批評|維持する力の諸相

消滅集落のオーベルジュ|L’évo

伊藤孝仁
建築討論
Dec 31, 2023

--

集落の宅地割を示す石垣が残る農園予定地からの眺め

電気、ガス、水道、道路、インターネット。私たちは建築へさまざまな「ライフライン」を引き込み、絶えず外部から流入するものをたよりに生活をしている。建築はライフラインの終着点であって、いわばアウトレット(吐口)の複合体である。
例えば道路は土木的なライフラインであり、自動車が建築へと接続する経路になり、人や物が流入する。電気、ガス、上下水道も、道路を基準として地中や空中に線を張り巡らせ、暮らしの基盤を形成している。
ライフラインはその名の通り「生命線」であり、暮らしがある限り維持されなければならない。では、ライフラインを維持する力とはなんであろうか。30年以上前に消滅した集落に再び建築が現れたこのプロジェクトは、そんな問いを突きつけているように感じる。

『消滅集落のオーベルジュ|L’évo』(以下、L’évo)の建築は、消滅した集落に再びライフラインを引き込み、それを維持していく力を手繰り寄せることから始まる。そこには、極地において建築を実現するハードルがいかに高いかという嘆きを超えた問題系──建築に先立つ自明なものとして存在する「基盤」の意味を揺さぶり、基盤が無意識的に私たちを規定していることを明らかにし、そこから逃れた建築や暮らしの可能性をめぐる問い──が存在している。基盤や建築という「物」が自身の手柄としていた「力」をいくらか手放し、暮らしを支える力としての建築(もの)と、建築を支える力としての暮らし(こと)の、バランスを再定義していくことではないかと感じている。
まずは、極地におけるライフラインの実情と、それを如何に引き込み直したか、またそれを維持する(してきた)力の諸相を見ていくことからはじめたい。

道路/除雪

『L’évo』へと至る道中、国道の一部の道は、都市部で生活している私には想像し難いほどに、維持する力が途絶え「朽ちるインフラ」と化していた。縮小社会の先端において、社会基盤を維持する力は取捨選択され、残酷なまでにトリアージが行われている。この風景は、遠い辺境の地における極端な例かもしれないが、私たちが直面しているものを予見している風景である。
雪が降れば、除雪をしないと道路は機能しない。道路は国や県や市の管理下にあり、公共サービスとして行政が除雪をするのが一般的だが、全ての道路にそのサービスを行き届かせるのは不可能である。L’évoの場合は、市から貸与されたコンパクトな除雪車を使って、L’évoのメンバーが敷地へと至る市道の除雪を行っており、誰がどこを除雪するのか、その維持する力の源泉は多様化している。

維持する力が途絶えた国道

電気

高桑久義氏へのインタビューで触れられていた通り、『L’évo』においては大きな電気消費が見込まれるからこそ、電力会社が電柱などのインフラの新設整備費を投資するに至った背景がある。単なる生活の場を再建するだけでは、このような判断にいたらなかったことが推測される。つまり『L’évo』のコンテンツとしての力が電気を引き込む原動力になったのである。

水はまさに生命線であり、もっとも始原的なライフラインである。こちらも前述のインタビューで語られていた通り、ドラマがある。30年前に消滅した集落に新たに上水道設備を引き込むとなると、億単位の整備費がかかる。それは、眺望や環境を気に入った施主と敷地を決めた後に判明したと設計者は語っている。その逆境の中で救いとなったのが、最後の住民である高桑氏であり、彼が離村後も人知れず維持管理し続けていた沢水、水源の存在である。旧住民が集落内に建立した神社に、離村後も年に一度家族を連れて集まる行事、その小さな祝祭の場を続けていくために、水を維持し続けることが重要だったのである。水源の情報は設計者へと伝達され、維持管理は運営者へと引き継がれた。水源をこれまで維持してきた力は何か。それは離れ離れになったコミュニティとの交流を続けていくこと、この場で暮らした先祖に対しての礼儀、個人の祈りのような力である。

ライフラインを手繰り寄せる

このように、『L’évo』におけるライフラインごとの維持する力の様相は異なる。道路の維持においては公共による画一的な管理の形でなく、そのメリットを享受する関係者・市民による自発的な力があり、電気においてはコンテンツの強さや規模が電力会社による初期投資を引き寄せる商業的・経済的な力があり、水においては離村後も場や先祖やコミュニティに対する思いを持ち続けてきた精神的な力がある。ライフラインの整備と維持を公共や商業的な「サービス」のレイヤーの中で処理をして、市民が考えたり動く必要のない状況(それを私たちは「便利」と感じている)をつくる都市部においては、維持する力は画一化され、意識の外側に追いやられ、私たちの手から奪われる。対して『L’évo』においては、ライフラインが自明な物ではなく、多様な立場の人々(施主、設計者、集落の最後の住民、電力会社、行政etc)の手探りの協働の中で、かぼそくて曖昧な線としてのライフラインを手繰り寄せて、束ねていく。ここでは維持する力が独占されず、私たちの手の近くに戻り、多様な様相を示している。

作品と基盤

この協働のかたち、維持する力の諸相と向き合い、束ねていくような態度は、建築家の役割として興味深い。逆に言えば、基盤が自明な環境においてこそ、建築家という主体が生み出す「作品」は成立してきたと言えるかもしれない。作品において基盤のあり方は問われない。作品という概念は、先立つ基盤という展示台のようなものの上でこそ成立する概念であった。ライフラインを協働の中で手繰り寄せるなど、基盤を問うことから始まる実践を批評するのに、現在の作品概念は対応できておらず、そのような実践は「活動」とか「(モノに対する)コト」として切り分けられる。両者を架橋するように、作品という概念を鍛え直していく必要があるのではないだろうか。

配置図(提供:本瀬齋田建築設計事務所)

建築設計の段階においても、この手繰り寄せるような態度は続いていく。例えば建築の配置を考える際、施主がレストランやオープンキッチンからの眺望という観点からレストラン棟の配置を決めているが、より根本的な根拠として、かつて暮らしていた住民からの「集落の教え」的な助言があったという。それは「敷地内を通じて川に排出される水の流れをかえてはならない」という経験則からくる警鐘であり、事実上かつての集落の宅地割を前提とした配棟計画をすることを迫るものであった。一方で、かつての宅地割通りに建築をつくることの安全性を担保することも、僻地であるが故に「災害危険区域」等が未指定で基準が明確でなく、難しい環境であった。設計者自らが工学的な基準を示し、行政の了承を得て実現させている。
運営者による日々の維持する力を小さくするように、建築はなるべく手厚い準備をする。一方で、僻地であるが故に施工コストも高くなりやすく、この手厚さは徐々に解体されていったという。これは、工事費を合わせるための諦めと捉えることもできるが、むしろ「維持する力」を、ものとしての建築に宿らせるか、暮らしの振る舞いに宿らせるかという力の再配分の議論である。除雪車での除雪や雪かきを、楽しみを見出しながらやっているという話を聞くと、建築がカバーしきれなかった力を、暮らしの振る舞いの側が引き受けるというより、そもそも両者の関係は曖昧で、むしろ人の振る舞いの一部を建築の側が引き受けて物として定着していると考える方が自然に感じる。屋根の雪割などは、屋根の上に乗って雪を割る人の振る舞いが、物や形の背後に重なって見えてくる。
建築家は最適な配置をゼロから考えたり、維持する力をなるべく建築によって引き受けることを推進する主体ではなく、さまざまな声と意識的に出会い、流れに身を任せながらも、さまざまな力の諸相を物や事に振り分けながら、まとめあげる存在である。

バックヤード

これまでの話をまとめると、建築を基盤とともに考えることは、不明瞭な線としてのライフラインを手繰り寄せ、維持する力を再配分する行為であると言える。その維持する力の様相が多様である時、「バックヤード」のあり方が建築の重要な問題として浮上すると考える。
『L’évo』はグローバルな集客が見込める高級レストランであり、2F部分は良質なインテリアと谷を体感する見事な景観によって、洗練された世界が作られている。一方で1F部分はRCの基礎と一体化したようなつくりとなっており、半屋外の空間は、食材を干していたりメンテナンスのための道具が転がっていたりと、大らかな環境となっている。レストランを訪れた人に対してそのような「バックヤード」の空間は、本来は裏側へと隠そうとする。しかし『L’évo』においては、配置の可能性が限定されていることもあり、無理に隠そうとはせず共存している。しかしその共存のあり方は、未だ結果論的な唐突な出会いとして私には感じられた。
オーベルジュという相のみで環境を捉えるのではなく、この場所を成立させ維持する力の諸相と向き合い、その力を支える空間=バックヤードを環境の中に隠さずフラットに共存させる。その共存が建築に新たな空間やありようを求めるだろう。例えば水源を維持する力や、場の精神的なよりどころとなっている神社を維持していく力の相についても建築や基盤の問題として積極的に考えることが有り得るだろう。

消滅集落というライフラインが途絶えた環境で、基盤から建築を実現させた本プロジェクトは、わたしたちが暮らす環境において自明な物として意識の外側にある事象を現前させ、建築家の存在意義を問うてくる。辺境から新しい建築の批評言語が生まれてくる可能性を、『L’évo』のような実践から考えていくべきだろう。

(photo:中村絵)

--

--

伊藤孝仁
建築討論

1987年東京生まれ。2010年東京理科大学卒業。2012年横浜国立大学大学院Y-GSA修了。乾久美子建築設計事務所を経て2014年から2020年tomito architecture共同主宰。2020年よりAMP/PAM主宰、UDCOデザインリサーチャー。