特別記事│松浦寛樹✕助川剛「破壊後のウクライナ・イルピンの都市状況と復興計画について」

Special Article: Hiroki Matsuura, Takeshi Sukegawa, “The Urban Situation and Reconstruction Plan of Ukraina Irpin after the Destruction”

KT editorial board
建築討論
27 min readMar 15, 2024

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(編集注)本記事は、2023年8月にロッテルダムにて収録された、オランダで活動する建築家の松浦寛樹氏と、中国・浙江省で活動する助川剛による対談である。ロシアおよびウクライナでの仕事の経験が豊富で、破壊後にイルピン市でリサーチと計画立案にたずさわってきた松浦氏がおもな話し手となり、旧知の仲である助川氏が聞き手をつとめるかたちで、2022年にはじまったロシアによるウクライナ侵攻によって破壊された都市・イルピンの状況と、その復興計画のプロセスをめぐる議論がおこなわれた。

オンラインの復興サミット

助川:2022年の初頭にウクライナとロシアの間で戦争が始まって、真っ先に松浦寛樹さんのことが頭をよぎりました。松浦さんはオランダを拠点にして長年ロシアとウクライナに多くのプロジェクトを抱え、両国を頻繁に行き来していたからです。動向を注視していたんですが、6月にはウクライナのイルピンで都市復興のマスタープラン作成のための支援活動を始めていることがわかった。まだ戦時下だし驚いたわけだけど、同時にいくつか別の視点での興味が湧いたんです。

一つは都市の破壊です。それは自然災害や火災などの人為的な過失、今回のような戦争破壊、あるいは中国で頻繁に見られるような合意のもとに一夜にして集落を更地にするようなケースもある。いずれの場合にせよ、都市が一瞬で破壊、消失されることは衝撃的です。特に我々は都市空間を通じて人間生活を見るから心中は穏やかではない。

二つ目は、建築家や都市計画家は、このように破壊された都市を前にしてどのように振る舞うべきかを考えなければならない、ということ。近年どのようなかたちであれ、被災地の支援に建築家が直面したとき、その活動内容に少し違和感を覚えたりします。この態度というのは建築という職業分野全般に非常に重要だと考えていて、松浦さんには、このウクライナでの復興プロジェクトに対する取り組み方を伺いたいと思ったんです。そこで今日は戦時下のイルピンに向かった背景や経緯、具体的な活動内容などのお話しを伺えればと思っています。

ロシア軍のキエフ侵攻を防くためにイルピンが自ら破壊した橋[撮影:松浦寛樹]

松浦:最初のきっかけから話しますね。僕はこの10年近く、ロシアとウクライナの両方で都市計画やランドスケープ、建築設計などの仕事をしてきました。戦争の直前には、両国で三つずつプロジェクトが進んでいて、以前は毎月ウクライナの現場にも通っていましたし、現地に人も雇っていました。しかし突然、2022年2月に戦争が起こったんです。何かできることはないか? と考えたものの、当然ですが、すぐには何もできませんでした。ただ、3月末になって、イルピンから「イルピン・リコンストラクション・サミット」という復興フォーラムを4月に開催するから参加してくれないか、との打診があったんです。それまでイルピンで仕事をしたことはなかったので、人伝に僕のことを知ったんだと思います。

オンラインシンポジウムの様子[提供:松浦]

助川:イルピンは、今回のロシア軍によるキーウ侵攻の防御前線として一躍世界に知られることになった街ですね。

松浦:はい。サミットの目的は、世界各国の専門家たちが有志やボランティアでオンラインで集まり、今後どのように街を復興させていくかを議論することでした。戦争が始まってわずか1ヶ月後に復興のことを話しあう企画をしているわけで、ちょっと尋常ではないですよね。

助川:そもそも戦争前からフォーラム活動があって、そこに戦争が重なって「復興」というテーマが加えられた?

松浦: いや、全く独自に企画されたんです。そして実際に招待状が来て、私も何かできないかと模索していたタイミングだったので、一度参加してみようと思ったんです。蓋を開けると50人くらいがズーム上に集まっていました。

抱いた危惧

助川:集まったのはどういう人たちだったんですか。

松浦: 一人一人自己紹介があるわけでもないので全員は分からないのですが、建築関係もいました。何人かのキーパーソンが中心に話すのですが、招待されたということで、僕にもマイクが回ってきて意見を求められたりもしました。ただ、このフォーラムを通じて感じていたのは、参加者が共通してショック状態のようであったこと。「お気の毒です」「許せない」「何とかしなければ」「何かお手伝いします」などの意見ばかりが出ていて、そんな状況に僕はどこか少し冷めていました。2時間も費やしたこの会議に何の意味があるのか? と。オンライン会議をやって満足感を得てしまうのではダメだと危惧したんです。

僕の状況としては、抱えていたロシアとウクライナのプロジェクトも全部無くなって、時間だけはたっぷりあるし、何よりウクライナには多くの知人がいる。戦争を他人事には感じられなかった。だから深く足を踏み入れてみようと思ったんです。それで真っ先にイルピンに行くことを考え始めました。フォーラムでは主催者は世界中の参加者に向かって「ぜひイルピンに来て現状を見てください」と言うんですが、実際にはほとんどの国は渡航制限していて難しい。それでもみんな「Yes!」とか気軽に返事をしていて、やはり違和感を覚えたんですが。ともかく、僕は会議後に復興計画をサポートすべく、本気でイルピンに行くための計画をはじめました。各方面に相談して、旅費をカバーしてもらえることになり、実際になんとかイルピン行きの目処がつきました。

左:マリウポリで開戦まで建設が進んでいた新大学校舎 (設計:MASA architects)/右:ロシアでの公園設計 (設計:MADMA urbanism+landscape)

助川:イルピンでは実際にどのような活動をしたんですか。

松浦:基本的な目的は復興のためのマスタープラン作成のサポートです。ただし、イルピンに行く前に、まずは今後のマスタープラン作成のためのビジネスプラン──つまり事業計画の作成をおこないました。ウクライナでは、いわゆる西ヨーロッパ的な「マスタープラン」の作成は前例がほとんどないんですね。なので、そのために必要な手順や人員、時間をできるだけわかりやすい形にまとめる作業をしました。また、マスタープランの叩き台となるような、現況の街の解析をGoogleなどから入手できる情報などからある程度進めておきました。

その過程でぼく自身もイルピンへの理解が深まりました。若い家族が移住する地区として成長中であること。人口6万人の郊外都市であること。よって少人数で手早くプロジェクトが進められる規模であり、また復興事業を地元で産業化して展開できる若いエネルギーがあるということなど。一緒に仕事をしてきた現地の仲間を頼りに、ディベロッパーやトラフィック、ランドスケープのエンジニアなど専門家による復興事業のチームメンバー・リストをつくったりもしました。もちろん、メンバーのマジョリティはウクライナ人です。対価が得られるようなときには、ウクライナ人に流れるべきだから。というのも、その時期はボランティアがとても盛んで、お金が回っていないように見えたんですね。

助川:現実的な判断ですね。今回のような大きな悲劇的感情があるケースでは、復興に少しでも「金」の匂いがあると、当事者のみならず外野が無責任にその事業の正当性への疑念を広げるものです。

松浦:最終的にはプロジェクトの概算も提出しました。それに対して非難する人もいなかったし、現在もどのように資本を投下するか、建設的に話しあっていると思います。

事前に街の解析作業をする[MADMA urbanism+landscape]

廃墟と公園──開戦直後のイルピンを歩く

助川:そしていよいよイルピンに向かう。

松浦:まずポーランドに飛び、そこから陸路で21時間 。何度も検閲を受けました。僕のパスポートはロシアのビザやスタンプだらけだから、ウクライナ政府やオランダ大使館の招待状を見せながら何度も事情を説明しました。そうやってイルピンに着いたのです。

イルピンでの初日は、市政府の人たちにとにかく破壊されて廃墟となった場所を連れ回されました。いわゆるテレビで報道される場所。どこも衝撃的でした。特に「車の墓場」と言われる場所は、蜂の巣に銃撃された自家用車が山積みになっていて、なぜ蜂の巣にする必要があったのか・・・?と。これにはさすがに言葉を失いました。

また別に驚いたのは、行く先々で各国のメディアや首脳陣などが沢山のカメラに囲まれながら「視察」していること。カメラを携えたウクライナ人の家族連れも沢山見かけました。この時代の戦時中を表す典型的な光景かもしれませんが、非常にシュールな感覚に包まれていたのを覚えています。例えるならば、映画の撮影現場を見ているような感じでしょうか。

助川:アイロニカルな光景ですね・・・。実際に破壊されたのは街全体の何パーセントくらいの印象ですか。

松浦:市の大部分が破壊されたと聞いていたのですが、僕が見た印象では、街のかなりの部分は無傷で、想像していたのとは大分違かったです。現地を移動していると、たしかに時折、恐ろしい破壊行為の傷跡が現れる。しかしそのほかの時間に車の窓から見えるのは、驚くほど「良い雰囲気」の街並みなんです。

となると、復興マスタープランをつくるためには、破壊されたエリアだけではなく、やはりそうした場所も見ないといけないですよね。そこで翌日からは、市の職員にお願いして自転車を用意してもらい、ぼくたちのチームの3人だけで街全体の視察に出かけたんです。最も破壊の激しいスポットをピンポイントで訪ねた初日に対して、それ以外のものを見るためです。事前に僕たちはイルピンの街の解析で街の問題点や興味深いところを時間をかけてスポッティングをしていたので、それらを巡りました。

イルピンで最も悲惨なダメーシを受けた集合住宅地[撮影:松浦]
車墓場 (破壊、銃撃された車が集められている)[撮影:松浦]

助川:戦災と復興というだけでなく、イルピン本来の都市構造や都市資源を確認するわけですね。

松浦:そうです。いくつか根本的なポイントがあります。例えば、都市の立地。イルピンはキーウから車でわずか15分ほどの街であるということ。そして緑がめちゃくちゃ多い。大きめの公共公園が4〜5ヶ所あって、どれも非常に良く整備されていて驚きました。ウクライナに限らず、旧ソヴィエト連邦の国ではえてして公園はメンテナンスが行き届いていないんですよ。特に地方都市ではお金が足りないし。しかしイルピンの公園は、これまで僕が見てきたロシアやウクライナの公園の中でも突出してメンテナンスが行き届いていました。植物の健康状態も良好で、かなりこまめに手入れをしていることがわかる。そして子連れの親子が遊んでいる・・・。前日に案内されて見て歩いた破壊の光景とのコントラストが強すぎて、本当に同じ街なのかと疑うくらいでした。

公園はまさか戦争が始まってメンテナンスしたわけでもないでしょうし、イルピン市が都市計画に対するスピリットを持って事業をおこなってきたことがわかりました。そのうえでキーウからも近く、地価もまだ安いために若い家族層がたくさん移住してきていた、というのが近年の動向だったわけです。ウクライナはIT化を推進していて、若い家族世代は郊外でオンライン仕事をしていることが多い。たまに出勤するくらいだったらすぐにキーウにいけるイルピンはちょうどよい。

助川:戦争前からのコロナ・パンデミックも影響していそうですね。リモートワークを前提とした都市社会の新しいモデルのようになっていたと。

イルピンの都市問題

松浦:他にも注目した点があります。イルピンは街の真ん中を南北に鉄道が走っているんです。線路と駅は高架ではなくてほぼ地盤面です。しかし自動車で線路を横切れる場所がたったの2ヶ所しかなく、駅には自転車がギリギリ通れるくらいの歩行者用トンネルしかない。

助川:街が東西に分断されていると。日本でも、同じ行政区なのに、鉄道によって生活圏や文化圏が分断されてしまうケースがありますが、同じですね。

松浦:一緒です。やはりこういう状況は都市にとっては不健康なことだと思いましたね。そこで僕らのプランでは、駅を街の中心とした開発と東西の連絡ということを重視しました。イルピン、じつは駅前がショボいんです(笑)。そもそも鉄道もメインは貨物で、キーウまでの通勤線などはまだ整備されていない。そのあたりの問題を解決していくべきだと考えました。

助川:ヨーロッパの郊外都市は、一般的に駅前の開発には無頓着に見えますよね。駅前が普通に住宅地で、途方に暮れたりする。

松浦:あと、イルピンはふたつの川に挟まれているんですが、その川を街中では全く感じることができません。現状の都市計画だと、川に向かう道路がなぜか「クルドサック(袋小路)型」になっていて、街と川との空間的関係が希薄なんですね。日常的にサイクリングや散歩ができるような空間ではない。そこで、エコロジカルな視点も含めて、川との関係を強くするためのアイデアも考えました。

助川:最初の公園のポテンシャルとも連動していますね。

松浦:はい。ただ、公園のことや、線路と駅のこと、川のことなど、これら「戦災復興」とは直接関係のないアイデアではあって、じつは現地入りするまでに粗方予測をつけていたことでもありました。事前にイメージしていたことが2日目の視察でより正確に、細かく確認できた、という感じです。

イルピンの非常によくメンテナンスされた公園[撮影:松浦]
左:イルピンの典型的な住宅街/右:イルピン川周辺[撮影:松浦]
インタビューさせてもらったイルピン住民(左から2・3人目)と[撮影:松浦]

戦争と復興にとどまらない、ということ

助川:現状から察するに住民達の感情はものすごく昂っていると思いますが、進められている復興計画に対する空気感やモチベーションはどんな感じなのでしょうか。

松浦:当然ですが、相当エモーショナルだしセンシティブな話題として扱われていたように思います。僕が何を言い出すのか、という警戒感も正直感じました。とはいえ、それでも日本人がオランダから陸路をつたって実際にイルピンに現れて、街について考えてくれているということに対する感謝も強く伝わりました。

じつはイルピン到着後には、すぐに僕の経歴が調べられて、「ロシアでのプロジェクトも多いしあの日本人はロシアのスパイに違いない」とSNSで流されたりしています。これにはびっくりしました。これまでのロシアでの建築家としての活動は紛れのない事実ですし、ウクライナのマリウポリで手がけていた大学のプロジェクトもスパイ活動の一環にされてしまった。アゾフタリ製鉄所の地図をロシア側に渡した人間だというデマもありました。大きな問題にはならなかったんですが、やはり微妙な状況なんだなと。

助川:この時代を象徴する現象です。

松浦:とはいえ、結論を言えば、まったく大丈夫でした。戦争開始当初はみんな生活、食っていけるかどうかが心配だし、情的なものも大きく作用していました。でもそのエネルギーは徐々に新しい事業に対する期待感に変換されていくものだと思うんです。

実際、イルピンでの調査を終えて少ししてから、イルピン市長に面会して、現地調査と事前に準備していたビジネスプランなどと合わせてプレゼンしましたが、反応は非常に熱狂的で、即座にその場で今後のことも話し合えました。極めて前向きな方向性を示すことができたと思います。

助川:いい展開ですね。イルピンはウクライナで起こっている侵略戦争において防衛最前線になり、破壊と殺戮が繰り広げられた街です。しかし、これまでの松浦さんのお話を聞いていてとても興味深いのは、そうした非日常的な戦争に対する復興計画ではなく、意識的に平常な計画学としてこの仕事に取り組んでいる様子がうかがえることです。「復興だ、支援だ」ということ以前に、イルピンの潜在的な都市的能力を丹念に掘り下げて、それを前面に押し出すことで、現地とコミュニケーションをしている。

イルピン市長(左から二人目)へのプレゼン[提供:Enzo Dell]

松浦:変な話ですが、事前のイルピン市の解析から現地での市長プレゼンにいたるまで、戦争のことを忘れちゃってるくらいなんです。

特に現地入りしてからがそうです。そのくらい街にポテンシャルが満ちている。そして、そもそもイルピン市がやりたいことも、復興だけにとどまるものではない。将来の都市発展のビジョンというものを一生懸命考えていて、この逆境を機会にむしろ一新していきたいというような期待感すらある。市長には「このまま将来、ずっと戦争犠牲者の街としてのレッテルを貼られるよりも、そんなことも過去のこととして見れるような街になったほうがいいですよね」と問いかけたんですが、「全くその通りだ」と。

もちろん、時世的には戦争被害を世界に発信することは必要だし大事なことです。だけど、それを永遠にはやれない。住民たちも戦争後にはちゃんとした生活に戻っていないといけないと思うんです。

多様なアクターとすれちがう思惑

松浦:例えば、被災地において仮設住宅をつくって150人が収容できました、万歳、みたいに報道されたりもしますよね。でもその裏ではまだ数千人が待機していたりする。どうも場当たり的です。どうして平屋でつくってしまうのか。もっと高密度に人を収容することを考るべきではないのかと思うんですよ。仮設住宅が恒久的に使われてしまうことだってあり、それだったら、もう少しだけ時間をかけて都市計画として被災地の将来像をつくったうえでつくった方がいいこともある。実際オランダはこういう視点から物事に着手するんですね。でもウクライナはそうでもない・・・。

なので、僕らがプレゼンした復興計画のビジョンも、合理的に事業を進めるための「段取り」のようなことを、多くの事例を交えて話しました。住宅のことで言うと、例えば戸建てが破壊された場合は割と単純ですが(というのも戸建ては基本単一のオーナーシップなので)、問題は集合住宅です。ウクライナの集合住宅は賃貸ではなく、基本的にみんな持ち家なんです。ソ連解体後のマインドセットですが、そんな状況で集合住宅が破壊されるとどうなるか。建物はほぼ半壊しているにもかかわらず、人が住み続けるんです。壮絶な光景です。窓ガラスも爆撃と砲撃による衝撃波で全てなくっているけれど、ビニールを貼って生活し続ける。そんな場所で日常生活を送るのは生命にも関わることは建築をやっている人間からすると自明なのですが、それでも一歩も動こうとしない。ここを出たら二度と帰って来れなくなる。そう思っているから土地にしがみつくのです。丸焦げになった階の下階の窓辺で、おばちゃんがタバコをふかしていたり・・・。

助川:それはシュールな・・・。

松浦:そんな集合住宅を建て替えるとなった時、どれほど手続きや合意形成が難しいか、容易に想像できますよね。オランダみたいに、集団所有のうえで集団行動して建て替えをするみたいな概念がない。だから同じ「住宅」でも、戸建てと集合住宅の場合では予算やスケジュールを分けて細かく計画しましょうと提案しました。どこでもそうですが、基本的に政府が出してくる数字はザルです。何人が住宅を失った、学校がいくつ壊された、だからそのぶん建てなおす・・・。そんなざっくりとした数字だけでは把握できないことがたくさんあるんです。もっと細かくリサーチをしてきちんとした数字を把握することが重要です。

左:イルピンの最も悲惨なダメージを受けた集合住宅地。建物の黒くない部分には今でも住人がいる/右:破壊された個人住宅群[撮影:松浦]

松浦:いずれにしても、やはり現地で感じたのはいろんな方面で情報やノウハウが足りていないということでした。だから今後はリサーチがより必要になるでしょう。なので、僕らが提案したビジネスプランは、まずは数ヶ月のリサーチをおこない、その後に事業のリストアップ、そしてそれらを実行する順番の決定をしましょうというものでした。また、市民の意見を聞く機会を設けることも提案しています。

助川:市民の意見?

松浦:政府も本音を言えば市民と対話をすることに前向きというわけでもないです。まともな意見もあるものの、多くの支離滅裂な意見をも相手にするわけですし、とにかくすべての既存のものとは違うアイデアに対して反対する勢力が多く存在したりと、非常に労力を要するプロセスですから。しかしヨーロッパや日本も含めて、今ではこうした手続きは普通で正しいことですよね。なのでイルピンでも、例えばウィッシュ・リストのようなものをつくったり、市民の好きな場所をアンケート調査したりして、マスタープランに反映させるくらいのことはすべきだろうと思ったわけです。これには市長も乗り気になってくれました。そして最終的に、事業にかかる費用をわりと細かく計算して提出しました。金額や内容に対して文句を言う人はいなかったのですが、しばらく音信が途絶えまして・・・。

助川:戦況も影響するでしょうしね。

松浦:まあ当然なんですよ。彼らは僕のプレゼンを聞いて意義もノウハウも金額もわかっても、すぐに何かを実行できる状況ではありません。レスポンスには当然時間がかかる。

ただ、そんな状況の中で、アメリカの組織設計事務所GENSLAR(ゲンスラー)がイルピンの復興計画に参入してきました。これには僕は少々驚いたのですが、市は早々に彼らををマスタープランづくりの旗振りに任命しました。GENSLARは米国発祥の世界最大の建築設計事務所であるということ、そしてマスタープランの最初のピッチの段階を無償で行うという提案をしていたことが、イルピン市にこの決断をさせたようです。

正直、突然梯子を外されたような気持になりましたし、こうなると僕は手を引くことになるかなと思いました。しかし市のほうから、彼らがマスタープランを作成するときのアドバイザーとしてサポートしてほしいと頼まれました。そもそも彼らはウクライナでの経験がほぼないこと、そして米国はウクライナへ渡航を禁じていたので、彼らは現地のことにはあまり明るくなれないということもあったのでしょう。6万人というコンパクトな自治体の決めごとやマスタープランは、できるかぎりコンパクトな人員や企業でおこなったほうがよいという持論を僕は強く持っていたのですが、結局はこの要望を受けて、現在はマスタープランのアドバイザーとして参加しています。イルピンに対しての愛着が自分でも驚くほどあって、このまま立ち去る気になれなかったんです。

GENSLAR主導の「ピッチ後」のマスタープランは停滞した状況です。次の段階に進むための資金が調達できないためです。イルピン市でおこなわれているのは、端的に言うと「戦後復興」ではなく「戦時復興」であり、これは資金調達上の困難がたくさんあるというのが理由のようです。これは正直僕も納得しました。なので、何も急ぐことはないだろうと思っています。そもそも時間のかかるプロセスですし、僕自身も長いスパンで協力を続けたいと思っています。

[2024年3月、松浦追記]ちなみにマスタープランの一件とはべつに、最近新しい動きがありました。イルピンは前述したとおり小さな町ですが、STU (State Tax University)という国立大学があります。ロシアの侵攻中に大学のメインの建物が大破したのですが、この建物の建て替え、そして周辺のランドスケープの基本設計を最近大学に寄付させていただきました。(MASA architectsとMADMA urbanism+landscapeとの共同設計。ウクライナ企業のDruid Project BureauとBeloded Landscapingのエンジニアリング協力)

破壊されたSTUのメインの建物[撮影:松浦]
寄付された建て替え案 [設計 MASA architects + MADMA urbanism+landscape]
左:メインストリートからの眺め。左手に新建物/右:キャンパス側のランドスケープデザイン [設計 MASA architects + MADMA urbanism+landscape]

冷静で、楽観的になること

助川:これまでお話をうかがってきて、戦争によって破壊された都市に対する建築家の振る舞いとして、共感を受けます。どうしても近年の建築分野は社会貢献みたいなことにテーマが集中しているように思えます。それ自体はすばらしいことですが、どうも「みんなの〜」とか「コミュニティのために〜」とか、ユートピア的なコンセプトだけ掲げて、実態としては実を結ばない振る舞いに終始してしまう事例が散見されるようにも感じています。複雑で悲惨な状況を簡潔に明るいキャッチフレーズでまとめることを否定はしません。しかし一方で、松浦さんからは、労働力と得られるべき対価に対する考え方、あるいは一過性の出来事に左右されない都市の潜在能力への注目や、現地の人びととのコミュニケーションを重視することで、複雑なことを複雑なまま受け止めつつ、建築家としてできうることを現実的に遂行している印象を受けました。

松浦:もしかしたら冷めた視点があるからかもしれませんね。当然、戦争による都市の破壊は特殊な状況です。だから、いろんな矛盾したことが起こってしまう。それに対しての簡潔な、あるいは感情的なアクションをとることもできるでしょう。でも僕個人は、数年後や数十年後のことを考えた方がいいだろうと思うんです。そういう視点なので、イルピンのような被災地に関わっても、もちろんネガティブな気持ちになることもあるけども、基本的に楽観的なんです。

助川:最後になりますが、建築家として、今回のウクライナの戦争についてこれだけは言っておきたいこととかありますか。

松浦:うーん、難しいです。一言では言えません。たとえば昨年(2023年)5月に『読売新聞』に取り上げてもらったときには、僕は戦争に対して「激しい怒りを感じた」ということに、記事のなかでは書かれています。でも正直言うと、僕のトーンはそうではなかったんです。だって、僕が「怒っている」ことなんて、まったく重要ではない。それが現状に何も影響を及ぼすことはないんです。戦争という特殊な局面は、その状況を打破したり解決したり、生き延びるためにすることを考えるので精一杯のはずで、個人的にどんな感情かなんて考えている暇も本来はありません。先ほどお話しした「車の墓場」を見た時も、それはあまりにも衝撃的な光景で、そして衝撃とともに「どうして?」という疑問が頭を駆け巡るだけでした。

個人の感情なんて全く追いつかない。僕から言えることは、もし、僕のように今回の戦争で直接友人や家族を失った体験をしていないのであれば、なるべく事態を俯瞰で見たほうがいい、ということです。

助川: 改めて今回のような復興計画には、そうした冷静な視点が重要であろうと強く感じます。今後のイルピン市で提案された都市計画が反映されていくこと、そして一日も早く戦争が終わってロシアやウクライナでのプロジェクトが再開されていくことを願っています。■

2023年8月13日 ロッテルダムにて

プロフィール

松浦寛樹
1973年東京都生まれ / 1996年東京藝術大学美術学部建築科卒業 / 1996年 West8 Landscape Architects (オランダ) / 1997年 Maxwan architects+urbanists (オランダ) / 2004年 Maxwan architects+urbanistsのパートナー、共同経営者に就任 / 2015年 Maxwan運営の傍らMASA Architects (オランダ) 設立 / 2018年 Maxwanの解体を機にMADMA urbanism+landscape (オランダ) 設立。現在MADMAにて都市計画、アーバンデザイン、ランドスケープデザイン、MASAにて建築設計、インテリアデザインの業務を行う/ MARCH (The Moscow School of Architecture)客員教授(現在戦時中にて役職を凍結中)、その他各教育機関での非常勤講師 (デルフト工科大学, ベルラーヘ・インスティュート, Academy of Architecture Rotterdam、Academy of Architecture Amsterdam) 及び各国の建築、アーバニズムの国際フォーラムにて頻繁にスピーカーを務める。/ 2022年のウクライナ・ロシア戦争の開戦直後よりウクライナ・イルピン市の復興マスタープランアドバイザーに就任

助川剛
1969年茨城県生まれ / 1993年東京藝術大学美術学部建築科卒業 / 1996年同大学大学院美術研究科修士課程修了 /1996年〜2008年磯崎新アトリエ勤務 /2001年より深圳文化センタープロジェクトのため中国駐在 /2006アトリエサイトワークス設立 後活動の拠点を浙江省に移す/ 2010年より中国美術学院、寧波大学などで教鞭をとる /2016年より中国美術学院建築芸術学部環境芸術科教授 /2022年よりポーランド国際インテリアデザインビエンナーレ(IIDB)設計競技部門審査員に就任

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建築討論委員会(けんちくとうろん・いいんかい)/『建築討論』誌の編者・著者として時々登場します。また本サイトにインポートされた過去記事(no.007〜014, 2016-2017)は便宜上本委員会が投稿した形をとり、実際の著者名は各記事のサブタイトル欄等に明記しました。