能作文徳著『野生のエディフィス』

空を見上げ、大地に触れる(評者:林憲吾)

林憲吾
建築討論
Feb 3, 2022

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能作文徳の思想と建築が凝縮された書籍である。本書に限らず雑誌やウェブサイトを繰りながら、私はこれまで何度も能作さんの作品を目にしてきたが、なかでも目を奪われたものが二つある。一つが屋根にこだわった建築、もう一つが基礎にこだわった建築である。

本書で「屋根の移動」と題されたテキストで紹介される《高岡のゲストハウス》は、築40年の木造家屋の屋根を丸ごと継承した建物である。柱から小屋組を切り離し、クレーン車で吊り上げて地面に降ろし、それを今度は新たな軸組に載せる。その意図は、マテリアルの循環的利用や地域の風景を歴史的に織り成してきた瓦屋根の継承などにあるが、そんな思想すら超えて、屋根が宙を舞うまさにその瞬間の写真には誰もが目を奪われよう。「屋根が空中に浮いた様子を想像するだけで心躍るようだった」と本書で著者が述べるように、その光景は建設プロセス最大の見せ場、上棟以上の上棟であったろう。王位を継承する戴冠のようですらある。屋根を引き継ぐ行為自体が「継承の儀」とでも呼びたくなるような儀式や祝祭に見事になっている。リノベーションが近年は隆盛しているが、古い家はしばしばマテリアルに還元され、それにこびり付いた歴史やら記憶を積極的に引き受けたものはそう多くはない。しかし、この屋根の移動には、そのスペクタクルさゆえに、重みある家の歴史ごと継承した感があり、好感を持った。

《高岡のゲストハウス》(2016)

もう一つは近作《明野の高床》である。本書では「地球のための基礎」と題されたテキストが付く。最近の著者の関心の一つは土壌、いや、正確には生き埋めにされてきた土壌と言うべきか。人類は寝床にたいてい乾きを求め、湿気を嫌う。だから日本の湿った気候では床を持ち上げ、基礎には石を敷いてきた。その石がコンクリートに代わり、さらに地面までコンクリートで蓋をしたベタ基礎が生まれる。だが、そんな基礎の進化は土壌にとっては息苦しくなるばかりだと著者は指摘する。生活の快適性と引き換えに、われわれは土壌を疎外してきたともいえよう。では、生き埋めの運命にある土壌を解放するにはどうすればよいか。その問いに、鉄製の独立基礎を開発して応えたのがこの作品である。建築の足元に目を向け、地味ながら強固な存在である基礎から建築を一変させたところに、もちろん私は目を奪われたのだが、それとは別に「何だか、担げそう…」とも思ったのだ。インドネシアの民族建築を研究したロクサーナ・ウォータソンの『生きている住まい』(学芸出版社、1997)の表紙は、集落の共同体が高床式住宅を担いで歩く様子からなる。彼らにとって家はそうしてでも引き継ぐものである。土壌の負担を小さくして、解体後に健全な大地に容易に戻せるよう設計されたこの高床の佇まいに、その表紙が思い出されたのだ。実際担がないにしても、三角コーンのような基礎を移動させ、そこにまた躯体を載せる保存だってあり得そうだ。例えば、100年後にこの建物に解体の危機が迫ったら民家園に移築するのもわるくないなとか、あるいは建物がなくなっても、どこかの家に基礎だけ再利用されていて、それを偶然歴史家が発見する。そんなことが起こり得るかもしれないとすら想像させた。解体を見越して軽々と撤去できる設計が、逆にしぶとくこの建築が残るかもしれないとすら考えさせられ、こちらも好感を持った。

《明野の高床》(2021)

これら二つの作品の個人評からはじめたのは、本書の主軸が太陽と土であり、能作さんは空を見上げ、大地に触れる建築家だと本書を読みながらつくづく思ったからだ。ただし、こんな陳腐な表現で誤解されてはいけないので断っておくが、著者は理論派である。社会学、人類学、生態学など他分野への造詣も深い。循環・事物連環・資源へのアクセシビリティ・生態系・分解可能な建材など。人間が地球よりも大きくなってしまった人新世にあって、私たちは、地球上のさまざまな生物や無生物との関係を適切に結び直さなければならない。それを見据えて建築を考えている急先鋒である。だが同時に、暮らすことと建築することが、これほど一体になっている建築家もそう多くはないと思うのだ。自邸《西大井のあな》はその象徴だし、例えば、駐車場のコンクリートを剥がしてトマトを育てたり、ソーラークッキングカートを製作してラタトゥイユを作ったりもする。そんな暮らしと遊びと建築がない交ぜになった行為には、当然、土の状態を確認したり、太陽の行方を追うことが伴う。見上げたり、しゃがんだり、身の回りの事物と対話する幅広い振る舞いを、そうした日常的実践をとおしてこの建築家は身につけてきたのではないか。だからこそ、建築の幅もどんどんと広がっていく。本書からそう痛感した。

ただ、本書で一点気になったのは、巷のサステイナビリティの動きと、自身の考えをやや対比的に置きすぎていないかという点だ。前者が既存システムの延命にすぎない、という指摘はもちろん頷けるのだが、それでも地球という他者へのケアが、社会の前提として根づきつつあるのも事実である。例えば、建設分野でも、表面上、建っているものは同じように見えて、その裏で動くリサイクルの仕組みは随分進化している。つまり、システムや技術は変化しているのに、最も表面にある暮らしがなぜか据え置かれている。それが問題の根幹ではないだろうか。昨年、真鍋淑郎がノーベル賞を受賞したことが象徴するように、ここ十数年の地球環境への危機感の高まりは、地球システムのシミュレーションやプラネタリー・バウンダリー(地球の限界)のような閾値の設定が科学的に精緻化したことも要因の一つだ。つまり、地球システムの健全さのボーダーが、わからないなりにもそれなりに説得力をもって社会の制約になりつつある。だから数値目標も追わされる。そんな数値を追う私たちも、コンポストで植物を育てる私たちも、本書の表現を模すなら多かれ少なかれ「地球システム人間」である。でも、そこに分断がある。だからこそ、その制約をある種の愉しみとする本書のような建築がもっと必要なのではないだろうか。

ところで、最後に一つ補足を。本書刊行の後に発表された著者の設計案に《身の丈の部屋》 がある。本書に詰まったさまざまな思想が凝縮された作品で、愛らしいフォルムと相まってこの作品も私は好きだ。 TOTO通信の企画に応えたものだから、LIXIL出版の本書の書評には場違いかもしれないが、本書と一緒にそちらの作品もご覧いただくのをおすすめする。

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書誌
著者:能作文徳
書名:現代建築家コンセプト・シリーズ29「野生のエディフィス」
出版社:LIXIL出版
出版年月:2021年2月

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林憲吾
建築討論

はやし・けんご/1980年兵庫県生まれ。アジア建築・都市史。東京大学生産技術研究所准教授。博士(工学)。インドネシアを中心に近現代建築・都市史やメガシティ研究に従事。著書に『スプロール化するメガシティ』(共編著、東京大学出版会、2017)、『衝突と変奏のジャスティス』(共著、青弓社、2016)ほか