生業の転換と空間の適応 ── 宿根木
Transformation of living industry and adaptation of space ── Shukunegi[201812特集:動的な歴史的市街地の再読]
1.はじめに
半世紀前に町並み保存運動が起こり、伝建制度の創設により、多くの歴史的市街地が保全されている。しかし、人口減少と高齢化によって社会の活力が失われている現代、存続が危ぶまれている歴史的市街地は少なくない。歴史的市街地の保全には、社会経済状況に適応しなければならず、柔軟な軌道修正が必要とされる。逆説的であるが、歴史的市街地の形態を文脈から切り離して再読することによって、新たな局面が切り開かれるように思われる[i]。
本稿では、新潟県佐渡市宿根木伝建地区の事例研究を通じて、縮退社会における歴史的市街地の保全論を考察する。後述するように宿根木伝建地区は江戸期の廻船業を背景とする美しい歴史的市街地を有しているが、近代以降の廻船業の衰退によって歴史的市街地の継承が困難な状況にある。そこで、生業の転換に着目して廻船業の遺産という従来の文脈と異なる視点から歴史的市街地を再読し、宿根木伝建地区の今後を展望したい。
2.宿根木集落の空間特性
本題に入る前に、宿根木伝建地区の建築、および集落形態の特徴を紹介する。その詳細は1980年に東京大学稲垣研究室が実施した伝統的建造物群保存対策調査の報告書に記録されている(参考文献2)。
宿根木は、佐渡島南部の小木岬に位置する。中世に起源をもち、江戸期に廻船業を営んだ船主、船乗り、船大工が居住していた集落である。海岸段丘の狭小な谷内(約1ha)に約200棟の建築群が高密度に集積している。歴史的市街地内には、主屋、納屋、土蔵が建ち並び、その種別を問わずに外壁は縦板張りが施されており、町並みは極めて質素な印象を受ける[ii]。他方、総二階建ての主屋は漆や柿渋が塗られた柱や梁、建具、調度品などに贅が凝らされており、内部空間に廻船業で得た富の痕跡を確認できる。
現存する集落形態の原型は、江戸期の廻船業の繁栄に伴って、発展的に形成されたと考えられている。人口の増加に応じて、谷内の居住地は徐々に拡大し、同時に高密度な市街地が形成されていった。さらに、その後の発展過程では谷外の高台に居住地が形成されて、現代に連なる集落形態が完成した(図1)。また、集落空間の拡張と同時に、建物用途を柔軟に変更して人口や世帯構成の変化に対応していた慣習があったと考えられている。主屋、納屋、土蔵は、各々の敷地が形成された時期に応じた規則で配されている。集落の前面の海との関係、谷内を流れる称光寺川との関係、前時代に形成された居住地との関係、および敷地の形状や面積に応じた規則性が確認されている。土地面積の制約から谷内にオープンスペースは少なく、幅一間程度の小路によって街区が形成されている。海に面する場所と集落の奥に配された寺社境内の二か所に空地が存在する。前者はかつて廻船業と造船業が営まれた空間であり、現在は観光案内所と駐車場が配されて集落の玄関口として機能している。後者には宿根木公会堂が立ち、日常的に集落の人々が集まる場所であり、同時に伝統的な行事が営まれる場所である。いずれも現在の集落にとって重要な意味を持つオープンスペースである。
3.宿根木における町並み保存運動
次に、約半世紀の歴史を有する町並み保存運動の動向を確認したい。廻船業の衰退を契機に、宿根木では、職を求める離村により人口は緩やかに減少し続けてきた。後述するように、近代に農業への生業転換が図られたが、人口流出は続き、現在は約170人が居住している(最盛期は500人)。人口減少に伴い、空き家が発生している[iii]。
宿根木では、1960年代に民俗学者・宮本常一の助言を受けて、内発的な地域おこしを目的とする町並み保存運動が始まった[iv]。町並み保存運動は生活の近代化を求める人々の意見と対立してきたが、前述した保存対策調査を経て、1990年に伝建地区に指定された(翌1991年に重伝建地区に選定)。指定範囲は、廻船業で栄えた痕跡をよく残す集落と前面に広がる海岸を含む28.5haで、伝統的建造物は106棟、工作物16件、環境物件108件である(図2)。伝建地区指定に合わせて、住民組織「宿根木を愛する会」と「宿根木住民憲章」が誕生し、この二つが両輪となって宿根木における町並み保存が取り組まれてきた。宿根木では居住者、および宿根木を愛する会による伝建地区の保存と活用を原則としている。
伝建地区指定から28年が経過し、現在までに修理事業84件(全伝統的建造物の約68%)、修景事業16件(全体の約13%)が実施された。これらの数字は町並みの現状によく現れており、町並み保存運動が着実に成果を上げてきたことを物語っている[v]。
他方、宿根木は当初と同じ問題を抱え続けている。地域おこしは道半ばにあり、社会経済の立て直しは継続的な課題といえる。また、人口が少なくなれば、町並み保存が立ち行かなくなってしまうことも危惧されている。例えば、伝建保存計画の修理基準が推奨する石置き木羽葺き屋根については、屋根材の木羽を生産する技術を後継する人材の確保が不安視されている。したがって、後継者の確保、あるいは新規定住者の獲得が急務な状況にある。
4.町並み保存運動の検証 居住と生業を支える空き家の活用
以上の状況を踏まえて、現代の社会経済への適応を検討するために、宿根木伝建地区の再読を試みる。
まず、前述した町並み保存運動を検証し、その過程で生じた変化を明らかにしたい。宿根木における町並み保存は観光による地域おこしが企図され、様々な事業が試みられてきた[vi]。そして現在、宿根木の観光は伝建地区を核に展開し、町並みガイド、公開民家、佐渡国小木民俗博物館、飲食店、宿泊施設が営まれている[vii]。ここでは伝統的建造物が活用に至る過程に注目して、生業の転換(観光業の確立)と空間の適応(空き家の活用)の関係性を明らかにする。
公開民家清九郎は、江戸末期に建設された船主の主屋である。保存修理事業によって、漆塗りの柱や梁、囲炉裏と吹き抜けを持つ居間、接客用の座敷、敷地奥の庭と蔵が復元され、廻船業が隆盛を極めた往時の建築文化を知ることができる。老朽化を理由に旧居住者が集落内の台地に転居したため、しばらく空き家になったが、重伝建選定後の保存修理事業を経て公開民家として活用されるようになった。旧居住者は、転居先で民宿を営んでおり(現在は休業)、宿根木に居住しながら、伝統的建造物を残すことを判断し、転居を選択している。
公開民家金子屋は、船乗りの主屋として建設された伝統的建造物で、清九郎と同様に保存修理事業を経て、公開民家として活用されるようになった。この建物は小路をはさんで向かい側にある伝統的建造物の主屋と一緒に利用されており、修理事業以前は納屋として利用されていた(修理事業では建設当初の主屋として復元されている)。かつて一緒に利用されていたもう一つの伝統的建造物は、保存修理事業後に宿泊施設多来塾として活用されている。旧居住者は、建物の老朽化を背景とする生活の近代化を求めて、高台の新居に転居している。また、農作業に必要な車を利用する上での利便性も転居の動機となったそうである。
伊三郎(宿泊施設)も同様に、旧居住者が高台に転居し、一時は未利用だった伝統的建造物である。転居後に重伝建選定が決まり、保存修理事業を経て建設当初の姿が復元され、公開民家として活用されていた。その後、移住者の住居としても利用されたのだが、移住者が転居したことをきっかけに、現在の宿泊施設に転用されている。旧居住者兼現オーナーは、第二の人生の生きがいとして農家民宿を営むことを決断した[viii]。
茶房やました(飲食店)は、納屋として利用されていた伝統的建造物であり、外観の復元修理、内部空間に改修を経て飲食店として活用されている。所有者は、同じ敷地内にあった主屋(現存せず)に居住していたが、集落内の台地に新居を構えて転居した。納屋は未利用状態になっていたが、調理師免許を持つ子供のUターンがきっかけとなって伝統的建造物での飲食店として活用されるに至った。この他の観光に関連する施設についても、旧居住者が集落内の台地や高台に転居している経過がみられる。
このような経過は、どのように理解できるだろうか。まず、集落内の台地や高台への転居は、伝統的建造物の保存、宿根木での居住、生活の近代化を同時に成立させる柔軟な判断だったと理解することはできないだろうか[ix]。保存と開発の二者択一でなく、第三の道を模索した柔軟性を確認できる。また、伝建地区指定以前の転居によって伝統的建造物の空き家が発生したことが、結果的に活用可能な資源を生み出し、地域おこしの実践を可能にしてきた。これは、前時代の判断の留保(空き家化)が、後の時代の選択の幅を広げることにつながったと理解できないだろうか。伝統的建造物の保存において、空き家状態は望ましいとはいえず、活用は社会的、経済的価値を創出する点で極めて重要である。各地の伝建地区では、カフェ、飲食店、宿泊施設といった典型的な活用用途を確認することができ、その有効性が認められる。しかし、活用の実践に一般解は存在せず、即地的な個別解が求められる。伊三郎は、公開民家、移住者の住居を経ており、活用の用途を模索しつつ、柔軟かつ時宜に適った解を導いたと理解できる。また、茶房やましたの事例は後継者の確保によって活用とその用途が判断されており、一時的な空き家状態を許容したことが最適な活用用途を導く可能性を示唆している。この他、地域おこし事業として1990年代に体験交流施設に転用された伝統的建造物がIターン者の住居として利用されている事例も存在し、宿根木では活用のタイミングと用途に柔軟性がみられる。
前述したように、宿根木には用途変更によって人口増減や世帯構成の変化に対応し、ある制約の下で集落空間を適応させる慣習が存在していた。現代の伝統的建造物の活用は、過去の慣習と通底する柔軟さを備えていると評価できる。
5.伝建地区とその周辺環境との関係の検討 生業の転換と集落領域の変容
次に、廻船業から農業への生業転換に着目しながら、伝建地区とその周辺環境の関係性について検討したい。周辺に広がる農地や里山は、現代の宿根木の居住と生業を支えており、伝建地区を保存する上で無視できない存在と考えられる。近代以降の生業の転換を踏まえつつ、現代の宿根木の領域を捉え直し、伝建地区とその周辺環境の関係性について論じたい。
近代の鉄道敷設と汽船普及によって、宿根木は廻船業を失い、船主、および関連産業に従事する人々に大きな影響を及ぼした。その結果、仕事を求めて他所へ移住する船乗りや船大工は少なくなかった。宿根木に残ったのは主に廻船業を営んでいた船主たちで、農業に活路を見出そうとした[x]。宿根木では、廻船業が盛んだった頃から集落周辺の土地で農業が営まれてきた[xi]。かつて農業は自給的で副業的な位置づけだったが、農地の拡大により基幹産業への転換が図られた。大正期には大規模な新田開発が行われ、新田に必要な農業用水を供給するための灌漑施設[xii]も整備され、農業の基盤が整えられた。その後、集落北側の山間部で柿の栽培も行われるようになり、農業は主要産業に転じた。現在、宿根木では大半の住民が農地を所有し、農業を営んでいる[xiii]。
このように近代の生業の転換と経済基盤を支えた周辺に広がる農地と灌漑施設は極めて重要な存在であり、伝建地区と同様に歴史的価値を有する遺産といえるだろう。したがって、集落の将来を構想する上では、伝建地区の周辺環境を一体的に計画することが必要だと考えられる(伝建地区の指定範囲に含めることは意図していない)。伝建地区の保存に苦労する状況において、その周辺環境を同時に構想・計画することは問題を深刻化するように思われるかもしれない。しかし、周辺環境の農地や山間部を活用することは、後継者確保や移住者獲得の可能性を大きくすると捉えることはできないだろうか。現在、田園回帰と呼ばれる潮流が生じ、地方都市や農山村に居住する若者は増えている。現に宿根木では地域おこし協力隊や新規就農者を受入れて、喫緊の課題である担い手不足に対応している。宮本常一の来訪を機に地域外の若者を受け入れる伝統が生まれ、その精神が受け継がれた宿根木では移住者を上手に迎え入れることができ、移住を希望する人材も存在するだろう。伝建地区だけでなく、周辺環境を基盤とする生業が存在することが、多様な人材を受け入れる可能性を高めることが期待される。
6.縮退社会に適応する歴史的市街地
最後に、本稿で試みたことを整理し、歴史的市街地の「回復力」について論じたい。
冒頭で、「歴史的市街地の形態を文脈から切り離して再読することによって、新たな局面が切り開かれる」という仮説を立て、町並み保存運動を検証し、伝建地区とその周辺環境との関係を読解した。前者では、宿根木伝建地区における伝建地区の周縁部への転居と伝統的建造物の活用にみる特質を明らかにし、伝統的建造物の保存と活用における柔軟な判断の重要性について考察した。また後者では、伝建地区の指定範囲と現代の居住と生業を支える領域との差異を明らかにし、伝建地区とその周辺環境の一体的な構想の重要性について考察した。再読解の試みは、縮退社会に直面する歴史的市街地では、伝建制度の枠組みを超えた柔軟性と適応性が必要、かつ有効であることを示唆している[xiv]。
本稿の出発点は、宿根木の地域おこしを構想することにあり、本稿の読解の対象、内容は、いささか私見に偏っていたかもしれない。しかし、文脈を再読することは、明確な動機と目的に基づく実践であり、ビジョンを手探りしながら、試みられるものでもある。この点を了解していただき、本稿で展開した仮説に対して意見をいただければ、宿根木の将来に資すると期待している。
参考文献
1)小木町史編纂委員会(1974)『小木町史 村の歴史 下巻』、小木町.2)小木町(1981)『宿根木 伝統的建造物群保存対策調査報告』、小木町.
3)TEM研究所編(1993)『宿根木の町並と民家 伝統木造住宅展示事業・改造マニュアル 1』、佐渡国小木民俗博物館.
4)TEM研究所編(1994)『宿根木の町並と民家 伝統木造住宅展示事業・改造マニュアル 2』、佐渡国小木民俗博物館.
5)伊藤毅(2005)「港町の両義性 宿根木の耕地と集落」、『水辺の都市』、pp67–75、山川出版社.
6)宿根木を愛する会(2014)『千石船の里・宿根木 町並み保存のあゆみ ふりかえり・明日につなぐ 重要伝統的建造物群保存地区選定20周年記念誌』、宿根木を愛する会.
7)高藤一郎平(2015)「新潟県佐渡市・宿根木地区における観光と居住」『住宅』64巻7号、pp35–37、日本住宅協会.
8)ランドルフ・T.・へスター著・土肥真人訳(2018)『エコロジカル・デモクラシー まちづくりと生態的多様性をつなぐデザイン』、鹿島出版会.
注
[i] 例えば、観光地化を図り、歴史的市街地の保全を成功させた伝建地区は多い。妻籠宿、馬籠宿、大内宿といった宿場町、世界文化遺産に登録された白川郷、あるいは竹富島などが代表例として知られている。
[ii] 土蔵は潮風から壁漆喰を保護するため、縦板張りの鞘堂で覆われている。
[iii] 以前は、空き家が発生すると、集落内の住民が取得し、時に用途を変えながら利用してきたが、近年は未利用、低利用のまま半ば放置される空き家が多い。盆と正月に離村した所有者が帰省する半空き家状態の建物も少なくない。
[iv] 町並み保存のほか、宮本常一の助言によって、旧小木町内から収集した民具を収蔵する佐渡国小木民俗博物館(旧宿根木小学校)の設置、宿根木の伝統祭事ちとちんとんの復活が実現している。
[v] 宿根木を愛する会(2014)には、多くの住民が修理事業を実施したことに満足しているとの声が記録されている。
[vi] TEM研究所(1993、1994)に、町並み保存と地域おこしが構想された経緯とその方向性が詳細に記述されている。また、戦後の佐渡島における観光振興の流れを受けて、農業を基幹産業とする宿根木においても、町並み保存運動以前から、海水浴、民宿などの観光業が営まれてきた。
[vii] 現在、宿根木は佐渡で有数の観光地であり、町並みを求めて1日に数百人の観光客が訪れている。しかし、オーバーツーリズムが長年に渡り指摘されてきた。観光と暮らしの対立については、高藤(2015)が詳しい。[viii] 宿泊施設に転用する決断の背景には、2005年の農家民宿に関連する建築基準法の規制緩和があったとオーナーは話している。
[ix] ただし、転居については、転居可能な土地を所有していた、あるいは土地を取得できる経済状況を有していたといった条件が前提としてあったことを無視することはできない。異なる経過で生じる空き家も存在し、前述した宿根木を愛する会が所有、あるいは維持管理を担っていることを付記する。
[x] ここでいう農業への活路には、廻船業の収益で購入した土地から上がる小作料を生活基盤とする庄屋業も含まれる。宿根木の船主たちは佐渡島内の国仲、羽茂の土地を購入し、地主としての性格も有していた。このような土地所有は、船主だけでなく、同じく財を成した船乗りにもみられたとされる。その後、戦後の農地解放によって元船主は大半の土地を失ったが、現在も佐渡島内の他地域に農地を所有する農家が存在する。
[xi] 近世における宿根木の農業については、小木町史編纂委員会(1974)、伊藤(2005)に詳しい。伊藤(2005)による、不安定さを孕む廻船業に携わることが、安定性を求めて農業への志向を高めたとの指摘は興味深い。
[xii] 集落北側の山中に横井戸が掘られ、横井戸の湧水は江と呼ばれる水路を辿って農地に水を運んでいる。現在、江は利用されなくなったが、横井戸から湧き出る水は農業用水として供給され続けている。
[xiii] 柿は佐渡のおけさ柿として全国的に名が知られている。米農家の中には、東京の飲食店に米を提供している農家、佐渡市内の酒造会社に酒米を提供している農家が存在し、宿根木産の米のブランド化され特産品となっている。
[xiv] 柔軟性と適応性という概念については、ランドルフ・へスターが提唱するエコロジカル・デモクラシーから着想を得た。