現代都市の中の贈与
はじめに
現代都市での贈与を見出してみたい。田島列島による漫画『水は海に向かって流れる』(講談社、2019)(図1)では、他人に対して無駄に豪勢な肉を振舞う牛丼「ポトラッチ丼」が登場する。ポトラッチはマルセル・モースの提示した、贈与を用いた戦いである。
与える側の社会階層が上位であることを表すために、所有物を与えることで自身の社会的優位性を示そうとするもので、時にはお返しを貰うのを望んでいると思われないために、贈与や返礼をせず、ひたすらに物を破壊することさえあるという。ポトラッチは過度な贈与の事例といわれるが、今回の「建築の贈与論」では、贈与性を単純に他者に与える、貢献するという意味で考えている。
谷根千のポトラッチ
私が住む谷根千には接道型の建築、いわゆる町屋建築が立並び、建築と道の境には多様な鉢植が置かれている(図 2−4)。いつも私が朝、挨拶をする妙齢の女性は、不思議なことに自分の家以外の近隣の家々にも植物を置いて毎朝水をあげている。彼女に聞くと「鉢植は私が置いた、元は自転車放置を避けるため」と言う。つまり、自分の育てた植物を隣人の家に置いて育てているのである。こうした鉢植は谷中・根津・千駄木の付近ではよくみられ、幾人もの住人が家先で鉢植を育てていると思われる。私はこうした鉢植とその育成を街に対する贈与と見なし 、“谷根千のポトラッチ”と呼んでいる。そのおかげか近所づきあいは非常にいい。私を含めた多くの隣人による彼女に対する挨拶は、贈与された鉢植への “返礼”の一つなのではないだろうか。
一方で、なぜここまで鉢植が贈与物となったのか。私はその起源が江戸時代の植木屋と考えている。江戸時代の後期に朝顔や万年青(おもと)などの鉢植を鑑賞し始める。武家屋敷や寺院の庭の手入れをするだけでなく、栽培した鉢植を提供するようになった。こうした江戸近郊の植木屋は、現在の白山・本駒込・千駄木付近、王子や巣鴨、駒込といった中山道を沿って南北に拡がっていた。理由としては町屋の建て込みが少ないことに加え、肥沃な土壌に恵まれ、手ごろな近さに供給地を持つことによる(図 5)。
これは谷中菊祭りにも現われている。菊祭りは、江戸時代(文化年間後半(1812 –18)と弘化年間(1844 –48))から明治にかけて続いた、団子坂の菊人形を復活させたものである。谷根千のポトラッチはこうした歴史的な価値、ここでは鉢植を飾る家、世話する家ほど評価されるという歴史が造る環境によって醸成されたのであろう。
贈与の対象物となる鉢植は、歴史的な文化の中、地元の人々の中で富の象徴となったのである。そして、その富を街に与えている女性は社会階層が上がったと思われ、少なくとも私を含めた住民はこの女性に敬意を払うのだろう。
空間の贈与
こうした贈与は直接的な空間として現れることもある。私の行きつけの床屋の近くにある巣鴨郵便局前の空き地は、都市に対して贈与された空間であった。建物と道との間にある2mほどのスペースには、ベンチと鉢植が適度に置かれ、巣鴨を闊歩する老若男女が小休止をとれる。喫煙者が大量に使い始めたせいか、今はフェンスによって区切られたものの、整備された空間は贈与される対象であった(図6)。これは食べ歩きをする歩行者が多い一方で、座って飲食するスペースがないことの需要であろう。1891 (明治 24)年、下谷から移された高岩寺は「とげぬき地蔵」として江戸時代から有名であり、近辺は町場化している。こうした門前町には食べ歩きをする風情が残っており、信濃善光寺や柴又帝釈天題経寺の門前町にはこうしたベンチがある(図7)。なお、帝釈天の参道が帝釈天所有の私道であ ったことも興味深い。
さらに近年、銀座の「SONY BUILDING」が壊されて作られた「SONY PARK」は、芦原義信の『街並みの美学』にある「ポケットパーク」、つまり一部分だけ道を拡張し広場的空間を作っている(図8)。企業が私有地を街に対して贈与することで、盛り場の空閑地として魅力を生み出している。これらの贈与空間は、空地だらけの町で空地を作るのではなく、空地の無い稠密な町であえて空地を作るという点で、街の需要を満たす特性がある。
制度化された贈与空間
贈与された空間は制度になったと考えることもできる。街を歩いていてよく目につく公開空地は、こうした空間の贈与を制度化したものだろう。日本では 1971 年に総合設計制度が創設され、一定割合以上の公開空地を持つ建築物の計画に対し、特定行政庁の許可により容積率の緩和や高さ制限などが可能となる。公開空地は屋外の広場や中庭のほか、歩道状の空地やアトリウム空間も含まれる。著名なものでは新宿西口の「55HIROBA」がある(図 9, 10)。新宿三井ビルディングの公開空地として、早朝に到着する夜行バスの休憩場所として貧乏学生の頃にお世話になってきた。公開空地は所有者が高層ビルを作る代わりに、市民へ公共空間を贈与するという意味で、元来あった贈与空間を制度として改めたことによりできたと解釈できる。
互酬される私道
最後にこうした空地を活かした街として原宿を挙げたい。明治神宮の表参道となる表原宿に対し、大通りの裏側を示す“ウラハラ”は 1,2 階にアパレルやカフェなどが入るビルで構成され、服を見て回るだけでも楽しめる街として、若者に求心性をもつ。
原宿の都市空間は東京の微地形の上に街路が張り巡らされている。この張り巡らされた街路と、目線を上下させる「坂」が飽きない体験をつくりあげている。この街を楽しむ方法は食べ歩きやショッピングである。原宿の建物の多くは1階と2階で異なるテナントが入る作りになっている。加えて半地下もあるために目線が上下へと誘導され、目線が一定に留まることはない(図 11−13)。
子供の遊びを研究したロジェ・カイヨワ ★1は『遊びと人間』(多田道太郎、塚崎幹夫翻訳、講談社、1990 年、図14)のなかで、子供の遊びを競争・偶然・模倣・めまいの 4 つの要素に分類している。このなかでめまいは、メリ ーゴーランドやブランコ、スキーなどのことを指す★2。街路を巡り、坂とテナントで目線を上下させる原宿の空間体験は、まさにめまいを起こさせる装置に成り得る。原宿が若者の人気になる所以は、子供の遊びを街のスケールで再現したことによるのだろう。
こうした街を巡る体験を助長させているのが建物内を貫く私道である。
たとえば、原宿のビルの中でも一層印象深い「YM スクエア原宿」(図15)は、こうした原宿の都市構造に依拠した空間構成に加えて、私道を贈与することによって原宿の街に参画している。
表通りから裏通りへ抜ける公道の他に、建物内に私道を通すことで通りの反対へ抜ける通り道をつくる。つまり、原宿の建築は都市構造を助長させる舞台装置として機能している。原宿の面白さは、私的空間を公的空間へ贈与することによって成り立っていると考えられる。
実はこうした都市空間の贈与は、渋谷の前に盛り場として登場した銀座でも見られる★3。銀座では両側に接道型の建築が立並ぶ空間構造をもつ。それを活かした現代建築として、坂茂の設計したニコラス・G ・ハイエック センター(2007 年、図16)は銀座の表通りと裏通りを繋ぐ吹き抜けの1階を持つ。都市に贈与された空間は盛り場の魅力を助長し、都市に参画するのである。
以上、駆け足ながら現代都市における贈与についてみてきた。贈与に用いられる道具は谷根千では鉢植であり、盛り場では空地や私道であった。これらの贈与物はいずれも都市環境を歴史的に読むことから抽出されていると言える。そして贈与される対象とは、具体的な隣人ではなく、隣人を抽象化し神格化した、鈴木博之★4のいうゲニウス・ロキ★5と言うようなものなのかもしれない。(続く)
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参考文献
- 文京ふるさと歴史館『菊人形今昔―団子坂に花開いた秋の風物詩』
(図録)2002 年 - ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳、講談社、1971 年、増補改訂版。
- 竹中工務店 webページ (https://www.takenaka.co.jp/news/pr0101/m0101_04.htm)
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注
★1:カイヨワ(Caillois, Roger)(1913.3.3~78.12.21)フランスの社会批評家、作家。 高等師範学校卒業。一時シュルレアリスム運動にかかわったが、〈自然の最高の調和〉という考え方から、のちに自然・原始社会と芸術・近代社会とのアナロジーを発想とする立場に転換。G.バタイユ,レリス,ブルトンらと社会学研究会を設立。第二次大戦中はアルゼンチンに滞在し、戦後は長くユネスコ本部に勤務。その後アカデミー・フランセーズ会員となり [1971] 、〈聖-俗-遊〉のユニークな関係図式を構築し、特に戦争、祭り、大衆文化を解明した。著作に『神話と人間:Le mythe et l’homme』1938。『聖なるものの社会学:Quatre essais de sociologie contemporaine』1951。『遊びと人間:Les jeux et les hommes』1958。(「岩波 世界人名大辞典」を参照)
★2:建築家の仙田満(1941-)は円環構造といって自身の建築設計に活用している。
★3:東京の盛り場が銀座・浅草から新宿・渋谷へと替わるという視点は吉見俊也『都市のドラマトゥルギー』(河出書房新社、2008.12.4)による。
★4:鈴木博之(すずき-ひろゆき)1945–2014。昭和後期-平成時代の建築史家、建築評論家。 昭和 20 年 5 月 14 日生まれ。平成 2 年東大教授となる。21 年青山学院大教授、22 年博物館明治村館長。西洋建築史を専門とし、現代建築の評論家として知られた。文化財保護や東京駅舎の復元に尽力。著作に『建築の世紀末』『建築の七つの力』『東京の「地霊」』『都市のかなしみ』など。平成 26 年 2 月 3 日死去。68 歳。(「日本人名大辞典」を参照)
★5:鈴木博之『東京の地霊(ちくま学芸文庫)』(筑摩書房、2009)によれば、「つまり全体としては、ゲニウス・ロキという言葉の意味は土地に対する守護の霊ということになる。一般にこれは土地霊とか土地の精霊と訳される。しかしながら、それは土地の神様とか産土神といった鎮守様のようなものとは考えられておらず、姿形なくどこかに漂っている精気のごときものとされるのである。
ゲニウス・ロキとは、結局のところある土地から引き出される霊感とか、土地に結びついた連想性、あるいは土地がもつ可能性といった概念になる。」という。
中村駿介 連載「建築の贈与論」
・その1建築の贈与論について
・その2 現代都市の中の贈与