文化財修理経験者が考える民家の「復原」と「活用」と「記憶」

|070|2023.07–09|特集:建築の再生活用学

坂井禎介
建築討論
Jul 31, 2023

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文化財建造物の修理と復原

文化財建造物の修理技術者は、日々、建物を前にしてどう保存するべきか、正解のない葛藤をしている。文化財の修理は建物の手術であり、その修理を担う大工や修理技術者は医師のようなものである。外部からその患者の内部構造が少し透けて見えるものの、いざ修理という手術が始まり、内部構造がみえると、思いもかけない破損がみつかるが、工事期間は限られているため、その修理方法を即座に考えなければならない。逆に言うと、思いもかけない新発見も毎日続出するため、修理に携わることは、毎日あわただしいが、楽しくて勉強にもなる。すべての部材を取り外して丹念に調査して再度組みなおすのだから、その建物の内部構造をくまなく把握できる。私も、2022年9月までは文化財建造物の修理に携わる修理技術者であった。明治の住宅の修理を一つの現場で8年ほど常駐する経験をした後に、寺院や神社の修理を非常駐で数件掛け持ちして2年ほど担当した。修理技術者は、修理際の部材の取り外しから部材の組立までに立ち会うことや、大工等の職人や関係機関と相談して修理方針をたてることや、修理現場で解体される古材を調査し発見された事項を記録することなどが仕事である。詳しくはリンクを参照されたい。https://www.bunkenkyo.or.jp/repair/flow.html

文化財建造物の修理は、現状維持が基本である。しかしながら、日本のような高温多湿で木造建築が多い環境では、雨や地面からの湿気や虫害によって、木材が腐朽等の破損を受けやすい。その破損個所だけを健全な部材に交換し、建物の寿命を延ばすことを目的としている。文化財建造物の保存修理は、百年以上の昔から現代まで残存した古材を、後世まで受け継ぐリレーのバトンを渡す行為である。数百年受け継がれてきた大切な古材を現代で失うことなく、未来の人たちに引き継ぐのである。

私が修理技術者になる前は、以上のように、文化財修理は「腐った箇所だけを新材に取り換える」最小限の介入行為であり、現状を極力そのまま後世に伝えるものと考えていた。しかし、文化財修理の実務に携わると他の様々な側面が見えてきた。最も大きな驚きは、「復原」という行為であった。建物は多くの場合、長い年月の間に増築や改造が行われ、最初に建築された姿(=当初の姿)が変容する。例えば、民家であれば、子どもができたので、仕切りがなかったところに仕切りをたてて部屋を分割させることがある。他にも、部屋の保温性能を向上させるために天井のないところに天井を付加することがある。寺であれば、参拝者の便宜を考えて参拝空間を拡大させることや、寺をさらに豪華に見せるために外部や内部に装飾を追加することなどがある。そのように時代に合わせて建築が変容して現代にいたるため、そのような変容も建築史の一部である。しかし、この改変を経た姿は、最初に建った当初の、建築の純粋な姿は失われている、という考え方がなされることが多い。純粋な姿とは、建築当初の大工等の職人が考えた姿や、その時代や地方を代表する建築様式が建築に純粋に表れているということである。建築当初の姿を研究する人が多いから、建築史研究者からも、建築当初の姿への復原に価値が高いとされてきた。後世の改造は、別の大工や別の所有者が、その時代ごとの考えに合わせて形態を変容させていく。その後世の修理は、応急的で簡易なものが多く、「こそくな修理」がなされた、と記述されることが修理工事報告書でよくある。この言葉尻からも、当初形状がポジティブに、後世の改変がネガティブにとらえられていることがわかる。

奥田家は、建築当初の純粋な姿に復原されたことがよくわかる例である。平成5年の修理の際の綿密な調査により、図1上の破線部は、江戸末期の増築だと判明した。居室が手狭になったので、江戸末期に部屋を増築したのである。外観上からも、様々な時代が混在する雑然とした雰囲気が読み取れるだろう。平成5年の修理ではその増築部を撤去して復原し、図1下のように、17世紀末期に建てられた建築当初の純粋な姿が現れた。見た目からも、建築様式的理解からも、純粋だということがわかるだろう。

図1 奥田家(大阪)の復原前後の比較★1
上が修理前で、下が修理後

「復原」の理想像

「復原」は、建物の過去の改造の痕跡をもとに、現在の形状を変更し、過去の形状に戻す行為をいう★2。後世の付加物を取り払い、後世に失われた箇所を新材で付加して、建築当初の輝ける「純粋」な建築意匠を再び現代に再現する行為である(「建築当初の純粋な建築意匠」という言葉は、関係者の思いがわかりやすいように私が記述しただけで、明文化されたものではない)。建築史上も、建築当初の姿が最も価値が高いとされることが多かった。

復原のためには、「どの箇所が後世の付加物なのか」がわからないといけないのだが、ここで我々のような修理技術者が活躍する。釘の穴の数や部材表面に残るわずかな凹凸を丹念に調査し、建物がどのような変遷を経て現代にいたるのかを明らかにするのである(図3中央)。この調査は、まるでその建物をタイムスリップしていくような感覚になり、歴史ロマンあふれる楽しいものである(が、このロマンは後述の危うさももつ)。この調査で分かった歴史的変遷を元に、「どの時代に復原するのがよいのか」、関係者(所有者、役所、大学教員など。時には数十人に及ぶ)で議論しながら、多くの人が納得できる年代に復原するよう、説明を尽くしていくことも必要である。様々な意見を持つ関係者の意見をまとめるのは大変なもので、実はこの会議が最も苦労する。会議で方針が決まれば、あとはその方針通りに、組み立てていく。

この復原という行為は、多くの文化財関係者にとってポジティブにとらえられている。その原因は多数ある。せっかく多額のお金をだして修理したのだから修理前よりも良い姿になってほしい願い(特に所有者や寺の檀家さん)や、建築当初の「純粋」な意匠が最も良いという価値観や、調査や手続きに苦労したものはいいものだという考え、などがあるだろう。筆者自身も、復原によって価値が高まったと思えるものは多い。例えば、民家の土間は、作業空間を確保するために柱を少なくするが、その代わりに上部に太い梁を組む。その結果できた空間は、土の香り漂う民家らしい素朴な大空間である。しかし、土間が料理場として使用されなくなると、かわりに土間に床をはって居室部やキッチンに改造することがよくある(図2の「3回目の改変」など)。こうなると、図3上のように、土間の下部の土や上部の梁が見えない、窮屈な空間になる。これを復原によって取り除くと、図3下のように、当初の広い土間が再び現出する。建築空間の良否や建築史上の価値だけで考えれば、古民家ならではの空間が取り戻せて空間と価値が向上すると思う。

図2 関家の平面の時代的変遷★3
図3 関家の復原された土間空間 ★3
(撮影者:小野吉彦)

しかし、家の復原には危うさも潜んでおり、注意が必要である。寺や神社は、古式にのっとった儀式を続けているところも多いし、一日数時間の法要や儀式にのみ寺や神社を使うから、建築当初の姿に復原しても、使用上の問題はあまり生じない。民家は、時代ごとのライフスタイルの変化に応じて、住みやすいように何度も改造されて現代まで至る。復原して後世の改造を取り払うことは、即ち、住みにくい古い姿に戻るということになりやすい。復原によって当初の純粋な意匠は取り戻せても、現代の住みやすさは失ってしまいやすいのである。

先ほどの土間の復原の例でいえば、土間に床をはってキッチン設備を新設したために、現代的な生活ができていた。古建築と現代生活との両立ができていたのである。しかし、土間に復原したら、江戸時代に使っていたかまど等が復原される。修理担当者が復原後の姿を所有者に見せたときに、「かまどを使って料理しろということか」とたいそう怒られたという話を聞いた。その復原された設備のみを使うのならば、現代の所有者がかまどを使って江戸時代のように火を起こして、料理を行わなければならないが、それは非現実的である。だから、復原することで現代の所有者が住めなくなった重要文化財民家は、近くに新築の「管理施設」という名の現代的設備の住宅を建てて、そこに住まうのである。古民家の中に住み続けるにしても、台所や風呂や便所などの水回りだけは現代のものを仮設して使用する。

「復原」の制限と推奨

文化庁は、文化財保護法によって現状変更を制限している。つまり、綿密な調査によって当初形状が明らかになった場合には、所有者が現状変更の申請を行い、文化庁が許可し、当初復原の現状変更を行うのである。復原のような現状変更には非常にハードルが高いように文化財保護法では規定されているが、実際は、重要文化財民家の修理では当初復原の方針が非常に多い。平成17年時の調査では、全国に336件ある重文民家の内、何らかの修理工事がなされているものは233件(約7割)あり、復原する際の方針は、当初形式への復原(当初復原)が150件、一部を除く当初復原が31件、中古段階への復原(中古復原)が36件、修理前の現状を踏襲した整備(現状整備)が14件であった★4。

なぜそこまで当初復原が多いのかを読み解くヒントが、関家の修理工事報告書★5に記述された、当初復原に至った経緯である。関家では、所有者と文化財建造物保存技術協会(=修理設計者)と専門委員会(学識経験者)との議論の末、当初形態に不明点が多いため、中古の時期に復原することを決定し文化庁に申請書を提出した。しかし、文化庁の課内会議の結果、当初形状の建築史的意義を重視し当初復原で申請しなおすよう文化庁から所有者に提案された。それを受け、再度専門委員会で議論し、当初復原が承諾された。そして、再度所有者から文化庁に、当初復原の申請書を提出した。ただし、修理後も所有者が主屋で居住することを考慮し、復原によって失われた台所、風呂、便所等の水回り設備は主屋北側の管理施設に建設して補完した。先述のように、文化財保護法上では、所有者が復原の現状変更を申請して文化庁が許可するのだが、実際は、文化庁が復原を提案してその通りに所有者が申請し、文化庁が許可することがあるのである。私が文化財建造物保存技術協会に勤務し、重要文化財の修理実務を行っていたときも、同様の経験をした。現状維持で文化庁に提案したが、文化庁から当初復原を勧められたのである。このような経緯はほとんど文字化されず、関家の記述は数少ない経緯の記述である。

「復原」の実態

2016~2017年に私は60棟ほどの重要文化財民家に調査に訪問したが、建築当初の姿に完全復原した建物で魅力的な民家はあまりなかった。むしろ、復原したことに不満を持っている所有者から、私に不満を漏らされることがしばしばだった。例えば、「先祖代々受け継いできた家に住めなくなってしまった」と言われたことがある。この所有者は敷地内の別棟に居住し、復原民家内は物置としてしか使用されていなかった。座敷にさえ物が積み重なっており驚いた。また、別の民家では、「文化財関係者による復原という名の改築によって、幼いころの思い出がすべてなくなってしまった」といわれた。なんとも皮肉なもので、文化財関係者は復原によって「価値」が高まったと思っていても、所有者にしてみれば改築行為でしかないのである。それはまるで、建築の周囲に漂う霧に映る虹をみているようである。建築の周囲に、歴史ロマンという霧が漂い、その霧に理想の姿を虹のように投影してしまっていないだろうか。その虹は歴史ロマンを持つ人の特定の角度でしか見えず、別の角度からは見えない虹である。

私が「霧」と呼ぶ印象についてもう少し説明したい。文化財関係者は復原の行為そのものでなくその理想像を見ているように思い、私は違和感をもつことがある。それは「復原」行為の周りにまるで霧が漂っているようである。図4のように、例えば、江戸時代初期に建てられた建物が江戸時代後期に1回目の改変、昭和期に2回目の改変がある。ここまでは納得できる。しかしその後、平成に「復原」が行われる。この復原という行為は、江戸時代後期の貴重な古材を廃棄する。さらに、形態意匠は古くても、それを構成する材料は新しい。よって、古い意匠形状の復原という行為は、古材保存の理念と真っ向から対立する。古材保存の理念の立場に立てば、復原は改変行為ともとらえられる。しかし、不思議なことに、この復原を平成の3回目の改変ととらえる人は少ない。文化財関係者の中ではこれが平成の改変でありながら江戸時代初期に戻ったという感覚であり、時代的逆転現象が起こっている。これは、図2の関家の変遷図でも同様である。古建築は創建から現在に至るまで様々な改変を経てきており、各時代に生きる人の好む姿に改変されてきた。現代では文化財修理関係者が「当初の姿」を好み、その好みの姿に大規模に改変されているとはとらえられないか。しかし、「復原」の周囲に漂う霧は、霧にかかるきれいな虹のように、「当初の姿」という歴史ロマンをそこに投影する。この虹は霧の真の姿でなく、霧に反射した日光の幻である。

図4 歴史的変遷のイメージ図

少し話は変わるが、 1612年に建設されるも戦災で焼失し、1959年に鉄骨鉄筋コンクリート造で復原された名古屋城の天守閣が現存している。現存天守は木造ではないものの、建立後50年が以上経過しており、文化財にも指定される可能性のあるものである。戦災直後に、もう二度と燃やさないためにコンクリートを選択したのだから、近代の天守として文化的価値が高いと認められる。それを、木造で忠実に「復原」しようという動きが、昨今のニュースをにぎわせている。エレベータの有無や差別発言など、様々な方向に議論がヒートアップしているが、現存天守を構造補強して保存すべきか破壊して復原すべきかという本質的な議論から離れてしまっている。復原をするなら、歴史的史実に基づいた復原が必要なのはもちろんのことである。しかし、復原という言葉を使うために、行為が美化され、実質が見えなくなっている。この復原は、令和の改変であるまたは3回目の新築行為である、と考えることで、どのようにすべきか少し冷静に考えられるのではないか。復原すれば、形体は確かに江戸時代の建立当初になるかもしれないが、使用される材料は令和の材料である。また、現存する戦後すぐの天守を破壊しなければ、木造の復原天守を築城することはできない。令和にどうすべきか、歴史の流れの中で、自らを客観視して考える必要があるのではなかろうか。

復原後も住み続けている重要文化財民家

民家は生活するための建築である。文化財になると、建築自体に価値が置かれ、生活が取り残されがちだが、実際は様々な生活文化があり、今でも江戸時代と同様の年中行事を行っている民家さえある。当初の意匠形状に完全復元された重要文化財民家では、住み続けることができなくなってしまう例が多い。しかし、以下に紹介するように、元の所有者が生活し続けられている重要文化財民家も少数ながら存在する。以下に紹介するように、住み続けられる民家は、現状維持または当初よりも下った年代設定で復原した民家である。

図5の大阪の重要文化財高林家住宅では、1月にはかまどでお雑煮の炊き出しを行い、神棚にしめ縄をし、神棚と仏壇にお雑煮をお供えする。他にも、3月に大般若が屋敷内の不動堂で、9月には観月祭で縁側に小餅やすすきをいけて、毎月25日は天神祭で菅原道真公の掛け軸をかける 。これらの行事の舞台は全て高林家の屋敷地の古建築内であり、古い民家の空間が残されかつそこで暮しているからできるものである。また、代々、年中行事に重きを置いてきたご当主のなみなみならぬ苦労のたまものであろう。高林家の修理では復原が行われず、現状維持がなされている。古い建築形式は保存されていなくとも、古材と生活文化が残っているよい保存の例であろう。

図6の広島の奥家では、当初でなく一定の年代を定めて復原が行われたものの、活用を考慮して、主屋南側に隣接して、アイランドキッチンを取り入れたリビングダイニングの空間を作った。重要文化財建造物の修理としては異例のことである。しかし、それにより現在でも所有者が生活できており、古材と生活文化が共存する心地よい空間であった。古民家は台所、風呂、便所等の水回りを現代のものにすれば十分住み続けられる。

図7の京都の行永家でも、修理後の生活のことを考えながら当初よりも一時代後の時代に復原したことで、明るい空間が作られ、当主のお気に入りの空間となり今でもいきいきと生活されている。住み続けているからこそできる生きいきとした設えがなされていた。

図5 高林家で行われる年中行事
(碓田智子『重文民家をつなぐとは?―それは文化財建造物保存技術協会とともに建物を次世代に伝えること―報告書(ダイジェスト版)』(全国重文民家の集い、2018.10、pp.6–7)より引用)
図6 重要文化財に住み続けられている事例(奥家 平成22年の修理)
上:重要文化財では異例だがアイランドキッチンを取り入れた
下:古いものと新しいものが融合する居間
図7 重要文化財に住み続けられている事例(行永家 平成14年の修理)
上:住み続けることによってつくられる生きたしつらい
下:民家の中で様々なお話をお聞きした。
左から矢野氏、坂井、行永家ご当主、奥様

民家の周りに漂う生活の「記憶」

民家に住み続けるメリットは多数ある。現代で木や土の素朴な雰囲気を感じる古民家に住むという真の贅沢な暮らしができること、先祖代々受け継いできた家を継承できること等、様々ある。私が調査の際に所有者に話を伺っていて気づいたのは、その家の使い方や歴史を所有者が良く覚えていることである。古建築は柱や梁等の物体を保存しているのはもちろんのこと、ずっと建築が存続されてきたからこそ、その物体の周りに住んできた人々の「記憶」とでもいうものが、ほこりが積もるように、少しずつ蓄積されているように感じた。

対して、古民家の修理の費用を捻出できないとか、古民家の不便な暮らしに耐えられなくないとか、仕事や結婚の関係で別の場所に住むとか、様々な理由で古民家に住み続けられない所有者がいる。特に深刻なのは修理の費用であり、修理の際は数億円の費用がかかるが、国と県と市町村から補助金がだされる。9割以上が補助金で賄えることも多いが、仮に2億円の修理工事で、95%が補助金だとしても、5%の1000万円を所有者が負担せねばならない。大変な金銭的負担がかかるのである。それに耐えきれないために、やむなく、市町村へ譲渡という手段を撰ばざるをえない。市町村が管理すれば、修理費、管理費ともに市町村もちで、民家を公開施設にすればだれでも観覧できて、安心と考えるかもしれない。しかしそうはいかない。

所有者が住んでほぼ毎日家を確認していた時と比べて、その家の確認回数は少なくなり、細かい破損や劣化に気づきにくくなる。市町村は税金で動いているので、修理が必要でも議会で承認されて予算がつくまでは放置せざるをえず、茅葺屋根の修理ができずに大きく破損が進む場合がある。人が住んでいないために、囲炉裏やかまどの火(煙に防虫効果がある)を焚かず(管理人がいれば焚いてくれるが)、屋根の寿命が短くなりやすい。内部の掃除が頻繁にできず、床上は土ぼこりだらけの民家も私の調査時に多数確認された。その全てが市町村に譲渡された民家だった。

その中でも、私が残念だったのは、民家の「物体」は保存されていてもその「記憶」が喪失してしまうことである。市町村担当者は多くの場合2年で担当が変わる。そのため、その担当者に聞いても家の使い方もその歴史も、修理工事報告書以上の返答は返ってこないことがほとんどであった(もちろん、時にはその家の歴史を調べ、様々な興味深い事実をお教えいただく担当者もいた)。その担当者個人の責任ではなく、所有が個人から公共団体に変化することによって生じる、必然的な建築の記憶の喪失だとおもう。公共団体所有の民家は、古民家の形体的な美しさを蝶の標本のように展示してはいるが、生気を失い、古民家が死んでしまっているように感じた。そもそも、古民家を公開しても、そこに訪れる人はまばらで、私が調査で数時間滞在して1人も見学者に遭遇しないことがよくあった。多数の来訪者がいる民家もあるが、一握りである。公開施設にしてもほとんどだれも訪れない状態よりも、だれか個人にずっと住み続けてもらった方が、文化財の活用という意味ではずっとよいだろう。

まとめ

家は人の生活の舞台である。生活をしているから、しつらいがなされ、さまざまな出来事が起こって物語が生まれ、その家に安心感や愛着を感じるようになり、家という建築が生き生きとしてくるのだと思う。特に、古民家はその最たるもので、そこで生活した人の記憶、ススなどの囲炉裏を焚いた痕跡など、様々な生活の歴史が家という物体に数百年の時間をかけて積層してきた。民家においては、入れ物である建築を残すだけでなく、その中に住めるように活用のことも考えながら修理する必要があるだろう。住み続けるためには、当初復原ではなく、後世の時代に復原年代を設定するもしくは、生活できるように水回りなどを整備することも必要であろう。実際、最近はそのような事例が増えており、良い傾向だと思う。民家の修理では、所有者と相談しながら臨機応変な対応が求められる。

図8は、戦後すぐの農家の暮らしを写した写真である。このような写真を見ると、民家は庶民の暮らしの1つの産物だという思いを強くする。民家の歴史的価値は生活と一体である。つまり、民家はその中で生活しているからこそ輝きを持ち、生きている民家だと感動をもって感じられる。しかし、古い民家に住み続けるということは、金銭的にも日々の生活上でも大変な苦労を伴う。そのため、人が住まなくなった古民家が多いのも事実である。そのような民家は、標本的な美しさはあるし、文化財的価値が十分あるものの、生気を失ってしまっている。人が住みながら保存される民家が多くなることを願いたい。■

図8 民家の囲炉裏の団らん風景。家は生活とともにある。★6

注釈

★1 引用:文化財建造物保存技術協会編『重要文化財奥田家住宅主屋・表門・乾蔵・旧綿蔵・納屋・米蔵修理工事報告書』(財団法人奥田邸保存会, 1993.2)
★2 『文化遺産と復元学』(海野聡, 吉川弘文館, 2019.12, p.4
★3 引用:文化財建造物保存技術協会編『重要文化財関家住宅主屋・書院及び表門保存修理工事報告書』(関恒三郎, 2005.10)
★4 大野敏「指定文化財の活用に関する問題点と課題~”木造建造物の保存修復のための調査研究保存修復に関する考え方と手法の研究”住宅グループの研究成果から~」『滋賀県近世民家にみる住まうための工夫』(奈良文化財研究所文化遺産研究部建造物研究所2002/3)
★5 文化財建造物保存技術協会編『重要文化財関家住宅主屋・書院及び表門保存修理工事報告書』(関恒三郎, 2005.10)
★6 引用:「ある農家の夜の炉端」『農村の婦人―南信濃の―』(熊谷元一、岩波書店、初版1954年、復刻版2008年)

参考文献

『文化遺産と復元学』(海野聡, 吉川弘文館, 2019.12)
『木造建造物の保存修復のあり方と手法』(奈良文化財研究所, 2003.3)
『地域文化財の保存修復 考え方と手法―現状・課題・これから―』(奈良国立文化財研究所, 2000.3)
『民家研究50年の軌跡と民家再生の課題 資料集』(日本建築学会, 2005.8)
『滋賀県近世民家にみる住まうための工夫』(奈良文化財研究所文化遺産研究部建造物研究所2002/3)

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坂井禎介
建築討論

1987年生まれ。博士(工学)/2010年東京大学卒業/2012年東京大学大学院修了/2012年文化財建造物保存技術協会に入会し、10年間重要文化財建造物の設計監理を行う/2022年より奈良女子大学専任講師/専門は、日本建築史、歴史的建造物の保存修復。研究内容は、日本建築における見せかけの意匠技法