瀬田勝哉著『戦争が巨木を伐った ―太平洋戦争と供木運動・木造船』

もの言わぬ巨木が現在へ伝えること(評者:大村紋子)

大村紋子
建築討論
Jun 16, 2022

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世の中にあふれる情報をなんでも知ろうとするなんて無理だから、必要な時だけ検索しに行けばよい、と知識を外部化するようになってひさしい。それでも本を読んで「知らなかった」とうろたえることがある。スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチによる『戦争は女の顔をしていない』は平易で読みやすく、同時に読み進めるのが非常にきつい。さすがにウクライナやロシアの歴史を「知ったつもり」ではいなかったが、こんなにも打ちのめされるのは戦争のおそろしさをぼんやりと「知ったつもり」になっていたからだろう。『戦争が巨木を伐った』もまた別の形で「知らなかった」とうろたえる。戦争というおおやけが起こした巨木伐採と木造船建造は、本書が出るまでほとんど伝承されず、まとまった著作がなかった。つまり、検索しても出てこない。

本書は、中世史を専門とする研究者が教え子の卒業研究を引き継ぐ形で著した戦中戦後史である。日本各地の平地の屋敷林、神社森などの巨木が、” 応召”という形で伐採され、木造船(以下、木船★1)の材料として総力戦に飲み込まれていった経緯をつぶさに著している。

1943年2月11日、草の根の自発的活動であるかのような体裁をとって始まる「軍需造船供木運動」は、約半年間続く。後述するように当時はすでに木船の大量生産即時納品が至上命題となっており、必要とされる材の寸法は目通りで直径45cm以上と、必ずしも大径材のみを求めるものではなかったが、巨木伐採は在郷有志たち(翼賛壮年団)によるシンボリックな地域運動に発展し、対象は街道筋の並木、成田山、はては山そのものが神とされる奈良・大神神社の参道におよぶ。神木伐採の祟りへの畏れも、ご先祖が木を育てられたのは「晴れの今日に備えてのことだ」(p.97)という論理で覆いかぶされる。

戦時下、この供木運動に関する知識人の言説はごくわずかだった。著者は唯一と言ってもいいような発言を、明治神宮の森造営に関わり、「造園学」を創始した上原敬二に見出す。本多静六の下、当初政治家から期待されていたスギ、ヒノキではなく東京の気候風土に合うクス、カシ、シイなどの常緑広葉樹で神宮の森の全体プランを作ったのが上杉だという。木船には不適切な木までもが無駄に伐られている状況を受け、慎重な選木を徹底するよう主張する。また、伐採が森全体へ与える影響を憂える以下の言葉は重い。

(上原は)神社境内林について、当局はすべて伐るのではなく間伐、択抜をするから問題ないようなことを言っているが、樹林は長年月をかけて生育してきたものだから、一部分が伐採される時は後に残った木に大きな影響を与えることもある。神社林構成と森林とに対する知識あるものの意見を十分聞いてやらなければならないと警告する。「神宮の森」を造るべく全国を歩き、調査を繰り返してきた上原だからこその説得力ある発言といえよう。(p.225)

著者は、史料をたよりに各地へ足を運ぶ。アレクシエーヴィチが行ったのと同様の、ただし、木をめぐる聞き取りである。戦争からすでに70年の歳月が流れていた。第Ⅰ部「供木・献木」では、翼賛壮年団の活動が盛んだった村を岡山県に訪れる。樹齢300年、目通り直径90cmの神社の巨松献木の様子が全国に報道された村だが、現地でお会いできた最も詳しいという方も1943年生まれ。なんの手がかりも得られない。

すでに世代交代は完全に進んでいた。岡山県のトップを切ったとされる供木運動の伐採の記憶は、新本地区では消滅していると断定するほかなかった。(p.99)

残された時間の少なさに焦る著者。それでも、「待っていたよ・・」と言わんばかりに各所で新史料が著者を迎える。まさに、「知ってしまったからには、知った自分がさらに調べ書き留めておくことは責務だと何度も自分に言い聞かせ」(p.476)た著者の気迫によって、供木運動にとどまらず、木船建造政策から工場での建造過程のあらまし、そして戦後の姿までたどる大著となった。

ややとっつきづらい第Ⅱ部「木船」も建築目線で読むと興味深い。鋼材の供給を軍艦や鋼船外航輸送に注ぐため、木船は内航の輸送手段に位置づけられた。九州や北海道で採掘された石炭の本州への運搬を担うのである。1942年、全国3,600箇所から約1/6に集約された造船所で規格船「第一次戦時標準船」の建造が始まる。翌1943年には「第二次戦時標準船(第二次戦標船)」建造のために20数社の大規模造船所が新たに建設される。

わずか1年で「第二次戦標船」へと転換した理由はこうである。もともと造船用の木材は、船大工が山に入って根曲がり材を選んで伐り出し、安定性とスピードを担保する船体の曲線的な形状を構成した。しかし、ガダルカナル島での日本軍の敗退後は、木船の「大量生産」「時間短縮」が至上命令になり、曲材にこだわらない設計計画を立てる必要が生じた。また、せっかく伐られた巨木に空洞があったり、建築用材と同じ要領で木取りしてしまったために貴重な曲材が得られない、というミスマッチもあったようだ。直線材、短材で構成された「第二次戦標船」であれば熟練工も要らない、というわけだ。

この新プロジェクトには大手商社や電器メーカーが参画し、新造の大工場で1~2ヶ月に1隻の猛スピードで大量生産しようとする。ローカルなものづくりだった木船建造の場へ、フォード主義の導入である。しかし、木船が完成しても艤装の金物が不足し、油もない、航行速度も遅い。ついに1944年には新造をあきらめ既存船の改良へと舵を切る。破れかぶれのように映る方針転換だが、中央官庁の号令によって各府県に計画が割り当てられ、全国規模で実施された施策である。

ちなみにこれは、住宅営団による住宅供給施策と驚くほど酷似する。1942年に面積わずか7坪半の「特別級」国民住宅規格が建設の中心になり、1943年にはさらに材を切り詰めた6.25坪の応急工員住宅規格へ、そして1944年には新築をあきらめ疎開住宅の資材転用や既存住宅の改修へと移行する。敷居はあるが建具がない、風呂場はあっても浴槽がない、という規格住宅の実態まで、艤装できずに進水できなかった木船とそっくりだ★2。

政府は1941年に「木材統制法」を施行し、木材の流通・販売を一元管理する国策会社「日本木材会社」を、続いて各府県に子会社を設立する。そこには物資不足ゆえの悲壮感よりも、非効率な慣習を廃し、供給先に優先順位を付けることでモノの流れを円滑化するのだ、というポジティブさが漂う。森や木に宿る霊気や祟りから脱して木をモノとして扱う近代合理化。父祖伝来の巨木「だからこそ」こぞって国家へ捧げようとする精神主義。これらを矛盾なく両立させたのが総力戦体制なのだろう。

もともと木材の世界には、大工が山で木を選ぶ前近代のローカルな循環だけでなく、お金と目利きのいる所には遠方からでも良材が集まる建築用材の市場が成立していた。原木が加工場へ届くまでに製材、仲買、小売りと複雑な過程を経る。このような商習慣を一新するべく政府は国策会社の一元化システムを作り、公定価格を制定したはずだったが、「不徳漢」による木材の買いたたき、横流しに手を焼いた★3。ただそれも、目利きの材木商にとってみれば、美しい良材が性能の悪い船の一部材になってしまうよりはどこかの普請道楽に買われていく方が、むしろ伐られた巨木にとって良い供養になる、と別の言い分が働いたのかもしれない。

街道並木の名所は今でも各地にあるし、武蔵野の住宅地にも大きなケヤキがぬっとそびえていて驚かされる。あの巨木はなぜ残ったのか。第Ⅲ部「木の終戦」ではその理由の一端が垣間見える。「詳しくは本を読んでいただきたいのですが、その人のご子孫に出会えて直接話を伺った時、私の心は最高潮に達したのでした。」と著者自身がのちに述べているように★4、最終章で読者は木を伐らせないのも人間だったという事実に突き当たる。戦後もまた、成長した木々は倒木の危険や落ち葉問題、開発のロジックといった世情をくぐり抜け、そのたびに「伐らない」と判断した人びとによって、いまの姿がある。数世代を経ていまたたずむ建物の姿とだぶって見えてくる。

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★1 木船は帆船に補助機関がついた機帆船とほぼ同義。本書では当時の呼称「木船」を使っているが、どう呼んだか、「もくせん」か「きぶね」かも定かではない(p.232)。建造された木船の規模は長さ23mの100総トン級が主力だが、長さ30mを超える250総トン級も建造された。

★2 住田昌二『現代日本ハウジング史』ミネルヴァ書房、 pp.136, 138

★3 本書の他、以下にも「横流し」に関する言及が見られる。村上富士太郎「木材配給機構の整備に就て」『建築雑誌』1943年10月号 執筆者は日本木材会社社長。

★4 瀬田勝哉「伐られて船になった巨木・大木-太平洋戦争の記憶―」『婦人之友』2021年9月号、p.120

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書誌
著者:瀬田勝哉
書名:戦争が巨木を伐った ―太平洋戦争と供木運動・木造船
出版社:平凡社
出版年月:2021年1月

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大村紋子
建築討論

プロジェクトマネージャー。主なプロジェクト「葉山加地邸継承支援」、「銘建工業本社事務所」、「サテライト古座」。株式会社納屋代表取締役。