海路と陸路がつくる尾道のテリトーリオ

稲益祐太
建築討論
Published in
11 min readOct 31, 2019

[201911 特集:建築批評《尾道駅》ー地域の建築のための地域]Onomichi Territory made by route of sea and land

尾道という町の名前を聞いただけで、この町を舞台とした文学や映画を思い出し、なんだかノスタルジックな気分になる。その時に思い出されるのは、だいたい坂道か見晴らしのいい場所でのシーンである。そして、実際の場所を訪れる観光客は数多く、尾道は瀬戸内海でも有数の観光地となっている。

尾道は瀬戸内海に面した人口約14万人の都市である。瀬戸内海のほぼ中央に位置しており、芸予諸島と呼ばれる因島や生口島を含んだ地域の一部である。古来より瀬戸内海は人の往来や物資の運搬のための重要な交通路であり、沿岸には数多くの港町が点在してきた。しかし、尾道が面する海では市街地の目の前にある向島とはわずか300メートルほどしか離れておらず、陸地によって狭められている海峡(瀬戸)の瀬戸内海のなかでもひときわ狭い。この川のような瀬戸は尾道水道と呼ばれており、この狭い海峡が天然の良港となり、古くから瀬戸内海航路の要衝となっていた。

そして、この特異な地形によって尾道は風光明媚な地としても知られ、昨年は約640万人の観光客が訪れた。そのうち33万人は外国人観光客であり、近年特に増加傾向にある。最近では海外のサイクリストたちにも「瀬戸内しまなみ海道」が知れ渡り、尾道まで自転車に乗りに来る人も少なくない。

しかし、他地域からの移動に便利な町とは決していえない。尾道市内には山陽新幹線が停車する新尾道駅があるが、市街地から離れている。そのため、多くの観光客は福山駅でいったん下車し、在来線に乗り換えて市街地へと向かう。その玄関口となるのが、本特集で取り上げる尾道駅である。今年の3月、老朽化による建て替えで新たな駅舎が誕生したばかりである。

そこで本稿では、尾道の都市形成をたどりながら、他の地域との関係性についてもテリトーリオ*1という視点をもって、概観してみたい。そして最後に、尾道という港町における鉄道駅の存在を考察しながら、新駅舎がもつ地域性についても考えてみたい。

港町の形成

尾道は、30キロほど内陸にある大田荘と呼ばれた荘園の倉敷地(年貢米の積出港)として1169年に開港して以来、交易港として栄え、今年、開港850年を迎えた。室町時代には足利幕府による中国の明や朝鮮との貿易船団が寄港し、対外貿易の拠点のひとつとなっていた。主な輸出品としては、硫黄や錫などの鉱物、漆器、屏風などであり、なかでも突出して数が多かったのが刀剣で、町の中に刀鍛冶職人街が形成されていたほどであった。また。中国山地からの商品も尾道に集積し、交通上・経済上の要所となったことで商人の経済力は高まった。こうした尾道商人により、社寺の建立と寄進が行われた。それらは市街地の背後にある千光寺山、西國寺山、浄土寺山の「尾道三山」と呼ばれる山の斜面地に建てられたことで、低地の市街地と丘陵地の寺社地という現在まで続く都市構造が形成されたのであった。また、尾道三山の谷間には川が流れており、その河口部は入り江状になっていたことから、かつての海岸線沿いは入り組んだ地形であった。そこが港として機能するようになり、荷の積み出しだけでなく、帆船の風待ちや潮待ちのために長逗留することもあった。

瀬戸内の十字路

江戸時代になると交易は国内が主となり、北前船の寄港地として栄えた。海岸沿いには問屋が軒を連ね、北海道や北陸地方から昆布や鰊、鮭、鰤などの海産物や魚肥が多く運び込まれた。一方、尾道からは塩や畳表、錨などの鍛冶製品、市街地の裏山から採掘された花崗岩の石材やその加工品としての狛犬や鳥居などの生産品が積み込まれた。中継交易港として繁栄したのである。

ところで、瀬戸内海には尾道以外にも多くの港町が点在しており、各港でそれぞれの町や周辺地域の生産品が集散していた。そこで扱う特産品の生産地は、さほど広域から集まってきたものではなかった。例えば、一大塩田地帯である竹原の塩は自前の港から出荷されており、尾道では向島の塩田で製塩されたものを扱っていた。向島とは尾道水道を挟んでいたが、尾道にとって尾道水道は、地域を隔てる境界ではなく、両側町を形成する通りのようであった。

そして、山と海に囲まれ平地が少ない尾道は、農作物の生産には向かなかったことから、様々な加工業を発達させていった。例えば、豊臣秀吉が朝鮮から招いた造酢の職工を迎え入れたことから醸造業が盛んとなり、秋田からの運ばれた米を原料にして酢を造り、輸出していた。尾道は、中継交易港として機能するだけでなく、周辺地域の産業拠点にもなることで、大きく発展することができたのである。

こうした尾道港の発展により、次第に海岸沿いの埋め立てと港の拡張・整備を推し進められた。埋め立てにより海岸沿いに石垣が築かれ、尾道三山がつくる弓形の海岸線は直線状に整えられた。これにより、陸路も整えられていった。実は、尾道が芸予諸島の港町のなかでも最も栄えた背景には、日本海側との陸路による交易も大きく影響しているのである。

町を東西に横断する尾道本通り商店街のアーケード通りは、尾道三山の麓をつなぐようにして弓形をなしているが、かつては「西国街道」と呼ばれる町のメインストリートでもあり、京都、大坂へと続いていた。街道沿いには、町奉行所や本陣、豪商の屋敷、商家などが軒を連ね、商都としての繁栄を見せていた。

そして、町を南北に縦断する「出雲街道」は、中国山地を越えて石見銀山へと続いていた。もとは石見銀山近くの日本海側に積出港があったのだが、徳川支配期の初代奉行大久保長安が銀輸送の安定性から中国山地越えの陸路を開き、積出港を尾道に定めたのである。日本海から関門海峡を通って瀬戸内海を横断し大坂の銀座へと渡るルートに比べると、海難の心配がなく、かつ最短経路であったため、公式の銀山街道として幕末まで続いた。

このように海路だけでなく、町を横断及び縦断する陸路の存在にも目を向けたとき、文字通り「瀬戸内の十字路」として形成されてきた尾道の姿が見えてくる。

「尾道らしさ」をつくった鉄道の敷設

明治時代には「政治は広島、経済は尾道」と言われるほどの経済力を誇っていた。そこについに鉄道が到達する。1891年、山陽鉄道(現在の山陽本線)が尾道まで延び、尾道駅が開業した。これまでの発展による人口増加に伴い、街道沿いを中心に狭い平地に家屋がびっしりと建て詰まった市街地が形成されていたが、そのなかでの鉄道の敷設は、住民に立ち退きを迫るものであった。平地を横断する線路は、斜面地に立地する寺社の参詣道を断ち切ることになり、まさに町を二分する議論が巻き起こった。しかし、機を逃すと次の時代に向けての発展はないとして鉄道は敷かれ、実に4046坪の家屋と8853坪の敷地が立ち退いた。

こうした鉄道による都市の分断は、今日見られる「尾道らしさ」である坂の町を作り出したともいえる。明治以前から問丸*2や廻船で財をなした豪商たちが斜面地の天寧寺周辺に居を構えていたが、鉄道開通を機に立ち退きを余儀なくされた住民たちも斜面地に移り住むようになったのである。特に坂の上には、明治末期から大正、昭和初期にかけて、財をなした商人の別荘や文化人の住まいが置かれ、眼下の稠密な家並みと尾道水道、その先にある向島を見晴らす眺望が広く知られるようになった。現在、博物館になっている志賀直哉の旧居や中村憲吉の旧居があるほか、「尾道空き家再生プロジェクト」によって再生された「みはらし亭」などにより、坂と文学の町というイメージが構成されている。尾道の町並みを形成しているのは主に明治期以降に建築された建物であり、近隣の竹原や鞆の浦のような明治期以前の伝統的な町並みが残っているわけではない。つまり、尾道に対して人々が抱く懐かしさやノスタルジーの対象は実は、近代以降に拡張した斜面の住宅地であったり、長い街道筋や横道の細い路地などの都市組織であったりするのである。

図 右側に広がる市街地と左側にある町はずれの鉄道駅(「尾道市街名勝案内新図」1901年)

そして、尾道にとって鉄道敷設は海運から陸運への転換ではなく、むしろさらなる結節であった。線路の敷設を「西国街道」よりも山側に、弧を描いて並行に通すことで商業地の中心を避けただけでなく、海側を埋め立てなかったことからも尾道水道を狭めることを避けたことがわかる。さらに、駅は山の麓から水際までの距離が近い町の西端に置かれ、港と鉄道が近接することで、尾道港は海陸交通を結ぶ要衝としてその価値を高めることとなった。駅の開業に合わせて近代港湾施設が整備されていった尾道港も、帆船の北前船に代わって大阪商船や尼崎汽船部の定期船が寄港するようになり、1939年には港湾修築工事が完成し、尾道水道沿いに海運倉庫が建てられた。さらに、尾道だけでなく、島嶼部一帯にわたって造船業や船用工業も盛んになった。

こうした港湾部の大型化、工業化は尾道と周辺の島嶼部の住民に対して、海を遠い存在にしたわけではなかった。因島や生口島をはじめとする周辺の島々をまわる巡航船は尾道が起点となり運行していたが、駅前桟橋から鉄道ダイヤと連絡して運行しており、住民にとっては利便性の高いものであった。それは、自動車が登場してもそれは変わらなかった。自動車が普及すると渡船への積み込みが行われ、ますます様々な交通手段が集まる結節点となっていった。

港町からウォーターフロントへ

結節点としての尾道の位置づけを大きく変えたのは、1968年の尾道大橋の開通である。向島と町のはずれを結ぶ尾道大橋は、自動車だけでなく歩行者も通行できる生活道路として誕生した。そして1999年、新尾道大橋が完成し、その後、西瀬戸自動車道「瀬戸内しまなみ海道」が全線開通した。尾道港内の渡船航路は再編され、廃航になったルートもあった。

また、道路開通に合わせて尾道駅から港にかけての一帯を整備する駅前再開発事業が行われた。アリーナ型ホールをもつ複合施設やホテルとオフィス、商業施設を併設したポートターミナルビルが建ち、尾道の新たなウォーターフロントの景観が形成された。これらはいずれも施設の機能として「交流」を謳っている。

そして、2015年には山陰へ通じる「中国やまなみ街道」(中国横断自動車道尾道松江線)が全線開通し、流通路が尾道で再び交差することとなった。

尾道テリトーリオの空間

そして2019年3月、尾道に新しい駅舎が開業した。年々増加する観光客に対応するため、築90年以上の木造平屋の駅舎は建て替えられ、スケールアップが図られた。しかしそのボリュームは、街の機能を一手に引き受けるような規模でもない。山側からの眺望を遮るような高さでもなく、高さは抑えられており、しかも小規模な駅舎にしては多くの床面積が2階の眺望デッキに割かれている。このスペースは、初めて尾道を訪れ駅に降り立つ観光客が美しい瀬戸内の海や行き交う渡船を眺めるために設けられただけのデッキではないように、筆者には思える。

歴史を振り返った時、尾道の町がもつポテンシャルは、入り江という小さな地形のまとまりのなかだけでなく、山を越え、海を越えて形成された社会・経済的、または歴史・文化的な関係性のなかで結節点として機能するときに発揮されてきた。人やモノやカネが集散するこの港町では、ほんのつかの間かもしれないが、ここにとどまってから別の地へと旅立って行く。観光客に限らず、ホームに滑り込んでくる電車が見える改札横の待合スペースや眺望デッキで、駅に流れる人波を眺める人の姿は、風を待ち、潮を待つ船乗りの姿と重なる。わずかな時間であってもこの町に立ち止まることで、尾道を構成する要素のひとつとなる。そのような場を作り出した新駅舎には、記号的な地域文化の参照や先代の駅舎の面影を感じさせる造形による地域性よりも、より強く尾道のテリトーリオを感じ取ることができるだろう。

*1 テリトーリオとは「地域」を意味するイタリア語。都市とその周辺領域について、自然環境や社会的、経済的、歴史的、文化的関係性を含んだ概念である。土地や土壌,水循環等の自然条件の上に,人間の営みが育んだ農業・漁業・林業その他の産業による景観、集落や建造物、歴史、文化、伝統、地域共同体等の様々な側面をあわせた圏域をテリトーリオと呼ぶ。

*2 貨物の積上げ降し、保管、川船・車馬への積換え、換金等、一切の運送業務に携わるもの。(新城常三『中世水運史の研究』塙書房、1994年)

参考文献

陣内秀信・岡本哲志編著『水辺から都市を読む』法政大学出版局、2002年

『図説 日本文化地理大系5 中国Ⅱ』小学館、1961年

『明治大正図誌14 瀬戸内』筑摩書房、1979年

「特集33 瀬戸内テリトーリオの再構築」『建築雑誌』日本建築学会、2019年5月号

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稲益祐太
建築討論

いなますゆうた/東京都出身。久留米工業大学建築・設備工学科特任講師。専門はイタリア建築史・都市史。法政大学工学部建築学科卒業、イタリア・バーリ工科大学に留学。博士(工学)。