疑問2 ──「時代を画す」って、未来の人にしか分からないのでは?

050|202012|特集:建築作品評価をめぐる素朴疑問 ──厳選5問に対する平易で偏った回答集

江本弘
建築討論
Dec 9, 2020

--

1つの質問、2つの世界、3人の歴史家

すべてが過去である永遠の未来と、すべてが未来である永遠の過去。2020年10月17日16時16分、その瞬間、この同じ時刻に編集部から投げかけられた「素朴疑問」のひとつに触れて、わたしはそれを、ふたつのパラレルワールドに生きる自分からの問いだと思いこむ。この夢想のなかでは、それは単一の質問でありながら、ひとつの問いではなくなる。その両極端の世界から投げられた、ひとつでふたつの謎かけなのだ。この至極単純な疑問にたいして、したがってわたしは、少なくともふたつの答えを準備しなければならない。

わたしたちの住む未来には、過去を相対化する正しい価値判断の材料と、それへのアクセスが揃っている。だから、わたしたちにこそ歴史評価の権限がある。

先の質問が永遠の未来に属する人間からの問いかけであったとすれば、そこにたとえば、このような自負心を透かしみることができるだろう。それだけの質問を発するということは、きっとその世界では、歴史学は科学として厳密に客観的なものとなっている。ある建物について「時代を画した」と言いうるならば、その判断には、もはや実証的な疑義はない。そうして、そのような歴史解釈をその世界のわたしに託した同胞は、きっとわたし自身と同じように自信と確信にみち、きっと、明るい目で過去を照らしたその歴史家に喝采をおくる。彼らはきっと、その世界でたとえばこんなはなしをする。 ─── 1851年ロンドン万博のクリスタル・パレスこそが近代建築史の画期であったことを、われわれ未来人は「知っている」。だから、それをキュウリ棚だなどと揶揄したジョン・ラスキンの目が、単なるフシ穴であったことを「知っている」!

ただしこの世界に生きるこのわたしは、その世界で物語られ、その世界の同胞が信頼を寄せる歴史をきっと信じない。わたしはそのような未来人の世界に生きてはおらず、その完全を期した歴史評価に対してさえ、どうしても猜疑心を拭うことができない。

わたしが生きるこの世界では、未来人だから過去を俯瞰的に、私心なく判断できるなどという観念は、まず技術的見地から言っても、まるで思いあがりに等しい僭越なものである。IT革命が叫ばれはじめて四半世紀が経ったいま、デジタルヒストリーの黎明期にあるわたしたち。その恩恵にようやく浴しはじめている時期だからこそ、情報宇宙の広大無辺がいよいよ歴史学者にも実感されてくる。そして政治的な次元で言っても、過去はいともたやすく現代的な有用性のために召喚され、その悪用ともつかない誤用の程度は日に日に増すばかり。それを今のわたしたちは、ポスト・トゥルースなどという、耳ざわりだけはよい名前で呼んでいる。これが技術の本質的不足に起因するものか、その分配の不均等・不平等によるものか、倫理観あるいは教養の不足であるのかも錯綜しており不透明だ。そうして、歴史学がそうした不正のための審査機関となっているかどうかも、やはり手放しでは信用できない。

わたしたちの目はかくも冥く、わたしたちの手はかくも汚い。この猜疑心は、そのような世界に生きるわたしの習い性なのである。

この世界では、歴史、すなわち語られた過去は、どこかのだれかのエゴの正当化のために用いられていないかをまず疑うべき対象である。過去はそのエゴのために再解釈にかけられ、ときに事実関係すらたやすく捻じ曲げられる。そうしてその捻じ曲げられた物語を、信じたいとあらばたやすく信じる人びとも目にあまる。わたしだってそうしたなかのひとりかもしれないという自覚があるからこそ、警戒心はより一層の切実さを帯びてくる。そうした状況の極点にある、この世界の今このときに、その質問は投げかけられたのである。だからこそその質問は、わたしには極端な傲慢として響いたのだった。

「『時代を画す』って、未来の人にしか分からないのでは?」─── そこにわたしは、「自分たちが認める歴史以外は歴史とは認めない」狂気の片鱗を幻聴してしまったのである。

正直に言えば、この世界に生きるわたしは、その永遠の未来に住む自分のことが羨ましい。彼の完全な世界では許される不遜は、この不完全な世界において、つい前年、前月、昨日あるいは1時間前、1秒前あるいは目前のことすら手前勝手に歴史化し再解釈して恥じない人間を量産している。客観的な判断のための一次情報へのアクセスも、いつ閉ざされないともかぎらない。歴史評価のための素材は万人に共有されては困る。歴史をつくる人間のあいだで匿われていなければ都合がわるいのだ。

モニュメントとしての建築が標的となるのはこうしたタイミングだろう。苦難の時代の国家的イベントを輝かしきレガシーと考えたいがために、輝かしき過去の輝かしき建築が目障りに感じられる場合もないとはいえない。たとえば、国立代々木競技場(丹下健三都市建築研究所、1964年)という「時代を画す」建築の行く末さえ深刻に案じられるのが、こういう時代かもしれない。

図:J・M・フィッチ『アメリカ建築を作った力』(1948)図版

正しい価値判断の材料とアクセスは未来にこそ整うのだから、わたしたちが生きる過去に対して、自分たちで歴史評価を下す権限はない。

先の質問が永遠の過去に属する人間からの問いかけであったとすれば、そこにたとえば、このような、すべての歴史評価を未来に託しきれている恭順を透かしみることができるだろう。それだけの質問を発するということは、その世界ではきっと、「未来に判断材料をのこす」という定言命法にしたがって、データベース化の技術は非常な発展を遂げている。そのパラレルワールドでのわたしは、未来の公正な判断をかたくなに信じ、なにものも択ばず、すべての建物のありとあらゆるデータの採取と保存・共有に邁進しているだろう。

こちらの世界のウィキペディアで「クリスタル・パレス」を調べれば、それが「セント・ポール寺院の3倍の大きさ」であるという記述に行きあたる[i]。しかしそんな文言も、その世界のウィキペディアにはきっと書かれてはいない。なぜならそれは、「イギリスの大建築家クリストファー・レンが設計した国家的宗教建築よりも大きいエンジニア建築として、工業時代の到来を告げたモニュメントなのである」という、同時代人そして未来人へのアピールでもあるのだから。未来の公平を信じるその世界の人びとは、きっとそんな、けちな主観にまみれた、ステルスマーケティングじみた真似を潔しとはしない。

ただこの世界のわたしには、そのような世界に生き続ける人びとのことが、なんとも意気地のない、卑屈な人間のようにも思われるのである。そのような態度が万人について正しい世界のなかでは、そもそも「時代を画したかどうか」の判断は未来永劫行われない。それは単純な帰納法からすぐにわかることだが、それくらいのことにも自覚がない人びとだとすれば薄ら寒い。その世界の人びとは、ともすれば、絶対的な判断保留を笠に着て、みずからなにかを判断することから逃げ続ける、卑怯者どもの集まりだとさえ言えるかもしれない。

想像するに、事実に対する価値判断を避けるその世界ではきっと、そもそも歴史語りも、歴史学もまた発生していないのではないだろうか。歴史的意義にかんする判断は、永遠に下されない問いとしてのみ形骸的に存在し、きっとその言葉の意味を把握する者すら、その文言の発生に遡ってもひとりもいなかった。ことによると最初の質問は、歴史語りというものがそもそも存在する、わたしたちの世界に対する無垢な疑問であったのかもしれない。

そうして、比較が成立しえないその世界ではきっと、「建物」(building)と「建築」(architecture)の差も問題とはされてこなかった。だからきっと、クリスタル・パレスに非建築の烙印を捺したラスキンのポレミックも生まれてはいない。定義はどうあれ、そんな世界では、より高き建築をめざすという意志と行為がそもそも不可能なようにも思われる。まがりなりにも良不良や是非善悪の観念を具えてしまったエゴのわたしは、生きた判断によって、よりすぐれた事物の観賞と創造にたずさわることを至上の快楽とし、劣悪なものに対する嫌悪もまた自身の糧とする。だからわたしは、すべての建築の価値が等価であり、実質的にゼロであることを余儀なくされているであろう、その永遠の過去の世界に住みたいとは思わない。

「『時代を画す』実感って、その時代の当事者にしか分からないのでは?」 ──── 最初の問いを逆にして、このくらい勘違いする度胸があってもいいくらいだろう。たしかに、各時代の人びとがコンテンポラリーに発する言葉によって、ある建築がそのまま客観的に「時代を画す」ものだと証明されるわけでは全くない。また、そのようにして発された言葉は、その建築がその発話を引き起こした理由を十全に、あるいは的確に表現しているものですらないかもしれない。それでもわたしたちは、その拙く不正確なことばを十分に駆使して、自分自身の感性と思考を後世に伝えなければならない。それは実は、その永遠の過去の世界の基準に照らしても定言命法と言えそうである。それもまた、わたしたちの雄弁あるいは世迷い言によって、みずからの感動や絶望を記録する貴重なドキュメントなのである。未来の学識をほんとうに信じているのなら、本来ならば、それを解釈する作業さえ未来に託しきれるはずなのだ。

図:丹下健三宛ジークフリート・ギーディオン書簡(1965年4月6日)。王立英国建築家協会(RIBA)ゴールドメダル受賞に寄せて。gta Archives / ETH Zurich, Sigfried Giedion

もっとも、その永遠の過去の世界でみられるような日和見は、わたしたちの世界にも侵食している。

件の競技場は、1965年に「オリンピック代々木競技場および駒沢公園の企画・設計ならびに監理」の一環として日本建築学会特別賞を授与され、個別の建設事業としてもその業績が顕彰された[ii]。ただしこのときの選評は実質的に、新技術の建築を短期間で完成させたという以上のことは言っていないに等しかった。それが「時代を画す」ものであると言及されたのも、もっぱら「施工史上」である。審美的な評価については「既に内外に定評があり」という文言をなけなしのヒントにするほかないが、ことによっては、文字史料を調べなおす労を、未来の歴史家に丸投げしているようにも読める。それはよいとしても、学会の公式見解もまたそこで一言くらいは表明し、ときの審美観の一端を伝える、未来のための史料とすべきではなかったか。この批評的怠惰のツケは、いつまわってこないともかぎらない。

以来、この傑作をめぐるドキュメンテーションは今なお続き、最近ではさらにその勢いが加速しているようである。しかし、その決定的な威光を形容することばが、果たしてそのなかから生まれえたかは覚束ない。その建築の真価を表現できたと言えるだけの一言を、その誕生から半世紀以上も経ったいまでも、わたしたちはなお探し続けているのではないか。

この世界に生きる歴史家のわたしには、時どきの技術をたずさえ、時どきの最善を尽くした調査によって、時どきにおいて最も信頼に足る歴史を書く、それくらいが関の山である。しかし、その歴史語りの信憑性、ことによってはその魂胆すら、たちまちに疑義にかけられ止むことがない。それはもっともなことである。わたしはそれを納得している。歴史家を自称するわたしの感性や発想もまた、この現代に生きる人間として、どこかで、きっと無意識的に、この時代ならではの何ものかに条件づけられているのだ。相対化されたはずの過去、過去を相対化したはずの未来は、さらなる未来にさらに相対化される運命である。知識はどこまでいっても完成せず、判断の正しさはどこまでいっても証明されない、そのような無間地獄に生きている。

そうしてわたしは、この極端に中途半端な世界が気に入っている。永遠の未来、あるいは永遠の過去という両極端の世界では抱けない観念こそが、わたしの世界の「人間」をかたちづくっている。その両極端へと届きえぬ手を伸ばしつづける欲こそが、わたしの心をこの世界につなぎとめている。その欲がわたしにとって、なけなしの語彙をもって不正確な叫びをあげる契機となり、歴史観の蒙を切り啓きたいわたしを史料のプールのなかへとダイブさせる。過去と未来の圧力をこのからだにしっかりと感じながら、そのなかを思いきり泳いでみたい。傲慢と謙遜、たえざる懐疑と確信のジンテーゼによって、今このとき書かれるべき歴史を書いてみたい。こんな遊戯を知のスポーツとして無上の快楽とできる余地が、この不完全な世界には存在する。

「『時代を画す』って、未来の人にしか分からないのでは?」 ──── もしこのような問いがこの方向に、未来の優位を前提とする方向にしか発されず、逆様の問いが暗黙裡にタブー視されているのだとすれば、それは価値判断の責任に怖気づく時代の病理でもあるだろう。過去と未来の共依存関係を断ち切り、過去にも未来にも隣人にもフェアに現在を生ききること。情報技術の上でも、歴史認識の上でも最も中途半端で発展途上、ゆえにこそ人類が最も浮かされ思いあがった今このときこそが、その覚悟を決めるための最善のときではないだろうか。

それはおそらく、問いの立てかた自体を問いなおすタイミングでもあるだろう。情報に接する身体のありようを、一度みなおし、つくりなおさなければ溺れるのがオチである。

ラスキンが『クリスタル・パレス開場』を発表したのは1854年、ジェイムズ・マーストン・フィッチが『アメリカ建築を作った力』を上梓したのは1948年のことである[iii]。そして2020年に生きるわたしは、時代も地域も、したがって文脈もちがうこのふたつの現象を異なる立場で振り返りながら、ラスキンともフィッチともちがったクリスタル・パレスの歴史的意義を感じとる。その約170年にわたる感性のドキュメンテーションの助けを借りてこそ描ける建築の精神史が、瞼さえあければみえてきそうである。ありとあらゆる偏見や謬見、嘘や矛盾にみちた歴史のプールはしかし、真実であるがゆえに澄んでいる。闇雲の無秩序に感じられるのは、ただ、それまでそこに光が差していなかったためにすぎない。

あるいは、わたしはその開いた目によって、近代建築史にとって「日本」とは一体何なのか、何であったのかを見通してみたい。それはほんとうに、ひとつの実体として存在していたのだろうか。列島のかたちをしている物理的な「それ」とはちがう、さらに言えば「日本国民」なる範疇の網にさえ絡めとられるべくもない、人類の表象空間のなかを遊泳する何匹ものウミヘビ。無形のさまざまなる「日本」がこの地球には生きてきた、そして今もなお、脱皮や産卵を繰り返しながら生き続けているのではないだろうか。そうして、この複数なる「日本」を通じてこそ、近代建築史学が創造してきた「世界」の正体もみえてくるような気がする。国立代々木競技場もまた、その「世界」の目撃者として「時代を画した」のではなかったか。

毀誉褒貶、虚実うずまく情報の流れを正しくとらえ、その流体力学の秘密を暴くことが現代の歴史家の大望である。彼は、みずからの言動もまた未来のための史料のちっぽけな一部となることを観じながら、その渦中で自身の知と感性を表現しきることをあえて望み、それを人間精神のオリンピアにささげる肉体的な供犠とする。

彼の骨は、その飛び込み台の下に埋められたがっている[iv]。■

図:D・ブラッドリー『ブルータリズム』(2014)表紙

[i] “The Crystal Palace,” Wikipedia, https://en.wikipedia.org/wiki/The_Crystal_Palace, accessed 2020.11.15.

[ii] 「3. その他の業績について:国立競技場代々木競技場第1体育館、第2体育館建築工事における施工技術」、『建築雑誌』第957号、https://ci.nii.ac.jp/naid/110003790517, pp. 556–557, 1965年8月;「4. 特別賞:オリンピック代々木競技場および駒沢公園の企画・設計ならびに監理」、同前、https://ci.nii.ac.jp/naid/110003790518、p. 557。以下の鍵括弧内はこれらの記事より引用。

[iii] John Ruskin, The Opening of the Crystal Palace: Considered in Some of Its Relations to the Prospects of Art, London: Smith, Elder and Co., 1854; James Merston Fitch, American Building: The Forces That Shape It, Boston, Mass.: Houghton Mifflin Company, 1948.

[iv]「米国選手団の団長は国立代々木競技場の建築を絶賛し、『自分が死んだらこの飛び込み台の下に骨を埋めてくれ』と言ったとされる」(https://news.yahoo.co.jp/articles/3640a7cf34996efd3a1316e56a0e65b6483e533e?page=4: accessed 2020.11.15)。この逸話の一次ソースをご存知の方はご教示いただきたい。

--

--

江本弘
建築討論

えもと・ひろし/1984年東京都生まれ。東京大学工学部卒業。同大学院工学系研究科修了。博士(工学)。一級建築士。京都美術工芸大学講師。近代建築史。著書に『歴史の建設──アメリカ近代建築論壇とラスキン受容』。受賞に第8回東京大学南原繁記念出版賞ほか