生態系の動力に満ち溢れた場所であり、雨季には水害、乾季には獣害と、地表には裸の人間の休まる暇がない。高床は、そのような外的要因に対する「身躱し」の方策であり、住居自体の身軽さが肝要である。したがって、高床の屋内領域は常に最小化の圧力を受ける。床を持ち上げるというのは大きな労力を必要とするものだし、地表を所有しているという意識を希薄にする高床では、居住の一時性が高まるため、過度の投資は避けられるからである。高床住居が計画される際に睨みを利かせているのは、「いま・ここ」の己に見合った最小限住居とは何か、という問題意識であって、隣人関係や将来の展望などではない。ヒューマンスケールや生業は各人で微妙に異なるものであるから、結果として集落の風景は「同じようで異なる」住居の集合となる。高床は私的領域の自発的な切り取りであるから、周囲の余白はおおかた放っておかれる。そこは誰のものでもないがゆえ、誰のものでもあるような空間である。ゆえに、高床の集落は、たとえ密集集落であってもポーラスな構造と言えるのであり、統計学的には空間利用効率の低いものとみなされるだろう。

こうした住居のあり方に概念上対置されるのが、中華/西洋由来の地床の家である。中華由来の地床はショップハウス(長屋)として、西洋由来の地床はヴィラ(庭付き屋敷)として、それぞれベトナム文化に定着しており、都市住居というと通常この二つの形式を指す。地床というものは本来的に、自然を管理するという発想に基づいている。それは外圧に抵抗するための住居形式である。高床が「身躱し」の家であるならば、地床は「身構え」の家であり、勘所は堅牢さということになるだろう。地床の接地点、あるいは周辺を含んだ今日的な「敷地」は、私有地の保障とみなされるのであるから、住人は何かと物を溜め込むようになり、私財は保護されなくてはならない。それと同時に、敷地は私的領域の限界をも示唆するわけで、たとえ喫緊の要請がなかったとしても、将来的な展望から、あるいは隣人に対する見栄によって、住居の容量は最大化され、敷地の有効活用が図られる傾向にある。その意味で、地床住居の舵取りは、此岸の「生業」にではなく、彼岸の「憧憬」に委ねられている。他者を欲望する地床の家が、今日の都市の構成要素であるとしたら、その都市は私的領域が隣人のネガとしてしか定義され得ない状態、言うなれば、私的領域の最密充填を志向する。結果立ち現れる「超」都市は、定義不能な余白がないがゆえ、体制にとっては理想のマスタープランということになるだろう。

すでに見たように、輪中は土地の「敷地」化を促すため、高床は急速に衰退すると思われる。事実、チャウドックの杭上住居の街並みには、ショップハウス型の都市住居が三々五々に立ち現れ始めている。しかしながら、高床から地床への移行は、決して円満に行われる訳ではない。遷移状態に露呈する矛盾は、消えゆく文化の最後の一閃なのであって、易々と看過されるべきではないとしたら、『チャウドックの家』(以下『家』と記す)は、まさしく時宜にかなった建築と言えよう。

高床住居の例(Tay族の家)
地床住居の例(H’mong族の家)

ヴィレッジ・ハウス

チャウドックの市街地から渡船に乗り込み、川を越える。対岸の水際には、背後に田園を控える輪中堤と、堤防道路の両脇に張り付くような杭上住居の列が延々と続いている。マージナルな文化的混淆を示唆する雑多で色彩豊かな軒並みと、田舎ののどかさとは裏腹に気性の荒い車やバイクの往来に気を配りながら通りを行くと、意外にさらりとその『家』は現れる。正面の端正な佇まいは、その後の展開を黙して語らないが、軒が低く抑制されているお陰で、周囲の風景とよく馴染んでいる。しかし、玄関を抜けると一転、スケールアウトした空間が眼前に現れ、視線はどういう訳か大空間の床を見下ろしている、という仕掛けである。ここから眺める風景は、ある種のドラマを連想させる。玄関はプロセニウムで、演目は『ヴィレッジ・ハウス』(集落のような家=集落劇場)と名付けておこう。観劇を始める前に、設計者によるオープニング・クロールをご覧いただく。

「・・・皮肉にも、彼ら〔=チャウドックの住人〕の日常生活が不安定で荒れていることを知った。特に〔輪中で〕洪水が強制的に失われてからは問題が多発し、生活にはドラスティックな変化が生じている。わかりやすい例として、ほとんどの住人が〔杭上住居の〕地表面を放棄した。そこは今や、無用のゴミや、豚、鶏、ガチョウといった家畜の糞尿の溜まり場となっている・・・以前には、雨季の氾濫が、乾季に溜まった排泄物を洗い流していたのであり、また冠水によって周囲の気温は抑えられていた・・・」
(archdailyより抜粋、筆者訳)

氾濫の喪失が、杭上住居の性格を逆説的に顕在化する。床下は私的領域にとっての余白に属しており、年次の洪水が唯一の管理者であったとしたら、輪中後の地表は一時的な管理者の不在に陥り、無法状態と化している。『家』はそのような過渡期的状況を出発点とし、通常コースとしての都市化とは全く別のシナリオを描き出している。(以下、筆者によるゴーストライティングをご容赦いただきたい)

第一幕〈地表の復権〉
『家』の前面道路は、過去の輪中堤工事により、周囲の地盤面より2mほど高くなっている。『家』自体は低地より立ち上がっているため、玄関は低い床を見下ろす特権的な場所を占める。中央の土間は地下のように見えるかもしれないが、裏口を抜けると、後背湿地の地表と同じレベルにあることが分かるだろう。つまり、玄関からの俯瞰は、ある杭上住居の床から隣家の床下=地表を眺める視線に等しい。ただしこの『家』の地表は、不毛な公共性としての床下ではなく、家族の集う広間として再定義されている。

第二幕〈非対称な占有〉
『家』は3組の屋根の下の、3世帯の住宅である。ただしそれは、1屋根=1世帯という意味ではない。1つは玄関として、1つは広間と1世帯のために、もう1つは縦にスタックされた2世帯のために架けられている。3つの居室の扱いもまちまちで、中央の居室など、他と比べると過度に明け透けに見えるかもしれない。こうした非対称性は、複数の家主との継続的な対話の末に生まれたものである。それは、高床の住人が、その場その時の衝動によってブリコラージュする結果としての、「ちぐはぐな総体」のようなものではないか。

第三幕〈全て中間領域〉
『家』には、バタフライ屋根・回転する大開口・可動間仕切り、という周辺住居にはない3要素が加えられている。これらの装置によって、家中が全て中間領域のような開放性を獲得する。高床の集落はもともと、屋内の機能は限定的で、屋外での活動が豊かである。屋内は最小限の明るさを確保するのみで、結果、内外では激しい輝度のコントラストが生じている。果たして、田園の生活にそのような強い対立構造が必要なのだろうか。外部との連続性、床を縦に貫く視線や、複数の高床を横断する体験は、周辺集落にはない新しい要素である。

ここで『家』の断面図に目を移すと、まるで3棟から成る小さな集落に見えることに気付くだろう。上の3幕は、『家』が「集落」の写像であるとした時の、連立された異なる射影変換式に対応している。第一幕は「転換」である。床下の負の印象が払拭され、地表空間が肯定的に捉えなおされる。第二幕は「引用」である。高床の「いま・ここ」性への賛美が、シンプルな構成を豊かな空間に仕立てる。第三幕は「付加」である。新たな仕掛けを組み込むことによって、集落の空間構造に可能性として内在こそすれ、通常は現れない性質を描出する。これらの操作の結果、集落の現実にはありそうでありえない生活が物語られるという意味では、「集落」と『家』は並行世界(パラレル・ワールド)であるとも言える。ところで、眼前で一つの文化が変化の渦に飲み込まれようとしている最中では、その並行世界を描くというのは単なる遊戯以上の意味を持つ。というのも、もしそれがなかったら損なわれてしまうかもしれない文化を、自身の設計図になんとか保存しておこうというのだから。この試みの期待するところは、歴史の物質化であり、『家』が存在する限り高床の神話が語り継がれて欲しいということである。

ある文化が確かにそこに存在したことの証左を、そしてその文化が持ち得た可能性を語り継ぐということは、建築の根源的な能力の一つであるにも関わらず、近年の設計論ではほとんど顧みられることはなかった。私は、この点における『家』の飛距離に、設計者の世界観と、その今日的な意義をみる。本論の最後では『家』の問題系を敷衍して、田舎で建築を行うとはどういうことかを考えながら、西澤の建築マナーの定式化を試みる。

チャウドックの杭上住居。切妻の家に片流れの家が唐突に接続されている。外壁は有り合わせの材料。
『家』の断面図。3組のバタフライ屋根を持つ杭上住居群に見える。(図版提供=NISHIZAWAARCHITECTS)

田舎と建築

建築は、徐々に都市の熱狂から覚めつつある。ル・コルビュジエが都市の問題系を発見し、「建築か、革命か」を宣言してからおよそ1世紀が経った。その間、近代建築の理念は戦略的に一般化され、今日の建築家は、もはや都市発展の主戦場に立つことさえままならない。一方で、建築術の標準化と情報の蔓延から、建築家のフットワークは随分軽くなったのであり、都市がダメなら田舎に新天地を開拓しようという趨向は、着実に強まっている。現代は田舎に建築が現れる時代である。

そもそも「田舎」とは何か。もちろん、牧歌的田園といった叙情的な言い回しもあろうが、ここでは「未開」でも「都市」でもない場所として捉えることにする。田舎には、レヴィ=ストロースの言う「冷たい社会」に見られる厳格な制度もなければ、「熱い社会」に匹敵する不易の原動力も内在していない(「冷たい社会は、自ら創り出した制度によって、歴史的要因が社会の安定と連続性に及ぼす影響をほとんど自動的に消去しようとする。熱い社会の方は、歴史的生成を自己のうちに取りこんで、それを発展の原動力とする」−『野生の思考』より)。即ち、田舎の構造的立地は、「発展」に対する中立性ということになるだろう。しかし、チャウドックを具体例に見てきたように、現実問題としては、大抵の田舎が発展の外圧によって、今の状態からの変化を余儀なくされている。換言すると、田舎は主語を異にした発展が受動的に「起こってしまう」場所である。

このような田舎における建築作法とは、一体どのようなものであろうか。まず言えることは、それは近代的な建築概念の無批判的な援用であってはならないということである。ここで言う近代の建築概念とは、成長社会をバックグラウンドとして語られてきた、普遍性・進歩性を建築の自明の本分と考える認識のことである。「私は不満を覚える、ゆえに描く」を定型文とする設計の作法は、現状には必ずどこか問題が潜んでいて、建築はその問題に介入し改良を図るものという前提に立っており、「治療的」と呼べるだろう。今日も多くの文脈でこの考え方は支配的であるため、治療の語りが無自覚に田舎に持ち込まれては、発展という名の白刃を振り回すことも少なくない。田舎側はほとんどそれに抵抗しない。寡黙な文化はもともと、雄弁な進歩主義を前に為す術もないのだ。

翻って、西澤の場合はどうだろうか。『家』の設計は、何かを変革しなくてはならないという抑圧からは免れている。代わりに見られるのは、近代のそれとは別種の使命感に他ならない。「ある文化が外圧によって今まさにこの世を去ろうとしている時、それを無条件で守るのが建築の役割である」と『家』は語りかけてくるようだ。この言明の基底をなすのは、地域性の育んだ文化の中には、その地に対する何らかの普遍性を宿しているはずだという信念である。ゆえにその文化は守られるべきだし、機会があれば呼び起こされ、鮮やかに蘇ることもあるだろう。文化の自発的回復を促すという意味では、西澤のアプローチは「治癒的」と称することができる。もちろん、建築はつまるところ抽象化の産物なのであるから、「守る」とはいえ文化の総体が保存されるという意味ではない。設計者の鑑識眼は有限かつ恣意的なので、文化は篩にかけられ、断片化せざるを得ない。しかしだからこそ、その眼には、建築に関する確かな教養と、文化の普遍的なるものに対する飽くなき探究心が求められるのである。

田舎はありのままで美しい、というのはありふれた謬見であって、豊かな自然、風習、信仰の陰には悲しき文化、矛盾に翻弄される生活が潜んでいるものである。したがって、今更素朴な地域主義に帰れと唱えるとしたら、愚直を通り越して野蛮とも言われかねない。錯綜する田舎に直面する建築家の思考には、少なくとも立ち向かう問題と同等の複雑さが必要である。怜悧な眼差しを持って田舎の現実を捉え直すことができれば、条件反射的に未来を占おうとする一歩手前で踏み止まることも可能ではないか。未来に対して現在を、発展に対して滞留を対置させることは、私たちの思考に二重性を与え、複雑性に対処することのできる知恵に導くだろう。その為の避けざる第一歩として「いま・ここ」の美に眼を向けることを、西澤の建築は教えてくれるのではないか。

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西島光輔
建築討論

にしじまこうすけ/1983年 東京生まれ。2011年 東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了。中山英之建築設計事務所、Vo Trong Nghia Architects勤務を経て、2016年よりInrestudio主催。