最初の住民たち──晴海高層アパート112号室

連載:遺跡としての晴海団地(その3)

佐々木俊輔
建築討論

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遺跡として見る

「彼はあたかも『遺跡』のような姿で立っている」──15号館(晴海高層アパート)ができて間もないころ、川添登は『新建築』に壮大な評論を書いた。彼は人類学者のトール・ヘイエルダールに倣い、星空の下で文明の時間を考えようとしたのだった。「晴海アパートは、そこに今後何十年建っているだろうか」と川添は言った。「現在の歴史の進行は、どんなに少くみつもっても、10年が過去の1世紀以上に匹敵するだろう。すべては大きく変貌し、変わらないのは星空だけかも知れぬ」。晴海に初めての高層アパートが屹立したとき、彼は早くもその終わり方に思いを馳せていた。

というのも、15号館は表面の大半がコンクリート打ち放し仕上げだったため、新築にもかかわらず何か風雪に耐えたような印象があり、建設現場にいた鳶職の世話役も「しかしこの建物は不思議な建物ですよ。出来上った時から、もう10年も経ったような貫禄がありますからね」と話した★1。逞しいそのアパートが遠い未来にまで残された姿を川添は想像した。とはいえ、どんな文明にもやがて終わりが訪れる。だから、「千年、万年の後には偉大な廃墟となり、遺跡となるであろう建築あるいは都市。そのようなものこそ、真にわれわれが目指し創ろうとしている建築や都市なのである」。

結論から言ってしまえば、15号館は竣工からわずか39年後に解体されたため、川添の言う遺跡になることはできなかった。彼の考えでは、人間がつくり出した岩石──鉄筋コンクリート──は大自然を改造するものであり、文明が滅びたあとにもアクロポリスのごとく大地の上にがっしりと立っていなければならなかった★2。15号館の解体からさらに24年後、島に晴海団地の痕跡はほとんど残されていなかったが、それでもなお遺跡として見ることはできるとわたしは思った。ただし、川添とは逆に、人工物が長い時間をかけて朽ちていき、やがて自然と混ざり合っていく過程として眺めるのである。

図1:「遺跡」のような姿で立つ、竣工からまだ間もない晴海高層アパート。平山忠治撮影、前川建築設計事務所提供。

時間を戻そう。高層アパートがやってきた当時の島はようやく開発が始まったばかりで、広大な野原の上に近代的なアパートが群島のように浮かんでおり、ガイドブックも「晴海島には沢山のアパートが立ち並び、東京港につき出した小都会といえるようだ」とどこか含みのある説明をするほかなかった★3。実際、晴海団地ができてから島の人口は4倍に急増したものの★4、深夜にはタクシーの運転手すら行くのをためらうへんぴな場所でもあったのだ★5。そこではどのような日常が営まれていたのだろうか? 最初の住民たちの話に耳を傾けてみよう。

図2(左):1958年──築地上空から晴海通りに沿って東京湾岸の島々を見渡すと、突き当たりにフロンティアが現れる。そこには空に向かって突き出した小都会の姿が……。中央区立京橋図書館提供。
図3(右):1962年ごろの晴海。雑多な都心をよそに巨大スケールの開発が進む。中央区立京橋図書館提供。

晴海通りをゆく

加藤夫妻が晴海団地に越してきたのは15号館が竣工したばかりの1958年11月3日のことだった。62年7カ月と7日後、加藤幸子は「15号館はすてきなうちだったねえ」と振り返った。「立派な、がっちりした建物でね。壁なんかは何も塗っていなくて、石みたいだった」★6。どこか上品な雰囲気の漂う彼女は、数字については人一倍厳しく、長いときを経てもその記念すべき日を正確に口にすることができた。それもそのはずで、彼女はずっと店の帳場を任されてきたのである。築地市場のあの扇形に連なった水産部仲卸売場で目利きたちから一目置かれてきた西秀商店は、彼女の財政管理なしには存続し得なかった。テオドル・ベスターの観察によれば、築地市場で帳場を任された女性たちは奥に控えているように見えながら、実は市場のビジネスを回していた★7。干物を扱うその仲卸を支え続けた加藤幸子も例外ではなかった。

彼女の夫──加藤泰蔵が西秀商店を創業するに至るまでにはいささか複雑な経緯があった。15号館に越してからしばらくのあいだ、加藤泰蔵はかれこれ10年以上も尽くしてきた築地のとある干物屋を継ぐことになると信じていたし、彼の苦労を間近で見てきた妻の幸子にしても、その見通しに疑いを挟むことはなかった。なにしろ、その店の主人には娘しかおらず、跡取りといえば店の商売を知り尽くした彼以外にいないように思われたのだ。実際、店の主人は事あるごとに「泰蔵はうちの息子だ」と喧伝し、加藤泰蔵のほうも「親父」と呼んでそれに応えた。「親父」の気分がころっと変わったのは、彼の娘が結婚して婿養子を迎えることになったからだった。彼は無情にも、昨日まで息子と呼んでいた若者に「出ていけ」と告げた。「婿に跡を継がせる。お前はおれの店から出ていけ」。★8。

それは15号館に越してから8年後──1966年のことだった。加藤幸子は来る日も来る日も泣き続け、加藤泰蔵は慕ってきた「親父」と大喧嘩をし、やがてその店と決別した。そして彼は築地市場内にあった西秀商店という名の仲卸店舗を屋号ごと買い取り、そこで新しいスタートを切ることにした。2DKの自宅がずいぶん大きく見えるほど狭い店だったが、1億5千万円もしたため、その後の2人は死に物狂いで働かなければならなかった。世界でも最大級のその市場に店を構えてからというもの、加藤泰蔵が晴海の家を出るのは決まって午前2時だった。彼の家は1階の道路沿いにあったが、暗がりの中で鍵穴を探っていると「きみきみ、何をやっているのかね」と警察官に職務質問をされた。加藤泰蔵はほっかぶりに長靴という出で立ちだったので、泥棒にしか見えなかったのだ。「いや、家を出るところなんです」と彼はたびたび説明する羽目になった。

図4:1階住戸の玄関は北側の道路に面していた。なお、円筒形の奇妙な構造物は2階住戸の勝手口へアクセスするための螺旋階段である。平山忠治撮影、前川建築設計事務所提供。

晴海通りを北上して彼は仕事場へと急いだ。築地市場へは川を2つ越えて行かなければならなかったが、距離にすると1キロメートルと少しだったので、晴海団地はそれなりに便利な場所と言えた。東京湾岸の島々はまだぐっすりと眠っており、勝鬨橋から望めるはずの東京タワーも闇の中に姿をくらましていた。市場に到着すると、加藤泰蔵はせり場にぎっしりと並べられた水産物の下見をした。一方、川を2つ挟んだ島の家では彼の妻が子どもたちの朝ご飯を準備しており、彼女は午前5時半になると家を出て築地に向かった。1時間後には買出人たちが西秀商店を訪ねてくるので、その準備をしなければならないのだ。ちょうど彼女が薄明かりの晴海通りを急いでいるとき、市場ではせりの開始を告げるベルが鳴り響き、怒号とせわしない指の動きとの応酬が始まった。

図5:朝の築地市場。高橋利治撮影、1962年ごろ、中央区立京橋図書館提供。

命助かったあとで

西秀商店の営業はいつも午前中に終わったが、加藤泰蔵が晴海通りをまっすぐ帰ることはめったになかった。たいていは長靴を履いたまま、5人の仲間たちと銀座に繰り出して日が暮れるまで飲み歩いた。だから、彼はそこに住んでいたにもかかわらず、巨石のような15号館が太陽のもとで輝くのをあまり目にしなかったのだ。日が昇っているあいだは家にいないので、近所づきあいもないに等しかった。それよりも、市場の仲間たちと良好な人間関係を維持することのほうが彼にとってははるかに重要だった。銀座に繰り出すとき、彼は右も左もわからずに三越の前で干物を売っていた、あの若き日のことを思い出したに違いない。当時17歳だった彼は、元はと言えば東京に留まるつもりなどなかったのである。

1930年──北海道空知郡に農家の次男として生まれた彼は、ときが流れて14歳の暑い日に特攻隊に志願した。「長男は跡取りだからダメだ。でもお前は行っていいぞ」と父親が言うので、自ら願い出たのだった。「東洋平和のためならば なんで命が惜しかろう」★9という歌を聞いて育った彼にとって、それはさほど不自然なことではなかった。けれども、入隊が予定されていた8月20日を迎える前に戦争は終わったので、「ああ、命助かった」と思って彼は笑った。75年9カ月と20日後、同じ笑顔で昔を振り返りながら煙草をくゆらせる男性の姿があった。彼は苦労人には違いなかったが、それ以上に、どこまでも前向きな男に特有の爽快さを持ち合わせていた。「で、東京に出てきて開きもんの小売りをやったんだ」と彼は言った。

それは終戦から2年後──1947年のことだった。もっとも、彼は東京見物のつもりでやってきたのであり、戦争中に北海道に疎開してきて彼の姉と結婚し、戦後、東京に戻ったその干物屋の主人に手伝いを頼まれなければ、まっすぐ故郷に帰っていたはずだった。若き日の彼は築地でリアカーに干物を積み込むと、銀座の三越前までそれを売りに行った。向かいの服部時計店は接収されてPXと呼ばれる進駐軍専用の売店になっており、通りには米兵を乗せたジープが行き交っていた★10。食糧管理制度下にあって、配給以外の食べ物を流通させるのは違法だったため、運が悪いと警察官が飛んできて残った干物をすべて没収した。「まあ、ひどい世の中だった」と加藤泰蔵はのちに振り返った。「あいつら、金払わないで持っていって、何をしていたんだろうね。食ってたのかな」。4年後の年末にはGHQの指示を受けた東京都が露店を根こそぎにしたので★11、加藤泰蔵はやむなく銀座から7キロメートル離れた三ノ輪まではるばるリアカーを引かなければならなかった。銀座通りの真ん中に伸びる都電本通線の軌道に沿って進んでいると、警察官に止められて罰金を取られた。「馬鹿な話だよな、まったく」。

図6:1947年3月の銀座通り。中央区立京橋図書館提供。

当時は加藤泰蔵も干物を売るばかりで、魚の開き方はまだ知らなかった。数年ののちに出会うことになる女性が彼にそれを教えたのだ。裸一貫で東京に出てきた加藤泰蔵と違い、彼女は若くして父親の高い技術を受け継いでいた。1931年──静岡県沼津市に彼女が生まれたとき、彼女の家は既に若い衆が十人ほどもいる干物の開き屋であり、昼になると全員分の寿司を取るほどの繁盛ぶりを見せていた。発明家気質だった彼女の父親は、より高い品質の干物づくりを目指して乾燥機の開発に没頭し、回転する羽根で指を失いながらもそれを完成させ、日本の干物製造技術の向上に一役買った。そんな父親のもとで干物の英才教育を受けて彼女は育った。彼女がのちに加藤泰蔵と出会うことになったのは、彼の働いていた干物屋の店主が沼津まで品物を取りに行ったためである。

島への移住

2人を結びつけたのはとりもなおさず干物だった。あるとき、「お前にちょうどいいのがいるんだが、会ってみねえか」と店の親父に持ちかけられた加藤泰蔵は、遠く沼津に住むその美しい女性と対面し、やがて「日本橋に立派なうちをつくってあるからいつでも嫁に来い」と豪語した。1958年2月22日に彼女が心を躍らせながら上京してみると、当の日本橋の家はどういうわけか差し押さえられており、2人は築地の干物屋の六畳一間に居候するほかなかった。「だからすんごい苦労したの」と加藤幸子はのちに振り返った。晴海団地に越すまでの254日間、彼女はその家の「女中仕事」に従事した。お腹には子どもがいたが、ばたばたと階段を上り下りするうちに足を踏み外し、子どもは逆子になった。そのうえ家屋は木造のおんぼろだったため、夜になると体中をダニに刺された。

加藤夫妻の生活様式が突然に近代化したのは、紛れもなく15号館に移り住んだその年の11月3日のことである。とはいえ、晴海団地の中でも15号館は特に家賃が高く、2人にとってはそれなりに背伸びをしなければ手の届かない物件だった。15号館の家賃は月額9,600〜13,500円に設定されていたが、当時のサラリーマンの平均月給はおよそ16,000円であり、65年を経た現在の感覚で言えば月額18〜25万円の高級賃貸物件を借りるようなものだった★12。だから、2人が島に移り住んでまず驚いたのは、そのモダンな高層アパートの住民が金持ちばかりだったことである。医者や弁護士、教授、芝居のディレクター。有名な女優もいた。ただし、彼らの多くは4、5年もするとどこかに家を新築してあっという間に島を出てしまった。

図 7〜10:「銀座に近く東京港を望む10階建てアパート」──晴海高層アパートの入居者募集パンフレットには端的にこの物件の特徴が記され、配置図や平面図も公団らしい正確さで示されている。間取りはすべて2DKだが、非廊下階のA型、廊下階のB型、1階のC型にはそれぞれ特徴がある。特にA型、B型では北側に台所があるのに対し、C型では南側に台所が配置されている。加藤夫妻の112号室は平面図Cを左右に反転したC2型であった。UR都市機構 集合住宅歴史館提供。

干物の商売で生計を立てていたその新婚夫婦の部屋は1階の112号室だった。1階と2階の2つの部屋が当たったので、2階に住むという選択肢もあったのだが、加藤夫妻は「子どものためにはきっと1階がいいだろう」と考えて112号室を選んだ。というのも、15号館の前には広々とした共用の庭が設けられており、1階の部屋はそこと地続きになっていたのだ。南側の掃き出し窓の前は小高い芝生で、数年後には子どもの遊び場になった。また、玄関は北側の道路に面していたので、エレベーターや階段、共用廊下といった複雑な経路を辿ることなく家に入ることができた。112号室の間取りはちょうど「田」の形をしており、板の間と和室がそれぞれ2室ずつあり、玄関近くの板の間に浴室とトイレ、遠いほうのそれにステンレス製の流し台が設えられていた。加藤幸子は日本家屋の面影の残るその室内をさほど立派とは思わなかったが、何はともあれ鉄筋コンクリートでつくられた強靱な躯体を頼もしく感じた。

彼女は、家といえば帰って寝るだけの場所だった彼女の夫よりも、いくぶん多くの時間をその112号室の中で過ごしたのだった。若かった彼女は近代的な暮らしにすぐ馴染んだが、さまざまな人が島にやってきては驚きの目で15号館を見上げるのを楽しげに眺めた。何やら建築に詳しそうな外国人の姿は年中認められたし、公団住宅に初めて採用されたエレベーターは意味もなく上がったり下がったりする人たちであふれた。彼女自身は初めからすんなり使えたとはいえ、家の洋式トイレもしばらくは訪問者たちを戸惑わせた。沼津の実家から来た若い衆の1人は、どうしていいのかわからず遠くの公衆便所まで駆けていく始末だったし、同じく加藤幸子の姉は便座の上で和式のスタイルを再現しようとした挙げ句、「ぐらぐらしちゃうから押さえて!」と叫んだ。

共有地

ときが流れてその歴史的な高層アパートが解体されると、とてもすてきだったに違いない1階の居住空間は次第に忘れ去られていった。自戒を込めて言えば、かつて設計者が描いたピロティの夢があまりにも魅力的だったため、設計期間よりもよほど長いあいだ営まれた日常の風景はほとんど顧みられることがなかったのだ。ル・コルビュジエがマルセイユのユニテ・ダビタシオンでやってみせたように、前川國男も15号館を地面から浮かせ、地上レベルを公共空間とすることを目論んだ。しかしその案は採算が合わないという理由で却下され、やがて1階にも中央ホールを除いて住宅が詰め込まれたのだった★13。そういったわけで、101から117という数字の振られたその家々(ちなみに111号室は欠番である)は設計上の不幸な失敗とみなされ、積極的には語られない対象となったように思われる。

だから、加藤夫妻の112号室が実は15号館全体の共有地として機能していたのだと言ってみたところで、信じる者は誰もいないかもしれない。112号室の南に向いた和室には赤い絨毯が敷かれており、そこによく近所の子どもたちが集まっていた。彼らは玄関ではなく、和室の向こうに張り出したコンクリート製のバルコニーから直接上がってきたのである。バルコニーは15号館の前に広がる共用の庭と繋がっており、バルコニーと和室とを隔てる木製の掃き出し窓はいつも開け放たれていた。特に112号室は中央ホールのすぐ隣に位置していたため、15号館に住む子どもたちが頻繁に出入りした。「戸なんて閉めないもんね」と加藤幸子はさも当然のことのように言った。「おばちゃん、トイレぇ」と訪ねてくる子がいれば112号室の洋式トイレは共用のそれと化し、「水飲みたいー」と言う子がいれば112号室の水道はやはり共用のそれと化した。

夏になると庭にビニール製のプールが用意され、子どもたちが次々にやってきてはばしゃばしゃと遊び、112号室に上がって休んでいった。実質的にリビングルームとして使われた赤い絨毯の部屋はもはや集会所の様相を呈していた★14。巡回中の警察官の姿を見かけると、加藤幸子は「ちょっとお茶を一杯、飲んで行きますか?」と家の中から声をかけ、「いやあ、すみませんね」と巡査は赤い絨毯の上に腰かけた。ピロティの挫折によって語るべきところがなくなったように思われたその地表近くには、実に複雑な風景が刻まれていたのである。のちにロジャー・シャーウッドが指摘したところによれば、マルセイユのユニテ・ダビタシオンよりも高密度な都市環境に置かれた15号館は、ピロティがないことでむしろ「壁としての持ち味によって、建物とそのまわりの空間を組織づける力をもっている」★15。その意味では、「壁」に細かな変更を加えた住民たちはみな彫刻家としての役割を担っていた。

じきに日が沈み、112号室の赤い絨毯の上で休んでいた人々はバルコニーから外に出てそれぞれの家に向かうだろう。間もなく反対側の玄関からその家の主が帰宅し、彼の家族が板の間で出迎えるだろう。彼が魚の匂いの染みついた長靴を脱いでいると、妻が「どこに行ってたの?」と聞く。そして夫はきまりが悪そうに「銀座」と答えるのだ。■

図 11:複雑な風景が刻まれ始めた晴海高層アパート。中央ホールの左隣に位置する112号室では軒下と庭をフル活用して洗濯物が干されている。平山忠治撮影、前川建築設計事務所提供。

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★1:野々村宗逸「いつまでも豊かさを」、『建築文化』1959年2月号、彰国社、47‐48頁。
★2:川添登「晴海高層アパート──将来への遺跡」、『新建築』1959年2月号、新建築社、21‐22頁。
★3:『観光お国めぐり 東京都の巻(上)』、国土地理協会、1959年、37頁。
★4:1957年1月1日時点の晴海の人口は565人。3年後の1960年1月1日時点では2,269人だった。東京都中央区役所編『昭和32年版 中央区政概要』、東京都中央区役所、1957年、13頁。東京都中央区役所編『昭和35年版 中央区政年鑑』、東京都中央区役所、1960年、13頁。
★5:志摩圭介「団地ずまい礼讃」、『新しい日本 第2巻 東京(2)』、国際情報社、1963年、43頁。
★6:2021年6月10日、加藤幸子に対するインタビュー。以下、加藤幸子の証言と描写は同日のインタビューに基づくものである。
★7:テオドル・ベスター『築地』、和波雅子、福岡伸一訳、木楽舎、2007年、161‐164頁。
★8:2021年6月4日、加藤泰蔵に対するインタビュー。以下、加藤泰蔵の証言と描写は同日のインタビューに基づくものである。
★9:「露営の歌」、籔内喜一郎作詞、古関裕而作曲、日本コロムビア、1937年。
★10:赤岩州五編著『銀座 歴史散歩地図』、草思社、2015年、92頁。
★11:東京都中央区役所編『中央区史 中巻』、東京都中央区役所、1958年、659‐661頁。
★12:1958年のサラリーマンの平均月給は16,608円。一方、2022年時点でのサラリーマンの平均月給は311,800円。労働大臣官房労働統計調査部編『昭和33年 賃金構造基本調査結果報告書 特別集計』、労働法令協会、1960年、18頁。「賃金構造基本統計調査」、厚生労働省ウェブサイト。URL=https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/chinginkouzou.html
★13:「設計者インタビュー 1 大髙正人」、住宅・都市整備公団、日本建築学会編『晴海高層アパートの記録』、住宅・都市整備公団、1996年、223‐224頁。大髙正人、小西輝彦、小林秀樹「昭和の集合住宅史(6)高密度高層住宅 広島市営基町住宅と公団高島平団地」、『住宅』1992年3月号、日本住宅協会、47頁。
★14:なお、本当の集会所は15号館の敷地の隅に存在していた。
★15:ロジャー・シャーウッド編『建築と都市 臨時増刊 現代集合住宅』、エー・アンド・ユー、1975年、60頁。

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佐々木俊輔
建築討論

ささき・しゅんすけ/作家、ライター。1983年広島県生まれ。2015年より都市制作室主宰。団地や高架下など、人の日常が集積する場所を「小さな都市」と見立て、取材・執筆を行う。ポートレート撮影=浅野堅一