論考|対立する公共性と利便性・合理性

058 | 202108 | 特集:建築批評《MIYASHITA PARK》/Conflicting publicity and convenience / rationality

西田亮介
建築討論
Aug 3, 2021

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現代社会において、公共性と利便性・合理性が対立する局面は少なくない。公共性を規定するのは困難で手間がかかるのに対して、利便性と合理性を定義するのは遥かに容易だ。とりわけ価値観や歴史を巡る問題にほとんどといってよいほど関心を持ってこなかった/もっていない社会において、公共性なるものは合意可能な定義すら難しい。実務的にいえば、そのような社会で公共性を考慮するとは端的にコストである。得られる実利が見えにくいどころか、合意も得られ辛く、公共性を検討する「合理的理由」さえ求められがちだ。

それに対して利便性と合理性は、いったん定義してしまえば、それらの観点に基づく変数を設定し、説得的な論理を多くのクライアントが納得する/せざるをえないかたちで提示することはさほど難しいことではない。こうした論理は現代の行政、そしてそのような行政を展開する首長を、そして彼ら彼女らを後押しする「民意」ととても高い親和性を有している。行政と親密なデベロッパーや都市計画者とて無関係ではないどころかほとんど共犯者だ。そしてそれらはもはや反論するのは難しいレベルのモメントで動いているのみならず、「民意」の支持も得ている。殊更にジェントリフィケーションなどという言葉を持ち出すまでもないだろう。

現代の渋谷区の行政事情は、一見日本におけるそれらの「最先端」を走っている。広告代理店出身で、NPO経験を持ち、多様性を掲げる40代の気鋭の首長。知名度のある民間人を登用して、官民連携でスタートアップを応援するという横文字を多用する起業支援プロジェクト(「Shibuya Startup Deck」)。地価も高く、渋谷にオフィスやテナントを有すること自体がステータスだ。そもそも街全体が長期に渡る大規模再開発の過程にあり、駅の内外から周辺地域まで10年前と比較しても町並みは相当の変貌を遂げている。大阪駅と比べれば動線はわかりやすいが、それでも10年前の渋谷に慣れた世代にとっては今では路線乗り換えも一苦労なほどだ。

若者が集う街という渋谷の特徴は今も昔も共通する。だが、漫画やドラマを通して治安が悪いというイメージが広まったこともあって、象徴的な場所と目された「渋谷センター街」は前区長時代の2011年に「バスケットボールストリート(バスケ通り)」へと名称変更された。当初評判が悪かったはずで、今も全く定着したとはいえないが、公式名称は依然としてそのままでセンター街に戻そうという動きは寡聞にしてしらない。

2010年代を通じて、ハロウィンが季節の一大イベントに格上げされ、コスプレしてハロウィンを渋谷で過ごそうという人たちが増えるようになった。それらは一時期は「渋ハロ」などと呼ばれてトレンド視されたものだが、2018年の軽トラック横転事件などが報じられ、現区長のもと「健全化」が進められることになった。2019年に条例を通じて、路上飲酒や酒の販売自粛への協力が求められるようになったのである(「渋谷駅周辺地域の安全で安心な環境の確保に関する条例」)。同条例は「事業者の責務」として、「区が実施する酒類の販売自粛等の施策に協力しなければならない」と定める。コロナ禍によって行政の飲食店での/に対する酒類の販売自粛に対して多くの賛否が集まったが、それらと比べてみてもなかなか強い書きぶりであることがわかる。しかも平時における条例である。

宮下公園を巡って生じたホームレスや支援団体、アーティスト、スケートボーダーたちの異議申し立て活動と行政との衝突、その後の企業によるネーミングライツ取得から途中離脱、現在の「MIYASHITA PARK」に至るまでの経緯もそのような文脈に位置付けて捉えてみればそれほど驚くには至らない。それどころか、歴史的文脈から切り離して、物理的なアーキテクチャとして新旧の宮下公園とMIYASHITA PARKを比較するとき、前者を擁護する声はそれほど大きくはないのではないか。安心・安全、ユニバーサル・アクセス、先端的設備、公園の運営委託は官民連携と、現在の標準的な行政の評価軸からしても相当高い評価を得ることは目に見えている。まさに優等生だ。渋谷とほぼ関係することなく生活する筆者は宮下公園ともMIYASHITA PARKとも無縁だが、仮に同時期に両者を訪れることができたとしてもおそらくは後者を快適に思う類の人間の一人である。

10年ひと昔とは言ったもので、相応の時間が経てば多くの偽装を施した偽物もすっかり「本物」として定着する。しかし一皮剥いてみれば、例えばいまの渋谷で行っているスタートアップ支援なるものが多くの都道府県で行っている中小企業支援施策の枠組みを出るものではなく、名称を除くとごくスタンダードなものであることも見えてくる。筆者は2年ほど中小企業支援機関に務めた経験があり、その折に中小企業基本法を中心とする施策を一通り学んだ。呼び方こそ変われども、民間人登用によるハンズオン支援、官民連携、アントレプレナーシップとネットワーキングの促進は王道的手法だ。

効果があるのかないのかイマイチはっきりとしないことも付け加えておこう。「スタートアップの時代」云々という言説はまことしやかに、そしていつの時代もオピニオン・リーダーたちの口から何の根拠もなく語られがちだ。スタートアップの出口のひとつとされるIPO(新規株式公開)件数の推移で見ればリーマン・ショック、東日本大震災に見舞われた2000年代末と比較すれば2010年代前半は回復基調にあったが、過去5年はほぼ横ばいだ。企業数の推移で見れば、コロナ禍と無関係に大企業、中規模企業、小規模企業いずれも減少傾向にあった。ちなみに、2000年代続いた開廃業率逆転現象こそ2010年代は逆転していたが、2015年以後また開業率は大きく落ち込み、再び廃業率に接近傾向にある。IPOだけが起業の出口であるとはいえないが、ロクな出口も見えないのにやたらと喧伝される「スタートアップの時代」なるものを示されると、アベノミクス時代から続くカネ余りのはけ口か、質の悪いババ抜きのようにも見えてくる。

また渋谷は「ビットバレー」などと呼ばれる前からITの街であった。最近では再度渋谷発の企業が集まって、またここでも行政と連携して官民で再度盛り立てていこうという機運もある。だが、思い返してみれば、初期のビットバレーは当時の行政の思惑とはほぼ無関係に発展を遂げたものであった。そもそも90年代のIT業界は日本においてさえ、まだカリフォルニアン・イデオロギーに象徴される反体制的側面や権威への挑戦という稀有な態度を有していた。

それも今や昔のこと。最近では、何かあればすぐさま行政や既存の大手企業とも協調、根回しして、無駄な対立を好まないのが今風だ。官民の調和と協調、連携による合理的かつ迅速な問題解決などといえば、実に行政にも好まれそうだが、最先端のITタウン構想なるものの内実にもさほど新しいものが見えてこないどころかよく見ればもはや歴史になりつつある90年代の復古調だ。人々が喝采を送っている対象や政策にはそれほど実態がなく、もしかすると現代の渋谷の良さなるものは全く別の箇所にあるのではないか。

結論を先取りすれば、渋谷というのはそういう街なのだ。いや、渋谷だけではないのだろう。実態や歴史とそぐわない機能と配慮に満ちた合理的で快適な都市計画や戦略、開発が独り歩きし、いつの間にかそれらしい表層が出来上がる。しかし本当の最先端はそこではないどこかにある。そして評価の対象は評価者によってチグハグになり、記憶と記録もいつの間にか都合良く書き換えられていく。実にデタラメだが、東京五輪2020を巡るドタバタでも露呈したように、とても日本的だ。

このような社会における公共性とは何か。バブル崩壊までは経済成長と消費に覆われ、バブル崩壊後はコスト削減と下方への競争で疲弊し尽くした社会において、公共性を巡る議論は果たして可能なのだろうか。コロナ禍での政治、五輪の混乱を想起するまでもなく、コストカットと競争以外の「公共性」なるものはさっぱりわからないし、広く共有されてもいないだろう。言うまでもなく、安心・安全、快適性、ユニバーサル・アクセス、配慮も重要だ。しかし、これらが掲げられると最近では途端に皆、声が小さくなってしまう。このような社会において、それらと衝突しうる可能性があるというとき、企業や行政、他の誰でもよいのだが、誰かが高いコストを払ってまで、リターンも見えない、それら以外の観点から公共性の議論を展開しようなどと思うだろうか?

©️三井祐介

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西田亮介
建築討論

1983年京都生まれ。東京工業大学准教授。博士(政策・メディア)。 専門は公共政策の社会学。著書に『コロナ危機の社会学』(朝日新聞出版)、『情報武装する政治』(KADOKAWA)、『メディアと自民党』(角川書店)多数。