船尾修『満洲国の近代建築遺産』

インデックスとしての実像(評者:包慕萍)

包慕萍
建築討論
Jun 1, 2023

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今年の土門拳賞を受賞した写真集『満洲国の近代建築遺産』により、大衆が忘れかけている満洲が久々に話題になった。満洲の近代建築の踏査に青春を費やした私は、まず、写真家の船尾さんがどこまで足を踏み入れたのかを目次で確認した。

近代満洲の核心的都市を南から北へ順番に挙げると、旅順、大連、瀋陽、長春、ハルビン。この5つの都市を外すことはもちろんないが、本写真集の特異な点は、地方都市を24つも扱っていることだ。通常、特徴に乏しいと目される地方都市に写真家はまず行かない。しかし、船尾さんは満洲★1のみならず、満洲国に含まれていた現在の内モンゴル自治区のウランホト★2やハイラルまで足を延ばしていた。よって、本書は、満洲国の隅々まで網羅された建物の写真を収めており、満洲国の実像を再確認する上で希少な写真集であることを冒頭に述べておきたい。

374枚の写真を全て見終わったところ、ダムや大橋などの土木遺産や軍事要塞以外は、私も調査した建物であった。しかし、同じ建物を撮るにしても、撮影する角度が違う。まず、表紙を飾っている国務院(内閣)の写真を見てみよう。船尾さんは建物から遠く離れて撮っていた。そのため水平に近い視角で、写真はより立面的だ。それゆえに、設計者の石井達郎がファサードのプロポーションで拘っていた美しさがダイレクトに伝わってくる。当時、石井は北京の紫禁城、現・瀋陽故宮、及び日本の国会議事堂を参考にした。それには、紫禁城や奉天宮殿(瀋陽故宮)を実測した伊東忠太の研究が役立ったであろう。

この写真には、もう一つ注目すべきポイントがある。それは国務院の敷地を囲む塀の正門、すなわち石造の門闕も写真に取り込んでいることである。この小さい門は、石井が悩んだことを物語っている。つまり、近代的な鉄筋コンクリート造の躯体で、いかに満洲(中国)風の意匠を表現するのかが、満洲国の官庁建築設計者の共通の悩みであった。この難題に、石井は関野貞の中国石造建築の研究を手かかりにヒントを得たに違いない。なぜなら、その当時の門闕に限っては、立面設計の検討に堪えうる精密な実測図は、関野貞の研究でしか出ていなかったからだ。中国人が自ら創った中国建築史を研究する学術組織の「中国営造学社」は、1930年2月に創立され、四川にある漢代石闕の調査は1938年であった。これは国務院が竣工して2年後のことで、伊東や関野といった建築史家の研究の蓄積の上に石井の設計があった史実は、船尾さんのこの一枚の写真からも窺える。

国務院の外観を私は進化主義的と評したいが、残念なのは、内部が普通の中廊下式平面であることだ。一方、モダニストの牧野正巳が設計した合同法院を訪れた時の衝撃を私はいまでも忘れられない。それは、重厚な外観とは裏腹に、内部に入るとトップライトから燦燦と光が差し込む、真っ白で軽やかな、モダンな4階高の吹き抜けホールが目の前に現れたことだ。まさに、牧野正巳のモダニストとしての心を内包しているかのような意外な展開だった。外観のお城のような建物からは想像もできなかった。よって、私は、満洲国建築の代表作として、まず、牧野正巳の合同法院を推したいのだが、撮影の都合であろうか、船尾さんは合同法院の内部写真を収めていない。

実は、2010年から2014年まで、東京大学藤森照信研究室の30年におよぶアジア近代建築悉皆調査の成果の一部として、私は写真家の増田彰久さんと共に、マカオからハルビン、上海から貴陽までの近代建築を撮るために中国を縦横した。その時、私は近代建築の通史を描く意図で、撮影対象を選んでいた。例えば、満洲国官庁街の建物は撮るが、建築史的観点から特に語ることがない警察学校を排除した。建築様式の変遷やデザイン思想を読み解くという目的でフィルターにかけていた。

一方、船尾さんは、建築史の価値観で取捨選択するのではなく、過去の時間と目の前に繰り広げられている人間模様が積み重なった時空をありのままに撮ると言う。この撮影ポリシーが、本写真集に唯一無二の存在価値を与えている。歴史を記録する観点から言えば、例えば、満鉄及び後の満洲国は建築設計の標準化を推進していたが、集合住宅では、南の港町の営口、東端の牡丹江、さらに大都市の瀋陽などから、それを確認することができる。つまり、広大な満洲を支配するために、辺鄙な町や技術者が不足する町でも、建物の基本的機能を満たし、いち早く建設できる設計の標準化政策を隅々にまで行き渡らせていたことがこの写真集には記録されている。そして、もう一つ独自な視点は、「今」を切り落さないことである。大連の中山広場(大広場)の鳥瞰写真を見よう。旧満鉄大和ホテルや横浜正金銀行などの近代建築が高層ビル群と一緒に「今」の都市景観を成している。この光景の実現も実に紆余曲折を経た。戦後、日本植民地時代の建物に対して、イデオロギーの面において批判しつつも、建物の実用性を否定せずに使用していた段階を経て、改革開放後には積極的に文化遺産★3として保存、再利用している。このような中国の近代建築遺産に対する葛藤も船尾さんのフイルムに焼き付いている。

満洲国の建築では、特に皇宮や官庁建築には、「満洲風」にしなければならないとするスタイルの制約があった。日本でいえば帝冠様式のようなものである。しかし、「満洲風」であっても、国務院や合同法院のような成功例もあれば、軍事部のような失敗例もある。そのような様式の成功や失敗はあるものの、仕上げ材料はいずれも実によく吟味されていた。欲を言えば、この写真集にも、材料の質感を感じさせる近撮の写真が欲しかった。

満洲国の建築材料は、「満洲風」を推進することによって、もともと手作りの伝統建材である瑠璃瓦、瓦、瑠璃タイルなどを近代的なデザインや生産方式に革新させていた。改良された瓦や壁面のテラコッタタイルは全て撫順の工場で生産されていた。仕上げ材でみると、旧張景恵総理官邸が最も秀作である。屋根と壁面の仕上げ材が同系色で、一体感のあるモダンデザインとなっており、かつ水平ラインを強調するテラコッタタイルが穏やかな雰囲気を醸し出す。このように仕上げ材を近代化へ導いたのは、大江新太郎の満洲建築装飾の研究★4や伊藤清造の奉天宮殿研究★5などの先行研究の恩恵であろう。詳細は、また別稿に譲るが、こうしたディテールの近代化が満洲国の建築には随所に見られるのだ。

「立場や思想を超えた、もっと普通的な満洲を写真という表現方法で追求してみたい」と述べた船尾さんは、満洲の過去と現在を「満載」している建物の存在自体を撮ることに徹しており、読者に最大限の「インデックス」(索引)としての実像を提供してくれた。一つの実像を手掛かりに、そこに潜んでいるいくつもの思想を読み取れるし、また、見る人によっては、いくつもの史実が見え隠れするだろう。この写真集を手に取ったあなたにも、懐かしくも新しい発見があるに違いない。

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★1 満洲は、歴史上の地名である。満洲国は日本の関東軍によりつくられ、1932–1945年まで存続していた傀儡国家を指す歴史用語である。両者は地理範囲も、年代も異なる点には注意が必要である。

★2 ウランホトにあるチンギスハーン廟については、拙著『モンゴルにおける都市建築史研究』(東方書店、2005年)を参照されたい。

★3 大連中山広場建築群は2001年に国指定文化財に指定された。近代建築の文化財指定についての詳細は、拙稿「中国近代建築遺産をいかに評価すべきか:東北の都市を中心に」(『近現代東北アジア地域史研究会 NEWS LETTER』№22、2010年、pp. 32‐45)を参照されたい。

★4 大江新太郎は1905年に伊東忠太の引率で、佐野利器、大熊喜邦とともに、満洲建築調査を行っていた。帰国後、大江は7回にわたり『建築雑誌』(明治40~42年)に「満洲に於ける建築装飾について」の調査報告を連載していた。

★5 伊藤清造編、『奉天宮殿建築圖集』、洪洋社、1929。

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書誌
著者:船尾修
書名:満洲国の近代建築遺産
出版社:集広舎
出版年月:2022年12月

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包慕萍
建築討論

内モンゴル生まれ。アジア建築・都市史。大和大学理工学部教授。博士(工学)。著書に『近代建築のアジア』(第Ⅰ・Ⅱ巻、共著、柏書房、2013/2014)、『アジアからみる日本都市史』(共著、山川出版社、2013)、『中国近代建築史』(5巻、共著、中国建築工業出版社、北京、2016)ほか