解くまでを結びとする──関根みゆきインタビュー

| 069 | 202305–06 | 特集:建築と紐

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建築討論

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日時:2023年4月25日(火)
場所:Zoomにて
聞手:小見山陽介

関根みゆき(せきね・みゆき)・・・山口県下関市出身 東京在住
1996年『花結び』という本に出合い結びを始める。2002年-2003年、スペインとオーストラリアでの「日本伝統芸術祭」に飾り結びで参加。結びが世界共通の文化であると感じ日本の結び文化に興味を持つ。2004年より京都の結望会主宰西村望代子氏に師事。古い文献の再現と創作を始める。2008年、結びと関りの深い包みの礼法「折形」に興味を持ち、グラフィックデザイナー山口信博氏が主宰する折形デザイン研究所の教室に通う。衣食住における技としての包み結びが人々の精神生活に於いても重要な役割を担っていたことを実感すると共に、「生活の技術」として包み結びの伝承を試みることの大切さを学ぶ。2011年より折形デザイン研究所で結びの講座開講。2013年川越氷川神社「まもり結び」の制作に携わる。2017年松屋銀座・デザインギャラリー1953にて「祈りを結ぶ 正月の飾りと五節供の結び」展開催。現在、結びの研究・提案・制作・講座を主に活動。

仕覆の結び
ーー日本における「結び」の文化について、関根みゆきさんにお話を伺います。関根さんがもともと結びに興味を持たれたのは茶道のお仕覆からだとお聞きしました。

関根:お仕覆というのは、茶入れ袋のことです。戦国時代は密談に茶室が使われていました。毒殺を防ぐために、自分にしかわからない独自の結びをこの茶入れ袋に施して鍵の役割をもたせていました。はじめはシンプルなものだったと思うのですが、その後茶入れ袋の結びは花や蝶などを象って結ばれるようになり、パズルを楽しむように多くの結びが考案されました。江戸時代(1801年)には、お仕覆の結びの本『玉のあそび』(雄川丘甫)が出版されます。そこには62種類の結び方が紹介されていますが、全て解けばひとつの輪になります。

仕覆(茶入れ袋)の結び(写真提供:関根みゆき)

上の図は私が結んだものです。上下で同じお仕覆なのですが、結び直すと全然違う形になります。上段の左から2番目と3番目だけ少し結び目が緩く見えると思いますが、これはお茶が入っていない時の結び方です。「休め緒」といいます。つまり結び方で中の状態がわかるようになっていて、今でも茶道の世界で使われています。仕覆の紐は輪の形から結び始めます。基本の花結びは中心の輪を引くと一気に解くことができ、解いた後は一つの輪に戻ります。これは解きやすさを考えて輪の形にしたのだと思います。中身は使うものなので、いずれ絶対に解かれるわけです。いずれ解かれるのにこれだけ美しく結ぶことを楽しむのが日本の「結びの文化」だと思います。

額田巌氏の研究
ーー事前にお話を伺った際に、関根さんから額田巌先生(1911–1993年)の著書を紹介され読ませていただきました。額田先生はもともと電気配線の仕事につかれていて、紐への興味を通じて物理学や位相幾何学も研究されるようになったのですね。

関根:額田先生は今のNEC(日本電気)に勤められていました。工場見学で電線が束ねられた「束線(おろちと呼ばれた)」に強い印象を受け、配属部署で位相幾何学を知ったそうです。閉曲線の結び目についてなど数学的な興味から結びの研究を始められ、そこから人類学、考古学、民俗学と分野を広げて研究し、柳田國男など多くの著名な学者たちと交流しました。その研究姿勢は、相手を否定せず既知から未知へと常に動いています。様々な研究成果を包み込むように受け入れ、既知の部分を一度外して未知として再構築していく。その謙虚さと情熱が人を動かしていたように思います。結びを学び始めて結びの世界の広がりの大きさを知りましたが、額田巖先生の研究以降、情報があまり更新されていないことを残念に思います。先生の著作は多岐に渡りますが、『結び目の謎』(中公新書)『結び』『ひも』(法政大学出版局)が最初に読む本としておすすめです。

額田巌氏の著作リスト
1951年(昭和26年)『結び方の研究:歴史と実際』
1962年(昭和37年)『日本における結縛の歴史、民俗学的研究』
1970年(昭和45年)『決断する人のための経営科学入門』『知識産業と電子・通信』
1971年(昭和46年)『知識産業社会:資料図説』『あなたもプログラマになれる:ソフトウェア教育の手引』
1972年(昭和47年)『結び』法政大学出版局(61歳)
1977年(昭和52年)『包み』法政大学出版局、『日本の結び』講談社
1978年(昭和53年)『頭のいい包み方・結び方』広済社
1980年(昭和55年)『結び目の謎』中公新書(69歳)
1983年(昭和58年)『結びの文化:日本人の知恵と心』東洋経済新報社(72歳)
1984年(昭和59年)『垣根』法政大学出版局
1985年(昭和60年)『包みの文化:今に生きる技と発想』東洋経済新報社
1986年(昭和61年)『ひも』法政大学出版局
1991年(平成3年) 『包み結びの歳時記』福武書店(80歳)
1996年(平成8年)『菊と桐:高貴なる紋章の世界』東京美術

アンデスの世界遺産 カラル遺跡
ーー『結び目の謎』など額田先生の著書の中でも建築と結びに関するお話が色々と登場しますが、関根さんのご研究の範囲では建築との接点はありましたでしょうか。

関根:例えばアンデスのカラル遺跡(ペルー北部・中部海岸沿い)にあるピラミッドに使われた紐の話があります。起源前3000年頃のピラミッドを発掘した際に、石を縄でたくさん結わえてまとめたものが地下にたくさん埋められているのが発見されたのだそうです。

以前からアンデスには日本の研究団が調査に入っていたのですが、藤澤正視先生という方がもしかしたらこれは地震の揺れを軽減するためのものではないかと考え、実験でその効果が確かめられました。縄を撚って強度を増し、縄を編んだものの中に石を詰めて結びとめ、袋状にして埋めています。動きを吸収しつつ石はバラバラに崩れません。五千年前の人々の知恵に驚かされます。

結びに関するもう一つの特徴はインカ帝国の「キープ」です。「結び目」という意味の言葉で文字を使わずに結び目でコミュニケーションをとっていました。例えば数字でしたら、桁によって位置が決まっていて、100の位、1000の位などが順番にあって、そこに結び目を3つとか4つとか設けて、346のような数学が表せるようになっています。紐に使用する動物の毛の種類、色、太さによって項目を分けていて、家畜の量や税金、宗教や経済の情報などを、このキープという結び目で表していました。持ち運ぶときには閉じて畳むこともできるので、飛脚がこれを肩に担いでそれぞれの村に行って情報を集めていたそうです。詳しくは『マチュピチュをまもる~アンデス文明5000年の知恵』(白根全、福音館書店「月刊たくさんのふしぎ」)をぜひ参照してください。

ーーなぜインカで結びが発展したのでしょうか。

関根:国立民族博物館名誉教授の関雄二先生は「文字がなかったのではなく、多民族国家だったので文字を捨て、結びを記憶装置として使用した。文字がないので文字社会とは異なる表現が生まれた。地上絵や建物、結びもその一つ」と説明されていました。日本も文字使用の開始時期は遅いです。5ー6世紀の日本について「隋書倭国伝」は、「文字なし、ただ木を刻み、縄を結ぶのみ、仏法を敬す。百済において仏教を求得し始めて文字有り」と伝えています。このことが結びの利用法にも影響があったと感じます。文字の使用が遅い日本でも結びはメディアとしての役割を担ってきました。紐も同様に身分や美術品の価値(箱に掛けられた真田紐で由来がわかる)、所属(刀の紐でどこの藩かがわかった)など情報を持っていました。

祇園祭の結び
ーー2021年に国立博物館と竹中大工道具館の共同企画展「木組 分解してみました」が開催された際に、木組みが生まれる前の紐で木材同士を縛っていた時代のものから展示が始まるのが印象的でした。

関根:皆さん京都で見たことがあると思いますが、今でも祇園祭りの山鉾には多くの結びが使われています。本当に美しいのですが、縄で全部結んでいるということは、毎年結び直せるということです。

祇園祭りの山鉾(写真提供:関根みゆき)

祇園祭りは疫病退散のお祭りですので、いわゆる疫病を起こす神様をもてなしているんですね。疫病の神様に豪華な染織品やお囃子で目や耳を楽しませて神様を集めて集めて…街をまず綺麗にする。これを先払いと言います。巡行して帰ってきたら、その集めた疫神が飛び散らないようにすぐに解体して封じ込めるというお祭りですので、最後には必ず壊さないといけないわけです。それで街がすっきりしてから、八坂神社の三基の御神輿が入ってきます。つまり祇園祭は一つのお祭りではなくて、八坂神社を中心とした神事と経済力を蓄えた町衆の行事の2つが合体したようなお祭りなのです。

ーー壊すことを考えた時に、この「結ぶ」という接合方法が、壊しやすいし元にも戻しやすいということですね。

関根:もう一つの利点としては力を吸収するということでしょうか。山鉾は神様を迎える依り代ですから天高くそびえ立つ造りで、最大のものは鉾頭までの高さが約25mもあります。車輪も大きく屋根の上にも中にもたくさん人が乗っていますので、移動する際にものすごく軋みます。釘ですとその軋みに耐えられず全部飛んでしまうそうです。先ほどのアンデスのピラミッドの土台と同じで縄であれば力を吸収してくれるというのも、結びによる接合が選ばれている理由だと思います。

ただそうした作業結びの技術だけでなく、美意識もあると思います。雄蝶・雌蝶と雌雄を表す結びが施されていて、縄の最後を束ねた海老結びも最高に美しい。巡行の後にすぐ解体されるにも関わらず美しく結ぶ事が仕覆の結びと重なります。山鉾巡行の日には八坂神社がある東の神域と西の人間界の結界として注連縄が張られます。長刀鉾のお稚児さんは神の使いとしてこの注連縄を切り、神域への道を開きます。これが山鉾巡行の最大のセレモニーでもあります。京都の祇園祭は結びの機能性・装飾性・精神性すべてを見ることのできる日本最大のお祭りだと思います。

結べる手|破壊から創造へ
ーー結びの文化があるのは地震の多いアジアの地勢とも関係しているのでしょうか。

関根:地殻運動による植物の多様性から受ける影響は大きいと思います。湿潤な場所には植物も生育しやすいので、ヤシの葉や稲作の藁、蔓(かずら)など、乾燥させて使えるものがたくさんあって材料が手に入りやすいということも縄や結びが発達していった理由の一つかもしれません。

ーー紐は植物など繊維質の材料がないと作れませんものね。

関根:もっと細いものが必要な場面では、動物の腱が紐に使われることもあります。髪の毛もそうですし、例えば馬の尻尾とかも使われますね。

結べる手を持つのは人間だけです。英国ケント大学の古人類学者・マシュー・スキナー氏の研究チームによれば、300万年前のアウストラロピテクス・アフリカヌスという初期人類の手のひらを形づくる中手骨の海綿質に、母指対向性という、親指と他の4指を向い合せて力を入れる動作でできる網目構造パターンの痕跡が見つかったのだそうです。この親指の動きが結ぶ作業に欠かせません。他のヒト科の動物は親指の発達が十分ではありません。

「結びは人類が最初に習得した生産的・建設的な行為」だと『結び』(額田巌、法政大学出版局)にあります。石を破壊して作る道具とは違って、異質なもの同士を組み合わせて新しい力、新しいものをつくるという創造的な行為は結びによって生まれました。結びの技法によってはじめて、狩猟や漁撈、住居の建築や物の運搬なども可能になり、さらに記憶、標識、文字的役割、文様の形成など結びは基層文化の基盤となりました。人類学者の長谷部言人は、「人類がこの技術を見つけた時に文化が始まった。「火」は科学的に「結び」は物理的に、人類史上文化開発の最初の担い手」であったと述べています。

解くまでを結びという
ーー紐の作り方自体にも色々なパターンがあるそうですね。

額田巌『ひも』掲載の図版をもとに、関根氏により加筆

関根:上図の右側にある作り方は織りひもといって、一番伸縮性がないものです。真田紐などが代表例で、大事なお道具箱にはこの紐が使われます。その他の紐は基本的には弾力性があるもので、編みひも、撚りひも、組ひもといった種類があります。

ーー同じ材料からできていても、作り方によって紐自体の弾力性や強さが変わるのが面白いですね。紐の精神性のお話がありましたが、神事に使われる紐には専用の作り方があるのでしょうか。

関根:右利きの人だと自然と右撚りになると思うのですが、注連縄は左撚りにするという決まりがあります。日常と切り分けようとしているのかもしれません。見た目でもわかります。縄目文様を用いる縄文土器の中で中期勝坂式のものは意識的に左撚りを用いたといわれます。(小林達雄「縄文の思考」)使い分けのルーツはかなり古いようです。

ーー作り方のプロセスだけでなく、視覚的にも聖と俗の境界が判別できるようにしていたのですね。日本におけるそうした精神世界は、気候風土など日本の地域性とも関係していると思いますが、結びの文化もそうでしょうか。

関根:湿度が高い日本の住まいや衣は風通しの良さを大切にしてきました。日本の結びも複雑な形よりむしろ涼やかな線を求めてきたように思います。日本の結びの1番の特徴は何かなと思ったときに、解くまでを結びとするという考え方があると思っています。「結び」は「締める」ことによって完成しますがこの完成にもまだ不足があるといいます。

風俗史がご専門の井筒雅風氏(1917–1996)は「解、とく、ほどく」ことが可能であることが「結び」の条件だと言います。『結びは個の連結です。しかしときやすい結び、ときにくい結びがあってもよいが、解けない結びがあってはならない。(中略)現在日本に残る高山地方の有名な数層に及ぶ木造の大合掌造のすべての箇所は藁、麻による縄で緊縛されている。又7月17日に運行される京都の祇園祭の鉾山の組み立てもすべて縄による緊縛によって行われている。「結び」と「締める」という方法と「解ける」という柔軟性が「結びの文化」を高めていったものと思われる」と語っています。解けない結びがあってはならないとはどういうことか、ずっと考えてきました。
日本の文化は可逆性を重視した点に特徴があると思います。例えば、洗い張りをする着物は解くことまでを考えて縫います(※洗い張り:きものを解いて反物の状態に戻して洗い、布のりを引き、反物の幅を整えること)。和裁は分解できる縫い方だと言えます。反物は洋服のように身体に合わせて斜めに切ることはせず四角い布のまま使われますので解けば一枚の布に戻ります。四角い布を身体に合わせるために紐を多用します。脱げば同じ形にたたまれ、引き出しにしまうことができます。お仕覆(茶入れ袋)、刀袋、志野袋(香道で使う袋物)、文箱、貝桶の結びなど、いずれも解くことを前提に美しく結ばれています。

災害と結び
ーー解くまでを結びとする精神はどこから来ているのでしょうか。

関根:結んでは解き、解いては結ぶという日本の結びは、災害国という風土から生まれた美意識なのではないかと感じています。災害史ともいえる鴨長明の「方丈記」には京都大火、つむじ風、飢饉、疫病大流行、大地震などが記され、これら災害を経験した後、長明は1208年に大原から日野に移転し、解体式の家(方丈)を車に載せて放浪します。庵を結んでは解いて移動するという住まい方です。下鴨神社の神官の子に産まれた長明の根底には神道の生死観があると言います。その根源語は「むすび」と「ひらき」で「むすび」は命を生成する働き、「ひらき」は「お開きにする」という通り、物の終わりを示し、単なる消滅ではなくもう一つの世界を開いていくという意味合いがあると、京都大学名誉教授でもある鎌田東二氏は語っています。神社を継ぐ道を絶たれ、多くの天災に見舞われた果てに方丈庵で新たな境地をひらいた長明の生き方は、家業の影響もあるかと思いますが、やはり多くの災害を目の当たりにしたことで生まれたものだと思います。

『分解の哲学―腐敗と発酵をめぐる思考―』(藤原辰史、青土社)のなかに、次のようなことが書かれていました。

「分解」の「解」は「ほどく」、あるいは「ほぐす」というやまと言葉にあてられた漢字である。「くだく」や「わる」のように原型をなくしてバラバラになることを表す動詞とは異なり、ふたたび結びあわされるという予感のうえにあえて離れていく、離れていくという予感のうえにあえて結び合わされる、という往還を表す概念である。(中略)分解の運動は、子どもがときを忘れて没頭する積み木や砂場遊び、そして変身ごっこ,その延長としての、もっと言えば延長でしかない「建築」や「陶芸」や「衣服」にも本来なら適応されてしかるべきものであろう。

この「結び」の可逆性が日本の精神文化とつながっているのだと感じるようになりました。結ぶという行為は、接着とは違って素材同士を傷つけずに接合できます。解けば元に戻るということは、一つ一つが独立したまま結び付けられているということでもあります。人間関係でいえば個がしっかりして相互に助け合う「結(ゆい)」という組織がそれにあたるでしょうか。結びの技術だけでなくこうした結びの文化は、これまでも人々が「継いで」きたから今も残っているわけです。結びは名もない人々が「継いで」きたもので、結びの作者が重要視されることはありません。「継ぐ」ことを継いでいくこと。そうやって受け継がれてきた「結び」とその文化の継承の中にひと時身を置きたいというのが私の願いです。

上段|心葉日蔭蔓(こころばひかげかずら):『故実叢書・ 冠帽図会』今泉定介編、下段|薬玉(くすだま):『花結びの種々』作者・刊行年不明

ーー示唆に富むお話をありがとうございました。■

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建築討論

建築討論委員会(けんちくとうろん・いいんかい)/『建築討論』誌の編者・著者として時々登場します。また本サイトにインポートされた過去記事(no.007〜014, 2016-2017)は便宜上本委員会が投稿した形をとり、実際の著者名は各記事のサブタイトル欄等に明記しました。