東京を「広場」と「壁」から考える──大都市における権力と空間

御厨貴(聞き手:松田達)/Takashi Mikuriya: Considering Tokyo from “Square” and “Wall” — The power and the space in the metropolis / Interviewer : Tatsu Matsuda

御厨貴
建築討論
37 min readAug 31, 2019

--

御厨貴『権力の館を歩く』(毎日新聞社, 2010年/ちくま文庫, 2013年)

──今回の建築討論の特集では「都市と政治──「壁」と「広場」から見えるもの」をテーマにしています。世界が「接続」から「分断」へと向かっているような空気感が、2010年代後半からみるみるうちに可視化されてきたという危機感が、このような特集を組まなければいけないと思った背景にあります。

御厨先生は『権力の館を歩く』や、まとめられた『建築と権力のダイナミズム』において、「建築と政治」の関係を多様な形で問われておられます。その延長線上のひとつとして、今回「都市と政治」の関係について、可能であれば「広場」と「壁」についても触れてお話頂ければ幸いです。

「壁」のない東京における「所払い」と「入府税」

御厨:趣旨はわかりました。その「広場」と「壁」という話を聞いてすぐに思ったのは、自由民権運動のことです。自由民権運動っていうのは、とにかく藩閥政府に対する運動でしたから、それなりに政治的な力を持っていた。権力の側からすると、そういう政治運動を排除することは、現在でも難しいわけですね。そこで政府は明治20年(1887年)12月に保安条例を発布して、自由民権運動、つまり反体制運動をやっている連中を、東京から一斉に退去させるという政策を実際に行うわけです。東京の中心である皇居から三里(約11.8km)以遠に自由民権派の人物を追放し、その連中がまた影響力を持つと大変だから、3年間そこから内側には入っちゃいけないということを行った。つまり「所払い」ですよね。

ところが、これが成功したのかどうかわからない。というのは、パリのように城壁があって区切りがあるところだったら、門のところだけ関所みたいなものをつくって入らないようにしていればいいんだけど、東京なんて何にもないところで三里四方に追放したとしても、そんなのその日のうちに戻ってくるんじゃないかと思うわけですよね。あれは一体、何であったのか?東京というのは、特に近代都市になってから、内と外を分け隔つとかいう発想はなかったと思うわけです。だから所払いで追放された連中は、もし見つかれば追放されるけど、戻ってきてもそんなの分からないじゃない。それからは議会を開設し政党を発展させるための運動に変わっていくわけだけど★1、江戸や東京で所払いをやるという、ちぐはぐさの面白さがあります。

さらに当時の政策では、東京がいわゆる市区改正をはじめとした都市整備をしていこうとする時に、入府税を取ろうという話になるわけね。東京府として。東京に入ってくるいろいろなものに税金をかけようとする試みがこの時期にあるわけだけど、これがパリだったら城壁があるから、そこから都市改造のお金をひねり出すことが出来るわけですよ。結局、入府税はやらないことになるんだけど、最大の問題は「壁」がないからですよ。いくら関所をつくっても、どんどん人や物が入ったら意味がない。にもかかわらず、所払いといい入府税といい、そういう西洋的な発想を日本で考えた。うまくいくと考えたのか、そういうものが出来ないことをそこで確認したのか、それは分かりませんけどね。

東京の皇居近辺航空写真。1979年撮影。帰属: Copyright ©国土画像情報(カラー空中写真), 国土交通省(出典:日本語版Wikipedia「皇居」より

もちろん、宮城つまり皇居は、周りがとにかく水で囲われているので、そこは隔絶されているといえば言えるんだけれども、明治のはじめのこうした出来事以降、境界をつくってこちらから中には入れないようにするという発想は、基本的に東京にはなかったような気がしますね。

日本という「壁」のない国

だから治安の面でも東京が大変なのは、そういう区切りがあるところであれば、出入口が集中するから、そこで起こった物事をおさえればいいんだけど、ないもんね。これはある意味、日本全体と関わるところがあって、そもそも日本というのは大陸国ではなくて、島国ですからね。日本と他所の国を遮るのに「壁」がない。あるとしたら海の「壁」。要するに、海を渡ってこれるかどうかという問題になる。

江戸時代になぜ鎖国が出来たのかというと、海を渡ってくるやつがたくさんはいないからです。しかも日本の周りは荒れている海が多いし、時化なんか起きると、あっという間に船がだめになっちゃうでしょ。だから他所から人が入れない。天然の要害といわれて、これで日本は守られていた。ところが、明治維新の頃になると蒸気船が出来ているから、海に囲まれた日本では、これだと逆にどこから入ってくるのかわからないわけですよ。日本には海しかないから、「壁」を建てられない。

「北緯50度の国境標柱と日本の国境警察隊員」, 1956年12月31日までに公表された。(出典:日本語版Wikipedia「樺太の戦い (1945年)」より

だから日本を守るために「壁」で遮るという発想は、事実上ずっとできないわけです。大日本帝国時代に、唯一、陸と陸のあいだで国境を接したのは樺太ですね。日露戦争の後に南樺太が日本のものになった。樺太はもともとロシアですから、南北のあいだを区切った。その区切りをどうしたのかというのは、僕も当時の資料を本格的に研究したことがないから分からないけど、それにしても陸で他国と接したのはそれくらいですよ。だから同じ陸のなかで、向こうとこちらで違うことが起きるということは、日本のなかではない。だから区切るという発想が出てこない。明治の近代化以降も、日本には雑多にみんなが住んでいる状況が、ずっと続いてきたんじゃないですかね。

──大変興味深いです。

皇居前広場における血のメーデー事件

御厨:だから逆に、クレムリンなんかに行ってびっくりするのは、よくもこんなに仕切るものがあるんだということですね。荷物を預けないと入れないとか、実にいろんなことがあるからね。それが政治的になるというのは、まさにそう。

血のメーデー事件(1952年5月1日), 1956年12月31日までに公表された。(出典:日本語版Wikipedia「血のメーデー事件」より

日本の場合、唯一、広場が政治的になったのは、戦後の皇居前広場だけですよ。皇居前広場はね、広場としては結構機能したんです。戦前も白馬に乗った天皇が出てくるということはあったんですが、むしろ人のいない空間にするということに意味があったわけですね。とにかく人がいない空間、だからこそ神秘的かつ偉大な空間をつくり、その向こう側には皇居があり、こちら側には東京があるという、そういう仕組だったわけです。戦後はその偉大なる空間から皇居になだれ込もうとした。昭和20年代に、学生や労働者による人民の運動は、天皇と国民が直接対峙するために、とにかく皇居前で大暴れをするわけですよ。それで車に火をつけたり、乱闘が起きたりするわけです。この乱闘でいちばん有名だったのは、昭和27年(1952年)5月1日の血のメーデー事件ですね。メーデーで皇居前が荒れて、騒がしいことになった。

ただ、その関連でいうと、僕は今回の令和の元号の初日を5月1日にしたということに驚いた。1月1日なら分かる。そうじゃなくても4月1日なら分かる。だけど5月1日というのは、建築や広場の記号論的な解釈からいうと、明らかに皇居前広場が血染めにされた日なんですよ。過激な反体制運動が起きて、火が燃えた。その日にどうして即位の日をもってくるのか?これはブラックユーモア以外の何物でもない。だから不思議だったんだけど、あまり政府はそういうことも考えなかったんだろうね。僕は驚いたと言ったけど、僕が驚いたことにみんな驚いたっていうんだね。そうだろうかね?

だから広場っていうのは、それくらいもう、日本国民の頭のなかから消えているんだね。もちろんさっき言った「壁」もない。要するに「壁」も「広場」も消えている。そういうことが近代日本で起きていたんじゃないかと、そう感じていた。日本は遮るっていうことを、嫌いな国民なんだね。

──象徴的には、門があるかもしれませんが。

御厨:そうそう。門はいろいろあるんだけど、だけど門は遮るってものでもないからね。だから、そういうわけで、いま二つの話を思い出してお話をしたんだけれども、やはりヨーロッパとか他の国とは違うなという気がしますね。なぜそれが違うのかということを考えると、欧米やアジアでも顕著に見られるのは、人種が違うってことだろうね。「壁」っていうのは特にトランプなんかがやっているのがそうだけど、現実的に人種の「壁」になるわけでしょ。だから、ユダヤやイスラエルもそうだったけど、「壁」をつくることによって、人種というものを確実に地域において分断するという、そういうことを行う。でも日本にはそれがないわけですよ。もちろん、日本が一様であるとは言わないし、アイヌがいたり、いろんな人がいるわけだけど、総体として、違う人種を「壁」の向こうに追いやるという発想はないわけね。一言いっておくと、様々な偏見や差別意識から、同じ日本人を隔離するという発想があり、現にその意味での格差のある地域があったことは事実です。だから、江戸が東京になって、東京警視庁という、ひとつの大きな警察が治安の中心になるんだけど、東京を守るっていうのはけっこう大変だったと思うんだ。みんなバラバラに住んでいるし、そこには遮られるものがないからね。まあそういうことを今回のテーマから考えていました。

政党の分裂をつなぎとめた自由民主会館

──都市のでき方も違いますね。パリは城壁をつくってまた壊してという、城壁がメインの歴史ですし。だけど、日本に城壁はない。

御厨:そうそう。日本にはまったくそういうのはないですからね。不思議だけど、違いはそこに見えるものだなと思いましたね。さて、まさに建築と政治、都市と政治について考えるということに関して、もうひとつ話をしておくと、僕は『権力の館を歩く』で、政党本部というものを結構分析しました。そこからの類推で、ひとつ言っておきたいことがあります。

自由民主党本部「自由民主会館」, 帰属: Garam(出典:日本語版Wikipedia「自由民主党 (日本)」より

自民党には自由民主会館という、もうだいぶ古くなったけれども1960年代につくった政党本部があるわけですね。その政党本部が出来ることによって、いわばひとつの政党の生まれついての棲み家というものが特定されたわけです。これがいまに至るまで、自民党本部として続いているわけね。あたり前のことのように思うけど、そんなこともなくて、もし分裂の激しいところだったら、政党本部も変えていかざるを得ないわけですよ。ところが幸いなるかなというか、不幸なるかなというか、どっちだか分からないけど、自由民主党というのは大分裂を起こすことなく来ちゃったから、ここにずっといたことになるわけです。

で、いまはもう辞めましたけど、高村正彦さんという副総裁がいて、たまたま僕は彼の副総裁室で『権力の館を歩く』について話をしたことがあった。その時に高村さんが言ったことは、非常に象徴的な発言で、彼は「権力の館って君に言われて、自由民主会館は、確かにもう古いし不便だし、いろいろあるけど、でも他所の政党に比べて、この自由民主会館があったからこそ、自民党は大きな分裂をしなかったような気がするよ」って言うわけです。つまり「館」あるいは建物というものによって、彼らがやろうとしている政治集団が規定されているわけです。だから結果的に分裂が起きないんだよね、というわけ。ここは全盛期にはみんなが握り飯やカレーを食いに来たところであって、要するに館といいながら、そこでは飯を食わせていた。飯を食わせると、みんな元気になってまた国会に行くという、いわばそういう館だった。こんなものは自民党にしかないわけですよ。

高機能な共産党本部と「電子の館」としての旧民主党本部

日本共産党本部ビル(出典:日本語版Wikipedia「日本共産党中央委員会」より
旧民主党本部(現国民民主党本部)(出典:日本語版Wikipedia「民主党 (日本 1998–2016)」より

もちろん、例えばいま代々木の共産党に行けば、共産党の館っていうのは本当にビルとしては素晴らしい、環境にも配慮された高機能なビルです。そこに食堂もあります。だけど、そこで人々はワイワイガヤガヤしながらっていう感じには全然なっていない。入ってくるときにも誰何(すいか)されるしね。もちろんいまは自由民主会館にも警察が周りにいるけど、昔は誰何されずに誰でも入ったのよ。その時代っていうのは、あっという間に総裁室まで行けたしね。そういうある種の「移動の自由」というものがある空間だった。これは政党としては普通やらない。治安上、危ないからね。でもあの政党は、最後の最後までそれをやっていましたよ。いま共産党なんかに行くと、鍵の管理は厳重にやっていますからね。これはもう、どこでもそうですよ。だけど自由民主会館にはそれがないという、不思議な感じでしたね。

もうひとつ考えるとね、一番新しいところで、もう潰れてしまいましたけど、旧民主党の政党の館は、あの目玉のペンタックスのビルだったわけですね。そのペンタックスのビルを見に行った時に、これは本当に中小企業の入っているビルに中小企業が入ったような感じだと思いました。何かあまり構うところがなくてね。しかも行ってみると、そこに食堂があるわけでもなく、みんなが集まってワイワイやれる空間があるわけでもないんだ。そういうことは必要ないと、民主党の諸君は思っていた。だから、そこに人が集まるんじゃなくて、できるだけ中の電子的な設備、そこから何かを送ったりとか、そういう設備だけはすごくいいわけね。Wi-Fiも入っている。記者がすぐにそこで、全国に記事が打てるようにと。党員もそういうことが出来るようになっているわけです。だから、むしろどちらかというと「電子の館」なんですね。この電子の館があっという間に崩壊した。やっぱり人間的なつながりが、建物のなかになかったんだね。

──ある意味、「広場」にはならなかった。

御厨:ならなかった。「広場」にはならない。うん。そこにみんなが来て、限定的なことをやっては帰っていくという、ある種、「とまり木」みたいなものだったわけね。結局、さっきの自民党のような広場的な役割を果たさなかったわけですよ。だからもう潰れちゃった。だから潰れたっていうと怒るかもしれないけど、まあいまはもうなくなっちゃったからね★2。

日本には「壁」も「広場」もないといった。だけど広場的なものは不思議な存在で、そういう発想からいうと、政治的には自民党のなかにあって、そこでみんながワイワイやれた。その時代の自民党が、自民党としては、まあはっきり言えば黄金時代だったね。いまの自民党にはその元気さはもうありませんけどね。政治がこういうものを持つっていうのは不思議なものですよ。

都市文化への憧れがつくりだした社会党の「社会文化会館」

旧日本社会党本部「社会文化会館」(現社会民主党本部)(出典:日本語版Wikipedia「社会民主党 (日本 1996-)」より

一方、潰れた日本社会党にも、政党本部があった。三宅坂につくったのは1964年。「自由民主会館」に対して「社会文化会館」といった。1996年からは社会党を継いだ社会民主党の会館になり、その後、老朽化して2017年に取り壊されましたけどね。面白いなと思うのは、自由民主党の場合はそのまま名前を使って「自由民主」会館といった。だけど江田三郎が日本社会党の建物をつくったときは、「社会文化」会館といった。上に大きなホールをつくって、そのホールは単に党大会を開くとかだけではなくて、近隣の人たちが来て借りてもよいというホールにした。しかも1960年代当時、そこにスタインウェイのピアノを買って置いたんだよ!スタインウェイのピアノのある会館ってね、広告に出てたよ。だから要するに、本当に「文化」なんだ。そこで音楽会もやりたいと。それは社会党の人のためだけではなくて、いろいろな人のためにね。その頃というのは、とにかく広場的な発想だよね。そこに人を集めたいという話があった。その頃の社会党というのは、その場所を開こうと思っていたんだね。それが社会党の最盛期。そこから後は、みんなスタインウェイのピアノといっても、なんでこんなものを置いたんだっていう話になって、誰も借りなくなった。もう社会党の大会だけをやればいいというビルになって、どんどん社会党は閉ざされた政党になっていく。国民政党から、労働者だけが頑張れよっていう政党になっちゃったから。

──建物の悪さというより、政党の問題でしょうか。

御厨:その建物の使い方が悪かった。スタインウェイのピアノが弾けるところだったら、そこで定期的に音楽会をやったりして、社会党の支持者以外の人も集めるようにしたら、ずいぶん変わったと思うんだよ。それがついに出来なかったんだよね、うん。僕も昔の資料を見ていた時に、スタインウェイのピアノがある会館って見たときには、本当に目が点になったもんね。そんなものが置いてあったんだと。当初、広くいろいろな人に知ってもらおうと「社会文化会館」という名前にした。労働者だけの政党で、労働者だけが集まる、そういう政党本部にしてはいけないということで、もっと開かれたものにするという発想だった。そういう意味で、発想としては握り飯とカレーを出して、飯を食って「エイエイオー!」とやる、田舎っぽいダサい感じの自民党と、都市部に憧れて、みんなで都市文化のなかに溶け込みたいと思った社会党とでは、違いが非常にはっきり出ていたんですよ。いまは政党本部の会館を見ても、もうそんなことはないけどね。そんな時代があったということは、今日のテーマを考える上でも、なかなか面白いんじゃないかと思うんだよね。

──自民党の場合は、それが広場になり、そして権力の源泉になっていったというわけですね。

御厨:そうなる。そういうことなの。だから地方から出てきた人というのは必ず自由民主会館に寄って、そこでみんな部屋に入る。特にあの頃、総裁の部屋も開放されていましたから。みんな総裁室を覗いて、「お、総裁はこういうところに座るんだ」と、座ったりなんかするわけね(笑)。そこで写真を撮ったりして帰るわけね。そういう活気があった。一方、社会党の方は、なんというかもっと高級な演奏会を聞きに来るという、ある種の都市への憧れだよね、そういうものがあった。1960年代というのは、そういう政党というものが夢を持っていた時代だったんだね。高度成長期っていうのは、そういうもの。そういう夢を、やっぱり政治も蓄えていたってことでしょ。

「政治」の全体性を支えた「広場」

──では、政党の分かれ道になるのは、何だったんでしょうか?

御厨:やっぱり江田さんみたいな構造改革派といわれる人たちが、社会党を昔の左翼政党から脱却させようとしたことが、うまくいかなかったからかな。日本の場合は不思議なことに、社会民主勢力というのは育たなかったから、結局その文化と一緒に滅びていった。だんだん左翼が強くなって、いわゆる教条主義的な左翼政党になっていった。自民党と社会党の二大政党といっても、1970年代以降からは、社会党は絶対政権が取れない政党になっていくよね。自民党の場合はいま言ったような、出たり入ったりの楽しさがあった。だけど、それが崩れていくのはやっぱり1990年代以降かな。これまでの大きな派閥が政権を取るという流れが崩れ、誰が次の総理になるのか分からないみたいな。自民党もあの時、小沢一郎さんが出ていって割れ始めたでしょ。割れ始めてそれをまた引き戻して、いまの状態に戻すのに10年かかったからね。この10年の間に自民党は民主党に政権を譲って野党になったし、それでこれまでのような、自由民主会館に人がたくさん来て、うんと飯が出てという、人海戦術の体制ではなくなった。いまはだから本当にその残骸。残骸って言ったら悪いけど、古ぼけた昭和の館になっちゃったんですね。日本の政治が一番元気だった時代っていうのは、そういう政党本部にも可能性があった時代で、そこが開かれていたということは、「広場」の発想につながると僕は思う。

──いまの自民党は、その「広場」がなくても機能はしているということでしょうか。

御厨:まあ、機能はしているんだろうね。さっき高村さんが言ったみたいに、自由民主会館が党員や議員をつなぎとめている唯一のもの、ということになっているわけでさ。社会党の方は、もうとっくに党は潰れ、そして会館もなくなって消え失せたわけですね。

──そうすると、政治にとっても広場的な場所や空間があるということは、非常に重要だったわけですね。

御厨:僕は重要だったと思いますね。そこで自由に議論ができ、なんというか居場所があって、居場所があれば人はしゃべるんですよ。で、しゃべれば自然に政治の話になっていく。そういうところがなくなった。フェイス・トゥ・フェイスで話せる、いま風にいえばカフェみたいな場所がね。それがなくなったというのは大きいんじゃないですか。そういう意味では、政治がそういう広場的なものを失うことによって、政治そのものが本来持っていた機能を失っていったような、そういう感じがしますね。

──「広場」をつくろうと思っても、難しいんですよね。

御厨:そうですね。あの時代だから出来た。いま「広場」をつくろうとか言っても、みんな「え?」って思うでしょ。なんというか、その「広場」が「政治」というものの全体性を支えたんですね。いまは多分、カフェで集まったりとかしても、政治のある部分について、こんな法案を通そうとか、こういう政策をやっていかなくちゃいけないとか、政策論になっちゃって、政治全体の構想とか、やっぱり世の中をこういう風にしていかなきゃいけないよねとか、日本の国ってこういう風にしなきゃいけないよねみたいな議論は、おそらく出ないと思うんだよね。そういうことが出来た時代というものがあって、その時代の広場っていうものは、よかったんだろうねと思いますね。

──そうすると、ある意味、次の「新しい広場」みたいなものを見出した政党が・・・

公明党本部「公明会館」(出典:日本語版Wikipedia「公明党」より

御厨:うん。次はね、それが伸びる可能性があると思いますよ。いまはそれ以外の政党も、例えば共産党本部は、いわばなかで自足できるような、環境的には本当にいいビルだろうけど、そこから何か発展があるというより、みんなそこに安住の地を求める閉鎖された空間ですからね。

それから公明党は公明党で、千駄ヶ谷の裏に党本部の公明会館がありますけど、これもなんていうのかな、もう車でも入れないような狭いところに建っていますから。公明党の議員は、千駄ヶ谷の駅から歩いて来るらしいけどね。そういうところにみんなこもっている、これも閉ざされた空間ですよ。だからそこから何かが生まれるとは、到底思えない。やっぱりそれを市民に開いて、国民に開いて、一緒に何かやりましょうっていう、ある種の楽しさ、それはいまは使わないようなピアノではないと思うし、いまカレーをつくると言ったって人が来るかどうかわからないけれども、何かそういう媒体があって、そこでとにかく話がしやすい場所をどうやってつくるのかっていうことは、これは建築の大問題だね。

新宿における「広場」対「道」という戦い

──いまのお話だと、「広場」はやはり政治的な権力の源泉になるような場所だったと思うんですけど、逆に例えばエジプトのタハリール広場とか、中国の天安門広場とか、台湾の総統府前広場もしかりですけど、広場が権力を反転させる契機になるものとして使われる場合もあるわけですよね。だけど、日本にはそういうものはほとんどなかった。

御厨:ないということですね。まあ皇居前広場くらいかな。それ以外のところには、ほとんどない。だから結局いまも国会の前だって、みんなが集まって抗議行動をするというのは安保以後はないでしょ。それが出来ないようにしちゃったからね。みんな追い出すようにしちゃった。集まらない、集まらせない、というのが基本的にあるから。

現在の新宿駅西口地下広場, 撮影=baijyaku(出典:日本語版Wikipedia「新宿駅西口地下広場」より

もうひとつ類似の事例があるとしたら、1969年前後の新宿ですよ。新宿駅西口地下広場のあの半地下になっているところには、そこに反体制の人たちが集まってフォークソングを歌ったり、演説をしたり、全共闘系の学生たちがたむろしたりという、まあ自由な広場的な機能というのが1969年前後に展開したわけですね★3。だけど、権力の側はそこを、「広場」ではありません「道」ですと言ったわけです。「道」である以上、立ち止まったらいけませんと。要するに「広場」っていうのはそこでみんながたむろする場所だけど、「道」だからたむろしちゃいけないよっていうことにした。当時の東京都と国が見事なもんだね。「広場」と言っちゃいけないということにしたので、「広場」対「道」の戦いになって、最後は警察が導入されて、入れないようにしちゃった。

──坂倉準三が設計して1966年に完成した、大型百貨店や地上バスターミナルとも一帯となった、とても大きな空間ですね。

御厨:そうそう。もう非常に大きな。新宿で一番人が通るところでしたからね。何かやっていれば、みんなそれに惹かれて来るみたいなところだったけど、それがなくなってしまった。権力によって刈り取られたわけですよね。当時、学生運動も刈り取られていった。それ以後は、もう広場的なものというのはないだろうね。

──新宿西口地下広場も、広場と名がついているけれども、結局、道であり、車のターミナルになってしまった。

御厨:そうそう。ターミナルになっちゃった。広場的機能から道路的機能へと変わった。人と人をつなぐ要素を持っていた広場が、とにかく歩くだけの非常に無機的な、人と人とを分断する装置に変わった。その変化が1969年という、いわゆる学生運動とそれを終わらせようとする権力の側との戦いの時代にあったということは、注目すべきことだと思いますけどね。

「広場」という発想のなかった日本

──今回、東京に広場がどれくらいあるのかなと思って調べようとしたのですが、広場といえる広場はほとんどなくて、もしかしたらあえて広場をつくらなかったのか、それともつくれなかったのか、どっちなんだろうということが、逆に興味深く思いました。

御厨:そうだよね。いまになって、みんなそういう公共空間がほしいとかいうじゃない。だけど当時、政治的にいえば、そういう広い場所をつくるのは危ないという発想があったと思うよ。そこで何をされるかわからない。つまり治安というものを考えた時に、そういう自由にしておける無目的なものがあるというのは、権力の側からしたら非常に怖いからね。だからおそらく、いまそんなものをほしいとみんな言い出しているということは、そこが政治的な空間になるということを、誰も考えていないということだろうね。こんなせせこましいところに、もう少し広い空間がほしいよねという、いわば非政治的に空間をほしいということであって、それ以外のことではないわな。

越沢明『東京都市計画物語』(日本経済評論社, 1991/筑摩書房, 2001)

──越沢明先生の『東京都市計画物語』のなかで、関東大震災後の帝都復興計画で、上野広小路と神田万世橋の一帯に、大きな広場をつくる計画があったことが書かれています★4。でもその計画は、小規模化していって、結局ポケットパーク的なものしかできなくなったということなんですね。東京は、都市計画的に広場つくろうとしてもどんどん潰れていって、だから実現された広場がほとんどない。

御厨:ないってことですよね。東京の場合、人口がどんどん増加したから、まず広場よりも何よりも自分の住居ですよね。住居不足という問題があったから、公園みたいなものを大きくつくるよりは、何か住宅団地みたいなものがいいという発想が先だったかもしれないよね。

──ヨーロッパと比べると対照的で、例えばパリは逆に大きな道を都市計画によりつくった。セーヌ県の県知事だったオスマン男爵は、そこで軍隊の示威行為が行えるように、そして権威を示すためにつくった。住宅が先という発想ではない。

パリのエトワール凱旋門周辺の放射状道路, 撮影=Alphonse Liébert(出典:日本語版Wikipedia「パリ改造」より

御厨:そうそう。だから街全体をそういう権力の意思の表れとして見ることが出来る。日本の場合は、そういう風には見ないんだよね。部分部分でしかないし、こんなものはつくっても仕方ないだろうということで何もつくらないできたから、それでいまのような、なんだかわけの分からない都市になってしまった。ヨーロッパの軍隊の行進はすごいね。それを、みんな国の重要な構成要素だと思っているからそう出来るわけで。日本は特に戦後、自衛隊はあるものの見せない、という世界になっちゃったから余計にね。石原慎太郎さんが、とにかく銀座の大通りに戦車を走らせたいと言ったことが、一番大きかったんじゃないですかね。

藤森照信『明治の東京計画』(岩波書店, 1982, 2004)

──藤森照信先生の『明治の東京計画』に、エンデやベックマンあたりの話が詳しいわけですが、彼らの官庁集中計画には広場があるわけですよね。どの計画にも中心に広場がある。でも全部実現しなかった。日本に広場が存在していないのは、このタイミングで出来なかったことが大きいんじゃないかという気がしています。

御厨:それが大きいんだろうね。東京駅を中心とする、いわゆるエンデやベックマンが計画したような霞が関のあの地域に、もし大きな広場がどーんとあれば、多分ずいぶん違ったんだろうけど、やっぱり日本の場合は皇居があったからね。結局、誰にも開放されない閉じた広場である皇居が、それに取って代わったということでしょう。

──興味深いのは、地方都市にもほとんど広場がないことですね。それが不思議です。

御厨:ないんだよね。都市にそういう広場をなんとか息づかせないといけないという発想が、そもそも日本になかったんだな。江戸時代までだと、せいぜい大きいのは大名屋敷くらいだものな。だから、誰もが行けて誰もがそこでくつろげる空間という発想は、やっぱり日本にはなかったということでしょ。

──江戸にさかのぼっても、広場というものはないんでしょうか?

御厨:ないことはないね。お台場とか、いまの浜離宮とかね。ああいう水辺空間というのはないわけではなかった。いくつかあったと思うけど、それを江戸の都市計画として、何かまっとうなものとしてつくっていくという、そういう大本の発想はなかったんだろうね。

東西の分断という東京の見えない「壁」

──大きく「都市と政治」といったときに、先生が都市との関連で思い浮かべられるものは他にありますでしょうか?今回は「広場」と「壁」ということをキーワードにしたわけですけれども。

御厨:日本の都市計画は大正期から始まるんだけど、立派な計画が出来ても現実の都市に反映されない、これが非常に大きいですよ。人がすでに住んでいるところをどかしてどうするかというと、必ずすったもんだが起きる。だから都市計画は図面上はあっても、現実はまったく違う。この状況が大正期からずっと続いていますからね。都市計画が日本でうまく出来るようになったのは、戦後のある時期からでしょう。都市計画局が力を持ち始めるのは、昭和40年代以降ですよね。

だからやっぱりこの国が狭かったんだな。広いものを求めようとしても、生活のほうが大事だから、結局は実現しない。

──都市計画が実現しないということでいえば、石田頼房先生が『未完の都市計画』という本を書かれていますね。

御厨:ああ、そうそう。まさに未完だと思う。だからこそ、広場は実現しないんですね。もういまから広場なんて出来ないと思うよ。かろうじて政党本部との関係でいうと、1960年代に広場的なものが実現したねと。同じく1960年代の終わりには、新宿西口地下広場も出来たけど、ああいうことになった。いくつかはあるけど、広場の変形みたいなもんですよね。だから広場というのは、日本人の狭い空間思想にはどうも当てはまらないんだろうね。ヨーロッパ、特にパリなんかは、あの都市計画の中心は、まさに権力イコール建築であって、何というのか、将来的に何世紀も残す、つまり自分のときには大したことがなくても、何世紀も経っても残るようなものをつくろうとしてきた。広場なり所領なりがあって、そこに森林があって、そこにさらにお屋敷を構えて、お墓まであるような、そういう領有地というのは日本にはないもの。だからそういうものをつくりようもない。

──ちなみに東京を見た時、将来的に、政治力学的もしくは地政学的に、先生が気になる場所とかはございますでしょうか?

荒川周辺の標高地図。濃青色の地域が海抜ゼロメートル地帯。(出典:日本語版Wikipedia「海抜ゼロメートル地帯」より

御厨:それはやっぱりもう東京の場合は、東と西で明らかにいろいろなもの存在そのものが異なっているということかな。西には住宅地が多くて、それなりの開かれた道も出来ているけど、東は荒川周辺とか、いざという時は水没するじゃない?あと火災が起きたらほとんど焼けちゃうじゃない?それが言われていながら、どこも手を付けないんだよね。ゼロメートル地帯どころか、マイナス何メートル地帯ということになっている。ちょっとでも水が来たら洪水になるし、火がついたらみんな焼けますよ。そういう状況なのに、みんな住み続けている。だから東京の東をどう変えていくのかということは、僕は残された結構大きな課題だと思いますよ。われわれが見ている23区のなかでも、中央のビルがいっぱい建っているところとか、西側の住宅地とか、これは一応都市としての体裁を整えていると思うけど、東側の方は、どうするのかというくらい、ほおっておかれているからね。

鈴木俊一さんが東京の改造をやったときだって、結局、都庁を新宿に持ってきて、私がいた都立大も南大沢に追放された。全部いいものは西に置いたんです。東に置いたのは、唯一、江戸東京博物館くらいだからね。つまり、あの鈴木さんを持ってしても、東京は西に発展するものだとされた。あの人は「都市は西に発展する」といった。東はおいていかれるのだから、まあ博物館くらいでいいだろうという発想で、江戸東京博物館がつくられた。だから東京はひとつというけれども、実は西と東は、生存空間としての意味で、まったく違うからね。今後もし、東京直下の大地震が来た時には、東京はそこで真っ二つに割れるんじゃないかと思うんだよね。これに対する対策は、ようやく始められたというが、遅きに失したのではないか。それがものすごく気になるよね。

──東京の東西の見えない「壁」ということですね。例えばオランダだと、国を上げて治水に力を入れているわけですよね。

御厨:やってますでしょ。東京もそれをやらないと。僕はそれが国の生き残りに関わると思っているんだけどね。まあみんなあんまり騒がないようにしているからね。すごく心配だよ。都市としては。

建築家と政治家の距離

御厨貴(編著)、井上章一(編著)『建築と権力のダイナミズム』(岩波書店, 2015)

──今回、先生の本もあらためて読ませて頂いたのですが、例えば『建築と権力のダイナミズム』では、五十嵐太郎さんが「政治家と建築家」という論考を、まさに「権力と都市空間」と題された部で書かれています。丹下健三や黒川紀章など、権力に近い立場にいた建築家がどのようなことをやっていたか、また私は金沢の出身なんですが、片岡安という辰野金吾と一緒に事務所をやっていて、後に金沢市長にもなった建築家についてなどが、触れられています。五十嵐さんが、都知事に立候補した黒川さんの行っていた行為自体には意義があるとして、見直すという視点も面白いと思いました。一般的に、都市と政治あるいは建築と政治は、非常に距離が離れていると思われており、特に建築家は誰も政治について語らないんですよね。

御厨:語らない。本当にそう。だけど、そんなことはないんだよ。やっぱり建築家と政治家というのは非常に近い。丹下健三と鈴木俊一の関係というのは、間違いなくもう通常は考えられないくらいの、悪い言葉で言うと癒着、いい言葉で言うと協働関係にあった。建築家と政治家というのは、こうしてどこかで結びつく。黒川紀章の東京都知事選出馬は、石原慎太郎が黒川じゃなくて安藤忠雄を使おうとしたので、パトロンがいなくなるんだったら自分がパトロン兼政治家になろうということで、立候補したんだよね。あの奇妙な車に乗って。僕も彼の論文を読んで思ったけど、建築に携わった人間からすると、黒川さんの行動は突飛な発想ではないよね。だってパトロンがいなくなったんだったら、おいらがパトロンもやるんだということ。要するに、都知事黒川が建築家黒川に、東京の都市計画を依頼するみたいなね。そういう発想でしょ。だから結局、志半ばにしてなくなっちゃうわけだけど、まあ不思議な人ですよね。

──本当に。世界を見ても、ヒトラーは自分が建築家になれなかったから、シュペーアに任せるわけですし、建築家と政治家に同時になった人はほぼいない。

御厨:いないね。だから黒川さんの場合は、その点ではその延長線上にいたということが分かるわな。もう出てこないでしょ、ああいう人は。みんなもっとお利口になっているし。隈研吾がそういうことをやりそうにもないしね(笑)

未来の皇居前広場の使い方

──最後に、日本の唯一の広場かもしれない皇居前広場について、お伺いさせて頂ければ幸いです。皇居前広場は、今後はどういう使われ方をすべきなんでしょうか?そういえば、磯崎新さんは、2020年の東京オリンピックの開会式を、あそこでやるべきだと提案されていました。

皇居前広場周辺の航空写真。1989年撮影。帰属: Copyright ©国土画像情報(カラー空中写真), 国土交通省(出典:日本語版Wikipedia「皇居外苑」より

御厨:あそこはだから、本当はね、もっと開放すべきなんですよ。皇居の開放というのはとても出来ないけれども、皇居前広場くらいは、僕は最終的には東京都民あるいは日本国民に開放すべきだと思いますよ。それまで京都にいた天皇は明治になってはじめて東京に来たわけだけど、その明治以降、近代の日本というのはずっとあの皇居を見続けてきたわけだから。やっぱり皇居前広場を象徴的な広場にして、あれだけ何も置いていないというのはね。僕は少なくとも、もうちょっと工夫してしかるべきだと思うね。

──何かを置く?

御厨:何かを置いたり、あるいは何かイベントが出来るようにしたり。恒久的なイベントが無理だったら、その時はそこにテントを張ってもいい。そういうかたちにしてもいいから、一年に一度、数年に一度、そこで国民が何か出来るイベントでもやるようにすればいい。これは国としてひとつの意思表示をすることになるから、いいと思うんですけどね。まあ、テロを招く危険性という観点で、絶対無理だと思うけれども。やっぱり国民への開放ということはあってもいいんじゃないの?いまの上皇自身が象徴としてのつとめで、全国を回って、被災地を回って、国民と同じ目線でお祈りをしてきたわけでしょ。そしたらお祈りをして戻ってきた東京で、千鳥ヶ淵の戦没者墓苑はあるけど、もうちょっと日本国民が今の日本はこんななのかと空間構成を通じてわかる、そういう宗教的な色合いのないイベントみたいなものをやるというのはあるんじゃないかな。

──いまはタブーみたいになっているわけですよね。

御厨:そうそう。僕も毎回通ってそう思うけど、皇居前広場は「開かれているけれども、開かれていない」という場所になっている。だからそこを「開かれているけど、開かれている」という場所にするっていうのがあるんじゃないかな。

──ある意味、そういう広場は世界を見てもどこにもないわけですよね。

御厨:ないね。あそこにしかないんだから。だからそこを国民の躍動感あふれる場所にするためには、世界からイベント募集をしてもいい。そういうことをやってみればいい。

──一方で、世界の広場と同じようにして、逆にありふれた場所にするよりも、あの場所の特殊性みたいなものを考える必要もあるわけですよね。

御厨:うん。あればそれを活用するというのも、ひとつの手だと思う。だからものすごく日本固有の広場という風に出していくことが一方であり、それから世界に共通して通用する広場という風にするというやり方もある。そこはもう、大コンペをやるんだね(笑)。広場大コンペ。

──面白いですね。

御厨:それで磯崎さんが勝たないようにしないと(笑)思いつきはすごく面白いと思うけど、これは出来ませんよと。

──まあそういう、固有性と共通性との両者が必要になってくるわけですね。

御厨:そう。両方が必要だよね。と思うんだがな。

──はい。本当にありがとうございました。実に刺激的で、貴重なお話でした。

(了)

2019年7月18日(木)

東京大学先端科学技術研究センター13号館にて

★1 帝国議会開設は明治23年(1890年)。

★2 現在、旧民主党本部には、国民民主党本部が入居している。

★3 1969年6月28日に、反戦フォーク集会と機動隊が激突し、道路交通法が適用されて排除されるという、反戦フォークゲリラ事件が起きた。

★4 越沢明『東京都市計画物語』(筑摩書房, 2001), p.58

--

--

御厨貴
建築討論

みくりや・たかし/1951年東京都生まれ。政治学者、政治史学者。東京大学・東京都立大学名誉教授。東京大学先端科学技術研究センター客員教授、放送大学客員教授、サントリーホールディングス株式会社取締役。主な著書に『東京 首都は国家を越えるか』『明治国家をつくる』『権力の館を歩く』など。