日埜直彦著『日本近現代建築の歴史:明治維新から現代まで』

喚起する通史(評者:林憲吾)

林憲吾
建築討論
Jun 7, 2021

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1970年頃を画期に「批評としての建築」が成立する。評者なりの解釈をあえて加えれば本書の要はそうみえる。もちろん本書の表現はそれとは異なる。「国家的段階」から「ポスト国家的段階」への移行がキーワードである。

明治の西洋式建築の移入から1970年の大阪万博まで、多かれ少なかれ建築は国家とともにあった。だが、70年以降は国家が急速に後退し、民間を主体に資本の論理が建築の本流をつくる。大掴みにいえば本書の構図はこうである。だが、筆者の慧眼は、その変化に現在までつながる建築家の分断をみることだ。組織設計事務所や総合建設業の建築家と、アトリエ系といわれるフリーランスの建築家との区分がそれである。乱暴にいえば、前者が実質的には本流を担い、後者がそのアンチテーゼを投げかける。資本投下の大きいプロジェクトの大半は前者に落ちていく一方で、現況への懐疑とその刷新を目論む批評的態度が、後者の建築家のアイデンティティとなる。あるいはそう振る舞うことを期待される。現実はそんなに単純ではないものの、さりとてそれを一蹴できない深層心理が建築界にあるのも事実だろう。その歴史をポスト国家的段階への移行と重ねたところに評者は本書の意義をみる。

それはやや悲劇的なプロセスでもある。国家や資本の論理から慎重に距離をとることで、従来にない挑戦的で新しい質の建築が生み出されてきた。そうする日本の建築家のなかには海外から高い評価を得てきた者も多い。だが、その試みは日本の一般的な建築の状況を変えてはこなかったと本書は指摘する。冒頭で評者は批評という言葉を使ったが、批評というと聞こえはよいが、常に批評に留まってしまい、社会変革や人々の価値観の変化にまで至らないということだ。正反合でいうならば正と反があるのみでアウフヘーベンがない。そういうやや皮肉的な意味での批評としての建築である。

もちろん国家的段階でも、批評性をもって建築はつくられている。だが、それは体制の外側からの批評ではなく、ある種の自己批判である。建築家は体制の中にいてそれを刷新する存在でありえたからだ。ただし、分離派をはじめ20世紀前半の建築家たちの運動は、既存の体制や枠組みへの、デモのような外からの批評であったのは確かだろう。だが、それでも今日ほどには体制から疎外されてはいない。モダニズムは過去の本流を批評しただけではなく、20世紀を通じて日常の風景をすっかり変えてしまったことを想えば、良きも悪しきも一般の建築的状況を変えた。それに対してポスト国家的段階には残念ながらそのようなうねりは(まだ)ない。本書の後半は、アトリエ系建築家をやや賛美しているようにも読み取れるが、むしろそこには一種の空虚さが漂っているように評者は感じた。

しかし、この状況は変わり得ないのだろうか。近年、社会課題や地球環境問題を強く意識し、建築のデザインとともに建築を成り立たせる社会システムの変革に関心を寄せる建築家は多い。上記の空虚さを肌に感じ、それを打開したいという素直な反応なように評者にはみえる。本書が提起した分断は埋まるのか埋まらないのか。それはこれからの私たち次第ではあるが、この先の50年で大きく変わった姿をやはり見てみたい。過去を扱う本書は、このように読者を前に向かせもする。

日埜直彦著『日本近現代建築の歴史:明治維新から現代まで』

本書は、幕末から21世紀に至るおよそ150年の日本の近現代建築を一冊にまとめあげた。1970年代以降が欠落していたこれまでの通史を大きく更新するものである。そのインパクトはとてつもなく大きい。ただし、150年を新書として一冊に圧縮し、それを明快に二つの段階で示すのだから、当然ながら疑問も出てくる。

たとえば、国家的段階において建築家が国家とともにあったというが、20世紀前半から高等教育機関が増加するにつれ、その関係は多様化していくのではないだろうか。卒業生の増加は単純に建築従事者の幅を広げるからだ。建築専門誌には出ないが、婦人雑誌には出るようなフリーランスの建築家も戦後は多くなり、彼らは主に住宅を扱う。そんな存在にも目を向けると、国家的段階の建築家像は本書ほど一枚岩ではないように思う。ポスト国家的段階の建築家の分化を準備した建築家の量の問題はないだろうか。

また、筆者の論じ方が、日本特殊論にやや傾きすぎていないだろうかと懸念を覚える。19世紀半ばに、西洋式建築の衝撃を受けた日本は、国家主導で一気にその受容を図った。それを日本の特殊性と認め、それがゆえの混乱がいまの建築にまで尾を引いていると筆者が語るとき、その混乱は他のアジア諸国も抱えているのではないかと、やはり訝ってしまう。たしかに日本は欧米の植民地化によって西洋式建築を受容したわけではない。さりとて国民国家がそれを主導したため混乱が増した、というには腑に落ちないところもある。あるいは周辺地域で独立国家を保った中国やタイといった存在もある。本書を読んで、そうした周辺地域との比較をせねばと刺激をもらった。

あるいは逆に東アジアや東南アジアを俯瞰する視点から日本の特殊性を認めるならば、それは一体何かと問うてみた。答えとして浮かんだのは、西洋の衝撃後、自らが帝国になったことである。そのように考えると、19世紀末からの外地の獲得と、そこに日本が西洋式建築をはじめさまざまな建築を移入していくことの記述は必須に思えてくる。もちろん紙幅の関係で割愛したと断りがあるが、その記述は、内地でのナショナル・ロマンティシズムの発露や、「西洋の西洋による植え付け」と理解されがちな植民地建築を、相対化する視点を生んだであろう。さらに言えば、対アジアの戦後処理は日中国交正常化が実現した1970年代がひとつの節目と考えられている。そして、日本の民間企業が、国家プロジェクトにぶら下がるのではなく、資本の論理で積極的にアジアに出ていくのもこの時期である。つまり、本書のいう国家的段階からポスト国家的段階への移行にも符合する。そのため、植民地化の歴史は本書をより立体的に理解するための補助線となるに違いない。こう書きながら、日本の建築家の海外での活動が、日本国内の通史を補完しうると気付かされた。本書をひとつの参照点として、日本の外側の日本を考えてみたくなった。

国家が前景に現れるのは、国家主権と国民統合の少なくともどちらかひとつに危機があるときだと評者は考える。この二つは、対西洋のみならず、さまざまな対外関係、あるいは災厄などの事件によっても揺さぶられる。現在のコロナ禍で国家の存在が大きくなっているのもそれが理由だろう。そう考えると、本書では、私たちが生きる現在は、現段階ではポスト国家的段階と名付けられているが、この後に循環的に国家的段階がやってくるかもしれない。本書は現在という足下まで歴史を描いている。それもあって、この通史は単なる過去ではなく、現在進行形でもあるから、その結論は断定しえない。むしろこの歴史をどう引き受けて、この先にどう繋ぐのかを私たちに迫る。刊行された時代を生きる私たちに、過去を遠望させるだけでなく、当事者としてこの先を考えるよう喚起する。本書はそのような喚起する通史となることに成功している。

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書誌
著者:日埜直彦
書名:日本近現代建築の歴史──明治維新から現代まで
出版社:講談社
出版年月:2021年3月

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林憲吾
建築討論

はやし・けんご/1980年兵庫県生まれ。アジア建築・都市史。東京大学生産技術研究所准教授。博士(工学)。インドネシアを中心に近現代建築・都市史やメガシティ研究に従事。著書に『スプロール化するメガシティ』(共編著、東京大学出版会、2017)、『衝突と変奏のジャスティス』(共著、青弓社、2016)ほか