疑問1 ──「建築作品」はモノとして自律するの?

050|202012|特集:建築作品評価をめぐる素朴疑問 ──厳選5問に対する平易で偏った回答集

1.建築作品の評価

私は自分の事務所を始めて20年ほどになるが、その間に多くの建築賞の審査を受け、その後に審査員をやらせてもらった。その経験では、ほとんどの賞で現地審査と建築家による制作の意図の説明が行われていた。大学の設計の授業でも、学生は図面や模型を提出するだけでなく、その制作の意図を先生に説明しなければならない。

建築作品の評価という話は、建築の関係者以外からはあまり聞かない。レストランやファッションなどでは、インターネットを活用した一般の人からの評価が確かな立場を築きつつあるのに。そして今回の建築討論誌からのテーマは、そのような建築作品がモノとして自律して評価することができるのか?ということである。この疑問に答えるためには、建築作品の評価には建築家の言説が必要、という建築界の常識を問い直すことになる。これはとても難しそうだ。もうひとつのテーマは、私個人の意見に沿ってできるだけ極論にして欲しい、ということである。それはとても楽しそうだ。

実は、現地審査で「あなたにとって作品とは何か?」と建築家に聞くようにしていた。この質問は、多くの建築家を困らせることになった。現代では、建築作品の定義が揺らいでいるのだろう。そして、この原稿はいい気になって難しい質問をした代償のような気がしている

2.作品と建築

ここでは「作品」について考えてみる。普通の高校生でも作品という言葉は知っているが、作品を実際につくったことがある人はほとんどいないだろう。ところが大学で建築学科に入ると、設計やデザインの課題で作品をつくることになる。今でも、自分の作品を先生や友達の前で説明したときは、とても恥ずかしかったことを思い出す。

いくつかの辞書によると、作品とは制作されたモノのことであり、一般的には芸術活動によって制作されたモノを指すという。ただ人の手でつくればよいのではなく、そのモノには芸術的な価値がなければならない。芸術的な価値とは、美しいことや社会の常識を揺さぶることだ。しかし、芸術性だけでなく合理性や社会性も求められる「建築」の作品には、もっと幅広い評価が必要である。そして、それはどのように行われてきたのか。

一般的に、制作されたモノ以外で作品の評価に影響を与えていると思われる事柄を取り上げてみる。

・作者の存在
・作品の制作の意図を説明する言説
・その作品がつくられたときの社会の状況
・作品の使用者

私が思いつくのはこれくらいだ。次の章では、この4つについてそれぞれ考えてみよう。

3.作品の評価に影響を与えるもの

3–1 作者
絵画や小説などでは、その作者が芸術家としてすでに有名な場合、その制作されたモノは自動的に作品となる。この場合、作者の言説が作品に加えられることはあまりない。建築でも、建築家による言説がなくても作品になることがある。例えば、ポルトガルのアルヴァロ・シザ (1933-) や谷口吉生 (1937-) などを挙げることができる。しかし、他分野と比べると建築ではこのタイプはとても少ない。

3–2 言説
3–2–1 作者による言説
新建築のような雑誌やインターネットなどをみると、建築では作品に作者(建築家)による言説が加えられることが多い。つまり、建築を作品にするには作者による言説が必要であると建築界が考えているからだ。この作者の言説とは、主に制作の意図である。

建築の作者には原作者として設計をする建築家と、実際に制作を行う施工者がいる。さらに大きなプロジェクトになると、計画を立案した企画者なども登場してその範囲はどんどん拡がっていく。この作者の拡張についての考察は他の回答にまかせて、ここでは建築の原作者についてもう少し見てみよう。

インターネットなどの情報技術の発展によって、現代では世界中に同じようなデザインの建築が建っている。そのような建築家は建築の原作者といえるのだろうか。近年、建築史家のマリオ・カルポ (1958-) などによって、このような疑問が提示されている。情報技術の中には多くの制作のシステムがすでにある。そのシステムを用いるだけの建築家は原作者に見えるが実は使用者に過ぎず、本当の原作者は制作のシステムをつくった人である。このような意見はSF的に過ぎるようにも感じられるが、それまで前衛的な建築をつくってきた多くの建築家たちが、2011年の東日本大震災後という同時期に、一斉に木造や屋根などの日本の伝統や歴史を語り始めたことを、このような視点で考えると腑に落ちる。この時代の空気感のようなものも、社会の中にある制作のシステムなのかもしれない。

3–2–2 他者による言説
作者だけでなく、他者による言説も建築を作品にすることがある。日本の伝統的な寺社建築は、そのモノがどれだけ優れていても作品と呼ばれることはない。しかし、平安時代末期の僧侶である重源が手がけた浄土寺浄土堂 (1992) や東大寺南大門 (1999) は、重源の作品として扱われている。これは歴史家である太田博太郎 (1912-2007) や建築家の磯崎新 (1931-) などによって、重源の制作の意図が言説化されたことが大きい。江戸時代の皇族の別邸であった桂離宮 (1615) は、作者が不明であるにもかかわらず建築家のブルーノ・タウト (1880-1938) や丹下健三 (1913-2005) による制作の意図を類推するような言説によって建築作品となっている。

桂離宮

通常の寺社建築と同じように、美しい建築空間を持ちながら作品ではない例に廃墟建築がある。どれだけ美しくあったとしても建築家の制作の意図を離れたものであり、むしろ作者の言説から離れたからこそ、清々しい空気をまとうことになったのだ。そして、それは建築作品とは呼ばれない。

3−2−3 絵画と翻訳
絵画でも、他者による言説が作品をつくることがある。それは、バロック期の画家であるヨハネス・フェルメール (1632-1675) である。庶民の日常生活を描いた彼の絵画は、その死後に歴史から忘れ去られていたが、19世紀のフランスで他者による言説によって「再発見」され、後の印象派へとつながっていく。

また、作品とは何かということを考えると、小説の翻訳という分野も興味深い。他国の言語で書かれた原作を日本語に翻訳するとき、そこにはどうしても翻訳者の意図が入らざるを得ない。アメリカの小説家リチャード・ブローティガン(1935-1984) の翻訳者である藤本和子(1939-) の訳文は原文以上ともいわれており、翻訳自体をもうひとつの作品ととらえることもできる。近年では、小説家として確固たる立場にある小説家の村上春樹(1949-) が、執筆と並行して翻訳を行っている。原文と訳文の結節点にある翻訳が、作品になるという可能性はとても魅力的だ。翻訳の世界では、作品と作者の間に新しい関係が生まれつつあるように見える。

3−3.社会
社会の歴史や時代精神が作品をつくらせる、という意見がある。丹下健三による代々木競技場 (1964) は、東京オリンピックを象徴とする日本の高度経済成長と無関係ではありえないし、近年の南米の優れた建築作品には、社会の民主主義化や経済の活性化の影響が見える。私の建築も、海外の建築家から日本の伝統を感じさせるといわれることが多い。

これは 3–2–1 の制作のシステムとつなげて考えることができる。このような現象が起こるのは、近年の情報技術の発展による広範なネットワーク環境の確立だけでなく、私たちの中に社会の空気感のようなものを知覚する能力があるからではないだろうか。フランスの思想家であるジャン・ボードリヤール (1929-2007) のシュミラークルというオリジナルのないコピーの話にも似ている。建築家にとって、社会の空気感をつかまえることはとても大切である。しかし、その空気感に無自覚にとらわれると、社会の正義と勘違いしてしまうこともあるので、その取り扱いには細心の注意が必要だ。

3−4.使用者
例えば、ある家族が長く住むことによってその住宅が豊かになった、という話を耳にすることがある。使用者によってモノが良くなる、ということは確かにすばらしいが、作品をつくるかというと疑問が残る。もちろん、このような行為を評価することには賛成だ。民芸のような世界に近いのかもしれない。それは、エイジングやヴィンテージのように、作品を評価する言葉とは異なるものになる。

4.まとめ

3. での考察をまとめると、建築をモノから作品にするには、「作者」の存在だけの事例は少なく、「作者による言説」か「他者による言説」による制作の意図が必要であり、「社会」の空気感が何らかの影響を及ぼしていて、使用者は関係ない、ということになる。つまり、「建築作品」はモノとして自律するのか?という質問に対しては、モノとして自律することはできない、というのが私の答えである。

英語には作品という単語がない。workは所有格(~’s)つまり作者がついてやっと作品という意味になる。そして作者が死んだ後でも、制作の意図が残れば作品として存在し続けることができる。作品とは良いモノという意味ではなく、制作の意図のあるモノなのである。その制作の意図は言葉によって残される。

言葉はモノに命を与える。親という単語は命を与える者に用いられるが、子供に名前を与える人を名づけ親ということには意味がある。人は名前なしでは社会の中で生きていけないように、モノは言葉なしでは作品として生きていけない。私も建築作品において言葉の力を強く信じている。建築自体よりも言葉の方が力を持つときもあるかもしれない。

その一方で、私は自分の建築がモノとして自律して欲しいと思っている。私自身や私の言葉を知らないからこそ、私の建築を世界中の人々が美しいと感じ、世界中の建築家が影響を受け、私の手を離れて世界中に拡がっていく。私は言葉の力を信じているから、言葉にとらわれすぎてしまうときがあり、だからこそ言葉を離れてみたいという矛盾した夢を見るのだ。建築には、作品が作者を超えていくことがあると思う。

建築は人間がつくるモノの中でも大きいため、制作の意図を説明することによって社会的な共感を得ることが重要になる。そのためには言説が有効なのだろう。若い建築家では、この制作の意図が自分の内なる衝動のような表現的な言説から、与条件をていねいに発見して整理するという翻訳的な言説に転換しつつあるように感じている。ただし、翻訳的な言説は制作の意図が弱いことの言い訳であってはならない。また、近年の建築界では他者による言説、つまり批評が少なくなっている。この原稿が、日本の建築界の言説を活性化する小さなきっかけになることを願っている。■

建築討論

建築をめぐる幅広い批評的議論のプラットフォームを提供する日本建築学会のウェブマガジンです。

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福島 加津也 FUKUSHIMA, Katsuya

Written by

ふくしま・かつや/建築家。福島加津也+冨永祥子建築設計事務所。東京都市大学教授。 建築作品「中国木材名古屋事業所」(2004),「柱と床」(2008), 「木の構築 工学院大学弓道場・ボクシング場」(2013),「時間の倉庫」(2017) 他。 共編著 『Holz Bau 近代初期ドイツ木造建築』(2020) 他。

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