空虚な墓と沈黙の儀礼 ─── 建築家エドウィン・ラティンズの中立的造形と帝国

[029 | 201903 | 特集:みんなはバラバラ ── 集団と造形]

粟津賢太
建築討論
31 min readMar 1, 2019

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1. マス・デス(大量死)のインパクト

英国およびヨーロッパにおいて戦争記念碑建設の画期となったのは第1次世界大戦であった。いうまでもなくこれは戦没者の大量発生と呼応している。第1次大戦は大戦争(the Great War)と呼ばれているように、近代国家としての英国が経験した初めての大戦争であった。徴兵制の導入に踏み切った初の戦争であり[1]、745,000人の英国軍兵士の戦死者を出した[2]。これは全兵士の10%に当たり、8,590人(5%)の戦死者、75,000人の戦傷者を出したボーア戦争に比べて戦死率は倍増している。

表に示したように、英領や英連邦を含めた全戦死者は908,3371人を超える。戦争による食糧不足などによって死亡した民間人犠牲者は10,9000人を超えた。これに加えて1918年から19年にかけてのインフルエンザのパンデミック(いわゆる「スペイン風邪」)による死者も10万人を超えており[3]、人口構成体に深刻な影響を及ぼした[4]。

Tab.01| 第1次世界大戦における英国軍戦死者数

また、この戦争は英国が経験した初の総力戦であり、西部戦線(Western Front)などと同様に、国内も戦場であると捉えられ国内戦線(Home Front 日本的にいえば「銃後」)といわれた。この大規模な犠牲によって、英国における戦没者追悼や記念・顕彰の必要が生まれ、それは現在の記念や追悼のあり方の基礎となっている。

2.戦没兵士追悼式とセノタフ

英国では11月が近くなると退役軍人やその家族の福祉のため、全国で募金を呼びかけ、募金をしたしるしに赤いケシの造花を胸につける習慣がある。由来は、第1次大戦の激戦地であったフランドル地方には沢山のケシの花が咲いていたことによる。地中にあったケシの種子が、当時の塹壕戦によって掘り返され、活性化したのである。また赤い色は兵士の血によって染まったとも、若くして命を落とした兵士たちが切り取られた花にたとえられているともいわれている。こうした募金活動や地方における追悼式は、英国全土に支所を持つ退役軍人支援機関であるロイヤル・ブリティッシュ・リージョン(The Royal British Legion)が行っている。地方のどんな小さな町や村にいっても、その中心地には必ずといってよいほど戦争記念碑が存在する。これら英国における戦争記念碑は、第1次大戦の戦没者を追悼し、後にそれ以降の戦没者が付け加えられる形をとっているものがほとんどである。

地方における戦争記念碑には様々な形態があるが、後述するように遺体や遺骨は安置されていない。そこには名簿が納められているか、あるいは碑の台座や壁面に名前が刻まれているだけである。町や村の中心にあるこうした記念碑を中心にして地方の追悼式はおこなわれる[5]。

現在、戦没兵士追悼式は11月11日にもっとも近い日曜日におこなわれる。それゆえこの日は「追悼の日曜日(Remembrance Sunday)」とも呼ばれる。この記念日は第1次大戦の停戦が発効した日(Armistice Day)を戦没者を追悼するものとして出発したが、後に第2次大戦以降から現在にいたるすべての戦争の戦没者たちを追悼するものとなった。当日の11時には全国でいっせいにツー・ミニッツ・サイレンスと呼ばれる2分間の黙祷がおこなわれる。この国家儀礼では、英国の中枢であるロンドンのホワイトホール(官公庁街)にあるセノタフ(the Cenotaph)と呼ばれる戦争記念碑が、中心的な役割を担っている。記念碑の前に、国王をはじめ首相、国教会主教などの各界指導者が一同に会し、国王がその記念碑に花束を捧げる儀礼が厳粛におこなわれる[6]。こうした首都にておこなわれる儀式と平行して全国の町や村にある地元の犠牲者の記念碑に造花のけしの花を捧げる儀礼がおこなわれる。この儀礼は王室と国家、中央と地方、同胞意識と犠牲者の存在というナショナリズムの重要な特性である同時的連続性を構成する国家儀礼である[7]。

fig.01|戦没兵士追悼式の様子とセノタフ(ロンドン):出典は文末に記載。

cenotaphは「空の墓(empty tomb)」を意味するギリシア語 kenotaphionに由来する。別の場所、外国などに葬られた人を記念する墓碑である。cenotaph自体は記念碑を指す一般語のひとつであるが、ロンドンのホワイトホールにあるこれは特に定冠詞Theをつけ、キャピタライズ(語頭の大文字化)して区別されており、現代英国ではもっぱらロンドンにある戦争記念碑を指す[8]。

これはエドウィン・ラティンズ(ラチェンズ、Sir Edwin Lutyens)によって設計され1920年に完成したものである。彼は第1次大戦後、帝国戦争墓地委員会のデザイナーとなり、「追悼の石(Stone of Remembrance)」などを手がけ、1918年にナイトの称号を受けた。また、植民地インドの首都デリーの設計等もおこなっている。彼は大戦後の古典主義の建築家の一人であり、その作品は、特に古典的なものと現代的なものとを融合したと評価されている[9]。

セノタフの意匠(design)、設置位置などは内閣で議論された。それが式典の行進のルート上にあること、キリスト教のシンボルであることを一切表現せず、それでいて死者の冒涜とはならないような厳格で簡潔な意匠であることなどが周到に考えられていたのである。こうした要求にこたえるものとして、ラティンズの作品が採用された。碑銘には「栄光ある死者(The Glorious Dead)」と刻され、大英帝国のすべての戦没者を一括して記念するものとされた[10]。

Fig.02|セノタフの刻銘:出典は文末に記載。

一方、ツー・ミニッツ・サイレンスのモデルは大英帝国のアフリカ領からもたらされたものである。第1次大戦の戦闘が終わったとされる11月11日11時が戦没兵士追悼記念日と決められ、何らかの敬意の表し方が当時の内閣で議論されていたが、1919年10月15日にパーシー・フィッツパトリック(Sir Percy Fitzpatrick)からのメモが内閣へ提出された。フィッツパトリックは、戦時中、南アフリカの高等顧問であり、メモは、彼が現地で経験した「3分間の中断(pause)」と呼ばれる儀礼の利用を提案していた。この提案は、同日の同時刻に帝国中の国民が各自で実行できるような単純で簡潔な儀礼であり、また兵士たちへの尊敬の念はいかなる言葉によっても表現され尽くせないということからも支持された。そして英国での独自性が考慮され、「3分では長すぎるし、1分では、すでにアメリカ合衆国のルーズベルト大統領の葬儀に前例がある」ことから、黙祷は2分間とされた。式典直前の11月7日、すべての新聞紙上で、国王からの要請として、この新しい儀礼は発表され、実施された[11]。

3.英連邦戦争墓地

英国および英連邦 (the Commonwealth) 諸国では戦没者は死亡した地に葬る習慣がある[12]。死後の復活を認めるキリスト教における葬儀には遺体が不可欠であるが、英連邦諸国の場合は戦場に遺体を埋葬する。ウエストミンスター寺院にある無名戦士の墓におさめられた遺体は象徴的に引き揚げられたものであり、実際には兵士たちの遺体は国外にある墓地に埋葬されている。各戦地にこうした戦争墓地が存在しており、実に143ヵ国、2,500ヵ所にのぼる(日本には保土ヶ谷にある)。現在こうした墓地の管理運営は英連邦戦争墓地委員会(The Commonwealth War Grave Committee)が行っている。

遺体を戦地から引き揚げず、戦地での埋葬を永続化するという方針はこの組織の前身である帝国戦争墓地委員会(The Imperial War Grave Committee)が提唱したものであり、それまでの英国には見られなかった死者の扱いであった。すでに1915年3月には、大戦時の連合軍最高司令官(headed Allied armies)であったフランス人のジョセフ・ジョッフル元帥(Joseph Jacques Cesaire Joffre)により戦時中は遺体発掘が禁止されていた[13]。つまり委員会は特定の戦争墓地を定め、この方針を永続化したのである。

この方針は当時の内閣によっても支持された。それは衛生的および経済的見地からであった。遺体の送還の経済的負担を個人によるものとするならば、富裕層だけが肉親の遺体を取り戻すことが出来るということになり、必然的に貧富の差が歴然となってしまうからである[14]。

帝国戦争墓地における象徴的構造物は、死の平等を示すため、いずれも厳密に規格化され、さらに特定の宗教を明示しない簡潔かつ重厚な意匠が意識的に採択されている。その主なものは次の三つである。第一に、ヘッドストーンと呼ばれる墓石である。これは委員会所属のアーティストによるものであり、その規格も厳密に定められている。

Fig.03|犠牲の十字とヘッドストーン:出典は文末に記載。

帝国戦争墓地のデザインに尽力した建築家にハーバート・ベイカー(Sir Herbert Baker)がいる。1919年1月9日付のタイムズ紙の紙面に掲載された「戦争記念碑」と題した記事によると、ベイカーは停戦が発効した直後に追悼式典の意義について「兵士たちの犠牲によって守られたイングランドのけっして壊されることのない歴史と美徳の表現」でなければならないことを主張していたとされる。彼は南アメリカ、インドにおいて活躍していた建築家であり、首都デリーではセノタフのデザイナーであったラティンズとも共に働いている。ベイカーのデザインした帝国戦争墓地でもっとも有名なものは西部戦線の激戦地であったベルギーのイープルにあるタイン・コット墓地である。これは世界各地にある帝国戦争墓地の中でももっとも大規模なものであり(3,587名の身元の判明した戦死者を葬っている)、1927年に落慶した。第二に、レジナルド・ブルームフィールド(Sir Reginald Bloomfield)のデザインによる、十字架にサーベルをかたどった「犠牲の十字(The Cross of Sacrifice)[15]」であり、これも規格化されている。そして第三に、「追悼の石(The Stone of Remembrance)」とよばれる八トンもの重量のある石製構造物である。これは前述したセノタフのデザインをおこなったラティンズによるものである。「追悼の石」のデザインに採り入れられた比率はパルテノン宮殿に関する研究から導き出したものだという。世界中に400箇所以上もの地域に設置されているこの石には次の一節のみが刻まれている[16]。

その名はとこしえに生きているTHEIR NAME LIVETH FOR EVERMORE

これは『旧約聖書外典』の「ベン・シラ」からの一節で、英領インド出身の白人であり、1907年にはすでにノーベル文学賞を受けていた作家ラドヤード・キプリング(J. Rudyard Kipling)の撰によるものである。この書は「集会の書」と呼ばれ、「イスラエルの先祖たちに示された神の恩恵」と題された民族主義的な色合いの濃いものである[17]。

Fig.04|追悼の石:出典は文末に記載。

キプリング自身、戦闘で行方不明となった息子の行方を捜すため、1920年に自らフランスを訪れている[18]。その過程で帝国戦争墓地委員会の活動を知り、この活動に加わるようになる。この追悼の石、身元不明の兵士の墓に刻まれている「神のみぞ知る(Known Unto God)」、そしてロンドンのセノタフに刻まれた「栄光ある死者(The Glorious Dead)」と、いずれもキプリングの撰によるものである。

4.黙祷儀礼の起源:2つの先例

近年、南アフリカの地方史家C. Abrahams (Tannie Mossie)の研究によって、ツー・ミニッツ・サイレンスの元となった南アフリカの事例が紹介され、その起源が明らかとなった。フィッツパトリックの提案にあった「3分間の中断」は、英領南アフリカのケープタウンの市長であったハリー・ハンズ(Sir Harry Hands)の創案によるものである。ハンズはフランス戦線で長男を失っており、息子を含む戦没兵士のための追悼と何らかの敬意の表し方を模索していた。この儀礼の発想のもととなったのはカトリックの伝統である「アンゲルスの祈り(the Angeles prayer)」であった。日本ではお告げの祈りとして知られる日々の活動を中断しておこなう沈黙の祈りである。ミレーの有名な絵画である「晩鐘」に、そのモチーフは描かれている。教会は「お告げの祈り」のために、午前六時、正午、午後六時に鐘を鳴らし、夕方の鐘を聞いた農夫が祈りを捧げている[19]。

Fig.05|ミレー『晩鐘』オルセー美術館蔵:出典は文末に記載。

また、ケープタウンでは、植民地時代から正午を告げる時報として「正午の砲声(Noon Gun)」が海軍によって行われていた。これを合図として、交通機関をはじめ、人びとはすべての昼間の活動を中断し、3分間の追悼の儀礼をおこなうことが提案され、実行されたのである。3分間のうちの最初の一分間は生還した兵士たちに感謝を捧げるため、残る2分間は戦死者たちのために祈りを捧げるという意義を持っていた。

1918年5月13日、『ケープ・タイムズ』紙上で翌日の火曜日から実施することが発表された。しかし、実際に行ってみるとやはり3分間は長すぎるということで、翌々日の15日には2分間にする旨が発表された。この儀礼は1919年1月17日まで毎日続けられた[20]。

もうひとつの先例は、1919年1月7日にニューヨークで行われたセオドア・ルーズベルト大統領の葬儀である。ニューヨークではルーズベルト大統領への「尊敬の念を示す(mark of respect)」ため葬儀の時間に合わせて1分間の黙祷が行われ[21]、ニューヨーク株式市場も休場した[22]。また、この黙祷は各州で行われ、イリノイ中心部では、11時45分から50分までの間、すべての列車が5分間停止し[23]、シカゴでは、通りのすべての車も5分間停止した[24]。

5.ラティンズ家と神智学協会

Fig.06|エドウィン・ラティンズ:出典は文末に記載。

ラティンズの設計した「セノタフ」や「追悼の石」に共通しているのは、古典主義と融合した「荘厳さ」と「簡素さ」である。これにもいくつかの重層する意味と人的な交流があった。古典への参照や荘厳さについては、ラティンズが、セント・ポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral)の設計などで知られる一七世紀の建築家クリストファー・レン(Sir Christopher Wren)の作品を若い頃から研究し、それを独自のものとしたものであり、建築学的にもその影響が知られている[25]。

Fig.07|アニー・ベサント:出典は文末に記載。

また、ラティンズ家は神智学協会(The Theosophical Society)とつながりがあったことが最近の研究では知られている。ラティンズは、1911年にロンドンのタヴィストック・スクエアに神智学協会本部の設計をしている(現在の英国メディカル協会ビル)。セノタフや追悼の石などにみられるキリスト教のシンボルを表示しないデザインについては、アニー・ベサント(Annie Wood Besant)を介して神智学協会の積極的なメンバーとなっていたラティンズの妻エミリー・ラティンズ(Emily Lutyens)が思想的に支援していた。

セノタフとサイレンスの両者に共通しているのは「簡潔さ・単純さ(simplicity)」であり、それが成功の原因であったとされる。特定の神を明示しない意匠だからこそ、日の沈まぬといわれた広大な帝国内に存在する個々の差異を表立たせることはない。また、沈黙の儀礼であるからこそ、様々な解釈の相違は浮かび上がらないのである。こうして、戦没兵士追悼記念日には、セノタフという空虚な墓の前で、また、地方の戦争記念碑の前で、あるいは仕事を中断した職場で、帝国内の各地において2分間という空虚な時間が送られることになった。それは、あまりにも大規模な犠牲者たちの死、そして民族的にも宗教的にも地理的にも階級的にもきわめて多様な人びとの死を飲み込むために大英帝国が生み出した追悼の在り方であった。

6.沈黙の儀礼とナショナリズム

英国では戦没者への敬意を表すために2分間の黙祷に代表されるような新たな国家的儀礼が創出され、それを可能とする様々な記念的建造物が作られていった[26]。しかし、この「伝統の創造」はまったくランダムなプロセスであったわけではない。そこには独自の文化的コードが存在している。ホブズボウムが述べたように、「伝統の創造」とは「過去を参照することによって特徴づけられる形式化と儀礼化の過程のこと[27]」であり、英国の戦争記念碑の場合、それは古代帝国への参照であった[28]。

戦争記念碑は、その形態、意匠、象徴性などの点では多層的な意味を持っているが、戦没兵士の解釈、死の意味付けは定型化している。碑の建設は、「国家」と「平和」あるいは「自由」を守るために戦った記録を永遠にとどめようとするものであり、厭戦的なものではありえなかった。そこには、「死者は尊敬されるべきであり、彼らが戦争において為したことは評価されるべきである[29]」ということが前提されている。

また、戦争記念碑に象徴されているのは、もちろんキリスト教の神観念を前提としているが、特定の宗派ではない神が練り上げられている。形態からいっても、セノタフや円柱タイプの記念碑にはエジプトやギリシアの影響が明白であり[30]、その一方、地方における戦争記念碑にはローマ以前のイギリス固有のものとされた「ケルト十字」や守護聖者、磔刑の「キリスト像」までもがみられる。ツー・ミニッツ・サイレンスにしても、植民地で始まった追悼儀礼に由来しているのである。

近代戦争という出来事は、国民国家という統合レヴェルがその前提となっており、そこでは宗派性を強調することはできない。そこでは神の観念は抽象化しており、それは、より一般的な、かつてロバート・ベラーが「市民宗教[31]」と呼んだような包摂的な神観念である。それがネーションとしての国家と結びついている。この抽象化された神観念は「国家の神」とでもいうべきものである。

英国における儀礼の形態、パレードなどは当初から周到に議論され決定されたものであり、そこでは宗教的であるよりもむしろ国家的であることが重視されている。これは現在ではより顕著なものになりつつある。戦没者追悼式は式典の原型自体は変わらないが、2000年紀を機に、ユダヤ教をはじめ各宗の聖職者の代表が正式に参加するようになった。これは現代イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの英連邦諸国において政策の基本として掲げられている多文化主義(マルチ・カルチュアリズム)が反映された変化である。

2000年11月12日の式典では、六千人の退役軍人(男女)、二千人の民間人がホース・ガード・ゲイトからセノタフへ到るパレードに参加したが、そのパレードには、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、ギリシア正教徒などの、英国国教会以外の信仰を持つ者たちが正式に参加するようになった。またムスリム、シーク、仏教、ギリシア正教のコミュニティの代表が正式に参列している。宗教的な多元性を露な形で認める方向に進んでいる。これは本国以外でも同様である[32]。

「はじめに死者がある[33]」という言葉があるが、ナショナリズムの一般化に対し、大規模な対外戦争のインパクトが先行する。ナショナリズムが死を正当化したのではなく、むしろ大ペストに次ぐ惨事といわれる大規模な死の経験がナショナリズムを練り上げていったのである。その際に伝統的、宗教的、民俗的、あるいは神智学や心霊主義などのオカルト的な知識までもが動員された。国家に殉じるという行為や遺族たちの経験は、社会的なフレーム、この場合には国家という新しく巨大なフレームに結び付けられ、集合的記憶に組み込まれていったのだと考えられる。その際の物質的な素材として戦争記念碑があったのである。ナショナリズムのもつ独自の強靭さはこうした伝統的・民俗的な知識と融合しているところにある。戦いの記憶、過去において存在した成員の大量死、こうした事実が集合的な記憶として形成されてきた過程を戦争記念碑にはみることができる。■

[1] 小関隆『徴兵制と良心的兵役拒否-イギリスの第一次大戦経験』人文書院、2010年。

[2] Wilkinson, A., “Changing English Attitudes to Death in the Two World Wars,” in, Jupp. P. C. and G. Howarth(eds.), The Changing Face of Death: Historical Accounts of Death and Disposal, Macmillan, 1997, p.149.

[3] Dumas, S. and Vedel-Petersen, K. O., Westergaard, H. ed., Losses of Life Caused by War, Clarendon Press, 1923.

[4] Tarlow, S. , Bereavement and Commemoration: An Archaeology of Mortality, Oxford: Blackwell, 1999, pp. 151–154. Tarlowは、全世代の人口が三分の一にまで減少したとすら述べている。また、立川昭二『病気の社会史―文明に探る病因』(日本放送出版協会、1971年)は次のように述べている。「一九一八-一九年の大流行は、かつての黒死病の惨禍を想起させるような大きな災厄をもたらした。/初発患者は一九一八年四月、第一次世界大戦のフランス戦線に発生した。この流行の第一波はたちまち連合軍の聞にひろがり、軍隊の移動にともない、アメリカ・イギリス・ドイツ・イタリアへ伝染した。同じ時期に、インド・ニュージーランド・南アフリカにも流行がみられた。そのご二カ月の合間をおいて、流行の第二波が到来し、それは世界中の軍隊や市民を襲い、地球上の住民の約半数が罹患したという。さいごの第三波は翌年の冬におこり、これまで免れていた地域を襲い、多くの人命を奪った。その伝染力はきわめて強く、潜伏期もひじように短く、ある日たった一人の患者しかいなかった連隊で、翌日は数百人の患者が発生するというほどであった。とくに二〇-四〇才代の働きざかりの人びとに重症者が多く、肺炎の合併症が死亡のおもな原因であった」(145–146頁)

[5] 歴史考古学者のジョナサン・トリッグ(Jonathan Trigg)によれば、戦争記念碑はコミュニティにおける記憶を保持する「風景」である。地方コミュニティに建設された戦争記念碑は「墓もなく、墓を訪問することもできない人々にとっては、死を悼むことを可能とするもの」であった。記念碑の建設は「大戦後のコミュニティの紐帯を再創造するもの」であり、碑に刻まれた戦没者の名前のリストは「戦死者を思い起こさせるのみならず、残された家族たちの名前をも想起させるもの」であると述べている。Trigg, J., Memory and Memorial: A Study of Official and Military Commemoration of the Dead, and Family and Community Memory in Essex and East London, in, Pollard, T. and Banks, I. (eds.), Scorched Earth: Studies in the Archaeology of Conflict, Brill, 2007, pp.295–315.

[6]山中弘「英国における宗教と国家的アイデンティティ」中野毅・飯田剛史・山中弘(編)『宗教とナショナリズム』世界思想社、1997年。

[7] 現在日本で行われている黙祷も英国における戦没者追悼式が起源となった。詳細については粟津賢太『記憶と追悼の宗教社会学-戦没者祭祀の成立と変容』北海道大学出版会、2017年 を参照。また、現在、日本の黙祷に関するその後の研究をまとめ出版を準備している。

[8] ‘Cenotaph’, Encyclopaedia Britannica.

[9] ‘Sir Edwin Lutyens’, Encyclopaedia Britannica.

[10] King, A., Memorials of the Great War in Britain: The Symbolism and Politics of Remembrance, BERG, 1998.

[11] Gregory, A., The Silence of Memory: Armistice Day 1919–1946, BERG, 1994.

[12] 以下の記述についてはDavid W. Lloyd, Battlefield Tourism: Pilgrimage and the Commemoration of the Great War in Britain, Australia and Canada1919-1939, Berg, 1998.およびAdrian Gregory, The Silence of Memory: Armistice Day 1919-1946, Berg, 1994.に拠った。英連邦戦争墓地に関しては、G. Kingsley and Edwin Gibson, Courage Remembered, HMSO, 1995.および同会発行のリーフレットThe Commonwealth War Graves Commission, THE WAR DEAD OF THE COMMONWEALTH: YOKOHAMA WAR CEMETERY YOKOHAMA CREMATION MEMORIAL JAPAN, 2000.などに拠った。日本語として参照できるものとしては、中村伊作『悼惜之碑:欧州戦没将兵墓地を訪ねて』中央公論事業出版、1984四年。および、郷友総合研究所英霊の慰霊顕彰研究委員会「英霊の慰霊顕彰に関する調査報告」郷友総合研究所『日本の安全と平和』社団法人日本郷友連盟、1998年が数少ない例である。

[13] 資料は未確認であるが、ジョッフル元帥は大正期に来日しており、1922(大正11)年1月22日に靖国神社に参拝したという記録があるという。『靖國神社外国人参拝記録』(未確認)。

[14] この禁止にもかかわらず、社会的に権力を持つ者は肉親の遺体を取り戻していた。例えばグラッドストーン元首相は孫の遺体を発掘させ、本国へ送還させている。中村伊作、前掲書。

[15] Alex King, Memorials of The Great War: The Symbolism and Politics of Remembrance, Berg, 1998.

[16] Garvin Stamp, Introduction, in., John Garfield, The Fallen: A photographic journey through the war cemeteries and memorials of the Great War, 1914-18, Leo Cooper, 1990.およびJohn Harris and Gavin Stamp, Silent cities: an Exhibition of the Memorial and Cemetery Architecture of the Great War, RIBA Heinz Gallery, 1997. ただし後者は次のインターネットサイトから得た。The latter paper is cited from internet on 13, Sept. 2005, Veterans Agency, http://www.veteransagency.mod.uk/textonly/remembrance/commonwealth.htm, This file modified on 09, January 2004.

[17] 新見宏訳「ベン・シラ シラの子イエスの知恵」関根正雄(編)『旧約聖書外典(上)』講談社文芸文庫、1998年、pp.240–243。

[18] 橋本槇矩「解説」、ラドヤード・キップリング『キプリング短編集』橋本槇矩編訳、岩波文庫、1995年。

[19] ケープタウンにおける近年の研究によってかなり詳しい起源が分かるようになった。Joan C. Abrahams (Tannie Mossie), Cape Town’s WWI Mayor- Sir Harry Hands, 2015, https://tanniemossie.files.wordpress.com/2015/04/cape-town_s-wwi-mayor-sir-harry-hands.pdf access on 9 Nov. 2016.およびJoan C. Abrahams (Tannie Mossie), Time for Africa: A Two-Minute Silent Pause to Remember. 11:00 on the 11th day of the 11th month, November, This is devoted booklet (of 44 pages), Bloemfontein(South Africa): Oranie Printers, second edition, 2000.

[20] ‘Pause for Remembrance’, South Africa Yesterday, Reader’s Digest Association South Africa Limited, 1981. p. 299.

[21] Harrisburg Telegraph, 8 Jan 1919, Wed, Page 18,

[22] New-York Tribune, 8 Jan 1919, Wed

[23] The Decatur Daily Review, 8 Jan 1919, Wed, Page 10

[24] The Bismarck Tribune, 7 Jan 1919, Tue, First Edition

[25] Jeroen Geurst, Cemeteries of the Great War by Sir Edwin Lutyens, Rotterdam: OIO Publishers, 2010. pp. 28–35.

[26] Adrian Gregory, The Silence of Memory: Armistice Day 1919–1946, BERG, 1994.

[27] E. ホブズボウム・T. レンジャー (編)『創られた伝統』前川啓治他訳、紀伊国屋書店、1992年(Hobsbawm, E. and T. Ranger (eds.), Invention of Tradition, Cambridge University Press, 1992=1983)、13-14ページ。

[28] 若桑みどり『イメージの歴史』放送大学教育振興会、2000年122-143ページ。特にファシズム期に古代のカノンが利用されることについては258ページ以下で議論されている。

[29] King, op. cit.

[30] 英国における戦争記念碑をその形態から網羅的に分類しようとする試みとしては、次のものがある。Borg, A., War Memorials: From Antiquity to the Present, Leo Cooper, 1991.

[31]ロバート・ベラー『社会変革と宗教倫理』河合秀和訳、未来社、1973年(Robert N. Bellah, Beyond Belief: Essays on Religion in a Post-Traditionalist World, University of California Press, 1991=1970).

[32]井上順孝・島薗進(共編)『新しい追悼施設は必要か』ぺりかん社、2004年。

[33] ミシェル・ド・セルトー『文化の政治学』山田登世子訳、岩波書店、1990年。

図版出典:

Fig.01|戦没兵士追悼式の様子とセノタフ(ロンドン):Veterans from all Services march past the Cenotaph in London on Remembrance Sunday in 2010./Source: http://www.defenceimagery.mod.uk/fotoweb/fwbin/download.dll/45153802.jpg/Author: POA(Phot) Mez Merrill/Open Government License

Fig.02|セノタフの刻銘:‘The Glorious Dead’ inscription on the Cenotaph in London was chosen by Prime Minister Lloyd George when the monument was erected in 1920./Date: 11 November 2012, 09:42:52/Source: http://www.defenceimagery.mod.uk/fotoweb/fwbin/download.dll/45153802.jpg/Author: Sergeant Adrian Harlen/Open Government License

Fig.03|犠牲の十字とヘッドストーン:Commonwealth War Graves Commission ‘Cross of Sacrifice’ in Ypres Reservoir cemetery./Date:12 October 2008, 12:51:05/Source: https://www.flickr.com/photos/8265353@N05/3000759194 ss, Ypres Reservoir cemetery

Fig.04|追悼の石:Nederlands: Gedenksteen met de inscriptie: Their name liveth for evermore/English: Memorial stone with the inscription: Their name liveth for evermore/This is an image of a war memorial in the Netherlands, number: 722/Date: 24 April 2014, 12:51:00/Author: Gertjan Schutten/Source: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gedenksteen_-_Holten_Canadian_War_Cemetery.JPG

Fig.05|ミレー『晩鐘』:Jean-François Millet: The Angelus/Object type: painting/Date: from 1857 until 1859/Medium: oil on canvas/Source: Orsay Museum: online database: entry 345Joconde database: entry 000PE002013/https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jean-Fran%C3%A7ois_Millet_(II)_001.jpg

Fig.06|エドウィン・ラティンズ: Image from page 5 of Lutyens houses and gardens (1921)./Date 1921/Source: https://www.flickr.com/photos/internetarchivebookimages/14740830006/

Author: Internet Archive Book Images

Fig.07|アニー・ベサント:Annie Besant, half-length portrait, seated, facing slightly right, clad in the style of the Aesthetic Dress movement./Date: circa 1897/Source: https://www.loc.gov/pictures/item/91786293/

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粟津賢太
建築討論

あわづ・けんた/1965年生まれ。1997–98年英国エセックス大学社会学部大学院留学。1999年創価大学大学院博士課程単位取得。博士(社会学)。国立歴史民俗博物館、南山大学宗教文化研究所を経て、現在、上智大学グリーフケア研究所研究員。著書『記憶と追悼の宗教社会学―戦没者祭祀の成立と変容』(北大出版会)など。