美しすぎる工場村

連載:連帯する個人:労働者・大衆の時代とその建築(その3)

Sumiko Ebara
建築討論
20 min readJun 24, 2023

--

首相の交代と女王の逝去

9月初頭はDOCOMOMO International の国際会議でスペインのヴァレンシアへ行ったのだが、9月10日夜、イギリスに帰国すると首相も国王も代わっていた。9月6日にリズ・トラス首相が就任し、8日に女王が逝去していた。

左:フェリックス・キャンデラのオセアノグラフィックのカフェ
右:サンチアゴ・カラトラヴァの建築群

家に着いたのは24時近く。テレビをつけると、カズオ・イシグロの『日の名残り』が放映されていた。ぼんやりと画面を見ていると、どうやら、イギリス貴族の「ダーリントン卿」が各国の名士たちを招いて対ドイツ政策を議論するために開催した会議のディナーのシーンのようだ。その会話で、ある紳士が

「ドイツじゃ労働者はストライキをやらないっていうじゃないですか。いや、間違っていたら訂正してください、ジェフリー卿。かの地ではあのばかげた労働組合を一掃して、みんな、粛々と働いているようですよ。あなたの支持者には労働党員がいると聞きましたが。」

とか言っている。「あれ、そんな会話あったっけ?」と思ったのだが、後日、小説を確認すると、やはり、このストライキに関する会話は原作にはなかった。

「ダーリントン卿」を彷彿させる人物として、ネヴィル・チェンバレンが挙げられる★1。彼は1938年のミュンヘン会議などドイツ宥和政策を進めたが、結局ドイツの増長を招いただけで1939年9月1日ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦の火蓋が切っておとされた。チェンバレンは1940年4月のノルウェー作戦を阻止することもできず、5月に首相を辞任。半年後の11月に亡くなった。

「ダーリントン卿」は第二次世界大戦後まで生き延びた設定だったが、さまざまな批判に直面し、名誉毀損を訴えるも失意のうちに亡くなる人物として描かれた。

なんとも残酷な小説である。時代を見誤った貴族。そして、主人の言動に疑問を持つことをせず、諾々と仕えてしまった執事の「スティーブンス」。悲哀を深めるのは、スティーブンスが、そうすることを自分の仕事の本分だと考えていたことだ。『日の名残り』に出てくる政治談義の好きな村人「ハリー・スミス」は自分の意思を持たず自ら判断できない人間には“威厳dignity”はないと断じ、それを守るためにこそ、自分たちはヒトラーと戦ったのだと述べる。守旧的な貴族にはもう任せられない。貴族の権威が失墜し、それに代わって専門家集団、そして意思を持った民衆が台頭する時代だった★2。彼らは貴族や資本家の“温情主義”には満足しない人々でもあった。

だが、本当に、貴族的温情主義はダメだったのだろうか?

そんな疑問を胸に、夏の終わりにリヴァプール近郊のポート・サンライト、バーミンガム近郊のボーンヴィル、ロバート・オーエンが建設したグラスゴー近郊のニュー・ラナークを訪れることにした。これらはいずれも“工場村”として知られる所である。

ポート・サンライト(Port Sunlight)

リヴァプールに向かったのは9月19日、エリザベス女王の葬儀の日だった。遅延もなく無事リヴァプール中央駅に到着してほっとするも、町はすっかり喪に服していた。カフェはおろかスーパー、売店も一つも開いていない。というか、葬儀をしている時間帯にうろうろ街を歩いていることも憚られるような沈鬱な雰囲気だった。

ホテルに荷物を置いて、街の中心を流れる大河マージー川を地下鉄で渡り、石鹸製造業を興したウィリアム・リーヴァが作ったポート・サンライトの駅に降り立つ。こちらも、完全に休業状態。しかし、天気は晴れ。散策には気持ちの良い季節だった。駅のすぐそばには、かわいらしいハーフティンバーのカフェがある(当然休業だが)。右手に進むと工場の建物がある。そして、工場の向かい側は1888年から労働者のために建てられた住宅群だ。ハーフティンバーや煉瓦造で、どれも少しずつデザインが違っており、二つとして同じものはなさそうだ。

ポート・サンライトの住宅群および工場

しばらく歩くと、小川があり、そこに架かる橋とその向こうの学校の建物の風景は、まるでおとぎの国のようだ。狐に摘まれたような気分になる。何かおかしくないか?労働者にこんな快適な住空間が与えられていたなんて信じられない。これはもしや、むしろ、とてつもなく不都合なことを隠蔽するための装置ではないか?!

橋と元学校の建物

だが、ポート・サンライトの工場主であるリーヴァ・ブラザーズ、その後、オランダのマーガリン・ユニと合併した後継会社のユニ・リーヴァ(ユニリーバ)について調べてみても、とくに悪いことは出てこない。むしろ、現在のユニリーバはネスレと並んでCSV(Creating Shared Value:共通価値の創造)の先駆的な企業だという。従業員は仕事を離れれば消費者/顧客になる。その大きな連環の中にいることを考えれば、労働力の搾取や粗悪品の供給は自社のためにもならない。公園のベンチにはイギリスではよくあるように、寄贈者の名前が刻まれたプレートが貼ってある。「この村での生活をこよなく愛した母の思い出に」との刻印からは、この村に住んだ人は、やむなくここに住まわされたのではなく、誇りと愛着を持ってこの村で暮らしたことが窺われた。

ボーンヴィル(Bournville)

翌日はバーミンガムに移動し、チョコレート製造業のキャドバリーの工場村ボーンヴィルを訪れた。1895年に建設が始まったこの村も美しい。A. W. N. ピュージン(1812–1852)が著書『対比 Contrasts』 (1836) の中に描いた中世の建物のような養老院もある。

左:ボーンヴィルの養老院
右:A. W. N.ピュージンの『対比』より 中世の救貧院の様子

ただ、ボーンヴィルは自社工場の従業員にのみ住宅を提供するのではなく、バーミンガム地域で働く、より良い住環境を求める堅実な労働者にも住宅を供給する事業を始め、早くも1900年には非営利のボーンヴィル村信託財団(The Bournville Village Trust)が設立された。村の中心部を離れたエリアには2階建の棟割長屋の、特段、良質ということもない住宅もある★3。だが、その玄関の装飾や出窓の色は各戸で異なっており、住み手の個性が感じられる。

Mary Vale Road 沿いの住宅

キャドバリー・チョコレートのイメージカラーである紫色が随所に使われているところは、やや押し付けがましく感じたし、クェーカーの教義からつい最近まで酒類販売が禁止されていたのには驚いた★4。だが、ボーンヴィルは、多様な社会層を受け入れることで、産業のトレンドにも柔軟に対応しつつ、生きた村としての魅力を保持しているように思われた。

左:ボーンヴィル駅入口
右:駅と並行して流れる運河

ニュー・ラナーク(New Lanark)

ニュー・ラナークは10月1日(土)に訪れた。この週末は鉄道のストライキで長距離移動の列車の運行はなかったが、エディンバラからラナークへの便は運行していたので訪問が叶った。ちなみに、この頃、ストライキは常態化しており、もう驚かなくなっていた。

駅から徒歩で20分ほど。かなり深い渓谷にその村はあった。ポート・サンライトもボーンヴィルも河川や運河の近くに立地しているが、水は動力源というよりは輸送のためのものであった。それに対し、ニュー・ラナークは落差を生かした水力で紡績機を運転していた。前日の大雨でクライド川の水量はすさまじく、轟音をたてて流れていた。

左:ニュー・ラナークの労働者の住居
右:クライド川

ポート・サンライトやボーンヴィルより約1世紀前、1786年にデイヴィッド・デイル(1739–1806)が創業し、娘婿のロバート・オーウェン(1771–1858)により、今でいうところの福利厚生の視点を持った経営がなされた。

しかし、さすがに1世紀の隔たりを感じさせられた。博物館には当時の労働者の住宅が展示されていたが、1つのベッドには10人もの子供が折り重なって寝たとのことであった。労働者の多くは子供であった★5。機械の間を縫って糸を継いだり不具合を直したりするのに小さい方が都合が良かったからである。これらの子供がいかに真面目に働いてくれるかは工場の生産性に大きく関わる。そうであればこそ、オーウェンは学校のみならず、幼稚園までつくり、子供たちに教育を施したのである。

左:体験学習用のベッド
右:元時計職人の監理人ウィリアム・ケリーが設計した時計(1年が4週×13月となっているのは週払いのためか。)

就業時間は朝6時から夜7時までの13時間であった。工場に掲げられた時計は、就業時間を機械の稼働時間と合わせるという考えのもと、工場の機械と同じ水力で動く水時計であった。渇水の夏期や水が凍結する冬季には水車の動きが鈍くなり、実質的な就業時間は長くなったらしい★6。工場にはサイレント・モニターという前日の就業実績を示す箱が設置されていた★7。びた一文、1分1秒たりとも無駄にはしない管理社会、冷徹な能力主義の世界である。

だが、ニュー・ラナークではデイルの時代から、工場が焼ける災難があったり、原料価格が高騰した時も、完全賃金を労働者に支払続けたという★8。管理/監視されてはいるけれども、安定した生活を人々は求めたのであろう。労働時間も1810年には10時間へと引き下げられ、1817年には8時間労働のスローガンが掲げられた。ニュー・ラナークの質実剛健な石造の建物からは、ポート・サンライトやボーンヴィルのような奇妙に明るい(甘ったるい)雰囲気は感じられなかった。

屋根裏の床は延焼防止のため鉄の板が張られている。

1824年、オーウェンはニュー・ラナークの経営から身を引き、新天地アメリカでニュー・ハーモニー村の建設に取り組んだ。トマス・ペイン(1737–1809)がアメリカに渡ったように、旧態依然としたイギリスでは事成し難しと感じたのだろう。しかし、その試みは短期間に終わり、1828年に再び母国に戻ってきた。その時、オーウェンは労働組合や協働組合といった労働者・大衆が自ら立ち上がって生活環境を改善する組織がすでにイギリスで生まれていることを知り、その伸長に力を尽くすことになった。オーウェンは温情主義・家父長主義的な福利厚生事業を導入したのみならず、自ら権利を勝ち取る労働者をも生み出したと言えよう★9。ここから、冒頭で紹介した『日の名残り』に出てくる政治談義好きな「ハリー・スミス」のような人たちが生まれて来るのだ。

誰にとっても自分ごと――生活環境の改善問題

急激な人口増加、劣悪な労働環境、衛生状態。思考を欠いた機械が暴走しているかのように、社会問題が日々深刻化の一途を辿ったのが19世紀、ヴィクトリア朝のイギリスであった。その問題解決にむけて、ありとあらゆる施策が試みられた。その際、各人の属する政治的党派や宗派はそれぞれ異なった。

本稿で取り上げた政治家・資本家の所属/支持政党および宗派

タイタス・ソルトは自由党国会議員で会衆派だったが、保守党で英国国教会のベンジャミン・ディズレーリの書いた『カニングスビー』★10や『シビル』★11に描かれた緑に囲まれた工場村に発想を得て、現在は世界遺産にもなっているソルテアを作ったと言われる。

ウィリアム・リーヴァーは自身も自由党国会議員を務め、自由党のウィリアム・グラッドストンの熱心な支持者だったが、リーヴァーはソルトと同じく会衆派だったのに対し、グラッドストンは英国国教会信者だった。

ポート・サンライトのグラッドストーン・ホール。元は男性用の会食、レクリエーション・ホール

キャドバリー一家はクェーカーで、創業者ジョンの次男ジョージは政界には進出しなかったが、同じバーミンガム出身で自由統一党を作ったジョゼフ・チェンバレン(ネヴィル・チェンバレンの父)の「社会帝国主義」には反対で、あのチャールズ・ディケンズが創刊したデイリー・ニューズ紙を買収して第二次ボーア戦争反対キャンペーンを張った。

後述のE. C. ギネスはカトリックの強いアイルランドでは少数派のプロテスタントで、かつ、これまたアイルランドでは主流とは言えないイギリスとの連合を支持するユニオニストだった。貴族院で議席を持った。

温情主義・家父長主義からの脱却

おそらく、こうした政治・経済・宗教界の混沌の中から、宗教や資本家の温情主義とも一定の距離をおき、科学に基づく労働者の社会が作られて来たのだろう。

だが、難しいのは、こと住宅地計画に関しては、それが必ずしも良い結果に結びつくとは限らないことだ。

オーウェルに批判されたレッチワース(Letchworth)とウェルウィン(Welwyn)

20世紀に入り、エベネザー・ハワード(1850–1928)の田園都市理論に基づき、フェビアン協会の会員であったレイモンド・アンウィン(1863–1940)が設計したレッチワースやウェルウィン(ウェリン)に対して、ジョージ・オーウェル(1903–1950)は批判的な眼差しを向けた。オーウェルはレッチワースからほど近いウォリントンに住んでいたことがあった★12。レッチワースでは独立労働党が夏季学校を開催するなどしていた。しかし、オーウェルは、社会主義運動につきまとっている変人・奇人の臭いを取り除くなら、おおいに有益だと述べた。

「せめてサンダルやうす黄緑色のシャツはまとめて燃やして菜食主義者、禁酒主義者、似非改革者などは全員ウェルウィン田園都市へでも送り込んで静かにヨガ体操でもさせておくことができるなら!」★13

建築史家L.ベネヴォロによれば、田園都市においては、規則は甚だしく詳細で、塀や植える木の種類のみならず、愛玩動物の飼育を制限、ポスターを貼ったり、始業終業のサイレン、教会や学校のベルを鳴らすことまで禁じられたという。ハワードはエドワード・ベラミー(1850–1890)の『顧みれば』に影響を受けたとのことで、その発想はユートピアを目指してはいるものの、管理社会的であり、ウィリアム・モリスが激しく拒否したものであった。その住人は無政府主義者や退職した聖職者、各種芸術家、文学者ら、一癖ありそうな人たちで、住民自らパブの開店を禁止する決定をしたそうだ★14。オーウェルが嫌った人種である。オーウェルの目には、その末路にレッチワースやウェルウィンどころではない、『1984』に描かれた全体主義的共産主義の世界が透けて見えたのだろう。

レッチワースの住宅地

ハワードの田園都市には“計画性”と“統一性”という異種の種が入っていた。本当は、それこそ、20世紀の“都市計画”が目指したところでもあったのだが、それが、ある種の“豊かさ”を削ぐものであったことに早くもオーウェルは気づいたのだ。

貴族の底力

そこで、最後に、改めて、貴族の底力を感じた場所を紹介したい。

一つは、ロンドン北郊、ウィリアム・リーヴァのハムステッドの邸宅が元となったヒル・パークである。リーヴァーは1904年にこの地所を手に入れ、小高い丘からの眺望を最大限に生かすために、煉瓦造のテラスとパーゴラを建造させた。リーヴァの死後、ここはインヴァーフォース男爵が買取り、さらにその死後1960年にロンドン・カウンティ・カウンシル(LCC)が引き取って1963年から市民に開放された★15。そのおとぎの国のような美しさは、ポート・サンライトにも通ずるところがある。

左:ヒル・パークのパーゴラ
右:リーヴァーのブルー・プラーク

もう一つは、ヒル・パークからもほど近いケンウッド・ハウス。この邸宅は、元はマンスフィールド伯爵が所有していたが、20世紀初頭には維持が難しくなった。「ケンウッド保存委員会」なる有志団体もできたが、広大な敷地を手に入れるのは難しかった。

そこに現れたのが黒ビールでおなじみの「ギネス」の社長エドワード・セシル・ギネス(1847–1927)であった。ギネスも開明的な資本家で、会社のお抱え医師のジョン・ラムスデン(1869–1944)は1905年にポート・サンライトやボーンヴィルを視察したようだが、工場村は作られなかった★16。しかし、ギネスは1890年にアイヴァー財団を設立し、アイルランドのみならずロンドンでも労働者のための低家賃住宅を供給しはじめた★17。彼は1891年にアイヴァー男爵に叙され、その後、子爵となり、1919年にはさらに伯爵に格上げされた。

ギネスによって建てられたロンドン西郊ハマースミス地域の労働者向け低家賃住宅

彼はケンウッドのそばに地所を所有しており、当初より値の下がったケンウッド・ハウスと残りの敷地を購入した。そして、1927年に没すると、フェルメールの絵画を含む自身のコレクションを国に寄贈した。現在はイングリッシュ・ヘリテージが管理しており、入場料は無料である。

ちなみに、オーウェルが資本家の温情主義をどう思っていたかは知らないが、自称“トーリー・アナキスト(保守・無政府主義)”のオーウェルのハムステッドの家(第一回連載参照)はこのすぐ近くだった。

ケンウッド・ハウスとフェルメールの『ギターを弾く女』

ノーブレス・オブリージュ

「ノーブレス・オブリージュ」は「高貴の身にはおのずから責任義務がともなう」という意味だが、近藤和彦はこれを「ジェントルマンはつらいよ」とでも意訳したくなる、と述べた★18。人間は機械と違って電気やガソリンでは動かない。喜怒哀楽やより良い生活への夢や憧れを持ち、生きがいを求める。貴族への叙爵とは、目先の損得を超えた公共精神 — -押し付けがましいくらいの温情 — -を名誉に絡めて促すものでもあったといえよう。その後、これを潔しとはしない市民が台頭して来るとはいえ、その成熟度は侮るべからずであった。

_

★1:近藤和彦『イギリス史10講』岩波新書, 2013, p. 273.は「ダーリントン卿」を連想させる人物としてネヴィル・チェンバレンを挙げている。
★2:大石和欣『家のイングランド』名古屋大学出版会, 2019,第5章6節「空洞化する「威厳」 — カズオ・イシグロの『日の名残り』」(pp. 267–275)は、同小説を貴族とカントリー・ハウスが外交・政治・経済において覇権を失って行く様子を描いた作品として分析している。
★3:石田頼房「19世紀イギリスの工業村−田園都市理論の先駆け・実験場としての工業村:三つの典型例―」『総合都市研究』第42号1991. p. 140. によれば、1929年から31年には、the ten-shilling housesと呼ばれる低家賃賃貸住宅も建設された。
★4:Independent紙 2015年10月2日付“Bournville: Trying to get a drink in the village where alcohol has been banned for 120 years” https://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/bournville-trying-to-get-a-drink-in-the-village-where-alcohol-has-been-banned-for-120-years-a6677551.html (2023年6月19日閲覧)
★5:ニューラナーク保存財団『ニューラナーク物語』, p. 4. によれば、1793年における従業員1157名のうち成人は362人で、残り800名近くが子供であった。
★6:AnnieBScotland, https://www.blipfoto.com/entry/2367948(2023年6月14日閲覧)
★7:前出『ニューラナーク物語』p. 16–17
★8:同上, p. 13
★9:工業村の家父長的管理の側面については平尾毅「19世紀英国における工場村の変遷」『商経論叢』 53 (4), 2018 参照。
★10:Benjamin Disraeli (1844), “Coningsby”, Book 4, Chapter 3.
★11:Benjamin Disraeli (1845), “Sybil, or The Two Nations”, Book 3, Chapter 8.
★12:ウォリントンでのオーウェルの暮らしぶりについてはレベッカ・ソルニット著、川端康雄・ハーン小路恭子訳『オーウェルの薔薇』参照。
★13:ジョージ・オーウェル著・土屋宏之, 上野勇訳『ウィガン波止場への道』筑摩書房, 2016.
★14:レオナルド・ベネヴォロ著, 武藤章訳『近代建築の歴史』, 鹿島出版会, 2004, 上巻 pp. 381–389.
★15:“The History Of Hampstead’s Hidden Hill Garden and Pergola” Living London History, https://livinglondonhistory.com/the-history-of-hampsteads-hidden-hill-garden-and-pergola/ (2023年6月9日閲覧)
★16:スティーブン・マンスフィールド著、おおしまゆたか訳『ギネスの哲学 — 地域を愛し、世界から愛される企業の250年』英治出版, 2012, pp. 187–194.
★17:The Iveagh Trust, https://www.theiveaghtrust.ie (2023年6月9日閲覧) アイヴァー・トラストは現在も1640棟の住宅を管理している。
★18:近藤和彦『イギリス史10講』岩波新書, 2013, p. 221.

--

--

Sumiko Ebara
建築討論

えばら・すみこ/建築史・建築保存論。千葉大学大学院工学研究院准教授。著書『身近なところからはじめる建築保存』、『原爆ドームー物産陳列館から広島平和記念碑へ』