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磯崎新他著『現代思想2020年3月臨時増刊号 総特集=磯崎新』

2020年のユムール・ノワール(評者:江本弘)

100年後に死ぬ和邇

『日本の建築家はなぜ世界で愛されるのか』★1の読まず嫌いをまず詫びなければならない。いかにも煽情的な、愛国心をくすぐる、虫の好かないタイトルの新書である。そう、私は見事に一杯食わされたのだ。ばつの悪い思いをしながらはにかむ。ああ恥ずかしい。この、みずからに巣くう圧倒的な嫌悪感を直視することもまた目の鍛錬であった。自分でも意識はしていたはずなのである。この不純な内面と向きあい葛藤することなしに語られる「世界」は空虚である、あるいは、いつまでも中心を持ちつづける。

読まず嫌いの新書に投げかけられた謎。その謎かけの作法はある連想を生む。磯崎新のキャリアはここで異例の30ページ超を割いて紹介されているが、その理由は客観的な歴史評価(そんなものがあるのか)の重みづけだけではないだろう。

そして来るべきときがきた。その「建築界のノーベル賞」受賞速報は2019年3月6日。日本人として8人目の受賞である。

数あるメディアのなかでも、日本語での速報の一番のりは『カーサ・ブルータス』のウェブ版ではなかったか。同誌は本賞の設立者であるトム・プリツカーの言葉を引きながらその受賞理由を語る。「磯崎氏は欧米文化が他を圧していた時代、広い見聞に基づく独自の建築を打ち出し、日本人として初めて本格的に海外進出を果たした。真に国際的な建築家である」。だから、本来なら今さらの受賞は遅すぎた、そう報じたのは『朝日新聞』である★2。

しかしなにかが引っかかっていた。日本ではふつう「丹下こそが世界を切り開いた」とされる。それがいわゆる建築界の「常識」だと私も思っていた。我々の与り知らぬところで暗黙裡に歴史が書き換わっている──、しかしそれが世界史のなかの日本なのであり、これまでも前史はつねに繰り上げられてきた★3。

そもそも世界は第二次世界大戦があったことなど忘れはじめている。近現代建築史においても、「戦後」は絶対的な時期区分としての妥当性を失うだろう。磯崎の「遅すぎた」受賞はむしろ、遅すぎるからこそ時宜をえて、これからの歴史記述から日本の戦後を消し去ってゆく契機となるのではないか。磯崎の父殺しの軌跡はそのとき思いだされるだろうか。

近現代建築史のなかの日本が磯崎新から書かれはじめるときがくる。国立代々木競技場すら都城市民会館と同じ轍を踏むことがありうる。ありえない、と鼻であしらってきた可能性が現実になる。ばかみたいな世界を我々はこの今、この日本で、生きている。

神は隠れて遊ぶ

「磯崎新チェッカード三部作」の完結編である『現代思想』臨時増刊号は、磯崎をめぐる巷の2019年度を締めくくるかたちで世に出された。第一部は『磯崎新インタヴューズ』、そして第二部が『瓦礫の未来』である★4。無論、この名づけは手前勝手なものだが、三冊を実際に手にとり愛でれば、まずその物理的な理由を感じることができるだろう。

私がこの三作をそう呼ぶのは、磯崎新という波乱に富んだ(=checkered)現象の語らせかたによるところが大きい。『磯崎新インタヴューズ』は、インタビュアーという「知りたい主体」によってハンドルの握られたクロノロジーとして、すぐれた教科書である。これに対し、『瓦礫の未来』の手綱を握るのはあくまで磯崎のアクチュアルな思考と筆圧である。それは多少なりとも「言わされている」部分から自由となった、神懸かりの産物である。

磯崎新他著『現代思想2020年3月臨時増刊号 総特集=磯崎新』

このゆるやかな対立のなかにあって、『現代思想』磯崎新特集号はまず、磯崎自身の発話部分、とくに巻頭の浅田彰との対談が、序論としてこの二書の橋渡しの役割を担っているといえる(「暴走するアーキテクトの現場──「アイロニーの終焉」から三四年」)。

彼らはここでよく笑う。しかしその笑いは、たんに二人が打ち解けているから出るというだけのものではないだろう。他者とのミスコミュニケーション、他者に対する理解の及ばなさを、一旦棚上げにする機能が「笑い」にはある。ここで他者とは、人間でもあり、時代状況でもあり、歴史でもあり、技術であり自然であり、また宇宙そのものでもある。

こうした不可知・不確実なものに対する畏怖と憧憬のジェスチャーとしての笑いが、この精霊的な対談には満ちている。磊落なお喋りのなかにもある種の不気味さが漂っているのはそのためである。──情報技術、テクノクラシー、巨大数など、本特集の重力場のひとつである《コンピューター・エイデッド・シティ》(1972)まわりの話題は、霊操体験や「ピラミッド・パワーは全然効果ない(笑)」話と表裏一体で、戦後世界の得体の知れないリビドーを表現する重要な歴史証言である。教科書には載らない、神懸かりの欲望史である。

輪転する歴史は、人間という忘れっぽい生物が生みだす必然でもあるだろう。時代はめぐり、彼らの荒唐無稽な語りが、今ふたたび「超越」に手が届くと思いあがっている人類に伝えるものがある。このシニカルに濡れた笑いで、本特集は正しくその幕を開ける。

様々なる戯笑

友人の回想からいわゆる表象文化論、元所員による建築論的分析、ラッパーのリリック大統領の演説にいたるまで、掲載された記事の体裁と執筆陣のバラエティはそのまま、磯崎新という質量がもつ引力の万有性の証左である。「チェッカード三部作」としての本特集の神髄はこうした、磯崎新をその「外から」語るベクトルの質にある。その集積が、仮構された磯崎の実態を浮かびあがらせる。

笑いにはじまり笑いに終わる、という本特集の構成が、果たして意図されたものだったかどうかは分からない。しかし、第7部「アートの現場から」の先頭におかれた篠山紀信のインタビュー(「磯崎さんは事件を起こしたかったのかもしれないね、僕に写真撮らせて(笑)」)の、そもそもタイトルから始まるうるさい笑いの掃射は、冒頭の浅田彰対談と呼応した、ひとつの暴力的な閉じ括弧をこの特集全体に与えているような感がある。

そこにはありとあらゆる笑いが引きよせられている。そのバリエーションの豊富さを賞翫することも本特集を読む楽しみのひとつである。エピソードが面白い、という単純な笑いにおさまるはずがない。なにせ敵は磯崎なのである。たとえば田中純論考における磯崎の二面性の分析は、メタな文体操作から練られた、特集中でも異質の論考である(「デミウルゴスのかたり──磯崎新の土星的仮面劇」)。

こうした「にやり」もあれば、ときには笑いを憚らなければならないような場面にも遭遇する。しかし、笑ってはいけない、そう否定しなければならない立場など吹き飛ばしてよい孤独が、いまの我々にはちょうどある。そうして、笑ったあとの過酷な自己批判もまた楽しみたいものである。「丹下健三は、そんなミケランジェロを正統的に継承した建築家だった」 ──なんだ、「正統的」って(笑)。

しかし個人的にとりわけ強く心に残ったのは、羽藤英二が言及した失笑である(「Stand Alone磯崎新」)。ヴィジョナリーとしての建築家は今や冷遇の典型的対象なのかもしれないが、それ以上の含みをこのエピソードは持っている。おのれの枠を超えていく想像力と実行力は、鍛えていなければ衰える。現状にへらへら甘んじ続けていたら、頭も体もこころも使い物にならなくなっていく。そしてこの現状ができあがる。そこから私が布マスクの裏に苦笑いをかみ殺すことになるまでは間もない。

中国の偽スフィンクス

見つけてアッと顔が綻んだのは、浅田彰との対談で磯崎新が言及した「僕の作品集の海賊版」のころ、1980年代の中国の記憶が、不思議な巡りあわせで、市川紘司による歴史学論考のなかでかなり深く掘り下げられていたことである(「中国現代建築にとって磯崎新とはいかなる存在か? ──二〇一九年シンポジウムから考える」)。この論考では、2019年に中国で二度行われた磯崎新記念シンポジウムの発言記録から、同国の磯崎新受容にまつわる近現代建築史の奇妙な一側面が検証されている。

ここで私は、粗製乱造の海賊版でこそジョン・ラスキンが読まれた19世紀半ばのアメリカ東海岸が、1世紀半後の中国で再現されているかのような錯覚さえ味わった。

ラスキンはヴィクトリア朝イギリスを代表する建築批評家だが、その「本国」の「大家」に対して、アメリカ建築論壇はそれからゆうに1世紀をこえるアンビバレンスを抱きつづけた。その没年は1900年。彼は死後もなお憎まれつづけ、その怨嗟のちからによってアメリカの建築思想をけん引した歴史的スケープゴートであった。

しかしラスキンはそもそも、海賊版が爆発的に版を重ねるほどの愛読者を生んだ、アメリカ建築思想の父ともいえる人物だったのである。この独壇場の地位に陰りがみえはじめたのは『建築の七燈』出版から10年後の1850年代末。南北戦争終息後の70年ごろにはついに激しい嫌悪の対象となる。

ラスキンの文筆の量・質のゆたかさは多様な解釈を呼びおこし、解釈者自身の欲望の代弁者となった。これは磯崎にもあてはまる資質である。そしてその欲望は常にナショナルな帰属意識を反映していた。

市川の論考で語られる中国の磯崎受容の開始は、1980年代の中国に特異な現象であった。改革開放政策以後の西側文化のインフラックスは、歴史様式的な縛りからの脱却の機運の一因であり、モダニズムとポストモダニズムの同時的受容ももたらした。この文脈でこそ磯崎がアイドル視された歴史文脈を、市川は『世界建築』や『時代建築』など、この時期に創刊された(、これまでほとんどノーマークの)雑誌史料を振り返りながら丁寧に語りおこす。

この当時の中国の時代状況が示唆するものは大きい。中国における建築の専門教育の復活は、こうした文物流入の開始と照らしあわせれば、新たな「正統」教育制度創造の問題を引き起こしたのではないか。また、市川が史料とした雑誌の創刊は、逆に中国にはそれまで、プロフェッショナルな批評論壇が不在であったことを想像させる。推測ではあれ、こうした状況はまさしくアメリカの1850年代と重なる。

先の2019年シンポジウム登壇者は、1980年代当時学生だった、いわば「磯崎世代」の面々を多く含む。記念の場ということもあり、彼らは当然、自分たちのキャリアのなかでの磯崎の影響の大きさを強調する。

そのなかでひとり、「磯崎新は中国に対して基本的には何ら影響を与えていない」と言い放ったのが建築家の童明であった。ここまでの断言ではなくとも、磯崎に対する単なる顕彰に釘をさす発言もあらわれる。アメリカの建築史家、ヘンリー=ラッセル・ヒッチコックが「ラスキンはアメリカの建築思想には影響を与えなかった」と語った事実がここでフラッシュバックする★5。

このような発言を可能にした中国建築論壇の歴史文脈とはなにか。さらりと記事冒頭に掲げられた、李翔寧と童明ふたつの引用が我々に問うものは巨大である。歴史家らしく体裁は学術的に整っているが、だからこそ、ここで市川がコアに巧んだ笑いは、ある種の不気味さをもって読者に歴史の皮肉を突きつける。

磯崎は現代のラスキンである。過去のアメリカは現代の中国である。近年の中国で、ボザールの伝統ふくめた自国の近代建築史を編纂する動きが活発だという話もまた、20世紀前半のアメリカを強く連想させる。このようなきわめて粗雑な連想も、初動の段階ではまるきりの荒唐無稽だとは言いきれまい。磯崎新の受容史の問題は、こうして私に、中国建築思想のこれからの100年までをも夢想させた。

では、そのとき日本は?

中国のパチモノを、我々はいつまで馬鹿にして笑っていられるだろうか。

図版出典:Hans-Ulrich Meyer, “Die Manier der Ambivalenz: Eine Begegnung mit Arata Isozaki,” Bauen + Wohen, Vol. 26, 1972, p. 454.

追記

先の速報からおよそ一年後に世に出された『現代思想』磯崎新特集の企画は、どうやらプリツカー賞受賞を直接の契機とはしていない。ばかりか、収録された記事のなかでは、エマニュエル・マクロン仏大統領の長広舌以外ではその話題に触れられてさえいないという徹底ぶりである。浅田彰が磯崎新に「心から「おめでとう」と申し上げ」★6ているのも、この受賞に対してではなく、彼の米寿に対してのことなのだ。

すると、「臨時増刊号」と銘打たれた本特集の出版経緯がそもそもわからなくなる。主旨文もなければ編集後記にも言及はない。『現代思想』の連載が『瓦礫の未来』としてまとめられたことの意味も当然あるだろうが、そんな野暮な宣伝もなし。

この増刊号はまさしく、「中心がなくなったところ」を擬態しながら、紛れもない、しかし不可思議な中心の存在に吸い寄せられて成立した特集なのである。

饒舌なスフィンクスは、ここでは問いさえも発さずにこちらを見据えている。

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★1:五十嵐太郎、東北大学都市・建築理論研究室『日本の建築家はなぜ世界で愛されるのか』、PHP新書、2017年
★2:山下めぐみ「速報:2019年プリツカー賞は、磯崎新。」、Casa BRUTUS、2019年3月6日、https://casabrutus.com/architecture/99243;大西若人「遅すぎたプリツカー賞 建築家・磯崎新さんの前衛精神」、朝日新聞DIGITAL、2019年3月6日、https://www.asahi.com/articles/ASM363PSZM36ULZU001.html (アクセス日:2020年4月12日)
★3:引用は五十嵐前掲著、p. 23。レオナルド・ベネヴォロの『近代建築史』は明治時代から始まる。そしておおよそケネス・フランプトンの『現代建築史』を最後に前川國男の名は「世界史」から姿を消す。Cf.) Leonardo Benevolo, Storia dell’Architettura Moderna, Bari: Editori Laterza, 1960; Kenneth Frampton, Modern Architecture: A Critical History, London: Thames & Hudson, 1980.
★4:磯崎新、日埜直彦『磯崎新インタヴューズ』、LIXIL出版、2014年;磯崎新『瓦礫の未来』、青土社、2019年
★5:江本弘『歴史の建設──アメリカ近代建築論壇とラスキン受容』、東京大学出版会、2019年、p. 394
★6:浅田彰「饒舌なスフィンクス」、p. 64。なお、プリツカー賞選評全文については公式サイト(https://www.pritzkerprize.com/laureates/arata-isozaki)参照。拙訳はここから

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書誌
編著者:磯崎新他
書名:現代思想2020年3月臨時増刊号 総特集=磯崎新『現代思想』
出版社:青土社
出版年月:2020年2月(第48巻第3号)

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江本弘

江本弘

えもと・ひろし/1984年東京都生まれ。東京大学工学部卒業。同大学院工学系研究科修了。博士(工学)。一級建築士。千葉大学大学院工学研究院、日本学術振興会特別研究員。近代建築史。著書に『歴史の建設──アメリカ近代建築論壇とラスキン受容』。受賞に第8回東京大学南原繁記念出版賞ほか