熱帯建築の系譜を解き明かす

Jiat-Hwee Chang, “A Genealogy of Tropical Architecture: Colonial Networks, Nature and Technoscience”, NY: Routledge, 2016.

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「熱帯建築」とは何か。アフリカのヴァナキュラー建築?インドのバンガロー?チャンディーガル?ブラジルのニーマイヤー?スリランカのリゾート?シンガポールの最新型グリーンビルディング?

なぜ、「熱帯建築」という言葉はあるのに「温帯建築」は存在しないのか?「熱帯建築」という呼称は、熱帯地域の建築に内在する地理的・歴史的な差異を捨象し、政治的・社会的・文化的な多様性を覆い隠しているのではないだろうか?

気鋭の建築史家ジア・ウィ・チャン(Jiat-Hwee Chan, シンガポール国立大学准教授)による著書『熱帯建築の系譜:植民地ネットワーク、自然、テクノサイエンス』(A Genealogy of Tropical Architecture: Colonial Networks, Nature and Technoscience, 2016)は、ポストコロニアリズムの視点と生政治/生権力の概念、アクターネットワーク理論を援用することによって、このような問いに答えようとする挑戦的な歴史書である。

Jiat-Hwee Chang, A Genealogy of Tropical Architecture: Colonial Networks, Nature and Technoscience

ジア・ウィ・チャンは、欧米列強から植民地への一方向的な影響の流れを否定する。また、植民地が近代化の実験場となり、宗主国の都市・建築の変革に寄与したとする近年の議論にも積極的には与しない。中心と周縁、伝統と近代、グローバルとローカルといった二元論を越えて、チャンが重要視するのは多様なアクターが複雑に絡み合った技術科学(テクノサイエンス)のネットワークである。さらに、近代権力による生への介入を論じたフーコーの哲学を参照して、教会や庁舎といった記念碑的建築には目もくれず、兵舎や病院などの「生政治」の場としての構築環境に着目して議論が進められる。したがって、『系譜』の主役はいわゆる建築家ではなく、軍事技術者や衛生専門家、医師、教育者など、大文字の建築史では光が当たらない存在である。

本書では、シンガポールを主なフィールドとして、19世紀初頭から1970年代にかけての熱帯地域における建築史が描かれる。全体は「熱帯建築(tropical architecture)」という言葉が定着する1950年代を蝶番として二部に分けられており、前半の4章では植民地時代における住居・兵舎・病棟・公営住宅という4つのビルディングタイプの発展が、後半の2章ではポストコロニアルの文脈における技術科学ネットワークと気候デザイン教育が描きだされる。それでは、早速『系譜』を紐解いてみよう。

住居と兵舎の「熱帯化」

19世紀中盤の住宅建築に焦点をあてる第1章では、「シンガポール最初の建築家」と呼ばれるジョージ・D・コールマン(George Drumgoole Coleman, 1795–1844)の再検証が行われる。1950年代のコロニアル建築研究において、コールマンは「パラディオ様式を熱帯に合うよう巧みにアレンジし」、ベランダや日除け、ルーバー窓などを駆使して「トロピカル・コロニアル様式」を確立した創造者と目されてきた(p.21)。しかしチャンは、熱帯気候を創作の源泉として特権化する解釈は当時の社会的・政治的・技術的構造を無視する行為であり、建築家を創造者として美化する眼差しには西洋中心主義が見え隠れすると批判する。

一方、本書が注目するのは移民労働者や地場材料といったローカルなアクターが建築生産に与えた影響である。チャンは植民地初期の建築家と技師がローカルなアクターに依存し、「他律的かつ異種混合的に」建築を作り上げていたと推論する(p.30)。測量・土木技師のジョン・T・トムソン(John Turnbull Thomson, 1821–1884)は、シンガポールの建設現場は中国人の移民労働者に「完全に依存していた」と述べており(p.31)、中国人の石工や大工の作業風景をスケッチで記録して異文化の職人技術を理解しようと努めていた。地場材料に関しては、例えば「マドラス・チュナム」と呼ばれる石灰・卵白・砂糖とココナッツの殻から作られる漆喰は「植民地シンガポールの古典建築には欠かせないもの」であった(p.38)。

図1 コールマン自邸、断面図と立面図[出典:Chang 2016, p.26]

シンガポール最初期の建築家たちが他律的かつ異種混合的に、いわば場当たり的に熱帯にアプローチしていた一方で、植民地の軍事技術者は体系的な知識に基づいて建築の「熱帯化」を開始した。19世紀初頭から1940年代までの熱帯の兵舎建築に焦点をあてた第2章において、チャンは植民地建設に携わった英国陸軍王立工兵隊の「実験の伝統」に注目する(p.62)。植民地の軍事技術者たちは気象観測、材料実験、労働力調査などの様々な研究を行い、これらの「ローカルな実践的知識」はイギリス本土で集約されて「グローバルな科学的知識」となり、兵舎の標準設計として結実した(p.65)。気積の確保や交差換気の促進といった計画原理とベランダ・ルーバー・ジャロジーなどの要素技術が組み合わされ、「熱帯の様々な場所に適用される再生産可能な建設システム」が構築されたのである(p.67)。このような兵舎設計は20世紀後半に定式化される「熱帯建築」の方法論を先取りしていた。

図2 1930年頃のチャンギ兵舎[出典:Chang 2016, p.55]

衛生概念と「熱帯建築」

続く第3章では、1926年に竣工した新シンガポール総合病院をケーススタディとして、近代の衛生概念が「熱帯建築」の形成に与えた影響が解き明かされる。19世紀半ばのイギリスではコレラの流行をきっかけとして衛生改革運動が巻き起こり、分棟形式のパビリオン型病棟が開発された。細菌が発見される以前、多くの疾病の原因は風通しの悪い室内に溜まる瘴気と考えられていたため、パビリオン型病棟では換気の計画が肝要であった。ゆえに、パビリオン型病棟が植民地に移植される際には、熱帯の統計データに基づいて開口部や天井高、ベランダ幅などが細かく規定され、二重屋根や棟換気といった工夫を盛り込んだモデルプランがつくられた。チャンは、このような体系的な病棟設計を通じて、植民地ネットワーク内で「熱帯建築」の標準化が進行したと論じている(p.101)。

図3 新シンガポール総合病院[出典:Chang 2016, p.97]

ただし、本書では軍兵舎と近代病院が植民地における「特権的な例外空間」であったことも強調されている(p.85)。植民地政府は現地人の健康のために資源を投入することに消極的であり、イギリス人と現地人の病棟は明確に差別されていた。現地人に簡素で不衛生な病棟をあてがう一方で、時計台とドリス式円柱で飾られたイギリス人病棟は「健康福祉に対する植民地国家の取組みを象徴していた」(p.121)。軍兵舎と病院は、現地人に「汚染」されない宗主国の「飛び地」だったからこそ大規模に資源が投入され、「実験と革新の場」になりえたのである(p.87)。

近代技術と衛生概念が「飛び地」を越えて被植民者にまで拡大される場は、第4章で扱われる公営住宅と都市空間である。シンガポールにおいて両者に決定的な影響を与えたのは、熱帯医学の権威ウィリアム・ジョン・リッチー・シンプソン(William John Ritchie Simpson, 1855–1931)であった。シンプソンの報告書「シンガポールの衛生状況」(1907)は衛生改善に関する建設的な枠組を確立し、以後の住宅改良と都市整備に決定的な影響を及ぼした。ここで、チャンが特に注目するのはシンプソンが採用した「『被支配者を知る』技術」である(p.132)。シンプソンは結核による死亡者数を地図上にマッピングし、疾病の空間的分布を把握して過密で不衛生な住環境の問題を明るみに出した。また、写真という近代技術を使用してショップハウス(間口が狭く奥行きの深い店舗付き住宅)の採光・換気不足を明示し、実測図を作成して建物の奥行きや中庭の比率に関する指針を策定した。マッピング・写真・実測は「現実を(再)構築し(再)提示する」アクターとなり、住宅改良の必要性を根拠付けたのである(p.133)。さらに、シンプソンによる提言は建築設計にとどまらず都市計画にまで及んだ。例えば、衛生に関する手引書では「熱帯に典型的な混沌とした街並に対する対抗策として規則的で風通しのよい道路計画が推奨された」(p.137)。

図4 シンプソンの報告書に掲載されたショップハウスの実測図[出典:Chang 2016, p.134]

シンプソンの報告書を受けて、植民地政府は不衛生な建築物を差し押さえる権限をもつシンガポール改良信託(SIT)を1927年に設立した。本書では、この組織は都市計画と規制を通じて建築環境をコントロールする試みとして理解される。第二次世界大戦以前のSITの成果は限定的だったが、その試みは戦後シンガポールにおける空前の公営住宅開発に引き継がれた。

ポストコロニアルの技術科学と建築教育

第二次世界大戦以降、アジアとアフリカの植民地は相次いで宗主国からの独立を果たし、「コロニアル建築」という言葉は過去のものとなった。「特権的な例外空間」から解放された「熱帯建築」は、欧米列強にとっては新植民地主義の道具、旧植民地にとっては自らのアイデンティティを確立する独立闘争の手段となった。ジア・ウィ・チャンは、このようなポストコロニアルの両義性の中で「熱帯建築」という用語が定式化されたと論じている。その際に重要な役割を果たしたのが、第2部(5章、6章)で論じられるグローバルな技術科学ネットワークと気候デザイン教育の発展である。

熱帯建築の技術科学ネットワークを考察する第5章では、イギリスの建築研究所(Building Research Station)で研究員を務めたジョージ・A・アトキンソン(George Anthony Atkinson, 1916-)の活動に焦点があてられる。1948年、建築研究所に植民地連絡部(Colonial Liaison Unit)が設立された。その連絡官に任じられたアトキンソンの使命は植民地各地で分散的に行われてきた研究活動を集約し、その成果を知らしめることであった。アトキンソンは植民地を巡り、数々の専門誌・業界誌に寄稿し、定期刊行物を出版し、地域建築研究所の設立を支援し、他の先進諸国や国連との連携を図った。チャンは「アトキンソンの仕事はネットワーク構築として理解できる」と述べ、多数を巻き込んだネットワーク構築によって「熱帯建築」は共有可能な「事実」に変化したと論じている(p.178)。

近代医学が普及した20世紀半ばには、熱帯建築の課題は生死の問題から快適性へと移り変わっていた。アトキンソンは気候学と生理学という2つの科学的知見を組み合わせ、気候区分と熱的快適性の関係を示し、「快適な設計」の基準を示した。チャンは、ここに「複雑な生活世界を気候的パラメータに還元し、単純化し、標準化する」傾向を認める。そして、ラトゥールを引きながら、それが「計算の中心」(center of calculation)として植民地に対する支配力を維持しようとする試みだったと解釈している — -「計算の中心にいるイギリスの建築家は、植民地へ行くことなく熱帯建築を生み出すことが可能である」(p.189)。

図5 アトキンソンが作成した熱的快適性を示す湿り空気線図[出典:Chang 2016, p.188]

第6章では、ロンドンのAAスクール内に設置された熱帯建築学科(Department of Tropical Architecture)の分析を通じて、20世紀後半の気候デザイン教育の発展が描かれる。1954年にオットー・ケーニヒスベルガー(Otto Königsberger, 1908–1999)が創設した熱帯建築学科は熱帯に特化した画期的なカリキュラムを開発し、戦後に相次いで設立された熱帯地域の建築教育機関に深い影響を与えた。

ケーニヒスベルガーは熱帯建築学科の教育によって「ヨーロッパ人の建築家や都市計画者が熱帯に移動する必要性は減少し、最終的には消滅する」と期待していた(p.210)。イギリス人建築家の優越性を維持するため旧植民地での建築教育に消極的だったRIBAとは対照的に、熱帯建築学科は自らの教育が「補完的かつ過渡的な役割」を果たすと認識し(p.234)、現地人材の育成を目的としたコースやワークショップを展開した。チャンはこのような植民地に対する共感的なアプローチは当時としては例外的であり、(旧)宗主国と(旧)植民地の新たな関係を築くものだったと高く評価している。

しかし、教育内容に関して言えば、植民地時代に端を発する問題意識が引き継がれていた。アトキンス同様、ケーニヒスベルガーは気候学と生理学を結びつけ、熱帯建築学科のカリキュラムの中心に据えた。そして、「建築の歴史的役割は気候環境の制御にあり、それは国家の運命に影響を与える」と述べ、「『力の均衡』を回復するために、建築家は高温気候を克服する方法を学ぶべきだ」と学生を鼓舞した(p.221)。しかし、これは「西洋による植民地支配の複雑さを覆い隠す単純化した結論」であり、ポストコロニアルの文脈で変質した「気候の特権化」であった(p.221)。

気候の特権化を越えて

19世紀のコロニアル建築から20世紀後半の建築教育に至るまで、「熱帯建築」のデザインに繰り返し表れる「気候の特権化」。そこには「温帯が正常であり熱帯が異質である」という根深い偏見が表れている(p.245)。本書の結論において、ジア・ウィ・チャンはこのような「気候の特権化」が、欧米の先進国が策定した環境性能評価などに姿を変えて現代でも続いていると指摘する。地球規模の人為的な自然改変が行われている人新世において、気候はもはや人間にとって外的で不変な存在ではない。チャンは、気候を特権化する熱帯建築のデザインはもはや不可能であり、これからの熱帯建築は政治的・社会的・文化的な問題と格闘しなければならないと主張して本書を結ぶ。

東南の島国で紡ぎ出された熱帯建築の系譜は、極東の島国には無関係であろうか?

★Further Reading

Ana Tostões, Modern Architecture in Africa: Angola and Mozambique, Lisbon: ICIST, Técnico, 2013.
ポルトガルの植民地だったアンゴラとモザンビークの近代建築を、20世紀におけるモダン・ムーヴメントの世界的な広がりと結びつけて読み解く研究書である。『熱帯建築の系譜』が主張する熱帯建築の歴史的・政治的・文化的な多様性は、本書を読むと明瞭に理解されるだろう。

Rem Koolhaas, “Singapore Songlines”, S, M, L, XL, New York: Monacelli Press, 1998.
レム・コールハースが発表したシンガポールの都市論。1960年代以降に住宅開発公社(HDB)が行った空前の住宅供給や、シンガポール人建築家によるメタボリズム的実践が独特の筆致で描かれる。同時期にコールハースが構想したジェネリック・シティ論と関連している。

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岩元真明 (Masaaki Iwamoto)
建築討論

1982年東京生まれ。建築家。2008年東京大学大学院修了後、難波和彦+界工作舎勤務。2011–2015年ヴォ・チョン・ギア・アーキテクツでパートナーを務める。2015年ICADAを共同設立。現在、九州大学助教。主な作品に《節穴の家》(2017)、《TRIAXIS須磨海岸》(2018)、《桜坂の自宅》(2021)など