被害調査における構造専門家の射程
1.はじめに
わが国は世界でも有数の地震国であり、ひとたび地震が起こると時には津波をも伴い、甚大な被害を生じてきた。その被害範囲は比較的広域に及ぶため、長い年月をかけて築いてきた街はその文化と共に崩れ去ってきた。町の安全と安定した社会の発展のためには、地震に起因する建物の倒壊や人命の損失を是が非でも防がなければならなかった。しかし、地震時の建物の挙動について徐々に明らかとなってきたのは近代になってからである。日本書紀では地震を「ないのかみ」として祀った。また、鹿島神社をはじめ、幾つかの神社には地震を鎮める石として要石が祀られている。地震災害対応は神頼みであった。
近代に至り、建物の地震時の挙動が少しずつ明らかになると、その先端知識を実建物に生かそうという機運も生まれるものの、一度法令などに制定して規制を行うとその影響範囲は広く、その為学術的知見のみからそのまま法令などが改正することは稀であった。むしろ、巨大地震により発生した被害に鑑みて、「同じ被害は未来の地震では生じさせない」ことを目的として研究が行われ法令等が改正されてきた。その為、地震被害状況をつぶさに観察し、現行技術や法規の問題点とその対処方法を見つけ出すことは未来の地震被害を軽減する上で極めて重要である。発生した災害に対して、その災害から学べることは全て学ぶことが地震災害に関わる構造家の責務である。
一方、地震災害の最大の特徴は、地震発生を未だ予知できず、突然訪れることである。台風などの風水害も一昔前までは地震と同様、正確に発生の日時や規模を推定することは困難だった。しかし今日では、はるか南の海上での台風発生の瞬間から、その予測進路について時々刻々と更新されながら情報が公表される。これに従って、あらかじめ建物の開口部を閉鎖するなどの災害対策を講じたり、予防的に避難所に避難したりする事が可能となった。もし地震も同じように発生場所、時間、そしてその規模を精確に予知することが出来れば、地震災害を大いに軽減できる可能性がある。地震の発生現象を科学的に解明する目的で1925年に東京大学地震研究所は文部省震災予防調査会の業務を引き継ぐ形で設立された。近年では「スロー地震」や「ゆっくり地震」等と呼ばれる、極めてゆっくり発生する地震の観測が可能となり、その発生が後続する巨大地震の発生につながっている可能性があることが分かってきた。しかし、未だ正確な予知には至っておらず、本稿は「構造技術家の射程」が討論の範囲であり地震予知はいささかその範囲化が逸脱するため、ここでは対象としないこととする。
2.地震被害調査と耐震規定の歴史1)
世界に目を向けると、建築の構造安全性に対する規則が定められた最古のものは、紀元前1750年ごろに制定されたハンムラビ法典であると言われている。この法典は、「目には目を歯には歯を」で有名な法典であるが、建物についても、建物の倒壊により住民の生命が奪われた場合は、建物を建てたもののも死刑に処すことが規定されていた。建物所有者の子供の生命が失われた場合は、建物を建てたものの子供の生命を奪う事も規定されていたという。
わが国では、建築に関する規制としては、710年に制定された大宝律令に近隣住家の監視を目的とした楼閣の築造禁止が盛り込まれたものが最初と言われている。また、江戸時代に入ると、度重なる大火に対応するために、火災対策としての規制がいくつか制定されている。例えば、瓦屋根が火災時に崩落して被害を誘発したことに対応して、土蔵以外への瓦屋根の使用を一時禁止した時期がある。この対応は、まさに被害調査から明らかになった災害原因に対応するために規制を作り出した例と言えるであろう。
一方、わが国の耐震規定の制定はもう少し後になる。1891年10月28日に濃尾地震が発生し、濃尾平野を中心に、甚大な被害が生じた。それに伴って1892年に文部省震災予防調査会が組織され、被害地域の災害調査を行い「木造家屋耐震要領」として4つの木質構造に関する案を提示した。
また、中村達太郎博士(東京大学)と佐野利器博士(東京大学)は、1906年4月18日に発生したサンフランシスコ地震による被害調査のため渡米した。その被害調査では、鉄筋コンクリート造の優れた耐火性および耐震性が確認され、鉄筋コンクリート構造に関する研究が行われるようになった。佐野博士は一連の研究成果を1914年に「家屋耐震構造論」としてまとめ、そこでは世界で初めて「震度」という概念を導入し、建物の重さに震度をかけることで設計用地震力を定義する方法を提案した。また同時に、建物の耐震性能としては建物の強度、剛性、粘靭性の確保の重要性を指摘しており、今日のRC造建物の耐震設計法の考え方と完全に一致していることは特筆に値する。この成果は、震災予防調査会報告として出版された。
佐野博士の研究成果も参考に1919年にわが国で初めて建築に関する近代の規定として、「市街地建築物法」が規定された。この規定は「東京市、京都市、大阪市、横浜市、神戸市、および名古屋市」を対象としたものであった。構造計算としては、許容応力度計算が採用されたが、鉛直荷重に対する計算のみで、水平荷重に対する計算は採用されなかった。1923年9月1日午前11時58分、相模湾北西沖約80kmを震源とするM7.9の大正関東地震が発生し、関東一円に甚大な被害が生じた。地震被害調査の写真としては、例えば写真1が今でも残っている。
地震とその後の火災により凄惨な被害状況ではあったが、被害調査を行ってみると、幾つかの建物は耐震設計がなされており、それらの建物には目立った被害が生じていなかったことが分かった。これを踏まえて、初めて震度として0.10を採用した許容応力度計算を用いた耐震設計が規定された。
その後、第二次世界大戦中に一つの許容応力度で鉛直荷重と地震荷重に対して設計を行うと、建築物全体の安全率が水平力と鉛直力の比率により異なることが明らかとなり、長期許容応力度と短期許容応力度が採用された。戦後、短期許容応力度は長期許容応力度に対してコンクリートは2倍、鋼材は1.5倍と規定され、その為地震力も震度0.20に引き上げられた。終戦により大日本帝国憲法は廃止され、天皇制のもとに規定された法令は市街地建築物法も含めて廃止となった。それに代わって1950年に現在の建築基準法が制定された。
1968年5月16日午前9時48分ごろ、北海道襟裳岬南南東沖120kmを震源とする十勝沖地震が発生し、大きな揺れの後に津波が三陸地方を襲った。この地震では、地震被害調査により、耐震規定で想定している地震力を超える地震が発生した場合、建物によっては写真2に示すように柱のせん断破壊が生じることが明らかとなった。そこでせん断破壊を防止するために有効な柱の帯筋の間隔をこれまでの規定から半分に強化した。
また、東北大学(当時)の志賀敏男博士は、鉄筋コンクリート造建物の被害状況を丹念に調査し、その被害程度と壁・柱の断面積が床面積に占める割合の関係を図1のようにまとめた。これは、のちに志賀マップと呼ばれる重要な研究成果で、ある程度の柱と耐震壁の断面積があれば、建物は地震被害を免れるというものであり、1981年の耐震基準改正の基礎ともなった。
この地震被害を受けて、1914年に佐野博士が「家屋耐震構造論」で指摘した「靭性能を考慮した終局設計」の必要性が再認識され、当時の建設省は総合技術開発プロジェクト「新耐震設計法の開発」を、1972年度から1976年度までの5カ年で、学会・研究機関・民間団体の協力により実施した。この研究成果として、建物の靭性能に応じた耐震設計法の枠組みが提案された。
1978年6月12日17時14分頃、仙台市の東方沖約100kmの深さ40kmを震源とする宮城県沖地震が発生した。この地震においてもまた、鉄筋コンクリート造建物では柱のせん断破壊が散見されたため、1981年に今度は柱の帯筋断面積比の最小規定が設けられた。併せて、総合技術開発プロジェクトの成果が「2次設計」として正式に建築基準法に盛り込まれた。
1995年1月17日に発生した兵庫県南部地震では、神戸市を中心に激震による甚大な被害が建物に生じた。この地震では、組織的に建物の被害調査が実施され、1981年以降に設計された建物では甚大な被害がほとんどなかったこと、一方旧基準で建物の中には終局状態に対しては新しい基準で求められる性能を有していないものがあることが分かった。そこで、1995年に耐震改修促進法が制定され、耐震診断・補強の推進が始まった。
2011年9月11日に宮城県沖を震源として東北地方太平洋沖地震が発生し、東北地方・関東地方を中心に広範囲に甚大な被害が生じた。この地震では特に、地震の後の津波が大きな被害の原因となった。この地震においても、被害調査の結果1981年以降の建物に加えて耐震補強された建物の被害も限定的であったことが明らかとなった。津波および天井被害に対する対策の必要性が認識された。
3.被災地で構造家のできる事―筆者の経験を踏まえて
筆者は、1994年10月4日に発生した北海道東方沖地震に初めて被害調査を実施するため被災地を訪れた。地震被害調査は現地での行方不明者の捜索がひと段落し、被災地以外から人が立ち入っても現地の被災者に迷惑が掛からない状態となって初めて実施することが出来るとその時に教わった。以降、1995年兵庫県南部地震、2003年宮城県北部連続地震、2006年ジャワ島中部地震、2011年東北地方太平洋沖地震、2011年トルコワン地震、2015年ネパールゴルカ地震、2016年台湾南部地震、2016年熊本地震などで被害調査を行ってきた。
被災地は凄惨を極めることが多く、レスキューなどがまだ活動しているような状況では、建築構造家が現地で行えることは応急危険度判定活動以外にはあまりない。1995年兵庫県南部地震の際には、実家が大阪にあった関係から、地震発生当日に大阪に戻り、翌日から現地に入った。その状況は混乱を極めており、通行できる道路もはっきりせず、警官の誤誘導で引き返すこともあった。兵庫県庁・大阪府庁をはじめ、神戸市・明石市・西宮市・豊中市・大阪市などの市役所を訪れ、日本建築学会等への要望を聞いて回ったが、当時は応急危険度判定が初めて大々的に実施される状況で、被災地は何が必要なのかをまず把握しようとしている段階であった。公共交通機関は地震により寸断されているため、車により現地に入ることになるが、そのことにより渋滞を発生させ、被災者の生活に役に立たないどころか迷惑となる。2章で示した通り、被害状況の丹念な調査と、それを基にした問題点の抽出、それらを解決するための研究の実施、その成果を基にした基規準の改訂といったサイクルを回していくことは極めて大切である。しかし、被災地では実際に災害にあい、親族や知り合いを亡くした方、けがをされた方、家を失った方、など困難の真っただ中の方々が生活を送っている場である。医療従事者やレスキューチームとは異なり、構造家の地震被害調査は、現地でそういった生活を送られる方々にとっては、残念ながらほとんど役に立たない。地震被害調査の大きな目的は地震の被害そのものを精確に記録し、未来の被害を軽減することである。わが国では、脈々とその活動が行われてきたことが2章から窺い知れる。
中学・高校生活を神戸市東灘区で過ごした筆者にとって、まだ死臭が漂う現地での調査は大いに心痛むものであった。通いなれた駅への道も、いつもお世話になった数々のお店も、完全に変わり果てた姿となっていた。筆者にできることはただ、それらを写真にとり、記録として残すことであった。ある夜、指導教授に「心が痛んでなかなか写真が取れません。」と話したところ、「耐震工学の研究者としてつらくとも日中は仕事をしなさい。それは構造専門家にしかできない。その後、周りの人たちの手助けをしなさい」と言われたことを思い出す。
被害状況によっては、その状況が変化してしまうものや早期にその痕跡を失うものがある。例えば写真4は1995年兵庫県南部地震の例である。同(a)は、地震発生当日は大きく傾斜したもののまだ倒壊には至っていなかったが、その後傾斜が更に進み、地震の翌日には写真のように完全に倒壊に至ったものである。また、同(b)は液状化による被害であり、風雨によりその被害の痕跡は直ぐに失われてしまうため、早期の調査が必要である。
そもそも、県外からのアクセスが被災地域の迷惑になる場合もある。例えば2011年東北地方太平洋沖地震では、原子力発電所事故による電力不足、輸送道路が寸断されたことによる、食料やガソリンの不足が長く続いた。そういった状況で現地被害調査に入ることは、被災者の生活を考えるうえでマイナス面が多い。さらに、被害状況把握のための役所への連絡・問い合わせが繰り返し行われることによる行政の負担増といった影響も問題となった。その為、一定期間において、日本建築学会の名のもとに現地で被害調査を実施する場合には、被災地域の対応研究者を見つけ、学会災害対策本部に届け出ることとした。
被害調査はなるべく被災地の負担が小さな時期に実施すべきであり、緊急を要する調査は極力少人数で効率的に行う必要がある。構造家としてまずできることは、普段から災害対応に関するネットワークを構築し、被災地での活動の重複を最大限避けることである。「被災状況を自分の目で確かめたい」という気持ちは非常に良く分かるが、現地の被災者にとってはその行為は何の役にも立たないことを忘れずに、調査結果なども構造家で効率的に共有する仕組みの構築が必要であろう。
日本建築学会では、災害時の情報共有のためのメーリングリストを保有しており、また災害に応じて情報共有ホームページを立ち上げている。また、平時の備えのために地震災害調査活動指針(http://saigai.aij.or.jp/doc/13manual.pdf)を定めているので参考にされたい。
4.終わりに
「国内でも海外でも、被災地には数珠をもって、悲しみに向き合う気持ちで行きなさい。」指導教員に頂いた言葉をいつも心に被災地に向かっている。今回頂いた命題である「被害調査における構造家の貢献」は、2章に示したように専門家の目で被害を見て、現状の問題点を見逃さずに洗い出し、知恵を絞って対策を講じることであると考えている。しかし、地震災害が大きければ大きいほど、現地で何か役に立てないものなのか、忸怩たる思いを抱きながら地震被害調査を実施している。
一つ言えることは、個々の構造家が別々に被災地を訪れることは被災地にとっては負担が大きくなる可能性があるという事である。事前に構造家で連携して、なるべく被災者の負担の少ない仕組みを構築すべきである。例えば今後は、3Dスキャンやドローンによる撮影、モニタリングによる地震動観測記録を基に、オフサイトで構造家が被害程度を評価する、という仕組みも現実のものになるかもしれない。
これまでの現地での被害調査において、「私の家の安全性も是非見てほしい」と国内外を問わずにお願いされることが多い。数少ない被災者の皆様に対してできることとして、出来る限り対応してきた。構造家の責務は、地震による被災者をなくすことである。
参考文献
1) 楠浩一「我が国における鉄筋コンクリート構造に関する構造規定の変遷(その1)―1981年の建築基準法施行令改正まで」ビルディングレター,2019年7月
2) 志賀敏男、鉄筋コンクリート造建物の震害と壁量、コンクリート工学、Vol. 28、 №9、 (社)コンクリート工学協会、1990年