批評|道義性と対話から生まれる建築

061 | 202108 | 特集:建築批評《落日荘》/The architecture created by licitness and dialogue

阿部拓也
建築討論
Nov 2, 2021

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落日荘

《落日荘》は茨城県石岡市八郷に立地する。八郷は、筑波山と、足尾山、加波山に囲まれた盆地である。この地域は、田んぼが広がる農村であり、有機農業が盛んだ。この農村の一角に、落日荘は位置する。落日荘は、母屋、作業場・納屋、門・車庫、これらの建物に囲まれた中庭からなる。建物の主構造は木造である。《落日荘》の中では、岩崎駿介氏と、岩崎美佐子氏が暮らす。岩崎夫婦は、《落日荘》の居住者であり、設計者でもあり、施工者でもある。2人によるセルフビルドは、2001年から、現在までつづく。現在では、母屋の北側に息子家族が暮らす建物を建設している。

岩崎夫婦が舗装した進入路。この進入路を上ると、落日荘にアクセスできる。
進入路を上ると、門・車庫にいたる。これが落日荘の入り口となる。
門をくぐると、中庭にでる。中庭は、母屋と、門・車庫、作業場・納屋に囲まれる。
門から見て右手には母屋がある。この母屋で岩崎夫婦が生活する。
門から見て左手の建物には、1階に木材を保管・加工する作業場があり、2階に納屋がある。
母屋の裏手には息子家族が暮らす住まいが建設されている。

道義性

本稿は《落日荘》を「道義性」から読みとく試みである。道義性とはタイ・バンコクの「チュムチョン・クロントゥーイ」(クロントゥーイ・コミュニティ)での研究から見いだした概念である。チュムチョン・クロントゥーイはチャオプラヤー川沿いにある河川港に隣接する。この港での労働をもとめて、国内外から人びとが流入してきた。そして流入者らが、港湾局が所有する土地を不法占拠することで、チュムチョン・クロントゥーイが形成された。政府は住民に立ち退きを迫った。この立ち退きにたいして、住民は組織を形成することで政府と交渉し、土地の借地権を勝ちとった。住民が暮らす土地では、区画整理が実行され、上下水道などのインフラが供給された。さらに私が調査した地区では、建物の高層化・高密化を規制する建設ルールが導入された。しかし現在では建設ルールから逸脱する建物が大半を占める。これはなぜか? 住民が、政府が導入した建設ルールよりも、まわりの住民との関係性を重視するからだ。まわりの住民が建設ルールをやぶる建築行為をするのであれば、自分もその行為をやっても問題ないと考えるからだ。この価値観は住民間で共有され、チュムチョン・クロントゥーイの空間と、住民に生活に決定的な影響をおよぼす。私はこの住民の価値観を「道義性」とよんだ[1]。そして、チュムチョン・クロントゥーイの空間と、人びとの生活を、道義性から読みとく研究をはじめた。

チュムチョン・クロントゥーイの路地。両脇に住まいが密集しているのが見える。

チュムチョン・クロントゥーイで見いだした道義性を一般化すると、以下のようになる。私たちは、ある空間の中で、さまざまな人・生物・モノ・環境とかかわりながら生きている。この他の要素との関係が成りたたなければ、私たちは生きていけない。ゆえに他の要素との関係が成りたたなくなる行為を犯してはならない。そのためには自らの行為の妥当性を判断する価値観を身につけるべきだ。私はこの行為の妥当性を判断する価値観を「道義性」とよぶ。ある空間の中で生きる人びとの日常は、彼/彼女らの道義性に抵触しない行為によって成り立つ。この道義性から落日荘を読みとくこと、が本稿の目的である[2]。

落日荘と道義性

道義性から読みとく落日荘

岩崎夫婦は、さまざまな途上国を訪問し、その現状を目の当たりにした。駿介氏によれば、先進国での生活は世界中のモノをかきあつめることで成り立つ。これらのモノは、途上国の資源・労働力・エネルギーをもちいて生産され、先進国に供給される。この先進国/途上国の搾取の関係は、先進国の都市と、途上国の農村で顕著となる。世界中でモノを循環させた結果として、途上国の農村の環境が破壊され、地球環境が壊滅的なダメージを受ける。世界中のモノの循環が、先進国/途上国、都市/農村の格差の原因であり、地球環境破壊の原因であるという。

私たちは、貧富の差を拡大し、地球環境を破壊した加害者であることを自覚すべきだ。私たちは、国外の問題を、自分たちには関係ないと考えてしまう。しかし国を単位に物事を考え、各国が自国の利益をもとめて競争すれば、先進国/途上国、都市/農村の格差はひろがり、地球環境は破壊される。国は私たちの頭の中にある区分でしかない。私たちは、ある国の国民である以上に、地球で生きる地球人である。ひとりの地球人の生は、目には見えないだけで、世界中のあらゆる人・生物・モノ・環境に支えられる。ゆえに地球上のすべての問題は、自分と、その生に関係する人・生物・モノ・環境にかかわる問題に他ならない。だからこそすべての地球人は、①先進国/途上国、都市/農村の格差の是正、② 地球環境の保全、に取りくまなければならないという[3]。私は、駿介氏の話を聞き、①② こそ、地球人が遵守すべき道義性だと考えた[4]。

《落日荘》は、地球人が遵守すべき道義性が反映された建築であり、2つの特徴をもつ。第1に、その道義性をつねに意識するために、「地球の一点にいて、地球を見、地球を感ずる」建築であることだ。その鍵は方位と軸線である。《落日荘》の中央には中庭がある。中庭の北には母屋、南には作業場・納屋、東には門・車庫がある。西には建物はなく、足尾山の山頂が一望できる。さて私は建物と山の位置関係を方位から説明した。この方位は、地図で確認したわけではなく、コンパスで確かめたわけでもない。なぜ私は方位がわかったのか? それは落日荘の真西に足尾山の山頂があるからだ。《落日荘》と足尾山の山頂は同じ北緯36度16分48秒上にある。この方位・軸線を活かすために、西以外の3方向を建物で囲む、コの字型の配置がデザインされた。この配置により、中庭から西にある足尾山の山頂を一望できる。母屋の西にあるテラスからの眺めも絶景だ。こうして《落日荘》は西をさすコンパスとなった。あとは世界地図を思い浮かべればよい。《落日荘》にいるだけで、どの方位に、何の国・都市があるかがわかる。《落日荘》は方位を「見る」ことができる建築なのだ。季節も「見る」ことができる。春分と秋分には足尾山の山頂に太陽が沈む。この太陽が沈む位置から、春夏秋冬がわかるようになる。岩崎夫婦の世界での経験も「見る」ことができる。母屋の出し桁・登り梁の収まりは、カンボジアのホテル・ロワイヤルを参考にしたという。美佐子氏が収集したモノも、世界を知る手がかりとなる。以上の工夫から、《落日荘》は、「地球の一点にいて、地球を見、地球を感ずる」建築となった[5]。

落日荘はコの字型の配置からなる。中庭の北に母屋、東に門・車庫、南に作業場・納屋がある。中庭の西には建物がなく、足尾山の山頂を一望できる(出典:グーグルアースプロの衛星写真をもとに筆者作成)。
中庭からは真西にある足尾山の山頂を一望できる。
母屋の西にあるテラスからも、足尾山の山頂を眺めることができる。

もうひとつの特徴は、《落日荘》が地域との関係によって成り立つ建築であることだ。世界中からあつめられたモノに頼る生活は、先進国/途上国、都市/農村の格差を広げ、地球環境を破壊する。格差を是正し、地球環境を保全するために、自分たちの生活に必要なモノを地域で自給自足し、そこで排出されるゴミを地域で処理しなければならない。以上の考えから、岩崎夫婦は食を自給自足し、住をセルフビルドしている[6]。しかしすべてを2人だけでやることは難しい。そこで地域に頼る。建物の構造材には地元の木材である八溝スギをもちいた。八郷が瓦の産地だったことから、屋根材には瓦を採用した。作業場・納屋の2重屋根は八郷の古蔵を参考にしたという。このように落日荘は地域との関係によって成り立つ建築だといえよう。

八郷には瓦葺きの住まいが多い。落日荘の屋根材にも瓦が採用された。
八郷にある古蔵の2重屋根が作業場・納屋のモチーフとなった。

道義性では読みとけない落日荘

以上の《落日荘》は道義性から読みといた姿である。しかし道義性では《落日荘》のすべては読みとけない。道義に反する行為はごく一部であり、道義に反しない行為はいくらでもあるからだ。ゆえに、人・生物・モノ・環境との関係を考慮した上で、どの行為を選択するかが決まる。ではその選択はどうやって決まるのか?

その選択は、駿介氏か、美佐子氏のどちらかが判断する。美佐子氏によれば、2人は落日荘の根幹となる考えには賛同しており、大きく意見が割れたことはないという。しかし、両者はことなる価値観をもつ個人であり、すべての意見が一致するわけではない。たとえばセルフビルドにたいする価値観がある。駿介氏はセルフビルドを継続できた要因として、「悔しさ」をあげた。岩崎夫婦は、格差の是正と、地球環境の保全をめざして、世界各国で活動してきた。しかし、いくらエネルギーを投じても、問題は一向に解決しない。成果がでなければ、自分たちの活動は世間から評価されない。そこで、解決しない問題にエネルギーを投じるよりも、自分たちの思想を体現する生き方にエネルギーを投じようと考えた。落日荘のセルフビルドもこの悔しさが原動力にあるという。他方で、美佐子氏の見解はことなる。彼女は、農業に力を入れるつもりだったが、大工仕事をするうちに家づくりが楽しくなったという。この「楽しさ」こそがセルフビルドをつづける原動力であり、それは駿介氏も同じではないかと主張する。このセルフビルドにたいする価値観と同じように、《落日荘》の設計・施工・居住でも両者の意見がことなる場合がある。その場合は、駿介氏か美佐子氏のどちらかに選択を委ねることで、もめごとを回避するという。

しかし、駿介氏と美佐子氏のどちらかだけに、選択を任せられないときもある。その場合は、両者が「対話」をすることで、どの行為を選択するかが決まる。取材では、以下の2つが確認できた。ひとつは、木組みのホゾの加工である。駿介氏は、お金を節約するために、木組みのホゾを自分で彫ろうとした。しかし、ホゾを彫るとなると、時間がかかりすぎる。また木材が雨にぬれると、木材が沿ったり、ねじれたりする。そのため、木材を保管する場所が必要となるが、その場所がなかった。それゆえ、美佐子氏は木材のプレカットを希望し、彼女の意見が採用された。もうひとつは、作業場・納屋の屋根材である。駿介氏は作業場・納屋の屋根材も瓦葺きでつくろうとした。他方で美佐子氏は、その建物まで瓦にすると金がかかりすぎるし、謙虚さに欠けると感じた。それゆえ彼女は、作業場・納屋の屋根をトタンで葺くことを希望した。最終的には、駿介氏の意見が採用され、瓦が屋根材として採用された。

《落日荘》の細部は、駿介氏・美佐子氏の個人の判断や、両者の対話によって選択される。この2つの選択は、地球人が遵守すべき道義性からは読みとけないが、落日荘を語る上で欠かせない視点だといえよう[7]。

道義性と対話から生まれる建築

本稿では《落日荘》を道義性から読みといた。私たちの生活は、先進国/途上国、都市/農村の格差と、地球環境の破壊の上に成り立つ。私たちは、その加害者であることを反省し、① 格差の是正と、② 地球環境の保全に取りくむべきだ。この ①② が、地球で生きる地球人が遵守すべき道義性に他ならない。私たちは、①② をつねに自覚するために、「心を地球化」しなければならない。ここから、「地球の一点にいて、地球を見、地球を感ずる」という、落日荘のコンセプトがみちびかれた。さらに、①② の問題を解決するために、自分たちの生活に必要なモノを地域で自給自足し、そこで排出されるゴミを地域で処理しなければならない。人びとの生活を支える住も、地域の居住文化にもとづいて、自分たちでセルフビルドすべきだ。これが「身体を地域化」することにつながる。このように落日荘は、「心を地球化し、身体を地域化」するための建築であり[8]、地球人が遵守すべき道義性を具現化した建築でもあった。

しかし《落日荘》は道義性だけでは読みとけない。道義に反する行為などごく一部にすぎないからだ。ゆえに、道義に反しない行為の中から、どの行為を選択するかが決まる。この選択の決め手になったのは、駿介氏・美佐子氏の個人の判断であり、両者の対話だった。このように《落日荘》は道義性では読みとけない魅力をもった建築でもあった。

注:
[1] 道義性という言葉は「道義的合法性/道義的違法性」から着想を得た。詳細については、小川さやか氏の『「その日暮らし」の人類学:もう一つの資本主義経済』(光文社、2016)の128–130頁を参照のこと。

[2] チュムチョン・クロントゥーイでの研究から見いだした知見を、条件のことなる落日荘に応用することは、避けるべきだと考える。しかし本稿では、道義性の限界をしめすために、このアプローチをあえて採用した。

[3] 駿介氏の思想については、彼が著した『一語一絵 地球を生きる【上巻】:地球上の富めるものと貧しきものとの対立』(明石書店、2013a)を参照のこと。本稿では、1頁、22–26頁、29頁、87頁、96頁などを参考にした。

[4] 岩崎夫婦が考える道義性は、地球全体と、全人類を対象とする。他方で私は、特定の地域と、そこで暮らす人びとに焦点を絞り、多様な道義性のあり方を探求している。

[5] 落日荘の設計趣旨については、駿介氏が著した『一語一絵 地球を生きる【下巻】:私たちは「空間」をどうとらえ、どう作るか!』(明石書店、2013b)を参照のこと。本稿では、22–23頁、32–36頁、54頁などを参考にした。

[6] 駿介氏によれば、食の自給自足と、住のセルフビルドは、真の参加につながるという。人間は、道具を生みだすことで、自分の身体だけではできない行為を可能にしてきた。本来の人間は、専門職ではなく、あらゆる行為を自分でこなす総合職なのだ。しかし現代では専門分化がすすんでしまった。農家を頼らねば、食事にありつくこともできない。建築家に頼らねば住まいを建てることもできない。自分の頭で物事を考えず、知識人の考えを丸のみにする……。この専門分化こそが、人間本来の力を堕落させ、駿介氏が定義する「参加」を不可能にする。つまり「自ら考え、判断し、行動すること」ができなくなる。真の参加を実現するために、専門職に頼らずとも、自分たちだけで生きていける力を身につけなければならない。食の自給自足と、住のセルフビルドは、その力を身につける絶好の機会となる。参加の定義は「すべての人の参加こそ、これから社会の命」(2021年9月12日、https://www.youtube.com/watch?v=YJKjY76sLBc)を参照のこと。

[7] 落日荘を多角的に理解するには、駿介氏の視点だけではなく、美佐子氏の視点が不可欠だ。駿介氏はこれまで何冊もの著書を出版してきた。駿介氏の思想や、その思想にもとづく落日荘の設計趣旨については、私の説明を読むよりも、駿介氏の著書(岩崎2013abなど)を読む方が正確だし、わかりやすいし、おもしろい。他方で、上記の著書では美佐子氏の視点が欠ける。美佐子氏の視点を組みこむことで、落日荘の立体的な姿がえがけるのではないか。以上が本稿の基本的な視座である。なお美佐子氏の見解は、落日荘でのインタビューをもとに文章を執筆し、その真偽をフェイスブックのメッセンジャーをつかって確認した。

[8] 「心を地球化し、身体を地域化」するという言葉は、「すべての人の参加こそ、これから社会の命」(2021年9月12日)での発言にもとづく。詳しくは上記の脚注のURLを参照のこと。

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阿部拓也
建築討論

あべ・たくや/1993年宮城県生まれ。芝浦工業大学大学院建設工学修了、修士(工学)。現在、筑波大学大学院デザイン学学位プログラム博士課程、日本学術振興会特別研究員。専門は、建築学、デザイン学。主な論文に、「路地空間におけるルールから逸脱する建築的実践」、「信仰上の禁忌と住宅空間」(いずれも共著)。