津野海太郎著、宮田文久編『編集の提案』

楽しい編集の話(評者:長谷川新)

長谷川新
建築討論
May 6, 2022

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津野海太郎は1938年生まれの編集者である。長く晶文社に籍を置き、アングラ演劇の「黒テント」では演出家としても活躍した。彼は自分自身でも筆を執る。本書は1977年から2001年までに書いた文章が選ばれている。編者による熱のこもった前書きを繰り返すことになってしまうが、本書に収録された津野の文章は、たんなる伝説の編集者の回顧録でもなければ、実用的な技術の伝達でもない。本書を読めば、「編集」という営みを、こんなにも大きなパースペクティブのなかで、とても繊細に捉えている人がいるのだ、という手応えを感じることができるだろう。

時代的条件を鋭く引き受けた上で、スケールの大きさを失っていない、にもかかわらず、等身大の悩みをそのまま恐れず書ききっていることに、一読して驚嘆する他ない。もはや、津野の文章が「予見的だ、先見の明があった」と「再」評価するのでは礼を失する。

第一章が白眉だ。「テープおこしの宇宙」(1985年)では、「テレコ(テープレコーダー)」を経由しての文字おこしについての逡巡が記される。テープおこしとは、津野にとっては本源的な「編集」行為だ。

「もとはといえば、編集とは話しことばを書きことばに組みかえる作業の意味だった。たとえば経典や聖書の編集、『古事記』や『オデュッセイア』の編集というように。」(p.22)

「話しことばと書きことばのあいだには、なにか大事なものがひそんでいるようだという感覚だけは辛くも生きのびている。他人が話したことばを文字に書きとめる。このささやかな手作業をつうじて、私は、はじめて人類が文字を知ったときのよろこびやおどろきを追体験することができる。」(p.27)

退屈で苦痛な「作業」へといとも簡単に転がり落ちる「テープおこし」は、俄然輝きを放ちだす。編集者は客観的な「無私の記録者」であろうと努めても、話しことばは書きことばへと変換された瞬間から意味が綻びはじめるために、ある種の「演出家」とならざるをえない。数多くの編集者がぶつかるこの葛藤に対し、津野は次のような欲望を吐露してみせる。

「かれのものであって私のものでもあるような声……?

いや、とことんのところをいうと、むしろ私は、かれのものでも私のものでもないような声をききたいのである。」(p.21)

おすすめの自動文字おこしアプリについてではなく、こんなにも楽しそうに「テープおこし」を語る人がいる。

続く「座談会は笑う」(2001年)はさらに細かい。鶴見太郎の『座談の思想』(新潮社、2013年)でも主張されているように、「座談会」とは日本における独特な言説生成の在り方である。しかしこの形式は、その曖昧さから多くの批判にさらされてもきた。ここでの津野の「座談記事」の定義はクリアだ。座談の書きおこしには「(笑)」が挿入される。そう言われて改めて考えてみれば、「(笑)」によって発話者のイメージ、議論の在り方は大きく変わってしまう。津野はこれを全肯定する。

「いいすぎを覚悟でいってしまう。もしかしたら座談会は、近代日本が生んだ最大の「笑いの文学」形式なのかもしれない。」(p.38)

こうした「編集」の技術の細かい話が大きなスケールのなかで展開されていくさまに、多くの--編集という営為を多かれ少なかれ行っている--読者は刺激をうけるだろう。知識と経験とが一体となった津野の明晰な記述が再録され、気軽に読めるようになったことを喜びたい。

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書誌
著者:津野海太郎著、宮田文久編
書名:編集の提案
出版社:黒鳥社
出版年月:2022年3月

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長谷川新
建築討論

インディペンデントキュレーター。主な企画に「クロニクル、クロニクル!」(2016–2017年)、「不純物と免疫」(2017–2018年)、「STAYTUNE/D」(2019年)、「グランリバース」(2019年-)、「約束の凝集」(2020–2021年)など。国立民族学博物館共同研究員。robarting.com