キュビスム、ダイアグラム、現実(評者:長谷川新)

長谷川新
Aug 31 · 4 min read

本書を貫く、つまりはキュビスムという芸術実践を貫くひとつのイメージは「ダイアグラム」である。一般にキュビスムとは、20世紀初頭にピカソやブラックによって開始された、幾何学的、多視点的な絵画や彫刻を指すものとして知られている。印象派やゴッホまではまだついていけるけれど、キュビスムからいよいよわからなくなる、という人も少なくないのではないだろうか。実際、本書でも「キュビスム作品の仕掛けたゲームにおいて、あらかじめさだめられているルールを見てとるのは至難の技である」(p.525)とある。

読解困難な地図──「ダイアグラムとしての」キュビスムは、当時の芸術家たちの問いへの応答として出現している。その問いは「作品をどのように現実に似せていくか」ではもはやなく、複数ある現実と「どのように向き合うか」へと変質している。複数ある「現実」に対して、視覚以外のルートでアクセスするにはどうしたらよいのか。「現実の事物から出発して、眼には見えない地平に到達する」(p.53)にはどうしたらよいのか。そうした葛藤の過程で、「見ること」は「知ること」と深く絡み合い、認知学的、心理学的なメカニズムとも呼応していく。ダイアグラムとは、異なる現実への複数のアクセス権が並置された物質であり、地図であり、装置である。

本書の卓越は、こうしたキュビスムの実践──「ダイアグラム」が、偶然であるよりもむしろ芸術家たちによって意識的に生産されていったことを示すとともに、それらが社会空間のなかで理論化され、歴史のなかに書き込まれ、様々に影響を与えあっていくさまを描いた点にある。そうすることで、筆者は「キュビスム理論の普遍性を主張するのではなく、うちたてられた規則を絶え間無く問いに付すキュビスムが既成の理論に対して持つ懐疑的な態度こそが、それらの〔=シュルレアリスムなどの〕芸術に影響を与えたことを明らかに」(p.526)していく。

多岐にわたる考察に彩られた本書において最もオリジナリティ溢れる分析は、第二章で展開される、キュビスムと解剖学との関係性をめぐる論述である。とりわけ、「プロト・キュビスム期」と呼ばれるピカソの人体素描において、筋肉の構造、人体比率といった「美術解剖学で学ばれる知識の革新的な応用」(p.108)が、独特の組紐、菱形の構造の発展に貢献してきたことを例証していくさまは興味深い。筆者は、こうした精緻な読解に基づいて、ピカソの身体像の変遷を「筋肉質(アスレティック)な身体」から「解剖学的(アナトミック)な身体」へ、そして「分析的(アナリティック)な身体」への移行として説得的に整理してみせる。

本書の後半は、第一次大戦から戦後にかけての社会状況、美術史との突き合わせがなされており、キュビスムが「人間への回帰」や「秩序」へと傾いていくなかでも、あるいはその「衰退」へと向かっていく間にも、絶えず分裂、再解釈がなされ、生き直されてきたかが示される。キュビスムが単なる一過性の「芸術様式」ではないことを知る上で、本書は極めて有用な一冊と言えよう。

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書誌
著者:松井裕美
書名:キュビスム芸術史:20世紀西洋美術と新しい〈現実〉
出版社:名古屋大学出版会
出版年月:2019年2月

松井裕美著『キュビスム芸術史:20世紀西洋美術と新しい〈現実〉』

建築討論

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長谷川新

Written by

はせがわ・あらた/1988年生まれ。インディペンデント・キュレーター。京都大学卒業。主な企画に「パレ・ド・キョート / 現実のたてる音」(2015)、「クロニクル、クロニクル!」(2016–17)、「不純物と免疫」(2017–2018)など[ポートレート撮影:加藤甫]

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