田本はる菜著『山地のポスト・トライバルアート:台湾原住民セデックと技術復興の民族誌』

交わりのバリエーション(評者:長谷川新)

長谷川新
建築討論
Aug 31, 2021

--

本書は、台湾原住民セデックの「織り」をめぐる実践に関する民族誌である。台湾原住民研究、それもとりわけ芸術や技術といった視点からなされる研究は、個々の表現や実践から「民族の特徴」を見出していこうとする立場から、「同時代の社会状況のなかで意識的に行為する原住民主体の実践」を問う立場へと移行してきた(p.10)。著者はこの移行を肯定しつつも、後者の立場による研究が、当該の作品や表現を「主流社会と原住民をめぐる支配と抵抗のコンテクスト」に還元してしまうことに警鐘を鳴らす(p.11)。そのため、本書では台湾政府の伝統工芸への文化政策的介入についても、さまざまな立場の人々の複雑な態度、コミュニティ内における不均質な状況が記述される(著者はこれを「変化」ではなく「交わり」のバリエーションと呼んでいる(p.25))。

第三章「山地へ広がる織り」では、度重なる「外来織り機」の導入(技術移転)とその顛末が描かれる。セデックの人々は織り手によって異なる織り機や織布技術を用いており、そうした端的な事実は、より効率的な織り機が日本の植民地期や近代化に際して導入されてきた、とは簡単には言えないことを物語っている。第四章「文化政策と制作現場」では舞台を山地から織物講習会や原住民工作室に移す。そこでは織りの「商品化」に際して、政府の織物支援をめぐる様々な立場が記述される。第五章「実演される技術」では、ツーリズムを推進する集落エリートと、そこで実演される祭儀や歌舞に、部分的に、あるいは別の仕方で関わりをもつ人々が登場する。また、全体を通して、インゴルドの「スキル」概念や(明示されないが)アクターネットワーク理論など、人間以外のモノや技術を営み全体のなかでの欠くべからざる要素として記述しようとした痕跡も伺える。これについてはより踏み込んだ研究をぜひ読んでみたい。

本書とは別のところで田本は台湾の原住民タイヤルの映像作家ピリン・ヤプが撮影したドキュメンタリー『走過千年』(2009年)について論じている。『走過千年』は、もともとタイヤルの文化の普及と記録のために制作された映画『泰雅千年』(陳文彬、2007年)の「メイキング映像」として始まった撮影であったが、次第に漢民族の監督である陳と、タイヤルの人々との軋轢や交渉の内情を露わにするものになった。ここでも田本は『走過千年』をたんなる「告発ドキュメンタリー」と見なすことに慎重であり、一義的な解釈に収斂しない読解を心がける(「第8章 先住民とメディア生産 台湾原住民をめぐる2つの映像作品から」『[シリーズ]メディアの未来⑫ モノとメディアの人類学』(ナカニシヤ出版、2021年、pp.109–123))。

民族誌には往々にして独特のたじろぎが残っている。知っている人について描写することの居心地の悪さや気恥ずかしさが文に揺れを与えることもあるが、たとえばもっと別に、ふと気づいたことがやけに印象に残り、客観的な叙述のなかにそれらが主観的にクロースアップされるといったことがある。「彼らは家の壁に日めくりカレンダーを掛けていたものの、それはめくられないまま、まとめて火付け紙になってしまうこともしばしばだった」(p.104)というように。筆者は、ふと現れる書かずにはいられなかったのだろうと思わしき記述がとても好きで、客観的な文体を装いつつも拭い去ることのできない著者の感情や生理が民族誌の魅力なんだとさえ思う。さまざまなアクター(のさまざまな状況)をできるだけ多様に描こうとする行為はともすれば際限がなくなってしまうが、こうした著者自身の手応えが一時的であっても記述に輪郭を与えるのだろう。

田本はる菜著『山地のポスト・トライバルアート:台湾原住民セデックと技術復興の民族誌』

本書は、これまで見てきたように、織りをめぐる「調査地の人々の内的差異」(p.278)、「揺れ動きや人々のあいだの一致しない振る舞い」を「消滅の語りとも復興の語りとも異なる仕方で記述」(p.21)することが目指されている。田本自身の言葉を借りれば、「私が居合わせた調査地の現実をできるだけ単純化せずに伝える」(p.ii)ことに心を砕いた労作である。

最後に「ポスト・トライバルアート」について触れておきたい。本書のなかでこの言葉は終章にやや唐突に登場し、明示的には定義づけられていない。安易なカテゴリー化を避けるための著者の選択であると思われるが、この名称にピンときて書評を読み始めた読者もいることだろう。そこで、この言葉の来歴をかんたんにたどり直すことで補助線を引き、結びとしたい。

「ポスト・トライバルアート」は、人類学者シェリー・エリントンが2003年に「芸術の人類学」と銘打たれたカンファレンスにおいて発表した原稿のタイトルからきている(History Now: Post-Tribal Art『ANTHROPOLOGIES OF ART』(Yale University Press, New Haven and London、2005年、pp.221–241)。彼女の主張のなかで先だって参照されるのが、人類学者マイケル・カーニーによる造語「ポスト農民(post-peasant)」である(Michael Kearny『Reconceptualizing the Peasantry: Anthropology in Global Perspective(農民性を再概念化する:グローバルな視点における人類学)』(Westview Press、1996年))。アメリカ・サンディエゴの駐車場で工芸品を販売するメキシコの先住民といった事象に言及すべく生み出されたこの言葉を、シェリーは「ポストトライブ(post-tribe)」とも呼べるのではないかと提案する。「ペザント」にせよ「トライブ」にせよ、過去に存在した「都市に住まない者たち」が生計を立てていたやり方を指し示す語彙であり、現在においては「隔絶され、貨幣経済と切り離された集団」という理解は無効化している。

『The Death of Authentic Primitive Art(本当のプリミティブアートは死んだ)』(University of California Press、1998年)などの著書があるエリントンは、いわゆる「プリミティブアート」が、グローバル化や貨幣経済に巻き込まれ変容していくさまを、ネガティブな「消滅の語り」を採用することなく研究している人類学者である。「ポスト・トライバルアート」の原稿において彼女は、誰もが「彼ら(現地の人々)はもう“本当のプリミティブアート”なんて作っていない」と断言するいっぽうで、それでもなお、販売を前提とした手作りの工芸品が生み出され続けている事実に着目し、「彼らの制作物を形づくり、それらを名づけ、説明し、価値づける新しい諸言説が出現し、通俗化したこと」を記述しようと試みる。「ポスト・トライバルアート」は「芸術の人類学」にとっての、ひとつの所信表明のようなものであるとも言える。「芸術の」という語がついていたとしても、それが「人類学」である限りにおいて、アートが残りさえすればよい、というわけにはいかない。アートと名指される事態において動き回っている、ポストトライブというほかない「無数の一致しない企図の集まり、その不安定な協働」(p.288)。そのただなかへとにじりよる意志を、『山地のポスト・トライバルアート』の著者もまた引き継いでいる。

_
書誌
著者:田本はる菜
書名:山地のポスト・トライバルアート──台湾原住民セデックと技術復興の民族誌 (北大アイヌ・先住民研究センター叢書 4)
出版社:北海道大学出版会
出版年月:2021年5月

--

--

長谷川新
建築討論

インディペンデントキュレーター。主な企画に「クロニクル、クロニクル!」(2016–2017年)、「不純物と免疫」(2017–2018年)、「STAYTUNE/D」(2019年)、「グランリバース」(2019年-)、「約束の凝集」(2020–2021年)など。国立民族学博物館共同研究員。robarting.com