渡辺仁史[1948-]コンピュータシミュレーションで建築計画を面白くする|建築情報学の源流・“CAD5”の思想を探る (3)

建築と戦後
建築討論
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話手:渡辺仁史/聞手:種田元晴・池上宗樹・浅古陽介・長﨑大典・山戸敦策・石井翔大[連載:建築と戦後─13]

日時:2019年7月1日(月)17:00–19:00
場所:建築会館会議室(東京都港区)
聞手:種田元晴(T)、池上宗樹(Ik)、浅古陽介(A)、長﨑大典(N)山戸敦策(Y)、石井翔大(Is)

渡辺仁史氏(撮影:石井)

建築デザインにコンピュータが援用されはじめて、すでに半世紀が経過した。

この50年の間に蓄積されたCAD(Computer Aided Design)に関する知見を整理し、歴史的に振り返る作業の必要性も叫ばれてきている。
しかし,いまだCADに関する歴史を整理した研究は、建築の分野では数少ない。

本インタビューは、川崎清氏([連載:建築と戦後70年─07])、山口重之氏([連載:建築と戦後70年─09]、両角光男氏([連載:建築と戦後─11])へのインタビューに続き、日本建築学会情報システム技術委員会設計・生産の情報化小委員会建築情報学技術研究WGのメンバーによる日本の建築CAD黎明期に関する聞き取りの記録である。

日本では1970年の大阪万博を皮切りに、建築デザインへのコンピュータ援用が盛んとなった。
これをけん引したのは、京都大学川崎清研究室や東京大学丹下健三研究室であった。
1980年代には、コンピュータの進化と共に、建築CADの研究や開発が盛んとなる。
その中心的存在は、川崎らの次の世代である、山田学(東京大学)、笹田剛史(大阪大学)、山口重之(京都工芸繊維大学)、両角光男(熊本大学)、渡辺仁史(早稲田大学)の5名(シンポジウム“CAD5”メンバー)であった。

日本の建築CAD黎明期(1970s-80s)の建築情報学者とその系譜(概略)(作成:種田)

今回は、そのおひとりである渡辺仁史氏に、大学で建築を学ぶ傍らでいかにしてコンピュータに傾倒されたのかを皮切りに、その後に研究室で長年取り組まれてきた建築計画へのコンピュータシミュレーション援用の軌跡について伺った。

インタビューは新型コロナウイルスが蔓延する半年前の夏に行われたものであったが、その後の社会の混乱のなかで公開までに時間を要してしまった。

その間、テレワークやオンライン会議などが普及し、AI技術が急速に発展するなど、コロナ以前と比べて私たちを取り巻くIT環境は大きく変化した。そして、日常化したIT技術はますますブラックボックスの様相を強めている。

私たちはすでに、何が起こっているのかよくわからないけれど便利だから使っている、というものに囲まれ過ぎた。コロナ以前に行われた本インタビューは、そんな現在の状況を省みる一助となるはずである。(T)

[目次]

・コンピュータに目覚めたきっかけとしての「風雅の技法」
・卒業論文で建築分野へシミュレーションを導入
・師・池原義郎先生からの誘い
・卒業設計にもシミュレーションを生かす
・マルコフモデルと建築
・沖縄国際海洋博覧会の観客動線を
DYNAMOで解析
・シミュレーションで建築情報学を開拓
・初期の著作について
・池原研にコンピュータを導入
・Macユーザーで居続けるきっかけ
・新宿西口地下歩道の拡幅シミュレーションに携わる
・ヤマハのパソコン
・西武と池原研
・避難シミュレーションに取り組む
・葛西臨海水族園のシミュレーション
・五感の重要性
・CAD5 の発足
・CADは教えない
・これからの建築と情報について

コンピュータに目覚めたきっかけとしての「風雅の技法」

T:本日は宜しくお願いします。私たちは建築デザインにコンピュータが援用され始めた頃、誰がどのような取り組みをされていたのかに関心を持って調べていくなかで、“CAD5”の先生方に行き当たりました。
今日はそのおひとりである渡辺先生のお仕事について伺いたく存じます。まずは、いつどのようしてコンピュータに興味を持たれ、出会われたのかなどをお聞かせいただけますでしょうか。

渡辺: 最初に興味を持った時期が重要だと思って、それを思い出すために年表を整理しました。

コンピュータとの関わり(作成:渡辺仁史氏)

渡辺:初めてのきっかけは1968年、大学3年生の時でした。

当時、私はコンピュータのことを全く知らなかったのですが、実家の浜松に帰った時、同級生から「お前、早稲田の理工に行ったなら電子計算機ぐらいやっているだろう」と言われました。当時は「コンピュータ」という言葉もまだ普及しておらず、「電子計算機」と呼ばれていました。それに対して、「そんなもの全然知らない」と答えました。

その後、大学に戻ると、たまたまIBMがFORTRANの講習会を開催するというポスターを見かけました。それを見て「少しやってみようかな」と思ったのです。

さらにその思いを強くしたのが、1968年に見た山田学[1939–1995]先生と月尾嘉男[1942-]さんが共同で制作した「風雅の技法」というアニメーションでした。これは私にとって、建築とコンピュータを考える最初のきっかけとなりました。当時、建築に携わる人々がアニメーションを作成していると知り、その上「風雅の技法」という洒落た名前が付けられていて、「これからはこれだ!」と衝撃を受けました。

山田学・月尾嘉男「風雅の技法」(参照:https://www.youtube.com/watch?v=qC8ad4gVXEQ

渡辺:学校ではひたすら平面図を手で描いていた時代に、すでに3次元のグラフィックスで立体がくるくる回り、大きくなったり小さくなったりするアニメーションが作られていたのです。これはデザインのスタディそのものではないかと思いました。非常に衝撃を受け、それから本格的に電子計算機を勉強しようと決心しました。そして、先ほどのポスターで見たFORTRANの講習会に参加してコンピュータのことを一通り学びました。

「風雅の技法」は、建築をコンピュータグラフィックスで扱った最初の作品です。この作品は私だけでなく、多くの建築分野の人々に衝撃を与えました。恐らく笹田剛史[1941–2005]先生も刺激を受け、「やられた!」と思ったのではないかと思います。

T:その前はコンピュータにはあまり興味がなかったということですか?

渡辺:全くありませんでした。早稲田大学の理工学部にIBMから寄贈された電子計算機があることすら知りませんでした。ひたすら電卓を使っていただけですから。

T:この前の『建築ジャーナル』に、先生の研究室ご出身の渡辺俊先生(筑波大学教授)が建築情報学についての年表(★1)を整理して発表されました。ここには「風雅の技法」は1967年の第1回草月実験映画祭に彼らが応募した映像作品と書いてあります(★2)。

渡辺:そうですか。67年のものを68年に見たんですね。電子計算機に興味を持ったから、「これはなんだ? 建築の人がやっているんだ」ということで。

卒業論文で建築分野へシミュレーションを導入

T:先生の年表には、そのあとに『建築家のためのコンピュータ入門』(ネイル・ハーパー編,太田利彦・荒木睦彦訳, 1969)が記されています。

渡辺:これは、清水建設の研究所の所長だった太田利彦[1928–2008]さんが翻訳された本です。

設計分野でシステム的にアプローチして、コンピュータが日本にこれから必要だということを一番先に言われたのが太田さんです。いよいよ建築にコンピュータというものが必要だということを、ここで確信しました。

『建築家のためのコンピュータ入門』(ネイル・ハーパー編,太田利彦・荒木睦彦訳, 1969)

渡辺:当時は大学紛争で授業もほとんどありませんでした。1969年に4年生になって、授業はないけれども卒論のテーマは決めなければならず、「どうせ学校で授業がないなら何か面白いことをやろう」と思って、参考テーマの一覧表を見ました。すると、「遊園地で調査」というのがありました。

「え? 遊園地? 遊んで卒論書けるの?」と思い、豊島園遊園地の人間行動調査を卒業論文のテーマに選びました。

先輩が2年程すでに調査していて、蓄積されたデータがありました。しかし、それを見ると全て手描きで、豊島園の中で皆が動いている軌跡がひたすら手描きでトレペに描かれていて、膨大な量がありました。

ちょうどコンピュータを覚えたばかりでしたので、これをデジタル化して分析したら面白のではないかと考えました。

膨大な数値データの座標をひたすら電子計算機に入力し、ここから何を読み取ってどう設計に活かすのか、いろいろ悩みました。そんな時に、FORTRANの講習会で親しくなったIBM の人に「そのようなデータがあるなら、シミュレーションをやってみたら?」と言われました。

「シミュレーション」という言葉もそこで初めて知ったのですが、これも衝撃でした。

「それだけ人間が動いているデータがあるなら、その動きを反映した行動の予測ができるじゃないか」と言われ、「遊園地の配置をこう変えたら、思ってもいなかった別の場所が混んだり空いたりするという予測ができるコンピュータのプログラムがある」と教えてくれました。

「それは何ですか」と聞いたら、GPSS(General Purpose System Simulator)だと言われました。

そこで、今度はこれに夢中になりGPSSを散々いじって覚えました。そして、自分でデジタル化したデータを使って、GPSSで豊島園遊園地の中で人が動く行動モデルを作り、それを卒論にまとめました。それが1969年です。

豊島園遊園地における観客流動計画(1969)(資料提供:渡辺仁史氏)

T:先ほどおっしゃっていた卒論の参考テーマ一覧というのは、研究室配属が決まった後にあったんですか?

渡辺:当時の早稲田大学の建築学科は、学部生の時は研究室配属というのはありませんでした。けれど、各種書類に捺印を押してもらう先生は決めなければいけないので、卒業論文の指導教授として池原義郎[1928–2017]先生の研究室に行くようになりました。

池原研では、ほとんどがガウディの研究や設計の話ばかりだったのですが、たまたま池原研の博士課程に在籍しながら、仕事は国土計画(編注:後の西武鉄道グループの不動産会社「コクド」)の堤義明[1934-]さんの秘書でもあった人が豊島園の企画を担当されていた関係で、「豊島園の調査」というテーマが挙がっていたのです。

T:その方はどなたですか?

渡辺:中村良三[1942-]さんです。中村さんは、博士課程に在籍していたけれども、本業の国土計画にいたこともあって、卒論の打ち合わせなどは全て国土計画の会議室で行いました。

T:ご一緒に『APLによる建築計画技法』(中村良三・渡辺仁史・位寄和久, オーム社, 1981)を書かれた方ですね。

渡辺:そうです。その前に池原先生、中村さんと一緒に日本建築学会に出したいくつかの論文をまとめたものです。

『APLによる建築計画技法』(中村良三・渡辺仁史・位寄和久, オーム社, 1981)

師・池原義郎先生からの誘い

渡辺:池原(義郎)先生は設計ばかりやっていると思われていますが、実は数学の天才なんです。学生の時も「君はできるから試験受けなくていいよ」と構造の先生に言われたほどです。そんなことを池原先生は絶対に口に出さないので、あまり知られていません。

池原先生の建物は部材が細いように見えますが、実はほとんどご自分で計算して決めています。「西武ライオンズ球場」[1979]を設計した時も、待ち行列の本を読んで勉強して、改札口の数を自分で計算して増やすことを決めたそうです。設計の規模や配置を決める際に、数学的な手法を使うという考えを、元々持たれていたのですね。

私の卒論についても、池原先生はシミュレーションに非常に理解があって、それをもっと進めてみるようにと言われました。

私は、本当は4年の始めに大成建設の設計部に就職が決まっていました。当時は大手の建設会社にそれぞれ40人ほどが行っていて、希望すればどこにでも入れる時代でした。ですので、就職するつもりでしたが、秋に卒論の発表をしたところ、池原先生から「卒論でやったシミュレーションを建築の分野でもっと広めていくべきだから大学院に残ってやらないか」と言われました。けれど、「お金がないので就職するしかない」と答えたところ、奨学金を何とかするからと本当に奨学金を取ってくださり、それで大学院に進学することになりました。

インタビュー中の渡辺仁史氏(撮影:長﨑)

渡辺:池原先生からはもう一言、印象深いことを言われました。大学に残るよう勧められた際、私はもっと研究以外の建築のこともやりたいと言いました。すると、「この研究は非常に大事だ。東大では鈴木成文[1927–2010]さんなどが人間の行動や暮らし方の研究をしているが、早稲田はカタチ、カタチと言っていて、建築計画系では理論的なアプローチをしていない。これからはそういう人が必要だから、とにかく渡辺君残れ」と言われました。

また、「渡辺君は器用だからすぐ図面に手を出して設計に取り組むかもしれないが、それだけは許さん、ひたすら研究をしろ」とも言われました。それを約束し、大学に残ることになり、助手にしてもらいました。

実は、大学院の2年間の書類上の所属は穂積(信夫)研だったのです。当時の大学院生は研究室ごとに別々にならず、大学院生室のような部屋があって、みんな一緒にいたので、あまり先生も気にしていなかったですね。同級生や先輩後輩も、みんな「渡辺君は池原研だった」と思っています。しかし、事務の手続き上の問題で、実は違ったのです。後で気づき、博士課程に進む際に池原先生から、「いろいろ調べたら渡辺君は修士課程は穂積研になっているけど、池原研でいいのかな」と言われ、「え? そうなんですか?」という感じでした(笑)。

卒業設計にもシミュレーションを生かす

T:卒論の後、卒業設計もありますよね。卒業設計では何をされたのですか?

渡辺:ちょうど1969年は海洋開発がブームの頃でした。それで、海中で暮らすというプロジェクトを提出しました。沖縄海洋博のアクアポリスを設計された菊竹清訓[1928–2011]さんよりも先です(笑)。

トラスで構成された大きい球の中に人が住めるような空間(基本ユニット)を作り、それを海に浮かせてパイプの海中通路で繋いだ計画です。台風が来たら沈めれば大丈夫という想定でした。

球を連結しているパイプの中を移動するのに、どこかに流れが集中するとか交錯しないように、物と人の流れと溜まりをコンピュータシミュレーションして、適切なところにバッファをつくるとか、流れの方向を決めるといった動線計画をしっかりやりました。

卒業設計「OCEAN ENVIRONMENT SYSTEM DESIGN」(1969)(資料提供:渡辺仁史氏)

T:卒論でやられたシミュレーションが卒業設計にしっかり生かされているんですね。

渡辺:そうです。池原先生のところにいたので、その頃からもちろん形には関心がありました。けれども、早稲田はデザインが得意な人が多いので、形で勝負してもダメだから、何か違うことをやろうと思っていました。

最初に発想した形をシミュレーションによって整理することで、建築として必要な規模や配置を決定するためのスペックを設計条件として与えるということの重要さに気づいたのです。スペックだけしっかり決めておけば、形を丸に変えようが三角だろうが、中の人と物の動きに混乱は生じませんから。そのように、設計をサポートするようなことを研究していこうと決めて、大学院以降はひたすら建築計画に行動シミュレーションを応用することをやっていました。

すでに、東大の山田(学)先生はGIS(地理情報システム)を使った地形の特性やモデル化をされていて、人間の行動シミュレーションには強い関心を持たれていました。CAD5の他の先生方(編注:阪大の笹田剛史氏、京都工繊大の山口重之氏、熊大の両角光男氏)はどちらかというとコンピュータを利用して形をつくるということに特化していたと思います。そういう意味では、関西グループはどちらかというとデザインとしてのCADで先進的でした。

T:関西の笹田先生、山口先生、両角先生はCADで形をつくり、関東の山田先生と渡辺先生はシミュレーションで中身を検討されていたということですね。

Ik:西はプレゼンテーション的な使い方、東は分析的な使い方を模索していたとも言えそうですね。

マルコフモデルと建築

Ik:年表の1970年のところに、「日本建築学会大会に初投稿「空間における行動特性の研究」で、マルコフモデルによる流動モデル」とあります。マルコフモデルと出会ったのは、何かきっかけがあったんですか?

豊島園遊園地におけるゾーン間移動の遷移表(マルコフプロセスの表による表現)(資料提供:渡辺仁史氏)

渡辺:マルコフモデル(★3)については、東京都立航空工業短期大学の川野洋[1925–2012]先生という方が書かれた『芸術情報の理論』(新曜社, 1972)という本で知りました。その中に、形のパターンを乱数でジェネレートするやり方や、乱数にルールを加えて出す方法などが載っていました。

Ik:その頃から、マルコフ連鎖のようなものは流行りはじめていたんですか?

渡辺:世の中でどのくらい流行っていたかは分かりませんが、私は「これは使える」と思いました。刻々と変わる人間の移動の軌跡をどのように整理しようか迷っていた時に、表で整理できるということを教えてくれたのが、マルコフモデルでした。

コンピュータそのものにも興味がありましたが、コンピュータを使って何をどう表現するかということを刺激されるような新しい数学的理論が、次々に発表された時期でもあったように思います。これは使えるのではないか、あれは使えるのではないかと、いろいろなものを試してみました。

Ik:その頃から取り組まれていたんですね。

渡辺:マルコフモデルは非常に刺激的です。当時、相田武文先生[1937-]が大学のすぐ近くでマンションを設計していました。その際、マルコフモデルを使って壁面に貼るタイルのパターンを検討するお手伝いをしました。

3~4種類の色と形が異なるタイルを左官職人に「適当にランダムに貼ってくれ」と頼んでも、どうしてもどこか規則的になってしまい、ランダムに見えないという問題があったのです。

そこで、4色程度で描かれた相田先生の好きな絵を指定してもらって、その絵画の中の色の出現確率を、マルコフモデルで整理したのです。その出現確率をもとにモンテカルロシミュレーションを行って、次にどの形と色のタイルを貼るかを計算で決めて、その通りにタイル屋さんに貼ってもらいました。今でも明治通り沿いに見ることができます。

川野さんは、「乱数」はでたらめではなく、出てくるパターンの頻度をしっかり表現できるものだと書いています。つまり、マルコフモデルは、次に何が来るのだろうという驚きを表現できるので、これは建築デザインにも使えるのではないかと思い、タイル貼りに応用したり、人間の行動モデルをつくったりしていました。

沖縄国際海洋博覧会の観客動線をDYNAMOで解析

渡辺:修論を書いて博士課程に進んだ1972年に、山田(学)先生がいきなり研究室に来られて、「3年後(1975年)の沖縄国際海洋博覧会での会場計画や観客動線のシミュレーションをやりたいので、一緒にやってくれ」と声をかけてくださったのです。

山田先生は、駐車場での車の動きのシミュレーションをされていました。けれども、会場の中の人の動きについてはやっていなかったようなのです。私は卒論で人の動きのシミュレーションをしていましたから、その発表論文を見つけられて声をかけてくださいました。それからは頻繁に東大に通うようになりました。

沖縄国際海洋博覧会動線計画(1975)(出典:浜田啓・渡辺仁史・中村良三:観覧会場内の観客流動モデル, 都市計画論文集8, pp.159–164, 1973.10)

T:この時が、山田学先生との初協働ですか?

渡辺:そうです。73年からはGPSSではなくてDYNAMO(編注:ダイナモ:System Dynamics 時間と共に変化するシステムの挙動を理解し、予測するための数学的な手法)でやりました。

GPSSというのはパチンコの玉のようなイメージで、行動シミュレーションをするには1人1人の動きを拾わなくてならず、非常にたくさんのデータを扱うことになります。

一方でDYNAMOは、全体の流れを水が流れるようなまとまりとしてとらえられるのです。待ち行列など人間一人ひとりの動きというより、群集のように水が流れるような行動をシミュレーションができないかということで、DYNAMOでやり始めたのがこの頃です。

1年間でほぼプログラムが完成して、1973年の春には博覧会協会に結果をお渡しして、条件を変えた様々なケースを検討し、会場計画に利用していただきました。そして、日本都市計画学会に論文を書きました(浜田啓・渡辺仁史・中村良三:観覧会場内の観客流動モデル, 都市計画論文集8, pp.159–164, 1973.10)。

海洋博に関連してシミュレーションをやった膨大な資料や結果は、博覧会終了後に協会から散逸して、記録に残っているのはこの論文だけで、他に何も資料がないんです。

この計算は、三菱総研にあったIBMのSystem/360(編注:IBMが1964年に発表した、一台で様々な業務に対応できる世界初の商用大型汎用コンピュータ)を借り切って、山田先生もほとんど徹夜で一緒にやりました。1回のシミュレーションが大体1昼夜かかるのですが、出てきた結果がエラーだと、そこだけ1枚パンチカードを差し替えてもう1回入れて、翌日になってもまだやっているというぐらい大変な計算量でした。

Ik:360も使われていたんですか。かなり大きなものですよね。

渡辺:そうです。置き場所にワンフロアとっていたくらいでした。コンソールの前で見ていると、エラーになったか上手くいったかがインジケーターの点滅パターンでわかるようになって、「あ、上手くいった」と喜んだものでした。これを機に、シミュレーションは、建築企画や計画に実際に使えるのだということを教えてくださったのが山田先生でした。

Ik:このDYNAMOはいつ頃からあるものですか?

渡辺:GPSSと同じ頃でした。GPSSを知った時に同時にDYNAMOの存在は知ってはいましたが、意味が分からなくて、その時は待ち行列型にしか興味がなかったのでGPSSをやりました。

Ik:DYNAMOってデータベースのお化けのようなものですよね。

渡辺:そうです。未来の世界を予測する世界モデルをローマクラブが1970年に発表して一躍有名になりました。それをDYNAMOというシミュレーション言語でやって、あれで最初に使われて人気になりました。でも、あれはたぶんIBMの機械でしか動かなかったのではないでしょうか。

海洋博の会場はタツノオトシゴのように長く、その中心部の飛び出したところに、菊竹(清訓)さんが設計した海に浮かんでいるプラットフォーム(アクアポリス)が計画されていました。そして、当初の計画では、一番那覇に近いところがメインゲートになっていました。

メインゲートから奥の方へ人を誘導するために、CVS(Computer-controlled Vehicle System)という交通システムで人を運ぶという計画でした。しかし、駐車場に到着した人はほとんど歩いていくため、感覚的には奥まで行かないと分かっていました。CVSをフル稼働させても、予想通り人は奥まで行きませんでした。さらに、メインゲート近くに食のクラスターがあり、立ち寄り率が高いため、ここで渋滞してしまいました。

それで山田先生と検討し、協会は賛成しないかもしれないけれども、会場の中心にメインゲートを作るシミュレーションを行いました。すると、バランス良く人が流れました。奥の方には広い土地があり、駐車場を手前で処理しなくても、車で1キロぐらい先まで行くのは大変ではありません。「中心にメインゲートを置けば人の流れがこんなに違います」と協会に示したところ、すぐに会場計画を変更してくれました。

この出来事で、シミュレーションが大規模な計画を変えられると実感しました。その後、シミュレーションの成果を確認するために、1975年の夏の暑い時に現地へ行き、中の観客の断面交通量を測りました。

T:シミュレーション通りでしたか?

渡辺:シミュレーション結果は8割がた正確でした。シミュレーションで8割の精度があるというのは、勘に頼って50%の成功率よりずっと良いですよね。100%の正確さは求めていなくて、傾向が予測できれば十分です。経験と勘に頼るより、シミュレーションは明らかに優れています。さらに、それを検証できたことが大きな成果です。

博覧会協会は通常、イベントが終わると解散してしまいますが、主導していたのが山田先生と同期の南條道昌[1939–2010]さんで、日本国内の大規模な計画をすべて手がけていた方でした。大阪万博から関わっており、私もその関係で、つくば博や花博などその後のイベントの観客シミュレーションを任されました。

10年ほど前、南條さんの事務所(都市計画設計研究所)に遊びに行った際、報告書があったので、後で取りに来ようと思っていました。しかし、その後2~3年で南條さんが亡くなり、事務所が大整理されてしまったようで、もう見つからないのが残念です。

シミュレーションで建築情報学を開拓

T:1973年の「設計計画におけるオートマトンモデル」というのはどのようなものですか。

オートマトンを応用した家族の住宅購入のための意思決定モデル概念図(出典:渡辺仁史「設計計画におけるオートマトンモデル」建築雑誌(日本建築学会), p.1194, 1973.11)

渡辺:オートマトン(自動機械)(★4)というのは、確かにマルコフプロセスと関連があります。オートマトンは数学的なモデルであり、特定の規則に基づいて状態が次々に変化していくシステムを表現できます。マルコフモデルを基にしたオートマトンモデルは、多くの場面で利用されています。特に、電子計算機のシミュレーションにおいて、オートマトンは重要な役割を果たしています。

私が依頼されて『建築雑誌』に初めて執筆したのは、このオートマトンモデルに関連するテーマでした。その頃、情報システムと建築の結びつきが注目されていましたが、その動きを牽引したのが太田利彦さんや池辺陽[1920–1979]研究室のメンバーであったと記憶していますね。

T:建築情報学の夜明けといえる時期でしょうか。シミュレーションにも注目が集まりましたか。

渡辺:今思い出しましたが、1970年の大阪万博の時に、電気通信館の流動計画で、当時の電電公社の吉田邦彦さんが、館内の観客流動シミュレーションをやられていました。それが実は人間行動のコンピュータシミュレーションの最初のものです。これをきっかけに、これからは設計とか建築の器のデザインではなく、中で暮らす人の行動を予測して配置計画とか規模計画を決めることが大事だと気づかされました。

T:そのような時期に、これまでやられてきたことをまとめて『建築雑誌』にオートマトンモデルのことを書かれたのですね。これを踏まえて、博士論文を書かれたということですか。

渡辺:他にもいろいろなシミュレーションをやって、それらをまとめたのが博士論文「建築計画における行動シミュレーションに関する研究」(★5)です。

初期の著作について

T:先生は著作もたくさん書かれておられますが、一番初めに書かれたものはどのようなものですか。

渡辺:共著としては1971年の『システム理論序説』(オーム社)です。これは早稲田大学の商学部の松田正一[1913–1992]先生の本です。松田先生は千葉大学出身で、日本で初めてDYNAMOのシステムダイナミクス理論を日本に持ってきた人です。それでDYNAMOと結びついて、私の学位論文はその松田先生に審査してもらいました。建築の先生は誰も分からないからです。松田先生から、「渡辺君、そこに建築への応用、数学的なモデルをどのように応用したかというのを数ページ書いてくれ」ということで書かせてもらったのが、私の最初の執筆でした。

T:71年というと、大学院修士1年生ですね。

渡辺:かなり幼稚な内容なのに、これでいいのかと思いながら書いたのですが、その時にシステムダイナミクスという考え方があるということを松田先生から教わり、DYNAMOに辿り着いたのです。

T:それが沖縄海洋博につながるのですね。1974年の『建築家のための数学』はどのような本ですか?

松井源吾編著『建築家のための数学』彰国社, 1974

渡辺:これは構造家の松井源吾[1920–1996]先生の本です。松井先生は構造設計がご専門ですが、私は構造デザイナーだと思っています。早稲田大学理工学部51号館は安東勝男[1917–1988]先生の作品ですが、これにも大きな影響を与えています。構造はとにかく外に見えなくてはならないということで、「構造の力の流れがデザインそのものなのだから、安東君、これ外に見せよう」と言って、ブレースがそのまま外観を特徴づける建物になりました。

Ik:『建築家のための数学』はどのような内容なんですか?

渡辺:これも色々な分野の方々の共著で、私が担当したのは、乱数の話と、マルコフモデルの話と、オートマトンも少し紹介する内容でした。数学の先生が見たら、なぜこんな幼稚なことを書いているのかと思うくらい簡単な文章ですけれども。

T:これまでやられてきたような行動モデルの数学的表現ということですね。

渡辺:そうです。行動モデルの数学的表現です。

池原研にコンピュータを導入

T:年表の1978年に「IBM5110ポータブルコンピュータ導入(APL&BASIC)」とあります。

1978年(発売当時)にIBM5110ポータブルコンピュータを導入(資料提供:渡辺仁史氏)

渡辺:私はコンピュータを使っていた初期の頃は、IBMに育てられていて、IBMのアイコンとかカラーとかマシンデザインが、国内の他のメーカーなどが作っている大型コンピュータに比べると非常に垢抜けたデザインで、それには憧れていました。

GPSSをやっていた頃はまだパソコンのない時代でしたから、大型コンピュータで丸1日かけて動かして、非常に大変なものでした。もっと手軽に動かすことはできないかと思っている時に、IBMがA Programming Language、APLというものを発表しました。それまでFORTRANで数百行書いていたプログラムが、なんと10行で同じことをやってくれます。Do Loopを書いて判定文を入れたら非常に長くなるのに、APLだとマトリクス計算で1行です。元々マトリクスを扱う数学ですから、右から左に計算していくとか、それが面白くてAPLを散々やりました。

しかし、大型計算機でしか動かなくて、早稲田もその後IBMの大きな機械が入っていたので、大学の中では使えていたのですが、もっと手軽に使えないかと思っていたところに、1978年にIBMがデスクトップの大きさの、恐らく世界で最初のポータブルコンピュータだと思いますが、それがBASICとAPLが動くマシンだったので、もうこれしかないと思って、池原先生にお願いして買ってもらいました。

T:池原研にそのコンピュータを導入されたということですね。このコンピュータは渡辺先生以外も使われていたんですか?

渡辺:早稲田大学の研究室というのは、そもそも狭いのですが、池原先生の設計のスペースと、我々のスペースが同じぐらいで、池原先生は随分我慢して設計をやられていました。

T:半分コンピュータが占拠しているんですね。池原先生は学校でしか設計されないんですか?

渡辺:当時の池原先生はご自分の設計事務所がなかったので、全て大学で設計されていました。

T:全て学校で仕事をされていて、半分コンピュータが置いてあったんですね。

渡辺:研究室に置けないので、プリンターなどは廊下に置いていました。

T:設計とコンピュータ系とは、やっているメンバーも全くちがうんですか?

渡辺:全然ちがいます。設計をやっている人たちはかなり遠慮して、我々が威張って部屋に出入りしていた感じでした。

T:一緒にプロジェクトを協働されるということもないのですか?

渡辺:池原先生の設計そのものを我々がお手伝いしたことは、一度もないのです。西武球場の設計でも、ゲートの規模計画や動線計画は、池原先生が何でも自分でやられていました。

T:そこでシミュレーションを渡辺先生がされることはなかったのですか?

渡辺:池原先生は、研究室のシミュレーションの有効性は十分に理解されていました。唯一の共同プロジェクトといえば、我々の主たる行動調査の対象地であった、西武園のリニューアル計画です。ここでは、我々のやったシミュレーションの論文などを参考にされて、園内設計をされていたと思います。西武球場の改札ゲートの数を決めるときも、コンピュータシミュレーションではなくて、避難計算を手でやられていました。

Macユーザーで居続けるきっかけ

渡辺: 1983年から1年半、私はカナダのブリティッシュコロンビア大学に在外研究員として行きました。1984年、帰国する直前にデパートのソフトウエア売り場に行ったら、そこにトースターのようなものがあったのです。「これ何?」と聞いたら、Macintoshというコンピュータだというので驚いたのです。とにかく欲しくなって、日本に帰ってきてから手に入らないか探しました。

当時日本ではキヤノン販売がMacを扱っていました。大学に出入りしていたキヤノンの人をよく知っていたので、とにかく絶対1台欲しいということで、日本に当時20数台しか入ってこなかったらしいのですが、そのうちの1台をなんとか手に入れてくれとお願いして研究室に入れてもらったのが80年代後半です。

T:Windowsは使われないのですか。

渡辺:いまだにWindowsを扱うのは、私は得意ではなくて、DOSの時代にPC98でBASIC言語を使ってプログラムを組んだのが最後です。

最初のMacintoshが発売されて、それを手に入れてから、ますますWindowsから離れてしまい、研究室でも「先生分からないのですか」と馬鹿にされました。

そもそも、左下にいろいろなメニューが立ち上がるという感覚もピンとこないわけです。上からプルダウンで必要なプログラムを引っ張ることばかりやっていましたから。

そのインターフェースには付いていくことができませんでした。そのため100台とは言いませんが、研究室に導入したのはMacだけになったのです。

Ik:渡辺先生がMac、Macと言われていたのがずっと耳に残っています。笹田剛史先生のところの皆さんがWindowsだったので、Windowsと言ってもその頃はMS-DOSでしたが、そちらをやらないと仲間外れになるんですよね。渡辺先生だけがMacでしたね。

渡辺:そうだったかもしれませんね。コンピュータに惚れたのではなく、Apple社の思想のようなものに惚れたのです。Macを使うことで、コンピュータで何かをやるのではなく、使っているうちにデザインの思想のようなものが分かるのではないかと感じました。

インターフェースはどうあるべきか、新しいものをクリエイトする時は人を真似してもいいのか、そういったジョブズの思想のようなものを、Macを触っているうちに学生が体感できるのではないかということがあって、敢えてMac、Macと言い続けていたところがあると思います。一番初めのMacは、128KBで当時百何万円しましたね。

1984年発売当時に導入した初代マック(Macintosh 128K)と渡辺氏(資料提供:渡辺仁史氏)
1989年発売当時にはApple初のポータブルコンピュータMacintosh Portableを導入(資料提供:渡辺仁史氏)

T:カナダに行かれたのはなぜですか?

渡辺:これまでにも避難シミュレーションをやっていて、世界で唯一UBC(ブリティッシュコロンビア大学)に避難のことをきちんと研究されている方がいました。コンピュータでシミュレーションはしていませんでしたが、避難計画というのはこれから建築の規模と配置を変える割と大事なことだというのはなんとなく思っていて、世界ではどうなっているのかを知りたくて行きました。

Ik:カナダというのは、とくに繋がりがあったわけではないんですか?

渡辺:全くなかったです。受け入れ教員はシートン先生という建築の先生ですが、人間の行動研究をしている人は、建築の分野では世界中で見てもほとんどいなかったのです。身体的な動きの研究とか心理の研究はやっているけれども、建築の空間とか、都市空間と人間の行動という研究者は見つけられませんでした。

カナダに行って帰国した後から、あまり自分でプログラムを書かなくなりました。これは、世の中に使えるアプリケーションが多く出回るようになったことと、もう一つの理由として、カナダに行く前から妻が病気を発症し始め、カナダ滞在中にカルチャーショックを受けたことで、帰国時にはほとんど衰弱しきっていたためです。それ以降、私は2011年に妻が亡くなるまで、ほとんど大学の研究室に行かず、看病に専念していました。そのため、自分でプログラムを書く余裕もなくなり、以降は自分の手でモデルを作成することもなくなりました。

さらに、人材がどんどん育っていったこともありました。木村謙君(A&A)も育って、渡辺俊君(筑波大学教授)などが成長し、私がやらなくても彼らが仕事を引き継いでくれるようになったのも、この頃のことです。私が授業に出られない時には、俊君や木村君が代わりに授業を担当してくれるようになりました。ですから、私にとってカナダに行く前と後では、状況が全く異なるものとなったのです。

また、Macユーザーということでは、そうなるきっかけがありました。1977年に山田学先生の研究室に行ったら見慣れないものが置いてあって、それがApple IIでした。その時に初めてスティーブ・ジョブズ[1955–2011]の存在を知りました。その時はまだIBMに傾倒していたので、Apple IIを導入してまで何かプログラムを書くということはありませんでした。

新宿西口地下歩道の拡幅シミュレーションに携わる

渡辺:池原先生の同期には坂倉建築研究所の阪田誠造[1928–2016]さんがいます。阪田さんが新宿西口の計画を見直す必要がある時、池原先生に相談に来られました。デザインの相談に来たのに、池原先生は「渡辺君、ちょっと」と呼びかけ、「流れが上手くいっていないみたいだから、渡辺君、阪田さんの面倒を見てあげて」と言われました。そこで私は坂倉事務所に行き、図面をもらって新宿西口のシミュレーションを行いました。

T:それは何年頃ですか?

渡辺:1984年ですね。カナダから帰ってきてすぐに呼ばれました。

坂倉事務所の案では、地下を歩道にして車を上に上げるような計画でしたが、新宿区や東京都がこれに大反対だったようです。やはり車は地下を通さなければならないということで、歩道を寄せるしかない。ではどれくらい寄せるかということで相談に来られました。池原先生は「車の通りがそんなにないので、1メートルくらい寄せてもいいんじゃないですか?」と言いましたが、しっかりした証拠が欲しいということで、流動調査を全て行うことになりました。

そのデータをもとに、もし超高層ビルが一棟増えると流動人口が1万人増えると仮定し、新宿副都心完成時に、どこで流動がパンクするか調べました。結果、新宿スバルビルの前の地下部分(大きなガラスの目玉があるところ)でかなり厳しい群集密度になることが分かりました。そこで、階段で向こう側に渡る地下横断歩道をなくして、通路を少しでも広げるか、または新宿三井ビル側ではなく反対の京王プラザ側の歩道に誘導するような仕掛けをして流れを分散する案も検討しました。

けれども、今はもう地下商店街になっていますが、当時大駐車場があって、駐車場を潰して向こうに渡れるようにすればいいのではないかと考えました。その効果を計算した結果、半分こちらに流せば問題は解決することがわかりました。そこで駐車場を廃止し、向こうの郵便局の方に流れるようにしました。それで大きく改造する必要はなくなり、あとは環境改善として蛍光灯を増やしたりしました。これが現在の新宿西口の地下通路です。

その調査が面白いとNHKが取材に来て、『トライ&トライ』という番組でその様子を放映しました(1987年6月22日(月) 19:30〜19:58「あなたならどうする・危険発見人ごみ大実験」)。「シミュレーションの結果を流してほしい」とお願いしましたが、NHKは調査の様子や人がたくさん流れている場面だけを映しました。それでも番組は非常に上手くまとめられ、教材としてはとても良いものでした。

ヤマハのパソコン

T:1982年に「YAMAHA YISパソコン導入」とあります。ヤマハもパソコンをつくっていたのですか?

渡辺:あまり知られていないのですが、YISトータルシステムを作っていました。私は浜松出身なのでヤマハの人を知っていて、ヤマハもこれからコンピュータ分野に進出するので、コンピュータを作ったから見てほしいということで浜松に見に行きました。

すごく綺麗なグラフィックで、とは言え640×480ピクセル程度ですが、当時はせいぜい8色しか出ていない頃に256とか全色に近い色が出るパソコンがあって、欲しいと言ったら、「じゃぁ1台研究室に貸すから」ということで借りました。

Ik:当時最高レベルですね。

渡辺:時代を先取りしていたというか、当時まだ16ビットパソコンのPC-9801は登場してなかった時代に先進過ぎたコンセプトのシステムだったような気がします。

そのヤマハのコンピュータを駆使して1冊だけ本を書いたのが、1983年の『パソコンによる建築グラフィックス』です。

YIS(Yamaha Integrated System)というシリーズで、楽器などとも連動した新しいコンセプトを次々にやろうと言っていましたが、高すぎたのか性能が良すぎたのかでヤマハとしても全く売れませんでした。ヤマハとしてのコンピュータは、この1モデルだけだと思います。

渡辺仁史『パソコンによる建築グラフィックス (1) 』培風館(1983)

西武と池原研

T:『建築雑誌』1986年4月号に寄稿された記事「AI」で、人工知能第2ブームの頃にエキスパートシステムのお話をいろいろ書かれていますね。

渡辺:私が直接エキスパートシステムを作ったのではなくて、研究室の卒論生がエキスパートシステムに非常に興味があって、これを使って西武が建てた建売住宅を選択する時に顧客にあった最適なものをコンピュータが選ぶというシステムをつくりました。

T:西武ですか?

渡辺:西武建設です。先にも話題に出た中村良三さんが親会社の国土計画から西武建設に移られた時に、その当時に西武建設で扱っていた「西武注文住宅」というのがあって、そのお客さんとのマッチングに何か面白いことができないかという話がきっかけです。渡辺俊君がオーストラリアの調査から帰ってきた頃で、エキスパートシステムについて、これからはこれだと盛んに言っていた時だったと思いますが、それに刺激されて、研究室でも「エキスパートシステムで住宅を選ぶ」を実現しようということで作りました。

Ik:あれは渡辺俊さんですか。渡辺仁史先生だと思っていました。

渡辺:この頃からもう、私のオリジナルの成果はほとんど何もないです。ここから先は研究室の成果なのです。

T:たしかに、後半のご著書はほとんど研究室主体で出されていますね。先ほどの中村良三さんは重要なキーマンなのですね。中村さんが西武に行かれたのは池原先生の繋がりなのですか。

渡辺:逆です。中村さんの国土計画への就職が先でした。まだ池原先生が講師ぐらいで独立した研究室を持たれていなかったので、中村さんは吉阪研に所属していて、そこから国土計画に入ったのです。中村さんの国土計画就職の時の要望は、当時、会社に博士課程を終えた人は誰もいなかったので、仕事と同時に、大学の博士課程にも行かせてほしいというものでした。堤義明の秘書的な役職だったので、すぐにOKが出て、具体的には新しく発足した池原研究室に在籍することになったのです。その頃、国土が軽井沢の鬼押出し園に展望レストラン(「岩窟ホール」[1970])を作りたい、誰に頼もうかということで、中村さんの所属している池原先生にお願いしようというのが、最初のきっかけでした。それから西武と池原先生の繋がりができ、「西武球場」[1979]をはじめとして、「広島プリンスホテル」[1994]など、西武関係の施設設計の多くを池原先生が担当するようになりました。

T:いろいろな背景が見えてきました。

避難シミュレーションに取り組む

T:その後、『建築雑誌』1987年6月号に建築計画部門研究協議会の記録として「コンピュータと避難シミュレーション」のことを書かれていますね。

渡辺:千日ビル火災(1972年)の頃から、避難シミュレーションの必要性が急に注目され始めました。1980年あたりから、私たちの研究室でも避難シミュレーションを行うようになりました。その背景には、竹中工務店に勤務していた池原研の先輩、故吉田克之さんの影響があります。吉田さんは設計部に所属しながらも、防災計画の初期担当者として活躍されていました。

吉田さんは、「階段で詰まってしまい、待ち行列がたくさんできる」と問題提起していました。待ち行列ならGPSS(General Purpose Simulation System)で簡単に計算できるということで、竹中工務店が行った大手町のサンケイビル全館避難のシミュレーションを私が行いました。当時、戸川喜久二先生(建設省建築研究所)らによる従来の避難計算は非常にスタティックで、一つの状況の数値しか出ないものでした。しかし、実際には数値は刻々と変化するものであり、避難に要する時間を正確に計算するためにはシミュレーションが必要だと考えました。吉田さんも自身で勉強し、竹中工務店で避難計算プログラムを作り始めました。

Ik:全館避難安全検証法というのは、1970年代ぐらいからありましたか?

渡辺:私が知る限りでは、多分、私が当時の池原研の卒業生を指導して行った、早稲田大学の高層研究棟からの全館避難の検討が最初ではないかと思います。パンチカードで情報を入力して、大型計算機で1日がかりで計算しました。

その結果の一つは、全て同じ階に同じ人数がいるとしたら地上から遠い階のほうが不利だから、上から逃がした方がいいのではないかという人もいるし、下からの方がいいのではないかとか、さらに同時が一斉に避難するのがいいのではないかとか、様々な意見に対して、そのすべての状況に対してパラメータを変えてシミュレーションしてみると、下の階の人から先に逃がしたことで階段室内が常に空いているということになりました。言われてみればそうですよね。ですから、警報を出している人間は何秒間か差で下から順に流していくと恐らくスムーズにいくのではないかというようなことをやったのが、全館避難についての初めての科学的な検証ではなかったかと思います。

T:避難シミュレーションについて吉田克之さんと一緒に研究されているのは1973年ですね(渡辺仁史・池原義郎・中村良三・吉田克之・浜田啓「人間-空間系の研究VI(空間における人間の状態モデル):オートマタ理論による建物からの避難行動の解析」日本建築学会大会講演梗概集, pp.641–642, 1973.8他2編)。

渡辺:それは竹中工務店が設計施工したサンケイビル(「産経会館」[1955])のほうですね。その時は、シミュレーションと言っても、ほぼ手作業で計算しました。

その後、たくさんの需要があって、いろいろな人が関わってきたので、竹中を中心にして新しいプログラムを作ろうということで、A&Aに行った木村君が図面と避難シミュレーションをドッキングさせるようなものをつくって完成したのが、歩行者シミュレーションソフトの「シム・トレッド」(Sim Tread)です(★6)。それが、2010年にグッドデザイン賞をとりました。

私は20年ぐらい防災評定の委員会をやっていたのですが、大規模複合建築物が増えるにつれ、戸川式の単純計算ではカバーできず、ある程度の階以上の建物については必ず避難シミュレーション結果が防災計画書と一緒に求められるようになり、各社で独自の避難シミュレーションプログラムを作るケースが増えました。

葛西臨海水族園のシミュレーション

T:1987年に葛西臨海水族園を手掛けられていますね。

渡辺:池原研の卒業生が谷口吉生[1937-]建築研究所に就職していて、彼が葛西の水族園の設計を担当していました。水槽の配置について、水族園側から、「この配置では具合が悪いのではないか」「最初に目立つ水槽を見せてしまうと、そこで人がつっかえる」などの懸念が寄せられ、説明に困っていました。そこで、「渡辺先生が昔シミュレーションをやっていたから、なんとかならないか」ということで相談に来られました。

このモデルの概念設計は一緒にやりましたが、シミュレーションの実行は渡辺俊君が担当しました。彼はまだ普及していなかったAI的な新しい言語を使って計算を行ったと思います。この時、水族園の設計では避難出口が考慮されておらず、2方向避難すら確保できていない箇所がありました。そこで、「バックヤードを介して避難できる出口を作ったらどうか」と提案し、通常の日常シミュレーションと避難シミュレーションの両方を行いました。その結果、避難出口を1つ追加するだけで、人の流れが随分と良くなることがわかりました。

東京都臨海水族園の観客流動予測(1987)(資料提供:渡辺仁史氏)

T:渡辺先生は直接は関わられていないんですか。

渡辺:園内での動線や通路の考え方、流れの方向の案を出すのは私が提案し、それをシミュレーションモデルに反映してもらいました。それ以外で私が計算したのは、ブリッジの玉ねぎに行くまでのアプローチの通路の幅です。あれだけは私が計算しました。でも、あれはシミュレーションをやるまでもなく、戸川式でやれば簡単に幅が出せます。

T:この後に、MoMA(「ニューヨーク近代美術館」[2005])でも協働されているんですね。

渡辺:そうですねMoMAでは、今もその通りですが、一番上にレセプションができる大きな会場を作る計画がありました。MoMA側はエレベーターだけで来場者を運びたいと考えていましたが、谷口さんはスムーズな動線を確保するために、上層階にもエスカレーターを設置すべきだと主張していました。しかし、MoMA側は「美術館の中にエスカレーターがあるなんてとんでもない」と大反対でした。

そこで、エスカレーターを設置した場合の効果を示すために、来館者の流れのシミュレーションを行いました。シミュレーションの結果、エスカレーターを設置することで来場者の流れが非常にスムーズになることが分かり、MoMA側も「それなら問題ない」としてエスカレーターの設置を許可しました。

こうしたシミュレーションは、快適性の評価だけでなく、安全性の向上を説得材料として利用されるようになりました。これによって、大きくプランニングを変更するような事例は少なくなってきましたが、シミュレーションの役割はますます重要になってきましたね。

T:1980年代を通じて、実際の建築空間にシミュレーションによる計画を実装されたのですね。

渡辺:逆に、その後は大手5社や設計事務所も、ある程度シミュレーションをできるようになりました。高価ですが、シミュレーションが可能なアプリケーションがたくさんあるので、それらを使って、表には出ないものの、すでに多くの場面で取り入れられています。例えば、日建設計の山梨知彦[1960-]さんの部署にも研究生が何人か行っていますが、そこで既にシミュレーションを実施していました。

最近では、「銀座の改札口のシミュレーションもやってほしい」と頼まれましたが、どうしてもうまくモデル化できないので、「先生、どうしたらいいですか?」と相談に来た女性もいました。計算をするだけの人が、計画のアイディアを出せなくなっているのです。言われた通りに数を増やしたり幅を広げたりするだけではなく、流れを逆にする、別のルートを作るなど、デザインそのものの提案ができないため、言われたことを計算するだけになってしまい、シミュレーションを面白く使えていないのです。

昔はシミュレーションのモデルを自分で作っていると、グラフのリンクが集中する箇所に気づき、「ここにバッファを作り、枝をこちらに振るとグラフがすっきりする」というようなデザインの提案が自然と生まれていました。本来、モデルを作っている人からデザインの提案が出るはずですが、それがなかなか伝わりません。これは、私のその後の指導努力が足りないのかもしれません。

T:分業しすぎているということでしょうか?

渡辺:直感が働いていないのだと思います。ザハ・ハディド[1950–2016]の新国立競技場案[2012]は、動線的に見ると非常に上手くできていて、避難のことを考えているのが分かります。あの形の中には、時間差を持って下に行けるというバッファゾーンとなる広いデッキがちゃんとあります。最近の建築はそういう「あそび」の部分が全くなくて、ひたすら階段で出ていくだけですよね。そういう、動線上良いということが形にも反映されているようなことを、本当はやりたいですね。

インタビュー中の渡辺仁史氏(撮影:長﨑)

五感の重要性

A:今お話を聞いていて思ったのは、恐らく面白くシミュレーションを使うという感覚を多くの人が持っていないのではないかと思います。

渡辺:そこで参考になるのがディズニーランドの作り方です。彼らは意図的に「待たせ」ています。スムーズに運営する方法はいくらでもあるのに、わざと待たせて期待感を向上させているのです。待たせ方も工夫されていて、一直線に長い列を作るのではなく、ジグザグ に折り返し、みんながアトラクションの近くで期待感を高めることができるようにしています。さらに折れ曲がりの前のほうが下がっていて、後ろで待っている人たちはアトラクションに乗っているのを見てワクワクします。このように、ワクワク感を意図的に作り出すために待たせているのです。人が少ない時には、今度はわざと間隔を長くして待たせ、ワクワク感を持たせる、そういう発想です。待っていても楽しいという発想が根底にあります。シミュレーションでは、兎角早く流すことが評価されますが、場合によっては、快適に待たせることで、システム全体としての効率や安全性を保つことができることもあります。

同じように、エレベーターの運行では、待ち時間を短くすることしか考えられていません。しかし、卒論の中で提案したのは、エレベーターホールにコーヒーの香りを流すことです。これを実際に試してみると、唾液や脈拍計で測った結果、イライラしないことがわかりました。つまり、待っていてもいい環境を作ることが重要なのです。シミュレーションの結果、避難時間が短いほうがいい、幅員が広いほうがいいというのは当然ですが、なぜ人間は待ち時間が短いほうがいいのか、その理由を考えるべきです。ストレスのない空間を提供すれば、ある程度の待ち時間も許容できるはずです。そういったことも含めてデザインする必要があると思います。

退職する前に、やっと五感に辿り着きました。五感はデザインには必須であり、五感を取り入れることでどのように気分が変わるかまでシミュレートできるシステムを開発したいと思っています。もっと若ければ、そのようなシステムを実際に作っているでしょう。現在は香りの研究をしています。エッセンシャルオイルや日本の香道などです。例えば、日本の旅館では、季節や湿度に合わせて焚く香りを変え、訪れる人をお迎えします。こうしたアイデアは、現代の設計者には欠けていると思います。

例えば、住宅で疲れて帰ってきたお父さんがドアを開ける時、何も特別なことがないのはもったいないです。アロマオイルを瓶に入れて仕掛けておき、ドアを開けた瞬間にフレッシュな香りがして、それだけで疲れが取れることもあります。また、インターフォンの「ピンポン」も見直すべきです。昔は、砂利道を帰ってくると「あ、お父さんが帰ってきた」と足音でわかりました。それなら、アプローチのところに意図的に砂利を敷いておけば、砂利の音で誰かが来たことが分かるなど、音や香りもデザインに取り入れるべきです。

こうした人間の動きや行動だけでなく、見えないものをどのようにデザインするか、そしてその効果までもシミュレーションすることがこれからの課題だと思います。AIやバーチャルシステムなどの新しい技術を積極的に活用し、これからの建築デザインに取り入れていくべきだと思います。

T:ここ(編注:渡辺仁史「情報化の人間への影響と建築の役割」日本建築学会総合論文誌(№4), p.55, 2006.2)でも茶室のお話が書いてありましたね。茶道のルールで、入口が少し開いていれば入ってくださいという合図だということで。

渡辺:茶室の静かな空間で、最後の人がにじり口を閉める際、そっと閉めるのが自然だと思います。しかし、実際にはピシャッと音を立てて閉めるのが礼儀とされています。なぜかと言うと、水屋にいる主人に全員が入ったことを知らせるためです。口頭で「もう入りましたよ」と言わずに、音で合図するわけです。現代の人々にはこのような伝統的な方法はなかなか通じませんが、このシステムの考え方を活かして、新しいデザイン支援システムを提案することができるのではないかと思います。

コンピュータによるデザインの新しい方向性は、こうした伝統的な知恵を取り入れつつ、刺激を与え、インスピレーションを引き出すことにあるのではないかと感じています。伝統的な方法を取り入れることで、現代の技術と融合させたデザインが可能になり、それが真のデザイン支援システムの方向性になるのではないかと思っています。

T:感覚ですよね。

A:一方で、例えばAIを使って自動でデザインが生成されるというような考え方もあると思いますが、今おっしゃっていたのは全くちがうような気がして、コンピュータを使ってどう感受性を豊かにできるかというような発想かと思うんですが。

渡辺:AIを使って自動生成をする若いデザイナーたちには、ただ見えるものだけを作り出すのではなく、人々の行動に基づいたデザインを提案するように指導しています。具体的には、どういう行動が期待されるのか、その行動に合わせて空間を透明にするのか、見通しを良くするのか、遮るのかを決めるのはデザインの役割です。

しかし、どのようにすれば快適でストレスのない生活を送れるか、そのスペックやストーリーをAIで支援することは可能です。AIは、期待される行動に基づいて、具体的なデザインのアイデアを生成し、それに基づいた快適な空間を提案することができます。これにより、より面白く、本来暮らす人に寄り添ったデザインが可能になると思います。

AIを使ったデザイン支援システムは、単にビジュアルを生成するだけではなく、行動や快適性といった目に見えない要素をも考慮に入れた、包括的なデザインプロセスを支援するものとして大きな可能性を秘めています。これが、これからのデザインの新しい方向性であり、AIを活用したデザインの未来だと思います。

インタビューの風景(左から渡辺氏、浅古委員、石井委員、種田委員)(撮影:長﨑)

CAD5の発足

T:その後、1991年に渡辺先生のほか、笹田剛史先生、両角光男先生、山口重之先生、山田学先生方との「CAD5」が発足されますね。これはどういうきっかけですか?

渡辺:それ以前から、両角先生も言われていましたが、教育とか企業の中でのコンピュータの使い方を、もっと大学にいる人たちがきちんと伝えていかなければならないというような話がありました。そのような機運の中で、企業の人がそういう場を設けてくれて、当時大学で主にデザイン分野でのコンピュータ利用の論文を書いたりしてやっている研究者がちょうど5人いるということで、その5人が集まりました。CAD5の会場に来ていたのはほとんどが企業の方で、いつも40~50人が集まっていました。

T:場所はいつも決まっていたんですか?

渡辺:いつも千里の、たしか笹田先生の関係で会場を取られていたと思います。私は全ての会に出たわけではないのですが、たしか4~5回ありました。

山田先生がお話されたのが最後の回だったと思います。学会で山田先生のお話を直接聞いたのはその時が最後で、その時はもうコンピュータのことよりも、もっと都市全体におけること、特に「お祭り」というのは非常に大事で、都市のお祭りというものをもっと考えましょうという話をされていたのが印象的でした。

T:1年に1回ですか?

渡辺:1年に1回ですね。

T:山田先生が亡くなられてしまってCAD5の回は終了したのですね。

渡辺:そうです。本当に最後の講演で、恐らく皆CAD5で声を聞いたのが最後でした。

T:1991年は、他のCAD5の先生方にとってもいろいろなことがあった年のようですね。笹田剛史先生が日本建築学会賞の業績賞を受賞されています。

渡辺:そうです。笹田先生の審査には私も加わりました。通常は膨大に論文が提出されますが、笹田先生の場合は論文ではないので、ビデオ提出を審査委員会に許可してもらいました。笹田先生はそれはお得意なので、素晴らしいビデオをみんなに見てもらって、良いねということで。学会賞の審査をビデオだけでというのは、恐らく最初で最後です。

T:この年(1991年)に渡辺先生の『建築計画とコンピュータ』も出されているということですね。この本は、これまでの渡辺先生の研究成果をまとめられたものでしょうか?

渡辺仁史『建築計画とコンピュータ』鹿島出版会(1991)

渡辺:読みやすくとリクエストされたので入門的になってしまいました。もっといろいろ書けばいいのですが、コンピュータを意識して書きすぎて面白くないんです。あまり示唆に富むところがなくて、「ああ、そうだよね」という本になってしまい、本当はもっと皆を刺激する本にしたかったのですが。

T:雑誌に書かれている記事のほうが、比較的ソフトなお話がたくさん書いてあった気がします。けれど、こちらはこちらで資料的に非常に有難いことがいろいろと書かれていて、例えばAIJネットとかアーキネット、オフェリアの話などは全く知らなかったので大変興味深かったです。あとは、ウィリアム・ミッチェル[1944–2010](★7)さんの話や池上宗樹さんの浮世絵の話も出てきますよね。このあたりは僕も非常に面白かったです。

CADは教えない

T:1993年には早稲田大学の「基礎製図」の授業にCADクラスを開設されたとのことですが。

渡辺:私は、CADを授業で教えることはしないという方針でした。早稲田大学では、デザインの一つの手法としてCADを使うことはあっても、CADだけを教えることはしないという考えです。コンピュータについて深く勉強したいのであれば、情報学科に行って勉強すべきだと考えていました。しかし、学生にとって何か新しいことができるきっかけを作る必要があるとも思い、「基本製図」という手描き製図の授業の一部にCADのクラスを取り入れることにしました。

当時、建築学科にはMacが20台ありました。そこで、180人の学生の中から「CADでプレゼンテーションをやってみたい人は手を挙げなさい」と募集し、20人が集まりました。その20人にMacを1台ずつ与え、授業を進めました。ただ2次元の図面を描かせる、いわゆるドラフティングは絶対に嫌だったので、スケッチアップのような特化したアプリはまだありませんでしたが、最初から3次元で物を作ることを課しました。

そのために、まず課題の対象だった今井兼次[1895–1987]先生の「大多喜町役場」[1959]を解析するよう指示しました。図面を見て描き起こすのではなく、「大多喜町役場」から感じたこと、この空間はこういう構成ではないかということを3次元でモデリングする授業にしました。図面を描かせるのではなく、空間を感じ取って3次元で表現させることを重視したのです。

A:CADを教えないのはなぜですか?

渡辺:それにはいろいろ理由があります。CADと聞くと、すぐにコンピュータの勉強だと思われてしまうので、それを避けたかったというのが一つ。そして、池原先生は別ですが、計画系の先生たちの賛同が得られなかったからです。特に、石山修武[1944-]先生が着任された際には、「CADを使うなんてけしからん」と最初に言われました。

その頃は、学生たちはすでに自分でアプリケーションを使って図面を作成している者もいました。石山先生はそれを見て「これは駄目だ、手描きでパースを描いてこい」と言っていました。しかし、翌々年には石山研にもパソコンが導入され、外部の仕事のプレゼンテーションはすべてCADで行われるようになったようです。その際、石山先生の助手の方が私のところに来て、「石山先生はパースもCADでやれと言うのですが、先生どうしたらいいですか?」と相談されることもありました。

A:それは酷いですね。

渡辺:最終的に石山先生が退職される数年前からOKになったのですが、「2,3年生の授業ではいいけれども卒業計画でCADを使うのはけしからん」とまだおっしゃっていましたね。でもご自分はCADで仕事をとっていたのですが。そのような背景もあって、CADという名前は、カリキュラムの中には明記されませんでした。私が、勝手に20人だけ集めたクラスをつくって行っていたということです。

T:基本製図というのは、1年生の最初ですか?

渡辺:そうです、1年生の最初のトレースの授業です。

T:伝統的にずっと「大多喜町役場」をやられているのですか?

渡辺:そうです。

T:CADのクラスはずっと20人だけだったのですか?

渡辺:その後、2000年ぐらいになってやっと、基本製図の4課題のうちのひとつは全員がGRAPHISOFTとか、いろいろなソフトを使って1回はやりましょうということになりました。私一人では180人も見ることはできないので、GRAPHISOFTの方を呼んできてやってもらうとか、A&AのVectorworksを使って全員が4つの課題のうち1つをモデリングするというのが7~8年続きました。

Vectorworksの授業は私の研究室出身の助手で、その後非常勤講師だった木村謙君がほとんどやってくれました。A&Aの前身の会社は高田馬場にあって、売れなくて困って我々の研究室に「相談に乗って欲しい」と来られた時に、コンピュータが大好きな学生がその会社に行ってソフトを一生懸命つくったり、そこで使うサンプルのデータをつくったりしていました。そのような経緯があったので、授業で使うソフトのVectorworksは無料で提供してくれました。

T:A&Aは先生に恩義があるんですね。

渡辺:その後、社長が変わってかなり営業が厳しくなり、早稲田大学といえども無償ではやれないと言われてしまいました。しかし、木村君が入社したことで、早稲田に限っては条件付きで無償提供を続けてもらっていました。その頃から、3次元モデルの作品提出は、Facebookに投稿させました。180人全員がアップしたものにコメントをひたすら書いて、それを一般公開もしていたので、見られた方もいるのではないかと思います。

T:公開提出なんですね。

渡辺:とにかくドラフティングだけは絶対にやらなくて、提出はすべて動画か3次元表現でした。それに対して公開されたFacebookを見てOBOGからも学生にコメントもいただいていました。

インタビューの風景(撮影:石井)

これからの建築と情報について

N:先生は、これからの建築と情報というのはどう進んでいくと思われますか?

渡辺:私は、前から建築はロボットだと思っています。たとえば、エレベーターはまさにロボットそのものです。今はまだ人間がボタンを押していますが、将来的にはICF(国際生活機能分類)コードか何かを持っている人が近づくと、適切に対応してエレベーターが自動的に来るようになるのではないでしょうか。

そのうち、家の中の見えない部分がすべて情報化され、必要な時に必要な環境を整えてくれるようになる気がします。構造や環境の分野では異なる発想があるかもしれませんが、デザインを考える時には、「家はロボットである」という視点が重要だと思います。家の中には、窓やドアなど多くの動く部分がありますが、これらはまだ情報化されていません。誰がいつ開けたかなどのデータが取られていないのです。

今はカメラで家の様子を撮影することがありますが、それでは不十分です。家そのものがデータベース化され、住んでいる人や利用する人の情報を常に把握するようになると面白いと思います。家がデータベースとして機能し、家族の歴史や日常の行動を記録し、分析することで、日常生活をより快適にするアイデアは魅力的です。

昔は、柱に子供の成長の傷を記録していましたよね。あれは家族の歴史を家がデータベースとして持っているということです。これと同じ発想で、建築と情報の関係を考えると、家が家族の一員となるなどさらに面白くなるのではないでしょうか。

現代の技術では、調光機能を持つガラスや、自動で開閉するブラインドなど、すでに存在しているので、これらを効果的に利用すれば、日常生活がさらに快適になる可能性があります。特に高齢者にとって、自動で操作される窓やブラインドは大きな利便性を提供できると思います。

このように情報技術の開発と導入で、建築と情報がもっと連携して近づいていくと思います。デザイナーが建築の情報化に関心を持ち、しっかりと勉強する必要があります。日本建築学会の情報システム技術委員会などが、こうした技術をデザイナーに発信し、デザインの一部として取り入れることで、建築と情報の融合が進むはずですから。

A:先生が活動されていた70年代から今になって、そういうところに関心がある人はどれぐらい増えているでしょうか。

渡辺:若い人の中には、せっかく関心があるのに会社に行ったらみんなBIMをやらなければならないというように、なんとなくコンピュータとか情報は今、全てBIMに置き換わってしまっているような気がしていて、それは建築のデザインをする人の職能とは違うのではないかと思います。

生産とデザインを一つのプラットフォームで扱えると言いながら、標準的・平均的な型に当てはめすぎてしまっていて、デザインの新しい発想を刺激する自由な道具になっていないような気がします。

A:それは教育の問題もあるような気がします。最近はどの学校でもCADを教えていて、私が関わっている大学では必修になりました。先生は、これからのCAD教育というのはどういうふうになれば良いと思いますか?

渡辺:教育の現場でも、建築をCADで表現することに特化しすぎている気がします。最近、石垣島で子ども向けのワークショップを行った際、東工大の茶谷正洋[1934–2008]先生が行っていた折り紙建築のような活動を取り入れました。これは1枚の平面から折って広げることで空間が生まれるというシンプルな造形教育の方法です。

このようなアナログ的な手法を3次元の中で試すことで、学生たちは空間をより深く理解できるのではないでしょうか。例えば、立体を作るためにどういうモデルを作ればいいかを考えたり、出来上がったものを回転させてチェックしたり、光源を入れて透かして見ると美しいと感じるデザインシミュレーションをCADの課題の中でやったらいいのではないかという気がしています。

現在のCAD教育は、建物を作るための図面を描くことに重点を置きすぎているように感じます。私が受けた頃の早稲田大学では、設計製図ではなく設計演習という授業がありました。20㎝角の箱を使って自由にデザインした模型を作るというトレーニングを行いました。こうしたアナログ的なアプローチをデジタルに置き換えたり、デジタルで作ったものを実際に作ってみたりすることで、学生たちはより創造的になると思います。

池原先生が常に言っていた「立体で考える」「空間で考える」というトレーニングが、早稲田のデザイン教育の根幹です。これを忘れずに、模型を作ることも含めて3次元で考えることを重視する教育が求められます。そして、今では「CAD」ではなく「デジタルデザイン」と呼ばれています。

A:そうなりましたよね。

渡辺:デジタルデザインという言葉はあまり普及しませんでしたが、やはりデジタルデザインのような言い方のほうが、自由にいろいろなことができる気がします。

Y:行動が空間をデザインするという話について、我々はマルチエージェントというツールを使って人の行動をシミュレーションしたことがあるんですが、なかなか思う通りに動かなかったんです。掃除機のルンバのような感じで人が動いてしまって、人が壁にぶつかるまでまっすぐ進み、ぶつかるとまたちがうところに行ってしまうというような、実際の人の動きとはちがう動きをしてしまうプログラムを書いてしまうのですが、そのあたりはどう改善したらいいのかと思っています。

渡辺:それは、我々の研究室の研究成果などをどんどんデータベースの中に入れていくことで解決できると思います。空間の中での行動の癖のようなものをデータベースの中にしっかり入れて、それを反映させて動かしてやれば、かなり人間に近い動きをするはずです。

私は大学にいる約半世紀の間、ひたすら人間の日常行動を追いかけていましたが、それで分かった数少ない成果の一つは、人はなるべく左に回りたがるとか、左側通行したがるとか、壁からある曲線を描いてみんな離れていくというような、空間の中での歩行行動の癖というのがあるということです。

T:これには驚きました。

インタビュー中の渡辺仁史氏(撮影:石井)

渡辺:自分でプログラムを書いていた時はそういう空間の中での行動の癖みたいなものを、例えばオートマトンを利用してモデル化するなど反映できたので、割とスムーズにやれていたのですが、市販のアプリケーションを利用して人間の行動を反映させようとすると、なかなか難しいのです。

明石の歩道橋での事故再現を依頼された時でも、人間の行動の癖をちゃんと入れないと、混んでくると橋の上から飛び降りていってしまうのです。でもこれはそのアプリの持っている特性ですから、プログラムを書き直せないのですよね。ですから、日本テレビで放送する時には、橋から飛び降りてしまう人が映らないように拡大して撮るというようなことをしていました。それも本当は、人間の密度が高まった時にどういう押し合いへし合いをするかとか、前に行く時には、みんな前方の隙間を探しながら進んでいるので、その空間の空いているところがたくさんあればあるほどスムーズにいくというような行動特性を理解していれば、それを自分のプログラムに反映させることでうまくモデルを組めるのですよね。

避難シミュレーションのアプリケーションでは、全員が最短距離で動くように設定すると、当然一斉に同じ方向に動いてしまいます。しかし、実際には全員が最初から最短距離を把握しているわけではなく、多くの人が迷います。どれくらいの割合の人が迷うかは調査によって把握できます。これをシミュレーションに反映させることで、現実に近い避難行動を再現することができます。

たとえば、避難時に一定の割合で人々がウロウロする様子をシミュレーションに取り入れると、設計上の新たなヒントが得られます。これにより、より実際の避難状況に即した設計を考えることができるようになります。

このようなアプローチは、設計者にとって非常に有益です。なぜなら、現実的な避難行動をシミュレーションすることで、避難経路や避難誘導のデザインがより精緻で効果的なものになるからです。最終的には、人々の安全をより確実に守る建築設計が可能となると思います。

T:『建築雑誌』1997年6月号の先生の記事「時間/空間の歩行経路シミュレーション」に、3平米/人より小さくなると流れが左側通行になると、冒頭にサラッと書かれていますが、なかなか衝撃的なことだと思いました。

渡辺:スポーツでは全て左回りが基本です。野球もそうですし、陸上競技やフィギュアスケートもそうです。この左回りの理由については様々な説がありますが、まだ確定したものはありません。

もし実験するとしたら、例えば卓球台の周りを右回りと左回りとで全力で回ってタイムを計測してみると、明らかに反時計回り(左回り)の方が早いことがわかります。これは、人間の歩く習性に合っているからだと考えられます。実際、下に降りる避難階段も反時計回りにした方が効率的だとされています。

左回りが有利な理由については多くの説がありますが、確かな結論は出ていません。例えば、心臓が左にあるからという説などもあります。これらの説を調べてみても、まだ決定的なものは見つかっていません。それでも、左回りが自然な動きとして人間に適しているというのは多くの実例で確認されています。

T:どちら回りになるのかに右利き、左利きは関係ありませんか?

渡辺:関係ないです。最近有力なのは、手の左利きと関係なく、左足を軸足にして右足でキックするほうが力が強いと言っている先生がいて、そう思ってみると馬に乗る時も自転車に乗る時も右足でキックして乗りますね。反対から乗っている人は見かけないですね。

N:階段を左回りで降りたほうがいいのかもしれないと思った時に、なかなかプランニングではそう簡単にできませんね。

渡辺:左側通行も、地下街のような車の通りがない人間だけが歩いているところで、一定の距離がある場合には自動的に左側通行になります。

T:密度なんですね。

渡辺:ものすごく空いている時は別として、ある程度の密度になると、人々はほぼ左側を通行します。例えば、新宿の西口から伊勢丹までの地下通路は非常に古いものですが、昔も今も人々は左側を通っています。ある説によると、新宿から出た人が地下道を歩いて左側を通ると、三越を見ずに伊勢丹に入ってしまうため、三越の売上が伸びなかったとされています。これは一説に過ぎませんが、興味深い見方です。

実際、駅も左側通行の方が良い場合が多いです。例えば、JR山手線の29駅のうち約8割が左側通行を推奨しています。しかし、駅によっては改札や出口の配置の関係で右側通行の方が適している場合もあります。私がよく使う新大久保駅も右側通行ですが、これもその一例です。

通行の方向性には歴史的背景や人々の動線のパターンが関与しており、その最適化が店舗の売上や駅の効率性に影響を与えることがあるようです。

T:大変興味深いお話ですね。しかし、そろそろお時間となってまいりました。CAD5の先生方にいろいろとお話を伺ってきて、コンピュータを取り巻く状況ですとか、どういう動機に基づいて建築デザインにコンピュータを用いようとされたのかといったことが、少しずつ分かってきました。

最終的には、先生がおっしゃったように、デザインに携わる方々と、歴史系の人の両方に先生方のご研究の意義を伝えていかなくてはならないと思っています。

渡辺:BIMを使用している人にこのような話をしても、恐らくピンとこないでしょう。それほど簡単に考え方を変えることはできないと思います。そのため、BIMにもっとこういった要素を取り込むように開発する人々が努力してくれることが望まれます。しかし、開発者は建築についてあまり理解していないことが多く、システムの制作に特化してしまいがちです。本当の「エイデッドデザイン」を考えるならば、デザインに不足している機能をもっと深く考える必要があります。

現在、BIMでは環境シミュレーションが行われており、避難シミュレーションも多少取り入れられているかもしれません。しかし、本当に必要なのは、デザイナーの直感的な感覚かも知れませんが、「もっと大きいほうがいい」とか「もっと小さいほうがいい」といった規模の問題や、「これはこちらにあったほうがいいのではないか」という配置の問題など、より定性的な問題を扱うことができるシミュレーションの機能です。BIMが企画段階から施工段階まで全てのフェーズで活用されるようになれば、こうした機能が取り入れられることを期待しています。現在のBIMは企画初期の段階での活用がまだまだ手薄であると感じます。

T:長時間にわたり貴重なお話の数々をありがとうございました。

(★1)渡辺俊:建築情報学がなぜ必要なのか これまでとこれから, 建築ジャーナル2019年5月号, pp.4–9参照。(T)

(★2)文化庁の「メディア芸術データベース」に、山田学・月尾嘉男により制作された「風雅の技法」は1967年11月7日~25日に開催された「第1回 草月実験映画祭──映像表現の未踏の可能性に挑む」に出品された作品であることが記録されている。(参照:文化庁|メディア芸術データベース|https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/M794049)(T)

(★3)マルコフモデル(一般にはマルコフ過程と呼ばれる)とは、未来の挙動が現在の値だけで決定され、過去の挙動と無関係であるという性質を持つ確率過程(時間と共に変化する確率変数)のこと。(参照:ミエルカ|【技術解説】マルコフモデルと隠れマルコフモデル|https://mieruca-ai.com/ai/markov_model_hmm/ )(Ik)

(★4)オートマトンとは、渡辺氏によれば「システムの行動帯の状態をも含めて、質的な変数を科学的に扱うための数学」のこと。機械(ブラックボックス)に原料を入力すれば製品として出力されるという単純な構図が工学の分野では一般的であった。しかし、機械(ブラックボックス)には、故障、正常という2つの両極の間で、例えば天気が悪いと生産性が悪くなるなど、様々な稼働をするものであり、現実には、同じ原料を投入すれば必ずしも同じ製品が出来上がるとは限らない。そのような数学モデルを渡辺氏は建築計画に応用しようと試みた。(参照:渡辺仁史「設計計画におけるオートマトンモデル」建築雑誌(日本建築学会), pp.1191–1194, 1973.11)(T)

(★5)渡辺仁史氏の博士論文「建築計画における行動シミュレーションに関する研究」(授与校早大)の要旨を以下に抜粋する。
「建築計画を進める過程においては、施設空間と人間の生活との対応に関し、種々の予測をしながら多くの決定を行い, またその計画の評価を行わなければならない。
ここに、施設とそこにおける人間の行動に限定してみるならば、これまで「施設の使われ方の研究」は可成り行われているものの最近の急速で多様な社会状況の変化のなかで計画中の施設が実現したときの状況の予測や、施設の評価を客観的に、かつ総合的に行い建築計画の過程での種々の決定にフィードバックする体系がなかったといえる。
そこで、人間と空間との関係をシステムとしてとらえる立場にたって、以上のような問題の具体的な解決のための手法として「行動シミュレーション」を提案し、建築計画研究と建築設計計画の双方に適用してその適合性を検討したのが本論文の主要な内容である。
本論文は8章より成っている。 第1~3章で、研究の位置づけをするとともに、建築計画研究における人間の行動を扱った研究を、1)人間と空間との関係の法則性、2)人間の流動、3)人間と施設の分布、4)人間と空間との変化する対応状態という4つに分類し、それぞれ「秩序」「流動」「分布」「状態」と定義して4章以降の各章で具体的な行動モデルと、それらの設計への適用例を紹介し、全体を行動シミュレーションとして一連の体系にまとめている。」(出典:渡辺仁史「建築計画における行動シミュレーションに関する研究 (学位論文要旨)」(出典:『建築雑誌』1978年7月号, 研究年報’77, p.139)(T)

(★6)「SimTread(シムトレッド)」は、Vectorworks上で人の動きや群集の流れを可視化できるシミュレーションソフトウエア。(参照:ベクターワークスジャパン株式会社|SimTread 2024|https://www.aanda.co.jp/products/simtread/index.html)(T)

(★7)ウィリアム・J. ミッチェルの経歴は、山口重之氏へのインタビュー([連載:建築と戦後70年─09])の★9に詳述しているので参照されたい。(T)

渡辺仁史(わたなべ・ひとし)

早稲田大学名誉教授、工学博士、一級建築士。専門は建築計画、建築人間工学、建築情報学。1948年静岡県生まれ。1966年静岡県立浜松北高等学校卒業。1970年早稲田大学理工学部建築学科卒業。1972年同大大学院理工学研究科建設工学専攻修士課程修了。1975年同博士課程満期退学。1973年早稲田大学理工学部助手。1978年専任講師、1980年助教授を経て1985年同大理工学部建築学科教授。1982年5月~1983年8月ブリティッシュコロンビア大学建築学部客員助教授。2016年早稲田大学名誉教授。

単著に『マイコンによる建築計画の作り方』鹿島出版会(1983)、『ポケットコンピュータ』オーム社(1983)、『パソコンによる建築グラフィックス (1) 』培風館(1983)、『建築計画とコンピュータ』鹿島出版会(1991)、『建築デザインのデジタル・エスキス』彰国社(2000)など。

共著に『システム理論序説』(松田正一他との共著)オーム社(1971)、『建築家のための数学』(松井源吾他との共著)彰国社(1974)、『日本の住生活』(木島安史他との共著)朝倉書店(1981)、『APLによる建築計画技法』(中村良三他との共著)オーム社(1981)、『安全計画の視点』(分担執筆)彰国社(1981)、『新建築学体系11 環境心理』(分担執筆)彰国社(1982)、『システムと行動』(分担執筆)泉文堂(1983)、『まちづくり アラカルト・事例編』(森義純との共著)時潮社(1986)、『まちづくり チェックリスト基礎編』(森義純との共著) 時潮社(1988)、『まちづくり 応用編』(森義純との共著) 時潮社(1989)、『マッキントッシュ入門』(位寄和久他との共著)オーム社(1989)、『建築系のためのMacintosh』(編著)講談社(1992)、『新・建築防災計画指針』(分担執筆)日本建築センター(1992)、『ハンディブック 建築』(編著)オーム社(1996)、『デザインエンジニアリング』(分担執筆)フジ・テクノシステム(1996)、『環境をデザインする』(分担執筆)朝倉書店(1997)、『やさしくわかるCAD入門』(編著)日本実業出版社(1998)、『広辞苑 第5版』(分担執筆)岩波書店(1998)、『人間計測ハンドブック』(分担執筆)朝倉書店(2003)、『未来を拓く新しい建築システム』(分担執筆)建築技術(2005)、『行動をデザインする』(分担執筆)彰国社(2009)、『スマートライフ』(分担執筆)パレード(2011)、『時間のデザイン』(分担執筆)鹿島出版会(2013)、『NetLogoによる行動デザイン』(分担執筆)銀河書籍(2016)など。

流動シミュレーションによる建築計画の実績として、「豊島園遊園地における観客流動計画」(1969)、「沖縄国際海洋博覧会動線計画」(1975)、新宿西口地下歩道の拡幅計画(1984)、東京都臨海水族園の観客流動予測(1987)、「MoMAミュージアムの館内流動予測」(2000)、「明石歩道橋事故検証」(2001)、「こころもからだも元気になるまち-明和町」(2008)など。また、大阪万博以降、「愛・地球博」までのすべての国内博覧会における観客動線調査を実施(沖縄国際海洋博覧会(1975)、宇宙科学博覧会(東京都、1978)、神戸ポートアイランド博覧会(1981)、北海道博覧会(札幌市、1982)、大阪城博覧会(大阪市、1983)、国際科学技術博覧会(つくば市、1985)、横浜博覧会(横浜市、1989)、国際花と緑の博覧会(大阪市、1990)、大田国際博覧会(韓国、1993)、2005年日本国際博覧会(愛・地球博)(愛知県、2005))。

渡辺仁史|HITOSHI WATANABE
https://www.hitoshiw.com/

種田元晴(たねだ・もとはる)
文化学園大学造形学部准教授。明治学院大学文学部非常勤講師。専門は近現代日本建築史、図形科学、建築設計。1982年東京都生まれ。2012年法政大学大学院博士課程修了。東洋大学助手、種田建築研究所等を経て現職。博士(工学)。一級建築士。著書に『立原道造の夢みた建築』ほか。建築情報学技術研究WG幹事。建築討論委員会委員。

池上宗樹(いけがみ・むねき)
東京都立大学客員研究員。株式会社FMシステム フェロー。一級建築士。1973年東京理科大学理学部Ⅰ部応用物理学科卒業。1980年東京理科大学工学部Ⅱ部工学部建築学科卒業。1991~96年東京理科大学非常勤講師。1996~98年熊本大学客員教授。1984~87年DRA-CAD開発参加(㈱構造システム)。1988~93年横浜ランドマークタワー設計参加(㈱バス)。建築情報学技術研究WG委員。

浅古陽介(あさこ・ようすけ)
建築CG画家。法政大学デザイン工学部建築学科兼任講師、東洋大学福祉社会デザイン学部人間環境デザイン学科非常勤講師。1976年東京都生まれ。2001年東洋大学工学部建築学科卒業。2003年隈研吾建築都市設計事務所入所(3代目CG担当)。2006年有限会社NAU建築デザインスタジオ設立。建築情報学技術研究WG前委員。

長﨑大典(ながさき・だいすけ)
株式会社新日本科学社長室主席。鹿児島大学工学部建築学科非常勤講師。1971年京都府生まれ鹿児島育ち。1995年 鹿児島大学大学院工学研究科建築学専攻修了後、㈱安井建築設計事務所入社、設計部、情報・プレゼンテーション部、社長室、九州事務所、企画部にて従事。2024年4月より現職。修士(工学)。一級建築士。認定FMer。建築情報学技術研究WG主査。

山戸敦策(やまと・だいさく)
前田建設工業株式会社 ICI総合センター。建築情報学技術研究WG委員。

石井翔大(いしい・しょうた)
日本文理大学工学部准教授。近代建築史。1986年東京都生まれ。法政大学大学院修了。博士(工学)。一級建築士。法政大学デザイン工学部教務助手、明治大学理工学部助教を経て現職。単著に『恣意と必然の建築ー大江宏の作品と思想』、共著に『建築のカタチ:3Dモデリングで学ぶ建築の構成と図面表現』。2021年日本建築学会奨励賞受賞。建築情報学技術研究WG委員。

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建築と戦後
建築討論

戦後建築史小委員会 メンバー|種田元晴・ 青井哲人・橋本純・辻泰岳・市川紘司・石榑督和・佐藤美弥・浜田英明・石井翔大・砂川晴彦・本間智希・光永威彦