解体と移動の射程 ── ビエンナーレ日本館チーム再始動へ《後編》

建築作品小委員会
建築討論
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31 min readMay 31, 2020

202006 特集:建築批評 第17回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示《ふるまいの連鎖:エレメントの軌跡》|Restart from the Pandemic ── Interview to the Japan Pavilion Team for the Venice Biennale International Architecture Exhibition, part 2

門脇耕三|岩瀬諒子|木内俊克|砂山太一|長坂常|長嶋りかこ|福元成武|元木大輔

日時:2020年4月25日
場所:オンライン (zoom)
聞手:能作文徳(青井哲人|川井操|伊藤孝仁|川勝真一|辻琢磨|吉本憲生)
編集:中村睦美

建築家、グラフィックデザイナー、施工者、編集者──化学反応を起こすチーム編成

能作:インタビュー《前編》ではコロナ禍で延期が決まったヴェネチア・ビエンナーレの現在の状況についてお伺いしました。後編では日本館の展示やチーム編成についてお聞きしたいと思います。まずキュレーターとして門脇さんがノミネートされた後、コンペに向けてチーム編成をどのように進めたのでしょうか。

門脇:キュレーションのコンペですので、人選は非常に重要だと考えて臨みました。当初から重視したことのひとつがジェンダーバランスです。「あいちトリエンナーレ2019」でも津田大介さんが参加作家の男女比を同等に設定して、国際美術展におけるアファーマティブ・アクションを試みましたよね。人選は「あいち」の方針が発表される前にほぼ固まっていましたが、僕個人としてもホモソーシャルなチームへの違和感を持っていましたので、ニュースを見て共感したことを覚えています。最初の頃は、建築の生産史、産業的キメラ、エレメントといったキーワードを漠然と思い浮かべていました。とはいえテーマ自体はあらかじめ決めずに、協働することで面白い化学反応が起こりそうな方々に声をかけていったのですが、競合相手に先を越されないように、チームビルディングはとにかく急ピッチで進めました。

ミーティングの様子。建築家・デザイナー・施工者・研究者・編集者などが同時に議論する

能作:今回は建築家だけではなく、グラフィックデザイナーやリサーチャー、施工者、編集者も一体のチームであることが特徴的だと思います。

門脇:建築家と研究者の両方が活躍できる枠組みをつくろうという気持ちは、コンペの招待をもらった当初からありました。自分のバックグラウンドからすると、そうしたテーマの方が審査員に訴えるかなという計算もあった(笑)。また、最終的なテーマはチームで議論して練り上げていったものですが、モノを直接的に扱うテーマにしたいという思いはずっとありました。しかしひとりで悶々と考えていてもらちがあかないので、最初に編集者の飯尾次郎さんに相談相手になってもらいました。飯尾さんとテーマやチーム編成について議論するかたわら、モノを扱うにあたっては歴史的な視点も重要だと思っていたので、建築史家の青柳憲晶さんにも声をかけました。2018年7月発刊の『ディテール №217』(彰国社)で、青柳さん、倉方俊輔さんという建築史家のお2人と「戦後名住宅の新しい見方」という特集を企画したのですが、そのなかで青柳さんと交わした議論に手応えを感じていたんです。この特集では、建築生産史を踏まえたうえで戦後住宅を再評価することを試みましたが、その過程で、現代のように建築家が建物の表層のみをデザインをするようになったのは、1980年以降の比較的最近の期間であることがわかってきた。戦後間もない時期は、建築生産システムが不安定だったため、建築家は建築生産システムまで含めたデザインを積極的に行っていました。例えば戦後復興期にいち早く鉄骨造の住宅を設計した広瀬鎌二は、鉄骨造以前に設計した木造住宅の現場で、大工が勝手な手仕事で設計に介入してくることに大きな不満を抱いていたんですね。そこで自邸《SH-01》(1953)では、そうした大工を排除して、建築家がディテールまで完全にコントロールすべく、軽量鉄骨造の住宅をつくった。ところが工業化された構法が一般的な建物にも浸透する1970年代頃から、建築家は建築生産システムにコミットする回路を失いはじめる。僕はこの回路を建築家がもう一度取り戻すべきだと考えていますし、戦後的な建築生産システムのさまざまな前提が瓦解している現在こそその時期だと思っていますが、このような議論も青柳さんと『ディテール №217』で展開していたため、ビエンナーレでも引き続き議論したかったのです。

そして、展示の総合的な印象をつくるグラフィックデザインも重要な役割ですから、グラフィックデザイナーにも建築家と対等な立場で参加していただくべきだと考えていました。そこで、生産と廃棄、自然環境といった問題を意識しながら幅広いデザインを展開している長嶋りかこさんに参加をお願いしました。チームでの議論が始まる前のかなり早い段階で長嶋さんの事務所へ伺い、展示では何か建築的な構造物をつくりたいと説明したのですが、長嶋さんからは「建築は莫大な廃棄物を出す産業であり、その問題についてあなた方建築家はどう考えているのか」という厳しい問いかけがあった。建築家たちも長嶋さんの言葉を真摯に受け止め、「リサイクル」の概念を中心に据えるきっかけとなりました。また、テーマが固まった直後の段階で、建築家だけが制作のハンドルを握るのではなく、最初から施工者も関わるべきだという提案がメンバーの長坂常さんからありました。そこで建築家と数多く協働するかたわら、自身でも設計を行う施工会社TANKの福元成武さんにも参加していただくことになりました。さらに、ヴェネチアの都市史がご専門の樋渡彩さん、国際展の経験が豊富で、2014年の建築展で日本館のコミッショナーを務めた太田佳代子さんにも加わってもらい、多方面のサポートをいただいています。

展示の構成について

能作:日本館のテーマは「ふるまいの連鎖:エレメントの軌跡」です。タイミングよく解体が決まっていた《高見澤邸》を解体し、ヴェネチアへ移動させ、会場で再構成するという内容ですが、現地での展示構成について教えてください

門脇:ヴェネチア・ビエンナーレ日本館はヴェネチア最大の公園、ジャルディーニの一角にあり、吉阪隆正によるピロティで床を持ち上げた設計となっています。そして彫刻を展示するためにつくられた庭園があることも日本館の大きな特徴で、建物内だけで完結しない周囲の環境と連続性をもったパビリオンとなっています。今回の展示は(1)庭園の展示スペース、(2)資材庫と見立てた日本館内、(3)工房と見立てたピロティの3つに分けられます。(1)では組み立て直された《高見澤邸》が展示されるのですが、ファサードの看板がスクリーンに転用され、屋根がスクリーンを眺めるベンチとして置かれます。館内への入口付近には《高見澤邸》の実際の部材とデジタル技術で再現した部材を融合させて再構築した壁がつくられ、(2)への導入となります。そして(2)では、庭園で使われなかった資材がバラバラと置かれ、3Dスキャンによる解析データや、青柳さんによる建築生産史的な解説が添えられます。《高見澤邸》は工業化された構法が一般化する直前の1954年に建築され、1982年まで段階的に増改築されていますので、資材には戦後の建築生産の変化が非常によく刻まれている。つまり(2)を一巡すると、日本の戦後の建築生産史が俯瞰できるのです。(3)は部材の加工や仮組みを行う場所です。施工者や職人の手つきを積極的に見せることを意図していますが、会期中もワークショップなどに用いて、観客が自分たちも手を動かしたくなる場所になるといいなと思っています。そして日本館建物のファサードは足場で構成されています。これは実際に工事の足場として用いるものであるのと同時に、ブルーシートを張って会期中はサイネージとなる。(1)で組み立てなおされた《高見澤邸》にも足場は残されていて、こちらは構造補強としても機能します。

《高見澤邸》(© Jan Vranovský)
《高見澤邸》の内部(© 仲本拡史)

元木:もちろん僕たちだけでなく、全体を通したテーマなのですが、解体・移動・再組み立てによる形や素材、意味に生じるノイズや欠損をどう受け止めて設計するかということを考えています。僕たちが作ったのは、ベンチとして使うことができる屋根です。《高見澤邸》のシンタクとよんでいる部分の屋根をそのまま移動させてきています。動線と重なる部分は切り取られているので、普段は目線より高い位置にある木造の小屋組みを覗いて見ることができるようになっています。解体して材の状態まで戻して再構築すると古材を使った家具のようになってしまうので、ある程度のまとまりというか要素がわかる状態まで復元して、元々持っていた意味は残っている方が良い。ただ、《高見澤邸》は複雑で情報量がとても多いので、コンテクストが分からなくても理解できるものが導入部分としては相応しいのではないかと考えました。屋根であるということは見ればわかるというか、ユニバーサルな記号だと思うのでそのままどんとおいています。このエリアにはもともと、《高見澤邸》や周辺の街が時代とともにどう移り変わっていくかがわかる模型を展示する予定だったのですが、ただの模型を展示する台ではなく、もう少しほかの機能もあった方がよいのではと考えました。屋根が屋根のままなのだけど屋根以外の機能をもっている状態にしたいなと思い、大きなベンチとしても使えるように作っています。ベンチにしたのは担当しているエリアだけで完結せず、次に出てくるスクリーンに映る映像を座って見ることができたり、それぞれの担当領域が混ざり合う状態にしたかったからです。座る部分は木材だと古材と新材が混ざり合ってしまうので、屋外でも使えて、できれば座り心地も良い材料にしようと思い、ビート板などに使う材料を選択しています。

岩瀬:敷地内の庭園は日本館の大きな特徴でもありますが、現地視察の際に隣接する雑木林も含んだエリアが日本館の敷地内であり、吉阪図面よりも広範囲の敷地を有することを発見しました。「広くなった」日本館の敷地図と《高見澤邸》の平面図とを重ねると、住宅1軒がきれいに収まることから2枚の地図を重ねてスタディを始めました。本来の場所から引きはがされてコンテクストを失った《高見澤邸》を日本館の周辺のコンテクストに重ね合わせながら、空間体験をトレースできるような展示を計画しています。最終的には看板建築である《高見澤邸》の象徴的なファサードである「エメラルドグリーンの看板」を映像のスクリーンとして創造的に「復元」しつつ、周辺に獣道のような動線も計画しています。乾式工法の軸組は移設後復元できますが、湿式工法のモルタル壁はそのまま移動が出来ませんでした。移動による「欠損」を創造の契機として、モルタル壁に見立てて染色したメッシュ状の表面を軸組に「再生」しています。メッシュは渡航時に手荷物として持ち込み可能なサイズに梱包することを想定して設計しています。全体計画としても国際展という枠組みのなかで、誰も知らない《高見澤邸》をある程度わかりやすく伝えられるよう、外観の写真と照合しやすい象徴的な看板や壁、そして日本の住宅1軒というスケール感が伝わりやすい屋根などを展示の対象として選んでいます。

日本館周辺の庭(© 岩瀬諒子設計事務所)

木内:砂山太一さんと僕は、デジタル技術を用いた再構成がテーマです。(1)の庭園から、(2)の日本館内に入っていく入口部分に、《高見澤邸》の壁面を再構成する展示を設計しています。《高見澤邸》の軸組に使われた部材を用いて壁の軸組を組み立て、外壁側と室内側の両面から、実際の《高見澤邸》から採取した現物のサンプルを埋め込んでいます。資材庫のエリアに入っていく入口部分で、かつて室内で行われていた暮らしの肌合いを見せるような役割も期待されていたので、照明やそのスイッチまで、いわゆる建築部材外の備品的なものも取り入れています。軸組は材自体が古く、解体工事や移動によって失われた部分もあり、とくに部材の端部はボロボロになっているので切断して、ほかの部材で補うことを考えています。そもそも《高見澤邸》でも用いられている在来構法は、自在に材を継ぎ接ぎしては柔軟にどんなプランでも成立させてしまうアドホックな考え方でできていて、その構法自体を展示として増幅して見せようとしているのです。

また、内装に使われていた壁紙や暮らしの痕跡は解体で失われてしまうものなのですが、《高見澤邸》の重要な情報のひとつとして捉え、解体前の状態をそのまま3Dスキャンによってデータ化しました。データを用いて、欠損した室内表面の柄や色をパターンとして読み換え、新たな仕上げ材に置き換えて展示します。このようにデジタルと実物の積極的なハイブリッドによって「ものの移動」を表現しています。

砂山:デジタル技術によってものの状態や展示自体をハックするとも言えますね。壁の再構成以外に、現地に運ばれた資材をその場を読み解いて構造物をつくることも検討しています。長期的なスパンで計画、設計、実装を順に進めるウォーターフォール型ではなく、細かいスパンで実装を繰り返すアジャイル型の方法で、適宜場当たり的にものをつくることはデジタル技術の持つ力です。移動によって欠落した部分も、事前にスキャンした情報が残っているので、あらゆる方法で補うことが可能になるわけです。

部材の3Dスキャン作業(© 仲本拡史)

長坂:僕は(3)の工房をメインに担当しました。コンペに向けて2019年の秋にベネチアへ視察に行ったとき、ペンキ塗りたてのベンチを囲った養生テープがかっこよく見えたんです。ほかにも砂袋や工事現場のライトなど現地の工業製品はどれもかっこいい。しかしそんなことを思っているイタリア人はほとんどいないだろうと思います。その逆も考えられるのではないか。つまり日本の工事現場の仮囲いやブルーシート、養生なども気に留めない人がほとんどだと思うのですが、イタリアで展示物としたときには観客がかっこよさを見出すかもしれない。また、施工作業をしている職人の手つきや道具もかっこよく見せたいと考えています。会期中に工房で手を動かすのは福元さんや帯同する職人さんで、つくるもののデザインも半ば彼ら任せています。設計者がつくり手に発注するといった関係性を入れ替えるような展示にしたいと考えています。建築のプロセスにおいても実際にものが動くのは現場であり、想定していなかったふるまいや形ができることを期待しています。

イタリアの現場で使われるの赤と白の養生テープ(© 長坂常)

建築設計のプロセスにおける施工者との関わり方

能作:今回(3)の展示で、施工者に光を当てるのは面白い試みだと思います。

木内:設計のミーティングでは福元さんにも参加していただきました。浮かんだアイデアについて、施工の段取りを逐一その場で議論して判断することが基本的な設計方法となり、設計の段階からすでに現場が始まっている雰囲気がありましたね。

福元:じつはこのように設計の段階からわれわれ施工者もプロジェクトに関わるのは、長坂さんと仕事をするときと大きくかわらないプロセスなんです。今回はベネチアという特異性もありますし、施工が始まったときに、われわれの役割がさらに明確になってくるだろうと思います。
長坂さんが担当する工房(3)は工事現場内の仮設的な作業場であり、本来つくり手がつくり手のために設える仮設計画のひとつで、一時的なものなので当然本来は、建築家のデザインが及びません。
今回のヴェネチアではこれを展示するということで、建築家が仮設計画に参加するという見方をしています。毎日掃除して美観を保っている工事現場に出入りする職人さんが、綺麗な仕事をしようと意気込むかのように、半ばつくり手、半ば建築家がヴェネチアでつくる作業場や作業台などの仮設物に対して、職人さんがどういう反応をするのか。施工計画を見直すひとつのきっかけになることを期待しています。

川井:長坂さんは普段から施工者とともに設計を進めているのですね。いわゆる一般的な設計手法とは異なると思うのですが、なぜそうした手法をとられているのか教えていただけますか。

長坂:実施設計が完了した後に複数の工務店に相見積もりをとって、予算や工期の調整をする方法では、予算と工期に余裕が少ないプロジェクトにおいては時間がもったいない。我々の仕事は基本設計の中における差異だけで評価できる建物ではなく、最初の段階から作り方やディテールを同時に考えていくことによって生まれる作品のクオリティがあります。最初から金額と素材を見ながらアウトプットを考えていくと良いものになる。我々にとってはディテールが命であり1/1がクオリティを左右するので、最初からそこに時間をかけて考えて進めなければならないときに、やはりその段階から工務店と手を組んで進めるほうが確実にクオリティが上がります。

門脇:設計から施工へと順序よく進んでいくウォーターフォール型のプロセスは、設計者と施工者の上下関係が生まれてしまい、前時代的ではないかと思うんです。今回は設計・施工のいずれの段階でも、設計者と施工者の役割が転倒するような場面が生じるようにあえてしてありますが、これは現代の建築産業に対する批評的な視点に基づくものです。長坂さんは、通常の場合は建築設計者が考えるべき部分を福元さんや長嶋さんに持ちかけたりと、職能に固定されないふるまいが上手い。効率が上がるだけではなく、発想の面でも化学反応も起こるので、面白い方法だと思います。

岩瀬:設計と施工の関係のデザインに加え、当初から各作家の作家性が融解できないかとも探っています。一旦はエリアごとの設計担当としていますが、多方面から茶々を入れるような設計エスキスや、設計者と施工監督者を別の人にするといった意見も出てきています。

街にあふれる丸ゴシック体に光をあてる

能作:長嶋さんの建築家への問題提起は日本館のテーマに欠かせない視点ですよね。グラフィックデザイナーの領域を超えるような関わり方が印象的です。

長嶋:実際に展示の構築物を設計するのは建築家たちです。サイン計画では、それぞれの展示エリアにおいてスタンスや目的が少しずつ異なってくるところを、ひとつの展示として見立てることが求められていました。工事現場の言語や建築の言語が点在しているので、誘導や説明の機能は担保しつつ、全体をグラデーションでつなぐ。工事現場のサイン計画にも応用し、来場者にとってキャプションなのか工事現場なのか、装飾的なものなのか、だんだんとわからなくなるような計画にしていこうと話し合っていました。

能作:展覧会カタログもかっこいい仕上がりだと思いました。カタログについて何か苦労された点などお聞かせください。

長嶋:カタログについては出版社の事情や予算環境ゆえに実現できないアイデアも多々あり、どうしたら展示のコンセプトを本に落とし込めるのか悩みましたが、何より時間がなかったことが大変ではありました。自然環境への配慮といった自分自身の問題意識のもとで、用紙には、持続可能な森林管理が行われている木材から生産されたFSC森林認証紙を使用し、インクは石油系有機溶剤0%のものを使用して、展示空間で使用するブルーシートは現地で配布される手土産と本を同梱するための袋に再利用することも目論んでいます。そして展示のコンセプトをグラフィックに落とし込むにあたって、タイトルや本文テキストやサイン計画のフォントに丸ゴシック体を使いました。日本の公共の標識や看板は写植の登場以前は筆で手書きしていたのですが、文字のエッジの処理を角にするよりも丸くする方が筆には効率的だったそうです。その後写植書体の「ナール」という丸ゴシックが国土交通省によりサイン書体に指定されました。ですから今街を見回せばパブリックな看板は丸ゴシックばかりなんですね。この一見ダサそうなものをグラフィックデザインとして使っていったのは、長坂さんがイタリアの街で見た養生テープのように、ありふれたものを違う視点によってかっこよく見せる可能性を感じたからなんです。

門脇:長嶋さんが最初に丸ゴシック体に着目して、展示で使おうと言いはじめたとき、僕たちは半信半疑だったんですが(笑)不思議とだんだんかっこよく見えてくる。字詰めなどの緻密な操作があってのことだと思います。ぜひカタログを手にとって見ていただきたいと思いますし、展示でもグラフィックのかっこよさを体感してほしいですね。

長嶋りかこが街で採集した丸ゴシック体。看板職人が手描きした「オジ書き」、手描きテロップの視認性の良さをヒントにした写植書体「ナール」、機械刃で彫れるようにアールがついた「機械彫刻用標準書体」などが混在している(© 長嶋りかこ)

人間の認知限界を超えたものへの眼差し

能作:今回《高見澤邸》のデジタルアーカイブをつくることや、部品の来歴を建築産業史のなかで位置付けることなど、さまざまなものの捉え方も大きなテーマだと思います。ほかにも千葉雅也さんを招いた座談(展覧会カタログに掲載)では、哲学者グレアム・ハーマンの話が登場し、もののわからなさや不気味さにも目を向けられています。そういったものへの多角的なアプローチによって見えてくる新しい建築の可能性はどのようなものでしょうか。

木内:千葉さんのお話は非常に示唆的で、ものが一部品として組み上げられた状態は、ものにとっては一時的でしかない状態であることに気づかされました。10年後はまったく別の状態になるかもしれない潜在性をキープしながら、一時的にその状態として拘留されている。建築もそうしたものの組み合わせでできた「状態」であり、ものが持つ流動性を調停するための最低限の操作がデザインなんですね。前の状態を受けいれたうえで新しい状態へと調停させ、その次の状態へパスすることも含ませる。こうした意識のもとで建築をつくっていくべきだと感じていますし、日本館はその実験とも言えます。

能作:建築史家のマリオ・カルポは『アルファベット そして アルゴリズム:表記法による建築──ルネサンスからデジタル革命へ』(鹿島出版会、2014/原著=2011)のなかで、建築設計のプロセスが図面による表記方法からアルゴリズム、あるいはソフトウェアやプログラムへ替わっていくと述べています。今回3Dスキャンを用いて採取したデータによって再構成するというお話がありましたが、カルポの言うような従来の建築のプロセスとは違う創作のビジョンが展開されているのではないかと感じました。

木内:そうですね、計画のなかでカルポの理論も参照しています。図面による表記は、ひとつの完成された像を用意するといった限定的なシチュエーションをつくる側面があります。デザインの情報伝達が図面からアルゴリズムへ移ると、さまざまなバリエーションに変化する「ものの原理」へとデザインする対象が変化することになる。このカルポの理論と似た状況が、今回のプロジェクトでも生まれています。《高見澤邸》のエレメントから固定された構成をつくるのではなく、エレメントの持つ属性などから導いた、いかようにでも組み替えられる手続き自体を考えるというアプローチは、その「原理」を設計する感覚に近いと思います。

門脇:先ほど述べたように、設計と施工に上下関係が生まれるようなウォーターフォール型の建築設計を批判的に捉えていますが、かと言ってアジャイル型を全肯定しているわけでもない。実際のプロセスも、解体した部材一つひとつを3Dスキャンしてみるなど、目的も明確ではない途方もない作業を実直にやってみるという試行錯誤の連続でした。そこで見えてきたのは、あたり前といえばあたり前のことなのですが、たかだかひとつの建物の持つ情報量がいかに膨大かということです。例えばスキャンした部材1本のデータ容量は30GBもありますが、それでもわれわれが把握できたのは部材の表面の情報にすぎない。部材一つひとつの歴史を紐解こうとしても、もちろん全部はわからないですし、不完全な情報でさえ膨大で、とてもすべては扱いきれない。そうした人間の認知限界を超えた建築の超越性を目の当たりにしたうえで、実直に再構成を試みるのが今回のテーマとも言えますね。そういう視点からすると、われわれが扱えるように建築を矮小化したものが、例えば図面なのです。本来は小さな部材ひとつでも人知を越えた存在なわけで、その超越性に向きあって格闘を試みながらも、ひたすら打ちのめされるという貴重な経験をすることになりました。

スキャンした部材の3Dデータの一部(© sunayama studio)

伊藤:トイレットペーパーホルダーやバスタブ、壁紙など解体前の現場では可愛く見えたものが、倉庫に持っていった途端にちょっとやそっとでは取り扱えない凶暴なゴミに見えた、という体験がカタログのなかで書かれていました。移動によりコンテクストが変わることで、ものの見え方の浮き沈みが発生する面白さがあると感じました。設計の過程ではフィジカルな移動だけでなく、3Dデータへの移動もありましたが、そのコンテクストの変化によって浮かび上がったことはありますか?

砂山:あるものがもともと置かれていた場所から移動されることは、通常置かれているはずのない場所に置かれることや普段ならありえない組み合わせのものと並置される状況をつくり出します。そこでは、そのもの自体が持っている文脈が剥奪されて、新たな意味の付与や異化作用が起こります。そういった類の操作は、現代美術の領域では、コラージュやデペイズマン(脱領土化)といった手法から、レディメイドをホワイトキューブの中に置くことなど、伝統的に行われていることだと思います。建築やデザインでいうと、アンチデザインをはじめポストモダニズム期の手付きとして広く取り入れられたことかと思います。デジタルの文脈で言うと、インターネットなどはこのことが顕著で、てんででたらめで関係のないものたちが同じブラウザ上で隣り合っている状況があるかとおもいます。情報化された物たちが、お互いの文脈と関係なく共存している。けれど、じつはこういったことは日常的な現実の中でも当たり前のように起こっていることのように思います。今回据え置き型のレーザースキャナで解体前の住宅を1棟まるごとスキャンしたのですが、そのスキャニングデータを見てみると、スリッパやらフリルレースのカーテンやら、ふすまの柄やらがとても滑稽かつ凶暴にひしめき合っているように見えました。ホワイトキューブに持っていったときに不意にそのもの自体の存在の意味が前景化するように、機械の目を通して物事を捉えたときも同じようなことが起こりえます。今回われわれがやっていることは、このような物理空間の移動、情報空間と物理空間の移動、情報空間内での移動を繰り返していくことによって、意味の剥奪と付与の連続をつくり出し、われわれが直面している現実を増幅させ、それ自体が何であるかと問うきっかけを作ろうとしているのだと考えています。本ビエンナーレのテーマ「How will we live together?」はこの「?」の部分にこそ意義があり、設計行為を介してそのような問いをつくり出すこと自体に今日の建築の命題があるのだと個人的には解釈しています。

川勝:今回ものの移動やマテリアル、流通など、海外の現場でも面白い議論の土台になりそうなテーマが散見します。なかでも構法はかなり特徴的なテーマだと思いますが、改めて国際展示場の枠組みでこれらのテーマを発信する意義について教えていただけるでしょうか。

門脇:まず構法についてですが、丸ゴシック体の話と同様に、建築が内在する慣習的な構法が異なるコンテクストに置かれることによって、まったく別の見え方を獲得することを期待しています。日本のいつもの現場と同じ福元さんの無自覚な手つきが、イタリアでは別のものに映るかもしれません。見慣れたはずのものが国際展覧会の場で違ったものに見えるなら、つまり観客が持ち込む視点によってものに新しい光があたるならば、観客でさえも新しい価値のつくり手として展示に参加できる。そのようにして、実際にものを作ったりデザインしたりする主体だけではなく、それを捉える主体=観客をも展示に巻き込みたい。それが出来れば、全体で見ると誰がつくり手なのかわからない展覧会になるのではないかと思っています。

川勝:ありがとうございます。日本館のタイトルには「エレメント」という言葉が含まれていますが、レム・コールハースが総合ディレクションを務めた2014年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展における「Elements of Architecture」におけるエレメント論はどのように意識されてるのでしょうか。

門脇:コースハースの言う「エレメント」は非常にプラグマティックな構法や部品を指しています。「Elements of Architecture」で示されたのは、注目するに値しないはずの下部構造である「エレメント」がむしろ上部構造としての建築を変えてきたのだという歴史観で、その考え方には完全に同意します。一方でコールハースが提示したのは、機械や部品などと同様に非常にユニバーサルな概念としての「エレメント」で、対してわれわれは、エレメント一つひとつに対して個別性の高い微細なコンテクストを見出しています。われわれの視点はややアニミズム的すぎるかもしれませんが、コールハースと違うのはこの微細なコンテクストへの眼差しと言えますね。

解体した部材の仮組実験

もの、人の演劇性が領域を横断する

辻:今回の日本館の展示はとても開放的なプロジェクトで、すでに展覧会が始まっているようにも感じますし、モノの移動の展示ということもあり、どこまでが展覧会なのかという線引きが、時間的にも空間的にもよくわからなくなっているのが面白いですね。観客の参加も予定されていて、またカタログ内のコンテンツやこのインタビュー自体も今後のプロジェクトに影響するかもしれないということで、どこまでがチームなのかもわからない。僕自身インタビューを聞きながらこの展示について何かアイデアを出したくなるような衝動に駆られました。例えば、日本から出航した資材が今向こうの港で止められた状態で(2020年4月25日時点)、モノの移動の速度が遅くなることを考える契機になる。そのような今の状況に対する積極的な反応によって、このコロナ禍を前向きに捉えることもできるわけですよね。あるいは、《高見澤邸》は更地になった後どうなるのかや、会期後に資材はどこへ行くのか、といった展覧会前後の動きの観測とその表現も興味深いイシューですし、「動き」をテーマにしながらも起点と終点が定まらない流動性のあるプロジェクトだと思いました。

川井:移動というテーマのもとには会期後のものの転用やデザインのあり方も含まれますよね。

門脇:そうですね、古材を組み合わせるレシピをつくって、会期中にワークショップを行うことを考えています。古材で組み立てた家具をさらにどこかに引き渡すようなことも考えたい。皆さんにもぜひアイデアがあれば出していただきたいです。

吉本:展示には《高見澤邸》のエレメントが散りばめられていて、歩き回ること自体が楽しそうですよね。そしてものが別の見え方をする、つまりものに付帯する意味が変わることで、屋根の上に人が座る行為も生まれる。そして人の行動そのものがある種の演劇性を帯びていくのではないかと思いました。

門脇:展示のなかで実際に手を動かしてつくる人に光を当てようとしているところなど、演劇的だと言えるかもしれませんね。また長嶋さんには現場をイメージさせるような手ぬぐいをデザインしてもらっており、われわれや施工者、展覧会の監視員などが会場で身につけて、人自体も展示の一部になるようなことも考えています。

岩瀬:境界に揺さぶりをかけるような試みも行っています。日本館の庭園には、複数のアプローチが存在し、獣道もあったりと、人々がさまざまな方向から三々五々に訪れます。こうした人のふるまいに着目して、日本館の雑木林に獣道を通して巨木の下の木陰を人が佇む場所にできます。また、人のたまり場になっていた隣接するドイツ館の建築の基壇を観客席として見立て、そこから日本館のスクリーンを見られるような計画を考えたりしています。

木内:従来の博覧会は各国のパビリオンの中で展示とそれを見る行為が完結しています。各国パビリオンの間の領域を積極的に展示場所にすることで、国別の枠を越えた新たな移動のシークエンスや人の行為が生まれるのではないかと考えています。

そして今回のヴェネチア・ビエンナーレの総合テーマは「How can we live together?」であり、いかに各国が交渉の場をつくりながらサバイブできるかが求められているのではないでしょうか。延期が決まった直後に韓国館から共同声明の呼びかけがあったこともすでに「How can we live together?」の枠組みになっている。われわれも展示を通して国と国の境界を融解するような発信をして、旧式の博覧会形式を変えるような積極的な試みをしていきたいと思っています。

青井:今日は日本館の考え方について皆さんのお話を伺いながら、僕はアルド・ロッシのことを考えていました。ロッシの『都市の建築』(原著=1987)の和訳(大島哲蔵・福田晴虔訳、大龍堂書店、1991)のなかで「都市的創成物」という言葉が出てきます。かたい訳語ですが、イタリア語では「fatti urbani」で、fatti は「事実あるいは事物」、urbani は「都市の」という形容詞ですから、字義どおり訳せば「都市の事物」、つまりごくあたりまえの事物集積としての都市、といった意味にまずは理解するのがよいのではないかと僕は思っています。それは、ロッシにとって膨大な厚みそのもので、門脇さんの言う人間の認知を超える量がもたらす超越性といったことにも近い感覚があるんだと思います。そうしたものへの慄きというか、自分たちは決してその厚みにふれることはできない、自分たちはその集合的記憶とつながっているのだけど、つねに置いてけぼりを食らうほかない、そこからすべてをはじめるしかない、といった感覚をロッシは持っていたような気がします。

一方で、日本近代の建築理論は、長いこと建築や都市のごくありふれた「事実」をうまく捉えることが苦手だった。たとえばメタボリズムの「新陳代謝」なんて観念的すぎますよね。解像度が荒い、というか、端的にいえば西洋との差異の方が先に頭にあるという意味で図式的で、「事実」への慄きのようなものをじつは欠いていたように思うんですね。デザインサーヴェイにもそれは希薄です。

《高見澤邸》を素材として今回みなさんが日本館で試みることは、日本の都市や建築をめぐる「事実(fatti)」を捉えるという意味で、明治維新以降の建築史においてじつは類を見ないものなのではないか。当然、それは「事実」を「そのままに」といって済む話ではなく、何らかの解釈とか提示方法とかが介在するわけですけど、それがどんなものであるか、ヴェネチアで展示を見るのが楽しみです。いや待ち遠しい。

開幕後の外観のイメージ(© DDAA + villageⓇ)

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建築作品小委員会では、1980年生まれ以降の建築家・研究者によって、具体的な建築物を対象にして、現在における問題意識から多角的に建築「作品」の意義を問うことを試みる。