批評|落日荘を夜更に飛び出し、走って帰った

061 | 202111 | 特集:建築批評《落日荘》/I jumped out of "Rakujitsu-so" at night and ran back

佐藤研吾
建築討論
Nov 2, 2021

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南下して八郷へ入る

茨城県石岡にある落日荘へ伺う日、私はまず手土産を探した。持っていったのはリンゴとアケビと酒。リンゴは東北の方からということでと選び、アケビはもしかすると茨城の方が盛りかもしれないが、自分が好きだったので。酒は自分の家の近くにある大天狗酒造という酒蔵が出す「未完」という銘柄を、それも1年ほど経っている古いものを選んだ。「未完」という酒は、「日本酒だけでは完成しない。そこに、仲の良い友人、美味しいおつまみ、楽しい場があって始まって完成するお酒」という酒蔵の思いが込められているそうだが、自力建設の御宅を拝見するのにこれ以上の銘柄はないと思って買い求めた。

福島県の中通りから茨城の石岡まで常磐道を使っておよそ2時間。もう1時間ほど走れば東京に入るので、どちらかというと東京に近い。日立に広がる太平洋の傍を抜けてきたこともあって気候も穏やかになったのを感じられ、また森の植生も変わり、果樹の畑はリンゴから甘ガキに変わった。

落日荘は現在は石岡市にあるが、その前は八郷という町に属していた場所にある。八郷町の名前の由来は、文字通り8つの村々が昭和期に合併してできたのだという。八郷は筑波連山にグルリと取り囲まれた盆地であり、昔から良好な田園地帯として周囲の領主がこぞって取り合った地であるらしい。ちなみに筑波連山は、茫洋広大な関東平野の右隅にひょっこりと出ている離れ小島のようでもあるが、山の流れからすれば福島県から南下してくる八溝山の南端にある。関東平野に東北の山の端がグサっと刺さったようでもあり、気候としては関東の暖かさがあるが、地形的には関東とも、東北とも分け切れない微妙な土地だ。

落日荘はそんな山峰の裾野の高台に位置している。真西の方角に開かれた勾配のついた中庭から見える景色、八郷盆地を越えて見える筑波山、足尾山、加波山の連峰の姿を見たら、おそらく高揚せずにいられる人などいないだろう。そして、その西に臨める山々に夕陽が沈むのだ。ああ太陽、早く沈んでくれ。午後の昼下がりにこの地に到着した私は切にそう思った。

「自ら作る」ことの効用

落日荘に到着するとすぐに落日荘の主である岩崎駿介さんの話が始まった。建設の動機から、今に至る過程、家の計画の細部を非常に詳しく、また的確に教えてくれた。おそらく幾人もの訪問者に落日荘の説明をしてきたのだろうが、駿介さんが発する言葉はどれも新鮮なものとして生まれ出てきていて、尋常ではない熱量であった。

落日荘の説明のために用意された配布資料がとても興味深い。「新住宅設計7か条・・・」と題されたA4一枚の資料の冒頭には、「どんな家に住みたいか、どんな家を設計すべきか、その時の設計指針を考えてみました!」と書かれている。設計時点での家の考え方をまとめた書面であるらしい。確かに駿介さんは、落日荘のプランは建設前から出来上がるまでほとんど変わっていない、と言っていたし、構造材はプレカットで加工し一気に建前をやってしまっているのだから、設計時点での基本的な考えの大部分がこの建築では実現しているのだろう。7か条のうち、上の6つは、建築計画について、あるいは建築素材についての方針が書かれている。落日荘の平面プランや意匠的計画の有効性が簡潔な言葉でまとめられている。けれども、最後の一つの条文だけはどうも、設計時点では考えきれないだろうことが書いてあるようだ。

人間は「自ら作る」ことによって、空間把握力が増大する。したがって、与えてはならない、作らせるのだ。建築家がすべてを支配する独善の世界は終わった。人々を招き入れて予期しない美を作ることである。

(「新住宅設計7か条・・・」)

私はこの最後の条文だけは、落日荘を作っている最中に付け加えられたのではないかと推察する。あるいは、もし仮に設計時点ですでに7か条揃っていたのだとしても、最後の条文は落日荘建設を通して、仮説が確信に変わったに違いないと考える。

そしてこの最後の条文が、巷の設計屋にとっては極めて痛烈である。岩崎式新住宅設計では、施工と設計が分離し、設計が全てを支配するのではない、施主に作らせよ、あるいは設計屋自らが作ってみせろ、と問う。そして他者を引き込み、協働することこそが美を作るのだとも言う。

おそらく落日荘を参拝してきた数多なる設計屋がこの条文に打ちのめされただろう。さらに岩崎夫妻による20年余の自力建設の成果、落日荘を肌身で感じてしまったら、もう粉塵になって霞ヶ浦に霧散するしかない。当然、私もその一人だ。日頃、設計と施工の関係をどうにかしたい、などと人に話をしながら、落日荘ほどの行動力と覚悟を持つことができていない自分自身の半端さを改めて恥じた。

岩崎夫妻は、ある種の”建設的な”生活を求めて、自宅の自力建設に取り掛かったという。彼らは何十年も途上国の課題、世界的な環境問題にNGOの立場で取り組んできた。が、そんな壮大かつ複雑に入り組んだ事物関係、人間関係を扱う活動の中では、時には徒労感、虚無の念が脳裏を霞めることもあったのだと言う。そこで、一旦距離をおいて、自分たちの手で解決、実現できるプロジェクトとして自宅建設に着手した。自力建設はいわば自己治癒の一環としてあったのであり、岩崎夫妻のアジールでもあったということだ。彼らのそんな生き方の工夫もまた、「自ら作る」ことの価値と可能性を示している。

岩崎夫妻による自力のあり方はもちろん家の建設作業だけではない。家の周りの外構を設え、庭を整え、畑を耕して野菜を作ったりと、自分たちができるありとあらゆることに取り組んでいる。駿介さんの話は、そこから国内自給率の問題へと展開する。「自分たちがいつも食べているそのゴマは、一体どこで作っているものなのか知っているか?」と私たちに問いかける。さっぱり分からない。ゴマに限らず、おそらく自分たちが口にしているだいたいの食べ物がどこで誰が作ったものであるかを私たちは知らない。

建築についても同様のことが言える。建築資材や工具がどこから来ているかを問われても、私たちはほとんど答えることができない。鉄の多くが外国から輸入されるし、コンクリートのセメント、砂、砂利もどこから調達されたものかわからない。多くの内装建材は石油由来のものでもあるから、いっそう分からなくなる。電動工具だってその多くが国内メーカー製であったとしても、ほとんどが中国やベトナムなどの海外工場で作られている。自力建設という一見、自己完結的でリトルコスモスな風にも思える行為もまた、よくよく凝視してみればそれは1地域、1国には決して収まらない、物流の網、世界との関係の中に成り立っているのだ。自力建設という、自分でできることは全て自分でやる、自給率を最大限上げる、ということは、実は裏返しとして、自分でできないこと、作れないモノは全て外の世界から手に入れている、ということを自覚することだ。自力建設によって、意識は内に向かうよりもむしろ外へと向かい、自らに関係する他者の存在を知覚し、慈しむことができる。

外を見ろ、外国をまず見てこいと駿介さんは言った。一方で、自己を見つめ続けろとも言った。二つの言葉は、おそらく同じ真意を伝えようとしているのである。外を見ると内が見える。内を見れば外が見える。

駿介さんは自身を「NGOアクティビスト」と称していた。アクティビストと言うのは日本語では何と言うべきだろうか。活動家だろうか。いや、活動家というのはすこし政治色が強く出過ぎてしまい本質を曇らせてしまう。もちろん政治は極めて重要でもあるが、岩崎夫妻の生き方はもっと多層的で複雑だ。ここで、やはり1人の詩人の言葉を思い浮かべずにはいられない。戦後、九州の三池炭鉱で組合活動を展開した谷川雁の「工作者」である。谷川は「工作者」を「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆である」と定義した。知性と反知性の混合燃料によって駆動する運動体。そんな「工作者」の定義に、もう一つの意味、つまり「工夫して作る」者という字義通りの意味を加えた「工作者」として、岩崎夫妻の生涯の活動を捉えられないだろうか。

駿介さんは建築家という肩書を名乗る人間を嫌っていると言う。建築家とは、さきほどの「新住宅設計7か条・・・」にあったような、家づくりにおいて支配的で独善的な態度の人間であるが、加えて、彼らを嫌うもう一つの理由は、自らの肩書に自らの活動や思考を縛られてしまっているからだと言う。建築家だから施工はしない、建築家だから設計をしていれば良い、などとあたかも自分の仕事がオカミから与えられたもののように自己批判なく”キャリア”を進めているからだろう。小住宅を作って専門誌で名を上げ、だんだんと物件規模を大きくして老練したら公共建築を作り出す。そんないわゆる建築家センセイのキャリアアップの軌道に乗って思考停止している状態に対して強い嫌悪感を表明している。けれども、落日荘という自らの家づくりの実践を持ってして、建築家へ明確なノーを突きつけているのだから、とても清々しい。

大量のモノから世界を眺める

落日荘の中に入れば、岩崎夫妻が何も語らずとも、その研ぎ澄まされた細部の工夫の豊富さに打ちのめされる。駿介さんが主張するように、おそらく設計だけをやっていたら、こんな密度で建築を作ることはできないだろう。長期間の現場を続け、一つ一つのディテールを考え切りながらコツコツと作り進んでいかなければ、落日荘のようにならないだろう。自力建設は即興的なものだと言われることがあるが、決してそうではない。コツコツと、工事がゆっくり進んでいくのだから、それだけデザインも考え悩み続ける時間が増える。エイヤと決めてしまうことなく、出来上がった部分に対してどのような形を足していくか、自らの施工技術の習得に合わせて次のデザインを考えていく。さあ明日はどのように作ろうかと細部を都度考えこむことになる。故に、頭の中だけで考える設計よりもよほど周到で緻密なデザインとなる。

落日荘内部の木造作を実際に手がけたのは美佐子さんである。一つの棚を作ったらその隣の棚を、またさらに隣の扉を、というふうに順番に落日荘の密度を高め、また施工技術を高めていった。ステンドグラスの開口とネコが通り抜ける小さな入り口を組み合わせた寝室の扉などは、とても洗練されていてかつ素朴さの残る絶妙なデザインだった。その現場に長年身を置き続けたからこそ生まれたデザインだとも思う。

美佐子さんは落日荘では造作作家であり、また世界中の民芸品を集める蒐集家でもある。落日荘の中の棚という棚には様々な形のカゴや置物、布が丁寧に並べられ、中でも寝室の直上に位置する小部屋に集められた千差万別の招き猫の置物群にはびっくりした。蒐集家はもちろん、集めた全てのモノがどこでどのように手に入れたかを記憶している。立体曼陀羅のように、あるいは全国の聖地が立体的な構造の中に凝縮された栄螺堂のように、それらの旅の記憶の欠片が家中に配置されている。数多の民芸品を眺め、かつて訪れた世界の地へといつでも想像を飛ばす。おそらく落日荘の内部造作のあり方を決めるのに、これらの民芸品の配置と展示方法についてさまざまな試行錯誤がなされていたのだろう。大きな瓦屋根を支える力強い小屋組に負けず劣らずに内部造作の密度が高いのは、おそらくは民芸品をいかにして収納展示するかという、空間全体で群としてのモノの配置、モノたちの棲み方を検討した形の作り方があったからではないか。

人間は「自ら作る」ことによって、空間把握力が増大する

岩崎夫妻によれば、母屋の木造の小屋組はカンボジア滞在中に考案されたものだと言っていた。カンボジアの伝統的木造建築を参照し、その上に三郷の瓦屋根をまとって建ち現れた母屋は、それ自体が岩崎夫妻の生きた筋道を表現している。一方で、母屋から中庭を挟んだ向かいに建てられた離れの構造は一見しても何らかの参照先が見出せない。二本のコの字型の断面のコンクリート柱の上に、巨大な木の自作集成棟木が渡され、それを棟木として斜めの上り梁が架けられている。建て方というか、制作プロセスがそのまま正直に構造の在り方を規定している。ラフタークレーンなどの巨大重機を現場に入れず、巨大な集成棟木を吊り上げるためにはどうするか。まずは2本のコンクリート柱を建て、その柱にチェーンブロックを取り付ける。コンクリート柱の断面がコの字になっていたのは集成棟木が上下移動するためのシャフトであったのだ。そして渡された棟木を支えに両側に上り梁を架けていくことで屋根を作る。建築の作り方、施工のアイデアがそのまま空間となって現れ出ていた。基点となる柱はガッチリとRCで作り、空中を飛ぶ梁は小径材を組み合わせた木造で、このRCと木造の混構造の発想がいかにして生まれたのか。おそらくは母屋建設の現場経験が、素材の重さと扱い方を理解し、いかにして架構を成すかのアイデアを生み出したのではないかと思う。「新住宅設計7か条・・・」の最後の条文、「人間は『自ら作る』ことによって、空間把握力が増大する。」をまさに、母屋から離れの建設の一連の流れから見出される。そして、さらに母屋の裏ではまたあらたな建築物が工事をしている最中であった。岩崎夫婦の「空間把握力」はさらに増大し続けている。

落日荘をくまなく見学させてもらい、またとても美味しい異国の香りがする食事を囲みながら様々な話を聞かせてもらった、その日の夜。私は深夜に落日荘を発った。建築を通して、岩崎夫妻の生きる覚悟にまざまざと直面し、自分もどうにか頑張らなければと奮い立たされ、当初は離れに泊めていただくことになっていたのだが、夜更に車を走らせて福島の自宅に帰った。自分自身の居処、居場所を作ることで、「空間把握力」を増大させ、そこから世界を眺め直す。落日荘に教えられたことを自分なりに取り組むために、居ても立っても居られなかったのであった。

落日荘離れのコンクリート柱。この上に追掛大栓継ぎで自作した大梁が乗る

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佐藤研吾
建築討論

1989年神奈川県生まれ。東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程。一般社団法人コロガロウ代表。In-Field Studio主宰。2015-Assistant Professor in Vadodara Design Academy。2016-歓藍社。2018-福島県大玉村教育委員会。2020-東京都立大学非常勤講師。