終了のしかたと批判的工学主義

[ 201811 特集:建築批評 藤村龍至/RFA《すばる保育園》]/ How to end and Critical Engneering-ism

土居義岳
建築討論
14 min readOct 31, 2018

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作品性

藤村龍至のすばる保育園が建設された状況ではなく、その作品そのものを論じるという。しかし作品性というように一般化してみると、すでに高度な建築論になってしまう。

建物の魅力はすぐわかる。敷地は鎮守の森のとなり、市街地のエッジ。低層ゆえにドーム状のシェル構造屋根がほどよいアクセントとなり、さらに遠くの山なみを借景として、溶け込んでいる。遊戯ホールからは広々とした水田がみわたせる。

建築的にすこし踏み込んでみれば、保育園とはいえ多様な要素からなっていることがわかる。ふたつの庭、ふたつのカーブ、屋根は平板とドーム状とのシームレスなつながり、段状のテラスはいくつかのランニング・レーンに分節されたもの。そこには運動や移動がインプットされている。庇に切り取られた空のシルエットは歩くにつれて変化してゆく。ホールの段を登れば、大人なら水田と山なみの風景が変化してゆくし、子供なら登りきったところで風景があらわれる。そして全体はひとつの連続体として推敲されながら、部分が自律しようとしている、そのようなかすかな緊張感が、やわらかい形態のなかにうかがえる。身体のある特定の筋肉が鍛えられ膨張しつつも、全身のバランスはそこなわれないかのように。

終了のしかた

子供は大人にくらべるとより動物に近いかもしれない。子供に運動させる、とくに走らせることをベースにしているという園長先生に、子供が気持ちよく走れる距離について理論はあるかどうか聞いてみた。大人なら無酸素運動でいっきに全速力で走れる限界が180メートルだそうである。古代ギリシア都市のギムナジウムの屋外トラックはその寸法になっている。都市史にときどきでてくる逸話である。ところが子供には特段の数値はないそうである。子供は身体に負荷がかかってくれば自然に走らなくなる。彼らはすきなだけ走り、すきなときに止まる。そこから考えたのだが、目標やノルマなどという概念はすくなくとも5歳児まではないのであろう。疲れをしらない子供のようにという比喩があった。正確にいえば大人のアルゴリズムは「疲れ→終了」という段階論である。すると疲れているにもかかわらず走り続けるという時間帯がゼロではないはずだ。ところが子供は「満足=終了」という同時論なのかもしれない。だから疲れない。終わることのアルゴリズムが大人とは違う。いわば大人は計画にしたがい、子供は計画がない。だから抑圧もない。

そもそも作品性とは、つきつめれば終わりかたのことである。制作はプロセスであり、完成はその終了である。かつてメタボリズムは永遠の未完成をもって完成概念を消去した。磯崎新はプロセスは終わりなきものであり、ある外力が強制終了をもたらすことを切断だといった。宇佐美圭司は未完成の完成という逆説を語った。藤村龍至は、なにをもって終わりとするのであろうか。動物的な子供たちのように、身体の奥から発せられる声をきいて満足とともに自然に走りをやめる、そのような内なる十全さ、満ち足りること、などというものが建築にはあるのだろうか。

バージョンアップ論

自動車やソフトウェアなどは世代間の互換性を担保しながらバージョンアップされてゆく。すでに社会はこの方式になれているので、それが参加型の建築設計にとりいれられるのは自然である。藤村の「ジャンプしない、枝分かれしない、後戻りしない」とはそういう方法論である。

とはいえ建築は、ひとつの設計プロセスのなかに、この改訂行為を幾重にもおりこむのだから、自動車よりも高次なのかもしれない。したがって写真では20コマからなるバージョンアップの過程が示されている。最初のL字平面が最終的にはふたつの円弧となる。ひとつの連続体のなかに、その連続性を保ちながら、管理室やドーム空間という魅力的な屈曲点がすりこまれる。雑音、突然変異、恣意などといったものがシステムのなかに組み込まれる。よくできたシステムは初期の条件や設定にあくまでこだわることもない。途中から参入してくる新たな与件をとりいれて、みずからをバージョンアップしてゆく。課題そのものが自己更新してもいい。こうして連続体が敷地のコーナーで屈曲することにより、最初の両流屋根の折れが、RCシェルの合理性や利用者の希望などとともにドームとして結果する。ドームはシンボル性をもたらす。ゆるやかなドームは部分でありながら自律し、水田のひたすらな水平性のなかで、景観と共振しつつも、そのなかの特異点となる。

プレゼンテーションのしかたとして、各バージョンは、年齢区分、教育方針、景観、郷土意識といった重要アイテムと相関して特徴づけられうるはずである。だから形態の提示とともに、それら概念がステップごとに示されれば、各段階が固有の意味をもちつつ連続的に変容してゆくさまがわかるであろう。するとたんに手続きであったとおもわれた段階的設計がひとつのタイムスケープとして作品化できるのかもしれない。「タイムスケープ」なる用語を調べると1980年のSF映画のタイトルや、2015年の建築展(http://a-plus-e.blogspot.com/2015/07/timescape.html)などが用例としてあるだけで、とくに厳密には定義づけられていないようである。その可能性を考えてみるによい機会かもしれない。ちょうどデステイルの造形にとりアクソノメトリックがふさわしいように、藤村がバージョン・アップ式プレゼを選ぶのはプロセス論が下地にあるからである。

系譜としての工学主義

藤村はこのバージン・アップ図式により批判的工学主義を説明している。この概念は東浩紀の動物化/工学化をベースにしている。人間と構築環境がデータを媒介として相互作用をおよぼしあう。人間は欲望のままの生きているようだが、その挙動の痕跡をデータとして残す。環境はそのデータベースを分析し、それにもとづいてみずから変容し自己構築し、そして人間に働きかける。

ところがこの工学主義という概念を使うと、ここ2世紀ほどの建築の歴史が整理できる。たとえば近代において建築はどう教育されてきたか。産業革命以降のこととして、フランスでは美術学校で、ドイツでは工科大学で、アメリカや日本では大学においてであった。ボザール型(アトリエ式)、ポリテクニク型、ユニバーシティ型などと類型化もできるであろう。ところが美術教育的な枠組みがつい最近まであったフランスでさえ、19世紀初頭にはエコール・ポリテクニクの教授デュランが工学化した建築を教えはじめた。新古典主義建築をすべてグリッドプランに変換し、建築において求められるのは美ではなく有用性と経済性だとした。ドイツはその路線を継承した。アメリカでは最初は反動的にも美術教育路線であった。しかしベルリン工科大学出身者のなかにタウトなどがいたことを回顧すれば、近代2世紀における建築はつねに工学化を自問自答してきたのかもしれない。もちろん近年では芸術と工学の差は小さくなってきている。数学を基礎として社会に有用な実践的方法論を構築するのは「工学」とするなどの、一般的とはいえしごく曖昧な定義はとくになにももたらさない。

19世紀的な工学主義を代表するのはゼンパーである。一般的には建築芸術論が19世紀の主流であったと思われている。建築とは「様式」のことであった。しかしそれは芸術論的なようで、じつは工学的であった。ゼンパーは『様式論』などのなかで、織物、冶金、石工、大工などの工芸のなかから様式が成長するという図式を考えていた。まず工学があり、それが芸術を生む。19世紀中葉、イギリスの博物館や博覧会はまさに工芸を軸にしていたし、工芸が産業の軸であった。だからゼンパーは同時代枠組を把握しつつ、それが建築にどう統合されるかを考えていた。それは20世紀において工場における大量生産が、21世紀初頭において情報が軸になるのとまったく同じであった。そういう意味で彼は、プロセスにおいてまったく工学的であり、最終アウトプットにおいて芸術的であった。であるからこそ20世紀初頭において、彼は工学的、唯物論的すぎ、芸術性が不足していると批判されたのである。しかし実際は、工学と芸術をしっかりと統合していたのだし、それこそが諸分野の組立て=アーキテククチュアであり、建築と呼びうるのである。

このゼンパー的19世紀的な工学主義は20世紀初頭にひどく批判され、乗りこえられた。まずアロイス・リーグルの芸術意志論という観念論が唯物論をたたきのめす。いっぽう唯物論的な陣営においても工芸から機械生産というパラダイム・シフトがおこり、ゼンパー理論はいわば不当に否定されてしまう。

藤村は20世紀初頭のル・コルビュジエやグロピウスなどをもって批判的工学主義とし、みずからを継承者とする。ゼンパーを前史とすれば、ゼンパー、ル・コルビュジエ、藤村はバージョン1.0、2.0、3.0ということになる。ただこうしたラベル貼りは概念の遊戯に堕してしまいそうである。重要なのは近代の歴史は、当事者たちがそう自己規定したように、過去からの断絶と再創造であったというより、むしろ継承しつつバージョンを更新するということではなかったか、ということである。こうして藤村理論は建築史研究にもひとつのアイディアを提供するのであろう。

現代的な共創という観点から再読して甦るのは、たとえばニコラウス・ペヴスナーが『新版ヨーロッパ建築史序説』第9章で指摘しているような、1930年代の合理主義建築の背景としての、施主や設計組織の委員会化である。大ブルジョワが特権的な天才アーキテクトに設計を依頼するという個人対個人のシステムは19世紀の話であった。20世紀にはいると発注も受注も組織であり、プロセスは共創的なものになっていた。だからこそグロピウスは戦後ハーバードにおいて「TAC」すなわちコラボする建築家たちの集団として組織設計事務所的なものをめざした。中井正一は「委員会の論理」のなかでおもに映画製作を念頭において共創的なものをめざしたのもこの流れであろう。強引にこじつければ丹下健三は天才型建築家を演じながら、いわゆる丹下シューレは共創の組織なのであった。

日本において特殊なのは、1960年代あたりにいわば官製の工学主義なるものがあったということである。これは藤村自身が社会工学科出身ということもあり、1960年代日本における大学政策を思い出したものである。すなわち団塊の世代による18歳人口の爆発的な急増、大学進学率の3%から50%超への急上昇、国や地域を経営する官僚機構を下支えする高度な技術者育成の必要性などといった状況から、政府文部省は「なんとか工学」という方策を考えた。それが社会工学、経営工学、都市工学、芸術工学などを冠する学科の新設である。すなわち戦前型の純粋学問のそれぞれの定員をふやすのではなく、それら純粋学問を課題解決型にアレンジするのである。そしてそれぞれを工学化することで国家や地域の建設に役に立つ人材を大量供給しようと考えたのであった。

システム工学と批判的工学主義

他方で官製工学主義に対抗する建築家の工学主義があった。私見によれば、内田祥哉のビルディング・エレメント論、原広司の『建築に何が可能か』(1967)以来の「有孔体」理論、西原清之の『空間のシステムデザイン』(1973)などである。内田の理論は、建築構法という新ジャンルを構築するものであったが、じつは近世以来の大工技術体系における「体系性」を、工業生産時代においてバージョン・アップするものであった。さらにそこにおいて内田自身はあくまで建築家としてその工学をより俯瞰的にマニピュレートする立場を貫いた。ところが原は、その工学主義を本来は文化人類学的なものである集落調査に応用して、工業生産のパラダイムからは遠ざかり、しかしそれでも建築家として工学主義的なものを統合する立場に固執する。ところが内田と原とが大学研究室のパラダイムとなると、その研究の側面がいわば自律してしまい、建築家がその上位にいるということがおろそかになりがちである。ありていにいうと自己目的化した学問になってしまう。批判的工学主義の意義は、ふたたび上位の建築家のもとでリセットされるのである。

そうしたなかで、今日忘却された感のある西原清之は、システム工学を建築に適用することで、きわめて純粋に工学主義を確立しようとした。その立論はラディカルすぎて先行的すぎて、建築界にはっきりした痕跡を残さなかった。当時はまだ参加やワークショップが社会のなかに提示されていなかった。社会学における常識ではあるが、1970年代における公害訴訟をモデルとする市民運動が、そののちの参加型方法論となり、80年代にクリストファー・アレグザンダーの理論と実践がよりひろく示され、やっと90年代にアメリカ的なワークショップの方法論が導入された。ただそれがドライにとらえられず、イデオロギー注入型になると、一部の人びとにはウェットなものになりがちである。西原の方法論にはもうすこしドライなもので中和する効用があろう。彼は21世紀のAI時代における建築を予見していた。

バージョン・アップと4次元

原、西原、藤村らはある単純な基体がさまざまな要素を吸収しながら複雑化し発展して、建築へと生成してゆくというシナリを共有している。原は有孔体のなかで完全に閉ざされた密室のような空間を出発点としている。西原も「完全閉鎖系」にさまざまな扉や窓をあけてゆき、個を組織して空間系を成長させるという方法論を考えていた。ジル・ドゥルーズの哲学において単細胞である卵(らん)がさまざまに細胞分裂して成体になってゆくという図式がベースにあるという説明がある。藤村が考えている「連続体」はこれに近いものであろう。

西原と藤村のリンクを若干のべれば、システム工学における創発性の基礎概念ではある演繹、帰納、転挿(abduction)である。西原は、意外性のある創発的な関連づけの謂である「転挿」を重視し、藤村は「帰納」にいちばん期待している。ステップ・バイ・ステップということであろうか。それにしても建築が錯綜した要素からなるシステムであれば、設計はそれを創造する「システムをつくるシステム」(西原)であり「工学主義」(藤村)である。あるいはひとつのメタ・システム思想が共創からAIへの段階に進もうとしているのであろうか。すると建設された具体的な建物という複雑な要素からなる「システム」があり、そのシステムを設計してきたシステムすなわち「システムをつくるシステム」という二つの次元があることになる。ここから「システム」は諸バージョンのうちのひとつとなり、変容してゆく時間軸の多様体のひとつの断面となる。そうすると作品とは全体としてすぐれて4次元的な存在となる。だからこの小論では、藤村の批判的方法論により建築は4次元化されてしまったので、作品性は意味の変容をきたしてしまったと指摘するにとどめよう。パラダイムが更新されたということで本格的な批評はとりあえず先送りされてよかろう。

そのかわり比較論を試みるとすれば、設計プロセスのフローを図示などするなかで、西原はいわば「事前のアルゴリズム」を入念に設定するタイプであり、プロセス参加者たちが迷子にならないように道をはっきり描こうとする。とはいえそれは目標、義務、ノルマを課すことであり、疲労に達していながらそれでも走り続けることを課すメカニズムになっている。しかし藤村の方法論はむしろ「事後のアルゴリズム」なのかもしれない。試行錯誤もあったかもしれない共創的な設計プロセスにおいて、完成時において回顧することで設計プロセス全体を、反省的にさらに編集的に意味づけ正当化しようとする。作品は過去ログをふくみ、重層的に表現される。それが彼のプレゼンテーションである。ここで子供の疾走にもどってみれば、事後のアルゴリズムとは参加者の意欲がすべて発揮されつくして、無理なく自然に走ることをやめる、自然終了を可能にするシステムとなりうる。それが動物的であるとするならば、人間的でないからよくない、ということにもならないであろう。

《すばる保育園》園庭を走る子供たち [photo Takumi Ota]

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土居義岳
建築討論

どい・よしたけ/1956年生まれ。九州大学大学院教授。建築史。フランス政府公認建築家。著書に『知覚と建築』(2018年度日本建築学会著作賞)『アカデミーと建築オーダー』(中央公論美術出版)、『言葉と建築』(建築技術社)、『建築と時間』(磯崎新との共著、岩波書店)など。訳書にラヴダン『パリ都市計画の歴史』(中央公論美術出