石丸紀興・千葉桂司・矢野正和・山下和也著『原爆スラムと呼ばれたまち──ひろしま・基町相生通り』

通りだったひとつのまち(評者:藤本貴子)

藤本貴子
建築討論
Nov 4, 2021

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石丸紀興・千葉桂司・矢野正和・山下和也著『原爆スラムと呼ばれたまち──ひろしま・基町相生通り』

かつて、広島基町に「原爆スラム」と呼ばれたバラック住宅がひしめき合うまちがあった。基町は広島城を含む広島市の中心部の一画で、原爆投下の目印とされた相生橋に接して北東に位置する。その基町の中、相生橋の東詰めから北に向けて三篠橋に至る1.5キロメートルほどの相生通りという土手道の脇に、国有地を不法占拠する形でまちが形成されていた。本書は、1970年に行われた相生通りの調査を基に、1979年の追跡調査を含めた現在までの報告をまとめたものである。

1970年の調査は広島大学の院生・学生によって行われ、その成果は『都市住宅』1973年6月号に、基町高層団地計画の報告のプロローグとして掲載された。掲載された図版の多くは本書にも再掲されているのだが、雑誌に折り込まれている相生通り全体の調査図はすごい迫力なので、興味を持った方はぜひ図書館で掲載号を見てもらいたい。調査は相生通りの個別の家々の実測調査とヒアリング、集合形態の図面化、まちの定時定点観測、居住者へのアンケートや寄り合いインタビューからなる。1979年の調査は、かつて相生通りに居住した人々のその後を追ったものである。これらの貴重な調査資料は、2015年に広島市公文書館に寄贈されたそうだ。そして一連の報告が書籍としてこの度まとめられ、手に取りやすくなったことは、たいへん喜ばしい。

戦時中は軍都としての重要施設が集中していた基町は、爆心地から1キロメートル圏内にあり、1945年8月6日の被爆により灰塵と帰した。戦後、1946年の復興計画においては、基町には大規模な中央公園が計画された。しかし、被爆や海外からの引き揚げ・復員、ベビーブームにより、住宅不足が深刻となり、公園用地には住宅営団や市により応急的な公的住宅が建設され、1956年には一部公園用地が住宅用地に変更されることになる。その公共住宅からも溢れ出るようにできていったのが、相生通りであった。

調査者は、相生通りの形成における規定要因を4つに整理している。すなわち、①原爆、②国籍、③社会政策、④不法占拠、である(p.56)。 山代巴編『この世界の片隅で』(1965年)におけるルポルタージュや、大田洋子の小説『夕凪の街と人と』(1955年)には、これらの要因が絡まり合い、基町に追い詰められるようにしてやってきた人々の生き様と心情が描かれている。平和記念公園整備のために中島町を追われて相生通りにたどり着いた人々の様子や、新築された広島市児童図書館の明るく清潔な佇まいに馴染めない基町の住民たちの心情描写は、復興からとりこぼされた人々の現実であっただろう。夕凪の重苦しい暑さのように停滞する、行き場のない暮らしがあった。しかし、調査者はこのような場所だからこそ、人々がたくましく、優しく支え合いながら生きていること、そしてまちとしての面白さが生まれていることを見出している。

改めて気づいたのだが、このまちは1,000軒にのぼる住宅が集まった「まち」なのだが、その呼称は「相生通り」とされている。相生通りを中心として広がったまちではあるが、住宅は通りに面した敷地だけでなく、本川ギリギリにまで至る。当時の写真を見ると、川にこぼれ落ちんばかりの密集具合である。この一帯は国有地の河川敷であり、地域全体を指す適切な呼称がなかったために、まち全体が「相生通り」と呼ばれたのであろうが、この呼称そのものがまちを象徴的に表しているように感じられる。小さな路地も含めた通りがまちであり、まちが通りなのだ。

〈いえ〉と〈みち〉が一体となってまちを形成している様子は、1970年の調査で詳しく分析されている。不法占拠という形で自然発生的に形成されていったこのまちには敷地割がないため、〈みち〉は〈いえ〉群の隙間として存在している。通路としての機能を備えつつ、採光や通風のための〈いえ〉を補完する空間や、〈いえ〉の延長としての居場所の機能も兼ね備えている。〈いえ〉の周りが屋内空間であるような、「内と外を入れ替えても違和感のない」屋外空間に、調査者は感動を覚えたという(p.91)。

本来、住むとは生きることそのもののはずであった。しかし、住宅が溢れ、どこへ行ってもそれなりにインフラや設備が整っている現代の日本では、生きるために建築を住みこなす必要に迫られる状況は稀になっている。相生通りの調査は、家屋や集落の調査でありながら、そこに住む人々の生の実態調査でもあった。その切実な住みこなしの様子は、生きることが住むことであるという事実を私たちに突きつけてくる。背後には、個人にはコントロール不可能な都市政策や福祉制度の不均衡が垣間見える。合法的に計画された敷地割では決して生まれることのない魅力的な空間が、不法占拠状態によって生み出されていたという事実は、何とも皮肉なことだ。

とはいえ、行政はこのような状態を黙認しつつ基町のあるべき姿を探っていたのであり、1971年からの相生通りの強制立ち退きは「ぎりぎりの選択」であった(p.185)。1969年に建設が始まった広島市基町団地や県営長寿園団地の設計を手がけた大高正人は、この基町の状況を把握し、「8.1ヘクタールに3,000戸という重荷に押しつぶされそう」★1になりながらも、事務所は全力で設計に取り組んだ。しかしそれでも、高層アパートに移転した人々が、再開発事業のマイナス評価として「近所づきあいの希薄化」や「エレベーターに不慣れや汚れ」を挙げているのは、与えられた空間の住みこなしの難しさの表れともいえるかもしれない。ただし、これは単純に建築デザインの問題に起因するものではない。原爆スラム時代から続く、住む=生きることをめぐる様々な位相の要因が絡まり合った結果である。

基町・長寿園高層団地という建築を中心に考えれば、本書が扱うのは高層団地以前・以後ということになる。基町地区再開発事業完成記念碑(1978年)には「この地区の改良なくして広島の戦後は終わらないと言われた」と記され、高層団地群の完成は一つの到達点と考えられていただろう。しかし、開発計画が完了したとしても、基町の歴史は消えるわけでも、止まるわけでもない。本書の終章では、基町の歴史が現代に問いかける課題を論じている。原爆スラムが戦争の産物であれば、その改良事業もまた戦争の結果に連なる。相生通りは姿を消し、整備された緑地帯となった。しかし、様々な立場の人々がそれぞれに持った感情と記憶と事実が複雑に交錯し積層した歴史と地続きの地に、私たちが今も生きていることを忘れたくない。

★1:大高正人「都市生活環境と建築家の役割」(『都市住宅』1973年7月号、p.18)。大高事務所が手がけた全体計画から構造、設備、コスト分析に至るまでが、相生通りの調査報告に続く『都市住宅』1973年7〜8月号に詳細に特集されている。

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書誌
著者:石丸紀興・千葉桂司・矢野正和・山下和也
書名:原爆スラムと呼ばれたまち──ひろしま・基町相生通り
出版社:あけび書房
出版年月:2021年7月

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藤本貴子
建築討論

ふじもと・たかこ/建築アーカイブズ。法政大学デザイン工学部建築学科教務助手。磯崎新アトリエ勤務後、2013–2014年、文化庁新進芸術家海外研修員として米国・欧州の建築アーカイブズで研修・調査。2014-2020年、文化庁国立近現代建築資料館勤務。