皮膜としての「民衆」──冷戦期日本の「国民」の範疇

017|201803|特集:イベント・レビュー 戦後空間シンポジウム01 民衆・伝統・運動体

逆井聡人
Feb 28, 2018 · 12 min read

*シンポジウムの記録は 10+1 website に掲載されています(編集部)

1. はじめに

本シンポジウムでは「戦後空間」という概念の磁場と輪郭を探ることを目的とするプロジェクトの第一段階として、1950年代の「民衆」と「伝統」というキーワードに焦点をあてるものであった。既に『10+1 website』上に掲載された青井哲人氏による本シンポジウムでの議論の概要があるので、この文章では日本の戦後文学を専門にする者としての観点から議論に触発されて考えたことを書こうと思う。

まず議論がフロアに開かれた際に、中谷礼仁氏が発言したことが強く印象に残ったので、それを話の糸口としたい。発言は、1950年代に文学や文化運動の界隈で起こっていた「民衆」をめぐる議論と建築の分野での「民衆」像があまりにかけ離れていて、全く交わらない、その間隙(中谷氏はこれを「ボイド」と呼んでいたと記憶している)にこそ「戦後空間」の本質があるのではないか、というものだった。青井氏の議論のまとめでも「鳥羽とオオシマの講演は、互いに重なることのない場所を占めるかにみえる」と改めて指摘されているように、おそらく聴衆の多くは二つが同時代に展開された日本の「民衆」をめぐる言説であるにもかかわらず、全く別の世界の話であるかのように聞こえることに驚かされたことと思う。おそらく今後この「ボイド」をどのような視野から把握すればいいのかが中心的な課題の一つになるのだろうと推察する。そこで、ここでは1950年代における「民衆」という語と政治の関係性を戦後初期の文壇状況と絡めて考えてみることで、多少なりとも今後の議論への材料を提供することができれば幸いである。

2. 敗戦直後の文壇と民衆

1946年5月に皇居前で行われた食糧メーデーの様子(アメリカ公文書館所蔵フィルム)

さて、すぐに1950年代に入る前に1945年の敗戦から1950年に至るまでの間に文学界隈で起こったことについて簡単に述べてみたい。敗戦後にすぐに文学者たちはそれまでの翼賛体制下で抑え込まれていた、あるいは自ら抑え込んでいた声を一斉にあげ始めるが、その中でも特に目立ったのが二つの雑誌『近代文学』と『新日本文学』の周辺にいた作家・批評家たちであった。『近代文学』の同人でもあった平野謙は、この敗戦直後の文壇の様子を1920年代・30年代の文壇と照らし合わせるようにして「第二の三派鼎立期」として図式化する。第一の「三派鼎立」はプロレタリア文学と新感覚派(モダニスト文学)、そして既成文学派の三派であるが、戦後の三派は戦後民主主義文学(『新日本文学』)と近代主義文学(『近代文学』)、そして老大家たち、ということになる。この平野の構図は現在ではそこまで顧みられるものではなくなっているが、それはあえて参照しないだけで未だにこの定式が前提とされている向きがあるためでもある。しかしながら、注意しなければならないのは、戦前のモダニスト文学と戦後の近代主義文学は文脈が異なるということである。というのも戦後の近代をめぐる議論は、戦前のプロレタリア運動における主体性の有無という問題が出発点であるからだ。主体性がなかったからこそトップダウンの組織的運動に疑問を抱かず、それがマルクス主義から天皇主義への躊躇ない転向を促したと非難したのだ。だから日本では達成されなかった「近代的主体」を獲得することを主眼におくのが戦後文学における近代主義の目指すところである。つまり敗戦直後の文壇においては、共産党に近い新日本文学会を中心とした従来路線の左派と、そうした組織ベースの運動に疑問を抱く近代文学派が対立項となるが、実のところどちらも戦前のプロレタリア運動を出発点として共有しており、両派とも基本的に左派である。もちろんそれぞれの内部にも多様性があり、決して一枚岩ではなかったので、乱暴なまとめ方になってしまうのだが、両派とも民衆主体の変革を目的として共有しつつ、近代文学派は「近代的主体」の確立を優先し、新日本文学派は具体的な政治実践を求めたというのが一般的な理解である。そしてその「民衆」という(「市民」あるいは「人民」とも言い表される)エンティティは、より脱国家的な概念(近代的主体あるいはコミュニズム)につながることで従来の国家体制を変革するものとして期待された。

3. 1950年代と「国民文学」論

1950年に入ると、新日本文学会のエリート主義に不満を抱くより共産党執行部に近い人々によって雑誌『人民文学』が創刊される。そしてこの媒体を中心に「国民文学」という概念が提示され始める。この雑誌『人民文学』に関してここで詳しく議論はできないので、講演者の鳥羽耕史氏による詳しい解説(鳥羽耕史「解題 『人民文学』論―「党派的」な「文学雑誌」の意義―」鳥羽耕史、道場親信、柴崎公三郎『『人民文学』 解説・解題・回想・総目次・索引』不二出版、2011年8月)があるのでそれを紹介するにとどめ、ここでは「国民文学」というタームにどのような思想が含まれていたかを述べてみたい。

『日本読書新聞』に掲載された竹内好と伊藤整の往復書簡(『戦後文学論争:下巻』番町書房, 1972 )

1952年の『日本読書新聞』誌上に竹内好と伊藤整の間で行われた往復書簡が掲載される。当時竹内も伊藤も共に『人民文学』周辺にいたわけではないが、この両者がにわかに注目を集め始めていた「国民文学」論のまとめ役を買って出た形だ。この「新しき国民文学への道」と題された往復書簡において竹内は「国民文学」をめぐる問題は「日本人の生き方――民族の活路、という問題にかかわる」と述べ、大衆文学とエリート主義の純文学の隔たりを嘆き、その間を埋める国民文学の必要性を説いている。ここで竹内が注意しているのは「国民文学」という言葉に「日本ロマン主義」的な「ファシズムの匂いがつきまとっていて、敬遠する向き」もあるとしていながらも、戦後の「国民文学」はアジアのナショナリズムの影響を受けるものだとしている。返答として伊藤整も「近代文明の中では価値なしと思われている東洋思想からの強力な、根本的なヨーロッパ系文化構造の批判も必要」としており、それが「国民文学という新しい光」であるとする。

このやり取りで「国民文学」論の背景がある程度見えてくる。青井氏によるまとめの記事でも指摘されているように、1950年代は冷戦構造が確立して行く過程で米ソのどちらかから支援を受けた旧植民地が独立を勝ち取っていった時期でもある。その際の独立運動を底支えしたのが「民族」への希求であった。そのために『人民文学』周辺の急進的な左派はアジア諸国と連帯した日本の民族主義を想定し、その表現手段としての「国民文学」を構想したわけである。一方で伊藤のように「ヨーロッパ系文化構造」への再批判を経た東洋的近代を目指すという戦後的近代主義の変相のようなものも確認できるように、「国民文学」という概念は近代文学派も引き寄せるような力を持っていた。別の言葉で言うならば、1940年代後半に期待されていた脱国家的「民衆」という像が、1950年代に入って変化する世界情勢とともにより民族主義的な「国民」へと変形していったということが言えるだろう。しかしこの「国民」はあくまでアジアの民族主義と連携したものというのが前提であり、その点において日本ファシズムとは距離を置き、視野狭窄なナショナリズムに陥ることを警戒していることは改めて留意しなければならない。

さて、こうして盛り上がるかのように見えた「国民文学」論であるが、数年後には有耶無耶のまま立ち消えになってしまう。というのも1955年の日本共産党第六回全国協議会(いわゆる六全協)において、戦後左派の仕切り直しがあるためだ。1950年から日本共産党はいくつかに分派し激しい対立をしていくが、この六全協によって再統合され、かつての執行部(主流派)の急進的路線は放棄され、それ以降宮本顕治をトップに組織的統一が強化された。この路線変更はアジアとの連帯の軽視に繋がっており、顕著な例としてはそれまで組織の一員であった在日朝鮮人党員を排除し、武闘路線の中で行われた暴力沙汰の責任を朝鮮総連に押し付けた上で切り捨てるということがなされた。ここにきて左派における「民衆」―「国民」像はアジア諸国から切り離され、偏狭的なナショナリズムが形成されることとなる。だいぶ大雑把な括り方になったが、こうした流れが敗戦直後から50年代後半にかけての文壇左派における「民衆」像の変遷とひとまず言っておきたい。

4. 箱根会議と「無垢な民衆」像

エドウィン・O・ライシャワーとハル夫人 1960年(『戦後25年:アルバム ミズーリから万国博まで』朝日新聞社, 1970)

上のような戦後初期の左派の隆盛と混乱を尻目に、国家としての日本はアメリカの冷戦戦略の内部に着々と取り込まれていく。朝鮮戦争への米軍支援と沖縄を除く日本本土における占領の終結を経た上で、50年代は日米間における戦後処理が様々な方面で行われた。その中でも、日本の近代史をどのようにアメリカ的民主主義と結びつけて語り直すかが大きな課題であった。60年代のとば口に開催された箱根会議で行われた議論はその最たるものであろう。この会議では当時ハーバード燕京研究所所長であったライシャワーを中心とした西欧の日本研究者と丸山眞男や高坂正顕などの日本の研究者が一堂に集まり、日本の近代化の再評価がなされることとなる。ここで採用された歴史ナラティブは、黒船来航以後、明治維新と日清・日露戦争、そして大正デモクラシーと満州事変に至る以前までの日本は「正しく」近代化されてきたが、満州事変以降から1945年の敗戦に至るまでは軍部が暴走し、民衆が洗脳されたために誤った道を歩んでしまった、というものである。この満州事変から敗戦までの約15年間を「暗黒の谷間(Dark Valley)」と呼ぶことで、敗戦後のアメリカ占領は日本を元の「正しい」路線に戻してあげたということとなり、こうした日本近代の肯定的評価が日本の知識人たちの自尊心を大いに慰撫することとなる。その後このナラティブは「ケネディ・ライシャワー路線」と呼ばれる資本主義経済の発展を支援するアメリカの日本政策の前提となり、それをうやうやしく受諾する日本の官僚にも共有されたものとなる。現在においてもこれが一般的な歴史観として幅をきかせていることは言うまでもないことであろう。

このような歴史観が必要とされたのは、すでに述べたように日本をアメリカ主導の冷戦構造に取り込むためであるが、その目的のためには戦前(伝統)と戦後(現在)の日本社会の連続性を絶対的に肯定し、その間にある戦中を不必要な断絶として否定しなければならなかった。日本の天皇と臣民を無罪にし、また天皇と国民が融和的に結びついた「民主的象徴天皇制」を是認することは、冷戦期の日米関係を円滑に運営するための潤滑油となったわけである。もちろんそれがアメリカからの一方的な策謀であったと述べるつもりはなく、日本側も政治・経済・文化の様々な場所からこの歴史認識を支持し、肉付けがなされた。この時期になってフルブライトやロックフェラー財団の支援を受けて日米間の文化交流が活性化するのは、こうした背景がある。オオシマ氏の講演の中で紹介したこの時期のアメリカから日本への留学生たち(後のモダニスト建築家たち)が示した日本の民衆や伝統像は、必ずしも同質ではないまでも、それでもやはりこの仮構された「無垢の民衆」像に沿うものであるように感じる。「日本の伝統の中に実は極めてモダンな要素があった」、あるいは「日本民衆の純朴で自然な生業にこそ現代性がある」、という言説の中に「ケネディ・ライシャワー路線」を読み込むことは、そう突飛な発想ではなさそうに思える。

5. おわりに

1950年代において「民衆」という語は何を意味したのか。もちろんこのような短文でそのような問いに正面から立ち向かうのはどだい無理な話であるが、この文章がこの大きな問いとの闘いに貢献したいのは次の観点である。確かに、米ソ対立が深刻化して行く過程でそれぞれの極に近しい人々の言説が互いに全く噛み合わないように見えるのは自然なことなのかもしれない。しかし1950年代が終わる頃に殊「民衆」という語に向けられた両極の眼差しには共有されるものがあるように思える。それは、「民衆」と名指される範囲がより一国主義的に狭まっていくということである。かつての「帝国臣民」という語が、被植民者たちに対する抑圧的暴力を伴いながらも多民族的に構成されていたのに対し、帝国の崩壊から10年、15年と経るうちに単一民族的「国民」へと変換されていく。その過程を巧妙に隠蔽するものとしての「民衆」という語があるような気がしてならない。

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逆井聡人

Written by

さかさい・あきと/1986年千葉県生まれ。日本近現代文学。博士(学術)。東京外国語大学特任講師。論文に「原罪に代わるもの:戦後道徳と荒正人」(『言語態』、言語態研究会)など。

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