論考|SNSで「表面化」する建築写真

大山顕/Architectural Photography that “Surfaces” on SNS|049 | 202011 | 特集:長谷川健太 ── 現代建築写真のケーススタディ

大山顕
建築討論
Nov 1, 2020

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建築を知る手段は「ほとんど国内であれ、国外であれ、建築写真によって」であり、「建築にとって、建築写真とは、カガミのようなものである。カガミによってしか己れの評価を知ることができない」と菊竹清訓は述べた(*1)。岸和郎も「僕たち建築家は3次元の建築空間を概ね写真というメディアでしか伝えられない。しかも、実物という3次元より写真のほうがいいし、実物が勝る例はごく稀です」と語っている(*2)。建築の存在は実物によってではなく写真によって知られ、それだけでなく、作品の素晴らしさすら実物ではなく写真によって表現されるというのだ。つまり、ある意味建築は写真に撮られることによって「完成」する。

一方で、いまやカメラと言えばスマホのカメラアプリのことであり、写真といえばSNSで見る写真のことである。もちろん写真集も雑誌もなくなってはいないし、写真作家はプリントしたものを展覧会で展示しているし、フルサイズのカメラで撮影する人もいなくなってはいない。しかし、世の中のほとんどの人にとっての写真経験は、もっぱらスマホの画面の中で起こっている。たとえばインスタグラムの一日のアクティブユーザーは5億人を超えている。写真家のぼくでさえ、現在、一日のうちで目にする写真のほとんどはSNS経由である。このような「写真のスマホ/SNS化」は建築写真にも及んでいる。インスタグラムで有名な建築系アカウント「archdaily」はフォロワー数297万人、建築写真を多くポストしている人気デザイン系アカウント「design boom」と「dezeen」はそれぞれ315万、282万のフォロワーを持っている(いずれも2020年10月現在)。

本稿で考えたいのは、建築にとって重要な写真が、スマホ/SNSで見られるようになると何が起こるか、である。結論から言えば、建築がボリュームや空間や構造を持ったものとしてではなく「表面」のものとして見られるようになっているのではないか、というものだ。以下からそれを説明しよう。

スマホ画面の「小ささ」

スマホの画面は小さい。そしてSNSでは既知のものしか人気を集めない。この2点が建築写真に影響を与えている、というのがぼくの主張だ。まずはスマホの画面が小さいということについて、考えてみたい。写真がデジタル化し、もっぱらスマホで撮影・閲覧されるようになり、さらにSNSでシェアされるようになって盛んに議論されたのはその拡散性についてだった。しかし、写真の複製されてコピーが広く出回ることの意味は、以前からさんざん論じられてきた。確かに銀塩の時代と現在とでは拡散の規模とスピードが桁違いであり、そこに今までにない事態が発生しているのは確かだ。SNSの炎上はその最も分かりやすい例だろう。だがぼくは、スマホによってそこでやりとりされる写真が物理的に小さくなったことに特に注目したい。そんなの当たり前じゃないか、と思うかもしれないが、これはかなり重要な出来事だと考えている。特に建築写真については。

物理的に小さいことが写真の表現に大きな影響を与えるであろうことは、建築にたずさわる皆さんにはよく理解できるだろう。なぜなら図面や模型の縮尺の重要性をよくご存じだからだ。スケールが変わると表現できることが全く変わる。縮尺の違いは、世界の見え方が変わると言うことだ。同時に、縮尺するということは、部分と全体を同時に見るということでもある。そしてそれには図そのものの物理的な大きさが重要になる。拡大ボタンを押したりピンチアウトする必要なく、近寄って部分に注視すれば詳細を見ることができ、引いて眺めれば全体を見渡すことができる。スムーズに全体と部分を行き来することができるのは、メディアが大きいからだ。紙の図面がなくならない理由はそこにある。紙の利点は巨大さだ。この点に関し、いまのところどんなディスプレイも紙にはかなわない。

図面や模型と同じように、全ての建築写真は縮尺されている。実物大の建築写真というものは存在しない。あったとしても写真として意味がない。冒頭の引用にあるとおり、ときに実物の建築よりも写真の方が魅力的にうつることがあるのは、写真は縮尺されているがゆえに全体と部分を同時に見ることができるからだ。現実の建築ではそのように見るのは難しい。しかし、前述の通りそれには写真にある程度の大きさがなくてはならない。ところがスマホの画面にはそのような大きさがない。これが問題なのだ。

iPhone11の画面サイズはおよそ65mm×140mmである。インスタグラムの写真の多くは正方形だから、そこにポストされた建築写真はおよそ65mmの正方形で見られることになる(長方形のものもポストできるが比率に制限がある)。かつてフィルムカメラで撮影したネガを街のDPE屋に出し「サービス判」と呼ばれるサイズのプリントを受け取った経験のある人もいるだろう。「Lサイズ」とも言われたあの写真の大きさは127mm×89mmである。つまり、現在のぼくらはアナログ時代よりも小さい写真を見ているのだ。これはけっこう驚くべきことではないだろうか。もちろん画像の鮮明さは当時より格段に向上しているが、先に述べたようにぼくが重要だと思うのは写真自体の物理的な大きさである。

人物写真と建築写真

写真の歴史上、このスマホの画面のサイズに近い写真が大流行したことがある。19世紀に大流行したカルト・ド・ヴィジットである。これは、当時勃興してきたブルジョワジーがこぞって写真館に行き、カメラマンに自らの肖像を撮らせたものだ。仕上がりサイズは約64×102mmで「名刺写真」とも呼ばれた。ぼくの考えでは、このような小さい写真は、ポートレイトに向いている。前掲のインスタグラムアカウントは建築やプロダクトを専門にポストしているが、インスタグラム全体からするとこのような写真は少数派で、大多数は自撮りなどの人物写真である。

カルト・ド・ヴィジットもインスタグラムも、両者がともにもっぱら肖像を映し出しているのは偶然ではない。メディアの大きさがそうさせているのだ。一般的な人物写真は、部分と全体を同時に見る必要のない写真である。人の顔というものは、全体を漫然と眺めることで十分魅力的で、むしろ詳細に毛穴を観察したりすることは避けるべきだ。建築と同じように皺やシミといったディテールを克明に映し出したポートレイトもあるが、それらは例外的な芸術作品であり、インスタグラムの自撮りからアイドル写真、証明写真など、一般的な人物写真は顔全体を見るためのものである。カメラアプリの修整加工、いわゆる「盛り」の基本が毛穴や肌のシミ・陰影を消し去ることを基本としているのはその証だ。建築写真ではありえない加工である。写真における顔の魅力とは、もっぱら形状とパーツの配置にあって、ディテールにはない。建築写真と人物写真の大きな違いはここにある。インスタグラムが写真を拡大できない仕様にしているのも、建築写真が例外であることをよく表していると思う。

画面が小さくなり、部分と全体を同時に見ることができなくなると、建築写真はどちらかだけを表現するようになる。ぼくの印象では、インスタグラムにポストされる建築写真は、造形やシルエットを画面構成したものと、ファサードやインテリアの反復パターンを切りとって見せたものとの、大きく2種類に分類できる。注目すべきは、どちらの場合も、画面作りが二次元平面をいかに分割するか、という、いわば図と地の構成を基本としている点だ。画面が小さいことが、ぱっと見て印象的な構成にすることを求めている。前述したように、インスタグラムの写真は拡大できない。ブルータリズム建築がインスタグラムで人気を博す理由は、コンクリートの肌理のクローズアップ、部材の反復、シルエットの力強さ、といった特徴が小さい画面でも映えるからだ。

つまり、スマホで見る小さな建築写真は、ボリュームや空間を感じさせるものではなく、もっぱら写真上の平面構成を主眼とするものになっている。冒頭で言った、建築写真が「表面のもの」になっているというのは、そういうことだ。

建築写真の「映え化」

インスタグラムの写真の特徴を表す言葉として、一時期盛んに言われていた「映(ば)え」という言葉がある。揶揄気味に使われたこともあって、最近は聞かれなくなったが、この言葉が意味するものは、SNSの写真の特徴として不変だろう。つまり、ぱっと一目で気を引く写真である。画面が小さいということは、言い換えれば情報量が少ないということだ。じっくり見て様々なことが読み取っていく、というものではない。アイドル写真のようなものだ。「映え」とは平面構成の快楽である。スマホの画面に最適化することによって、建築写真もまたこのような欲望に応えるようになる。建築写真のグラビア写真化、とでも言うべきだろうか。

SNS特有の「タイムライン」というインターフェイスもまた、建築写真の「映え化」に拍車をかける。ぱっと見が勝負になる理由は「小ささ」だけではなく、タイムラインのせいでもある。興味があって自分でフォローしたアカウントとはいえ、毎日大量に流れていく写真たちのなかで目を引かなくてはならないのだから。スクロールする指先を止めさせる強度が必要になるわけだ。

しかし、そもそも写真とは「表面」しか撮ることができないものだ。全ての写真は平面構成である。建築写真が表面以上のものを表現するとしたら、それは編集のたまものである。異なる視点から撮った複数の写真の組み合わせ、細部に寄ったものと全景との対比、構造をとらえたものとインテリア、空撮。さらにそこに加えられるキャプション、設計者のステイトメント、批評家の言葉、平面図、などなど。建築写真は決して一枚で建築を表現しない。写真から表面以上のものを読み取れる「テクスト」として存在しうるのは、他の様々な情報と共に提示されるからだ。

ところが、SNSのタイムラインは「編集」できない。スマホの画面に現れるのは、それぞれのユーザーがフォローした他のアカウントの写真との偶然の組み合わせだ。建築写真が含まれたタイムラインを、あえてテクストとして読むことはできるだろう。たいへん興味深い批評になり得ると思うが、そうして読み取れるのは写真に映っている建築について知ることとは別の何かだろう。

テキストや図面と共に写真がレイアウトされた平面とは、要するに建築誌である。どのようにテクストや図面と共に編集されるか、ということが、じつは建築写真を建築写真たらしめているとぼくは思う。極端な表現をすれば、編集された誌面全体が「建築写真」なのだ。この意味でも、メディアの大きさが重要なのである。だから、大判の建築誌や建築作品集はなくならないだろう。

インスタグラムの写真はなぜ正方形なのか

インスタグラムの正方形フォーマットも、写真を映える平面構成に傾倒させる原因になっているとぼくは思う。インスタグラムの正方形は1963年に発表されたコダックの「インスタマチック」を踏襲していると言われる。このカメラはそれまで主流だったブローニーフィルムを使う正方形フォーマットを踏襲している。インスタグラムが成功した理由としていくつかの要因が語られているが、ぼくはこの正方形フォーマットがかなり効いたと思っている。小さい画面上で様々な人によって撮られた写真が流れていくというインターフェイスにとって、次の2点において正方形はよく合っている。

まずひとつ。インスタグラムは基本的にスマホのためのSNSだ。パソコンでも見ることはできるが、そうしている人の割合はかなり小さい。そうなると、縦長の画面で写真を見ることになる。このとき辺の長さが画面の横幅で統一された正方形の写真は、その余白にハッシュタグやコメント欄を配置しかつ前後のポストが少しだけ見える、というちょうど良いデザインをもたらす。正方形は、タイムラインにおいて、もっとも大きく写真を見せつつ必要な情報を一画面に配置できる効率的なフォーマットであるといえる。

もうひとつは、それによってタイムラインに統一感がもたらされるというものだ。TwitterやFacebook、LINEといった他のSNSでも写真をポストすることができるが、写真の縦横比も解像度もまちまちなため、写真を見るメディアとしては雑然として洗練されていない印象を受ける。インスタグラムが写真をシェアするためのSNSとして急速に支持を得た理由は、そのスタイリッシュさにあったが、それを支えた理由のひとつがこの統一性だった。写真をあえて拡大できないようにしたのも、あくまで綺麗に整えられたタイムライン上の見栄えで完結するためだろう。

このようにして、こんにち最も見られている写真は「小さな正方形」になったわけだ。前述したようにiPhone11の画面サイズはおよそ65mm×140mmなので、インスタグラムの正方形は、ブローニーフィルムの「6×6」をベタ焼きしたサイズに近い(「6」は6cmのこと。実際のフレームサイズは56×56mm)。透過光であることを考えると、ブローニーのリバーサルフィルムををライトボックスで覗いている、という感じだろうか。こう表現してみると、スマホの写真がいかに小さいものかがよく分かる。

建築写真のアイコン化

小さい正方形は、中心に見せたいものを置く、という構図が最もしっくりくる。というよりも、それ以外にあまりやりようがない。画面が小さいので見せたいモチーフはひとつだけにならざるを得ない。長方形の写真フォーマットには三分割の法則などいくつかの構図セオリーがあり(ぼく自身はこれらをあまり信じていないが)、まん中に被写体を置くのは「日の丸構図」などと呼ばれ稚拙とされたが、いまやSNS上の写真の定番はこれである。あとは対角線を意識するか上下左右に分割するかぐらいだ。いずにせよシンプルで力強い構図が効果的だ。正方形フォーマットではとにかく単純な構成がいちばんで、言い換えれば、そうすればたいていの場合しっくりくる。ある意味万能のフォーマットである。

長方形の場合、横位置と縦位置で異なるセオリーがあり、被写体に応じてどちらを選ぶべきとされた(現在はあまりこだわらないが)。英語で横位置を「Landscape」、縦位置は「Portrait」と呼ぶことにそれが表れている。また、絵画においても、フランス発祥のキャンバスの規格には、人物を描くのにふさわしい「F(Figure)」、風景用の「P(Paysage)」、海景の「M(Marine)」と縦横比の異なる3つがある(これも現在はあまりこだわらない)。人物用がもっとも正方形に近く((√5–1):1の近似値)、海景用が最も細長い((√5+1):1の近似値)。黄金律を元にして決められたというが、ほんとうにこの比率に意味があるのかどうかはさておき、ぼくが興味をひかれるのは、ここでもやはりポートレイトとランドスケープで比率を変えるべきだとしている点だ。比較的最近規格サイズとして一般化した「S(Square)」もあるが、やはり絵画のフォーマットも主流は長方形だった。従来の平面芸術においては長方形の縦横比は内容に応じて選ぶべきものだったのだ。この意味でも、正方形は万能のフォーマットといえるかもしれない。

目を引くように画面構成された、正方形の画像が並ぶ、という光景はかつてのレコード・CDジャケットを彷彿とさせる。インスタグラムのタイムラインは音楽通販サイトやミュージックプレイヤーのビジュアルと似ている。つまりインスタグラムにポストされた写真は「アイコン」あるいは「サムネイル」であって「コンテンツ」ではない、ということなのかもしれない。「小さな正方形」は、もっぱら目を引くためにその平面的な構成のみを気にかけるためのフォーマットであり、被写体の内容に関する情報を伝えるものではないのである。そしてこんにち、建築写真もこの体裁で見られている。

「いいね」は既知のものにしか付かない

画像フォーマットだけでなく、そもそもSNSの性質自体が、写真を目を引く平面構成に特化したものにさせる。これが最初に言った、建築写真に影響を与えている2つの特徴のうちの2つめである。前述したように、SNSの写真は、毎日大量に流れていくものたちのなかでいかに目を引くか、という点に腐心する。多くの人の目にふれるためには「いいね」を獲得しなくてはならない。ぱっと見てすぐに「いいね」と思われるかどうかが勝負だ。じっくり一晩考えてシェアボタンを押すというものではない。出会い頭が勝負だ。このような「いいね」は既知のものにしか付かない。今まで見たこともないもの、批評と共に読み込んでようやく「なるほど」と思えるものには「いいね」は付かない。要するに複雑なものはシェアされない。すでに良いとされているものの見た目を踏襲した、どこかで見たような画像が脊髄反射的に広まっていく。これは従来の批評的・美的な建築写真が目指したものと正反対だろう。

ちなみに、前述したカルト・ド・ヴィジットがこの大きさになった理由は、もっぱらコストの問題からであった。考案者であるとされるディスデリは、マルチレンズを備えたカメラによって一枚のネガに八から一〇枚の写真を撮影することで、写真一枚あたりの価格を下げることに成功した。結果として像の鮮明度は下がったが、それでも肖像には十分な大きさであった。そしてこの複製枚数と「小ささ」によって、人々は自分の写真を交換することができるようになった。つまりこれはプリクラの祖先である。あれも交換を前提として、ぎりぎり顔が判別できる小ささにすることで一枚あたりの単価を抑えた。今思えばプリクラの交換はSNSのフォロー、「いいね」と似ている。カルト・ド・ヴィジットにおいては、交換だけでなくまったくの他人やセレブのものを集めるマニアも現れ、専用のアルバムも出回ったというから、いよいよこれはプリクラ、そしてインスタグラムと同じだ。つまり、SNSによって建築写真はシェアされることを目的とした「プリクラ写真」になったのだ。

建築写真はSNSによって見られることによって、その「小ささ」「正方形フォーマット」「シェアされるための条件」によって、「表面だけが愛でられる」ものになった、というのがぼくの主張である。そしておそらく、これは遡及的に建築デザインそのものに影響を与えるだろう。つまり、SNSで映えるための建築デザインが増えるのではないか。すでにそうなっているかもしれない。デザイナーに「小さい画面で見たときにアピールするデザイン」が発注されていたとしてもぼくは驚かない。実際、ファッションの世界ではそのようなことがすでに起こっている。例えば2018年末にラフ・シモンズがカルバン・クラインのデザイナーを退任したその理由は、彼のデザインがSNSで写真映えしないからだった。直接の原因は売り上げの減少だが、SNS上での彼と彼のデザインするアイテムの影響力のなさがその背景にあると言われている。

表面フェティシズム

SNSの写真だけでなく、現在盛んになっている視覚表現全般が「表面化」していると感じる。たとえば複数アングルの写真から立体データを得るフォトグラメトリがそうだ。フォトグラメトリは3Dだが、表面だけでできている。蝉の抜け殻のように、薄い皮一枚が立体になっている。つまり、構造がない。3DCGでは表面に質感を貼り付ける「テクスチャマッピング」が行われるが、あれを写真と距離計測によって行うのがフォトグラメトリだ。

新しいiPhone12にはLiDAR(ライダー)センサーが搭載された。これはレーザーで物体を照らし反射光が戻ってくる時間によって物体表面の距離を精密に計測するものだ。おそらく今後ますます3Dマッピングが盛んになるだろうが、これらのデータは基本的に表面だけでできている。もちろん構造を含めた3Dデータも存在するが、ゲームやARなど、現在ぼくらが目にする「臨場感」ある3Dのほとんどは内部を持っていない。BIMと比較するとその「表面性」がよく分かる。

ドローンによる建築撮影も、写真の「表面性」を際立たせるとぼくは感じている。結局のところ、建築撮影でドローンが行っているのはいわば「表面のスキャン」だ。ドローンはこれまで容易には撮れなかったアングルからの撮影を可能にしたことによって、むしろ写真というものがどうしたって表面しか撮れないものだということをあからさまにしたとぼくは思う。かつて空撮は、そのコストによって特別なものとしてとらえられた。建築の世界において、上空からの視線は、一種特別なものとして扱われてきたが、いまやパース絵とたいして変わりがない。上からの眺めは日常的に目にすることができる「第2のファサード」になっている。フォトグラメトリといいドローン撮影といい、そしてSNSの写真といい、現在多くの人を魅了しているのは「表面フェティシズム」とでもいうべき表現だな、と思う。

SNSにポストされる建築写真を見ていると、竣工前に発表される完成予想CGのようだな、と感じる。これまで述べてきたように、写真が建築の見た目だけを伝えるようになっていることによるが、それに加え3DCGが正確かつ緻密になっていることも合わせてその感を強くしている。見栄えを追求した建築写真が、完成予想パースに似る、というのは考えてみれば当然だ。思えば、建築において構造と意匠が分離して久しい。ずいぶん以前から建築はいわば「表面化」していたのではなかったか。だとすれば、スマホとSNSによって建築写真が変わったのではなくて、両者が互いの「表面化」を進めている、と言ったほうが正確かもしれない。おそらく多くの人々は建築をマインクラフトの中に出てくる建物と大して変わらないと思っている。

窓、カーテンウォール、ポツ窓

さて、おそらくこの文章を読むと、ぼくが現在のSNSの建築写真の状況を嘆いていると思われるかもしれない。「表面」という語も揶揄めいている。しかし実はまったくそんなことはない。建築写真が表面化すること、さらにそれによって建築が表面化する(かもしれない)ことは、健全なことだと思っている。冒頭で「いまやカメラと言えばスマホのカメラアプリのことであり、写真といえばSNSで見る写真のこと」と言った。これは間違っていないが、建築写真に関して言えば、スマホとSNSで建築写真を見るようになった人々のほとんどは、これまで建築写真など見たことがなかった人々だろう。スマホ普及以前から建築雑誌や展覧会で建築写真を見てきた人々は、今も相変わらずそれらのメディアに接している。スマホによってのみ建築写真を見る人々は、そもそもSNSがなければ建築写真など見ないはずだ。ということはつまり、ここ数年で建築写真を見る人が増えたわけだ。ぼくはこれは喜ばしいことだと思っている。

スマホ以前の携帯電話に付いていた画面の周囲には確固としたフチがあった。それは携帯電話という筐体に開けられた窓のようだった。そう思いながら現在のスマホに目をやると、全面が強化ガラス張りとなった画面はまるでカーテンウォールのように見える。そして、インスタグラムの正方形が流れるタイムラインは「ポツ窓」だ — — と言ったら言いすぎだろうか。


*1 ── 菊竹清訓「建築家にとって写真とは」、『建築雑誌』1979年10月号、日本建築学会、13〜14頁
*2 ── 小川重雄、岸和郎「錯綜する『建築写真』」、『建築雑誌』2010年7月号、日本建築学会、20頁。

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大山顕
建築討論

写真家/ライター。1972年生まれ。千葉大学工学部卒業後、松下電器株式会社(現Panasonic)に入社。10年間勤めたあと、写真家として独立。著書に『工場萌え』『団地の見究』『ショッピングモールから考える』『立体交差』『新写真論』など。Instagram:@ken_ohyama / Twitter:@sohsai