石岡良治、三浦哲哉編著『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』

「かつて」と「いま」が結びつく「ここ」にある知性(評者:砂山太一)

音楽や映画など、ある特定の分野の知識を集めたいと思いネットで調べたとき、出てくる検索結果の多さに、軽く挫折するという話を聞く。聴かなきゃいけない、見なきゃいけないものの多さが、検索のヒット数で具体的な量としてパッと出てくるがゆえの不安。評論家の佐々木敦もその著書において同様のことを言及している★1。これは情報時代の「初学者的尻込み」あるあるらしい。無論、ネット検索がなかったときも同系統の不安はあったように思うが、量が数字化された時の戸惑いは、以前のそれとは質が違うようだ。

本書は、批評家の石岡良治が、映画批評の気鋭・三浦哲哉とともに、入江哲郎、土居伸彰、平倉圭、畠山宗明らとおこなった映画討議(「闘技」)の書き起こし集である。第一章と第二章で石岡と三浦の対談によって本書の心意気が整備され、残る四章で各人とのテーマ別の鼎談が展開される。体系的にまとめられているわけではなく、ハリウッドから古典、アニメーション、アートフィルムまで、どちらかというとエンタメ中心であるが、様々な映像をフラットに、あらゆる知識をもちよりながら、蛇行、逸脱、飛躍を繰り返し、網羅的に思考が並べ重ねられる。とどのつまり、情報の濁流、それが読んでいる時の印象である。

しかし、本書の一節にあるように★2、今は、映画発明者リュミエール兄弟の映像を『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1895)をYouTubeで視聴し、となりに現在のラ・シオタ駅の別の動画が表示される時代である。そんな時代においては、本書からあふれる濁流も、他人のインターネットブラウジングを覗いていると思えばどこか心地よい。ただ、彼らのブラウジングはすこぶる速く奔放なわけで、心地よくなるには慣れが必要だろう。純粋主義も商業主義も並列的に展望する映画知識はもちろんのこと、本書のあとがきでも触れられているように、この著書を通読すると奔放に展開される議論の筋を脳内でつなぎとめる思考力が自然と鍛えられるのは間違いなさそうだ。

三浦は映画『インターステラー』(2014)の「まとまらなさ」を引き合いに、情報のあり方が以前と変わっているならば、作られ方も接し方も変わっているはずだと指摘する。つまり、情報時代における制作と批評のあり方を探りたいというところが、企画の大きな構成意図であると考える。

キーワード検索に対応した頭の働きは、今日誰もが体感的に理解していることだろう。そしていまや、言葉の一致による検索だけでなく、文章の意味内容を理解し複雑な質問にも結果を出す自然言語検索も実装され、あらゆるサービスの背後で有効に活用されている。情報的に運用されているシステムを身体化し、あらゆる物がリンクされ非構造的で錯乱的な情報世界で漂うための筋肉を鍛えること。「かつて」と「いま」がだらしなくマルチ・ウィンドウに結びつく「ここ」を「横滑り」しながらサーフする。本書はそのような情報技術化した知のあり方の一側面を、「スタローン」と「シュワルツェネッガー」なみに鍛えられた石岡・三浦の「脳筋」を通し、至極アナログな方法で提示している。


★1『未知との遭遇―無限のセカイと有限のワタシ 』(2011)の冒頭。学生からの相談話を交えて展開される。

★2本書 pp.184。


書誌
書名: オーバー・ザ・シネマ:映画「超」討議
編著者: 石岡良治、三浦哲哉
出版社:フィルムアート社
出版年:2018年3月