氏子かり帳に記された木地師

連載:山七合目より上の世界──氏子かり帳に記される木地師の生活領域(その2)

原田栞
建築討論
Mar 30, 2023

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氏子かり帳の読み込み

写真1 氏子かり帳の例 出典:永源寺町史編さん委員会『永源寺町史通史編』2006

氏子かりとは、主に江戸時代の木地師のネットワークを支えた仕組みのことで、その管理を担っていた小椋谷(現在の滋賀県東近江市蛭谷町・君ヶ畑町に位置する)の人物が、約10年に一度各地の山中にいた木地師のもとを巡り、金銭を徴収する代わりに、身分の保証などの保護を約束した。その際に残された記録として氏子かり帳がある。

写真2 氏子かり帳の刊本である『永源寺町史木地師編 上下巻』 この二冊に木地師の領域は記録されている。

多少複雑ではあるが、木地師を管理した団体は小椋谷に二つあり、それぞれ蛭谷町の筒井公文所と、君ヶ畑町の高松御所で、蛭谷側では正保四年(1647)から三十二冊が、君ヶ畑では遅れて元禄七年(1694)から五十一冊の氏子かり帳が残されている。この二つの集落は直線にして4kmほどの距離にありながら、どちらも木地師の根源地として諸国の木地師を氏子として管理する権利を主張し、ライバル関係にあった。

写真3 蛭谷町にある惟喬神社と舞台。もとの位置からはどちらも移設されており、舞台は新しい。蛭谷町には現在ほぼ住人はいないが、木地師文化の中心地としての役割には変わりなく、惟喬親王祭や木地師フォーラムなどが開催される際には多くの人がこの地を訪れる。惟喬親王とは、伝説上ではあるものの木地師の祖として祀られ、同業者組織の一体感を高めてきた。
写真4 君ヶ畑町の大皇器地祖神社境内の舞台。蛭谷町・君ヶ畑町のどちらも木地師の根源地としての威厳が漂う。

どちらの氏子かり帳もそれぞれの特徴はありつつ、目的は全国の廻国(氏子かりのために諸国を巡ること)に応じた木地師の名前と受けとった寄進について記録を残すことであった。ただその過程で、金額や内訳だけでなく、氏子かり各回での廻国の範囲や経路、また全国各地の山々にいた木地師が数家族で構成していた集団の規模、家族の人数、廻国時の所在地など、木地師のネットワークや生活を知る上での有益な情報が豊富に含まれていった。

図1 氏子かり帳に記録される情報の基本の構成 ★1

蛭谷の第七号氏子かり帳(元禄七年,1694)より、一つの集団に関する記録を抜粋したものを例に、読みとれる情報について見ていく。集団ごとに、まずその集団が居住した場所、または山の名前があり、続いて寄進された金額、項目、人物名の順に記されている。また親子関係についての補足がある場合も多い。この集団には合計11名の木地師がそれぞれ複数種類の寄進をしたことが記録されているが、氏子かりの主な寄進の項目としては次のものがあった。★1

氏子かり料:一家の人数分支払うもの(一人二分)
初穂(はつほ):寄進(任意の額)
官途成(かんどなり):~衛門~兵衞等と改名する儀式(二匁五分)★a
直衣途(のうしど):木地師の仲間への新加入の儀式(二匁)
烏帽子着(えぼしぎ):木地師の子が成人の儀を行う際の寄進(三匁五分)
★a: 一匁=十分

1人あたり二分とされている氏子かり料について見てみると、例えばこの与州松山久万畑野川山(現在の愛媛県上浮穴郡久万高原町上畑野川・下畑野川)にいた庄左衛門は、一匁四分を納めているので7人家族(二分×7)である可能性が高い。そして、庄左衛門(一匁四分≒7人)の他に、六左衛門(一匁≒5人)、加左衛門(六分≒3人)、六郎左衛門(八分≒4人)、安兵衛(一匁≒5人)、忠左衛門(六分≒3人)、勘左衛門(一匁≒5人)の7人の木地師が合計六匁四分の氏子かり料を納めているため、集団全体では32人ほどであると考えられる。また、安左衛門と、庄左衛門の子である平左衛門はおそらく既にえぼしぎは済ませていて、さらなるステップアップとしてかんどなりを納めているが、六郎左衛門の子である彦三郎は、成人の儀の意味があるえぼしぎの寄進を納めていて、まだ若い印象がある。

大抵は男性の名前が連ねられるが、時には女性の名前が登場することもある。一人当たり二分と定められているはずの氏子かり料から割りだされる人数に関しては、ある程度の想定としては捉えられうるものの、実際には家族の人数分より少なく・逆に多く払っていた可能性もあると考えている。お金というものはプライドにも関わるもので、そこからざっくりとした家族や集団の規模は想像できても、その金額がどれほど演出されたものなのか、私たちは知ることができない。

一方、与州松山久万畑野川山という所在地については、次回以降の氏子かりにおいて参照される可能性も高く、事実と異なる情報を含ませる要因は今のところ思いあたらない。木地師の人数については、過去に民俗学・農業経済学の二方向からより専門的に分析されてきたことでもあることから置いておいて、建築の方面からはこの所在地について注目する。一つの点としての位置情報からは、それが山の中にあることしかわからないが、それが連続する点となれば移動の痕跡となり、点群となれば領域を構成する。それは氏子かりの範囲のうつろいであり、廻国人(廻国を担当する者)の足跡であり、個々の木地師の人生における移動史であり、平地の社会と並存したもう一つの世界を浮かびあがらせる。

氏子かりという制度によって拾い上げられる位置情報と、その移ろい

図2 第一号氏子かり(蛭谷,正保四年,1647)の廻国先 ★2

これは、第一号として初めて作られた氏子かり帳に記された木地師たちの所在地をマッピングしたもので、その範囲は近畿、中国、中部、四国に限られる。氏子かりについては、17世紀以前より不定期に行われていたとされるものの、小椋谷の惣代(地域の代表者格の人物)の日記に日付・廻国を開始した場所などが書かれるのみで、廻国を行なった側についての簡易な記録が残されるにすぎなかった。氏子かり第一号の廻国先については、近畿・中国山地・濃州等この日記中で過去に触れられていて、17世紀以前から交流のある、小椋谷の遠縁のような関係にあたる木地師が主であったと考えられる。★3

写真5 蛭谷町にある「千軒址」の石碑。小椋谷が木地師の根源地であり、かつて多くの木地師がこの地で暮らし、そして全国へ移住していったことを物語らんとする。実際に小椋谷にどれほどの木地師が暮らしていたのかについては、記録が残されていない。

しかし、蛭谷にある筒井八幡宮(筒井神社)の神主であった大岩家の第三十三代頭首大岩重綱によってなされた、定期的な廻国と、より詳細かつ専用の記録である氏子かり帳の作成などの制度改革が功を成し、氏子かりはその後範囲を全国へと広げていく。

図3 第七号氏子かり(蛭谷,元禄七年,1694)の廻国先★2

まず初めに紀伊半島が廻国先に加わった(図3)。紀伊半島は杓子の制作を生業とする杓子師★bの土地として有名であり、杓子師たちは小椋谷と血縁関係にはなくとも、同業者として小椋谷の管理下に入ったと考えられる。18世紀には、小椋谷が美濃の杓子師7人に対し免許をだしたという記録がある★★4など、小椋谷が木地師に限らず、他の木工に関わる職能集団まで積極的にとりこもうとしていたことが伺える。

★b: 木地師には木地屋、木地挽の他に轆轤師という呼び名もある。その上で、木地師を木工に関わる職人の総称のように用い、その中で轆轤師、杓子師、曲物師、傘師などと分類することもあるが、本連載では、木地師を「轆轤を使って椀や盆などの木地を制作した人々」と限定する。杓子師は木地師と同じ木工に従事する職人ではあるものの、轆轤を使用しない。

図4 第十一号氏子かり(蛭谷,享保二十年,1735)の廻国先

続いて、18世紀には中部と九州へも廻国が始まる。中部は第一号氏子かりでの一箇所への廻国以降、記録上は氏子かりがなかったが、第八号氏子かり(宝永四年,1707)以降、唐突に多くの木地師が氏子かり帳に記録されるようになった。小椋谷のある東近江に隣接する濃州にはおそらく氏子かり以前から多くの木地師がいたが、氏子かりをそれまで拒否していたのか、氏子かり以外の交流が小椋谷と続いていたのか、氏子かりの対象には半世紀もの間なっていなかった。それが氏子かりの対象となり、記録されたことで、濃州における木地師の領域は現代まで伝えられる結果となっている。

図5 第十三号氏子かり(蛭谷延享元年,1744)の廻国先

18世紀半ばには、東北まで廻国範囲が広がった。奥州・羽州への廻国は連続的とはいかないものの計6回の廻国が氏子かり帳に記録されている。特に南会津の山々には多くの木地師が暮らし、現在でも住居跡が山奥に残されている。

このように氏子かりの範囲は広がり、その過程で小椋谷は旧来の縁がある木地師のみならず、近しい木工業従事者や血縁のない別系統の木地師をもとりこみ、同族としての同業者という認識とネットワークを広げて行くことに成功した。

第二十九号氏子かり(明治十三年,1880)の廻国先

しかし、第一回氏子かりが行われた正保四年(1647)から50年もたつと、10年に一度というペースは徐々に崩れ始め、18世紀半ば以降には廻国の規模は縮小し始める。その原因としては、廻国の権利を巡る裁判や飢饉などがあるが、最終的には戸籍制度の制定により氏子かりという制度と記録は終わりを迎えることとなった。

図7 第一回-第三十一回氏子かり(1647–1893)

おわりに、氏子かりのあった場所すべてについてマッピングして見ると、本州・四国・九州の脊梁山脈へ広がっている。しかし、すでに漆器の一大名産地であったはずの能登半島への氏子かりが見られないことや、中国山地の中央への廻国が極端に少ないことなど、違和感が残る部分がある。能登半島については、一大名産地であることから、ローカルな木地・漆器コミュニティを支える仕組みがあり、わざわざ遠方の氏子かりというシステムに所属する必要性がなかった可能性が、中国山地中央部については、大山を中心としたタタラ師たちのテリトリーがあったことなどが想像される。小椋系の木地師を中心とした集団が、山で生活したあらゆる少数派の一つであったならば、他の集団との関係性もあり、立ち入れない場所もあったのだろう。

点群で表現された生活領域
氏子かりという制度は、寺請制度が敷かれた江戸時代において、時代にそぐわない移住生活を送った職能集団を支える制度であっただけでなく、その対象範囲を広げるにつれて、諸国に散在した木地師の所在地を拾い上げるようにに記録していった。明確に線で区分できないような領域が点群として残されたことは、彼らの生活領域の表現としてより的確であるように感じられる。連載第二回「氏子かり帳に記された木地師」では、木地師を中心とした山に暮らす職能集団とその領域の全体像について、その点群としての位置情報を陰影起伏図を用いつつ、まずは平面的に整理した。今後はさらに縮尺や視点を変えて観察しながら、時間的な連続性や特質にも注目していく。その中で、第三回では各地の木地師のもとを巡った廻国人の足どりをたどって、移動が制限された江戸時代においての、山の民の動き、そして平地の犠牲者によって設けられた境界に対する振る舞いを明らかにしていきたい。■

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★1 永源寺町史編さん委員会『永源寺町史通史編』(永源寺町,2006)
★2 永源寺町史編さん委員会『永源寺町史 木地師編 上下巻』(永源寺町,2001)をもとに筆者が作成
★3 『大岩助左衛門日記』(永源寺町史編さん委員会『永源寺町史 木地師編 上下巻』(永源寺町,2001)所収)
★4 永源寺町史編さん委員会『永源寺町史通史編』(永源寺町,2006)

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原田栞
建築討論

原田栞 Shiori HARADA /1995生まれ。東京芸術大学大学院光井研究室修了。設計事務所勤務