木地師の領域へ

連載:山七合目より上の世界──氏子かり帳に記される木地師の生活領域(その1)

原田栞
建築討論
Jan 26, 2023

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山人の世界観

轆轤(ろくろ)やその他の道具を用いて木工品を生産していた木地師の多くは、移動の制限があった江戸時代においても、材料となるトチ・ブナ・クリなどを求めて山中で移住を繰りかえす生活を送っていた。ちょうど良い太さの原木を伐って、割り、轆轤にかけて椀や盆の木地(漆などの塗料を塗る前の、白木のままの木材・指物・器物)をつくるが、周辺一帯の木を伐りつくしてしまうと、また原木を求めて移動する。彼らは所有する”由緒書”により、「山七合目より上の自由な木々の伐採」を許されていると語り、また山の民として平地の街道とは異なる、独自の交通網を持っていた。

図1 垂直方向に世界を区切る視点

俯瞰した視点で、はっきりと境界が引かれた地図に慣れている人にとって、山の七合目より上、という空間表現は曖昧で不思議な感じがするが、同時に、植生区分のように垂直方向に世界をくぎる視点は新鮮で魅力的だ。水田が広がる平地では街道上に関所が置かれ、人々の移動が制限されていたが、それより少し高いところに広がる落葉広葉樹林帯では、木地師たちが能動的に移動しながら暮らしていた、ということなのだろうか。そうだとしたら、彼らの世界はどのような姿をしていたのだろうか。

写真1 東京都西多摩郡檜原村の落葉広葉樹林帯から関東平野を望む(撮影:筆者)

しかし、この予感を確かめるべく木地師に関する資料を集めてみても、彼らの生活領域を具体的に示すものはみつからない。木地師は全国各地の山奥深くに分散していて、さらに為政者にとっても少数派であったためか、その空間に関する直接的な記録は残されていない。加えて、明治維新以後には木地師の定住化が進んだことから、移住生活そのものも既に失われてしまっている。

位置情報としての「氏子かり帳」

すでに失われ、直接的な記録もないとなると、その空間は永遠に失われてしまったかのように思われる。だが、江戸時代の木地師には職能集団としての全国的なネットワークがあり、また彼ら独自の人別帳とも言える「氏子かり帳」が残されていた。

図2 氏子かり帳の例(出典:永源寺町史編さん委員会『永源寺町史通史編』2006)

これは、木地師ネットワークの中心地であり、その管理を担っていた小椋谷(現在の滋賀県東近江市蛭谷町・君ヶ畑町)の人物が、約10年に一度各地の山中を巡り、同業者の一員として保護する名目で木地師から金銭を徴収した際につくられた記録だが、同時に、木地師たちの所在地についてもその都度記録された。

図3 小椋谷の位置(地理院地図をもとに筆者が作成)

この記録は、17世紀初頭から19世紀中頃までの250年にわたり、一部不定期ながらも継続して記録がとられているため、木地師という生業を共通にした人々が生活した場所に関する定点観測になっている。あくまで金銭のやりとりとその内訳が主な記録内容である中、補足的に記された位置情報が、木地師の生活領域に関する偶然の資料となっているのではないだろうか。

図4 氏子かり帳に記録される情報の基本の構成 ★1

大まかな時間と、具体的な位置情報に関する記録がこれほどに残されているならば、この情報はすでに先行研究として地形図に落としこまれ、考察されているのではないかと想像できる。しかし、意外にも氏子かり帳の情報は、各地域ごとの木地師の人口グラフのようなものや、氏子かりの回数についての表として整理されることはあっても、詳細な位置情報に注目したものはほぼ存在しない。これは、各研究分野によって、視点や情報の整理の手法は異なるためであるから、まずは先行研究を簡単に整理する。

木地師研究は明治以後に始まり、最初にとりあげたのは柳田國男で、著書『史料としての傳説』の中で木地師を例にあげ、伝承や伝説を史料として扱う方法論を展開した★2。 次に柳田の影響を受けて歴史学者である牧野信之助が木地師研究を行い、免許状、宗門手形、往来手形、印鑑、木札、轆轤の考案者(伝承)として神聖視された惟喬親王の御縁起、綸旨などの「木地屋文書」と総称される資料を発見し、その評価を行った★3。 牧野はこの木地屋文書の多くを偽文書として判断し、これは現在でも多くの研究者に承認されているが、当時部分的に発見されていた「氏子かり帳」に関してはその信憑性を認めている。

その後さらに多くの「木地屋文書」が発見され、「蛭谷氏子かり帳」を杉本壽が、「君ヶ畑氏子かり帳」を橋本鉄男が翻刻し、それぞれ『木地師支配制度の研究』★4、『木地屋の移住史 第一分冊君ヶ畑氏子狩帳』★5 として出版されている(「蛭谷氏子かり帳」と「君ヶ畑氏子かり帳」の違いについては次回説明する)。杉本は全国的な規模で木地師を研究した最初の研究者で、専門である農業経済学の視点から、独自の分析を数多く残している。また、橋本は滋賀県と東北地方の木地師についての論文を民俗学関係の雑誌に投稿している。

こうして発見された「氏子かり帳」の内容とフィールドワークで得られた情報をもとに、歴史地理学者である渡辺久雄(以降渡辺)が但馬木地師のムラの位置比定を行い、中国山地での「氏子かり」のルートを一部特定した★6。 これは、それまでに発見された資料をもとにした木地師の生活領域を明らかにする研究であったと言える。しかし、研究の対象地域は中国山地に限られる。

図5 中国山地の廻国ルート 出典:渡辺久雄『木地師の世界』1977

点群を空間を構成するものとして見つめる

このように、木地師研究は民俗学に始まり、農業経済学の分野でその同業者組織としての全体像に触れられた後、歴史地理学の分野によって部分的に位置情報が扱われ、地図に落としまれている。それぞれの分野と視点で研究が深められてきているが、氏子かり帳の全ての位置情報を地形図に落としこんだ研究はなされていない。ならば、今度は都市・建築の分野の視点から、これらの蓄積された情報を縮尺を用いて整理し、その空間と領域について考察するべきなのではないだろうか。

渡辺にならい、得られた過去の位置情報を地形図にマッピングするというシンプルな方法を用いるが、渡辺が研究を行った1970年代とは違い、実際に明治初期まで木地師として移住生活を送った人物に会って話を聞くことはできない。そのため、渡辺がフィールドワークの成果を補うかたちで氏子かり帳を用いたのに対し、私は氏子かり帳そのものを主な資料として研究を進めることになる。そのため、木地師の生活領域を完全に再現するということではなく、氏子かり帳という資料に記録された範囲での、木地師の生活領域を可視化することを試みるというかたちになる。

マッピングした位置情報としての点群は、日本列島全体を眺めるような縮尺、地方ごとの脊梁山脈にクローズアップするような縮尺、そして個々の木地師の移動が観察できるような縮尺、と大きく3段階のスケールで分析し、その後、その一つ一つの位置情報としての点がもつ性質の分類や、垂直分布図を用いて、多角的な視点から考察する。

図6 マッピングした位置情報のスケール別の考察 ★1

少数派の空間史

しかし、いざ都市・建築の分野をふり返ってみると、稲作を経済の中心とする多数派としての定住者の集落、城下町などの生活空間は当然に研究されてきているのに対し、山岳民や漂泊民などの少数派の生活空間はその対象となってきていない。現状、定点観測をした際に動いてしまうものは、地図上では存在しないことにされてしまっているように思える。実際、木地師やその他山岳民、漂流民などは、民俗学的視点からその習俗に重きを置いた研究・資料は残されているものの、その空間は実体として扱われてきていない。多数派の陰に隠れてしまっている数多くの生活とその空間の存在を認識するためにも、そのうちの一つとして、木地師たちの「山七合目より上」の世界を可視化し、考察していきたい。

図7 木地制作の様子 出典:富田礼彦『斐太後風土記下巻』1916

その上での注意点として、この連載では移住性を有する少数派の生活領域について扱うが、マジョリティから見た外側の暮らしとして扱うのではなく、あくまで木地師たちから見た日本列島がどのようなものであったかについて明らかにすることを試みる。木地師たちは誇り高く、自らを「くろうと」、その他を「しろうと」と呼び区別していたが、この連載においても主役は木地師であり、その他は脇役である。

また、柳田國男も「木材工芸に従事することと諸国山地の移動とは必ずしも相伴わねばならぬ理由はない」★2 と述べているように、移住生活を送る木地師は多く、特徴的であるものの、それは木地師の多様な生き方の一つでしかなく、非定住であることは木地師の定義のうちには入らない。職能集団として、その中には役割の違いから生じる複数の生活様式があり、地域性や個性がある。複雑でありながら、生業を中心に構成された独自の社会のかたちとあり方について、次回以降、標高を意識した図を用いながら紹介していきたい。■

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★1 永源寺町史編さん委員会『永源寺町史 木地師編 上下巻』(永源寺町,2001)を参照
★2 柳田國男 『史料としての傳説』(村山書店,1957)
★3 牧野信之助 『所謂木地屋の根元に於ける資料について』(歴史と地理,第21巻1–4号,1927)
★4 杉本壽 『木地師支配制度の研究』(ミネルヴァ書房,2008)
★5 橋本鉄男 『木地屋の移住史 第一分冊君ヶ畑氏子狩帳』(民俗文化研究会,1970)
★6 渡辺久雄 『木地師の世界』(創元社,1977)

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原田栞
建築討論

原田栞 Shiori HARADA /1995生まれ。東京芸術大学大学院光井研究室修了。設計事務所勤務