転換局面にある都市社会の表象 ───太陽が隠れ、星空がざわめく
太陽と星空
まちづくりの現場に「ワークショップ」という技術が導入されたのは1974年のことであるが、あちこちで使われるようになったのは90年代の後半のことである。ワークショップはそれまでの、机を囲んだ、堅苦しい議論や協議の場の雰囲気を刷新し、なにやら新しい価値を生み出す創造的な場へと転換したし、さらにはそういった場にそういった思考方法を好む人たちを呼び込み、まちづくりを担っている人たちをも刷新していった。
大学院生だった筆者も、所属していた研究室で開発した3Dデザインゲームというワークショップの技術を現場で使ってみて、そこでたくさんの人たちが思いもよらないアイデアを出したり、それを一つの形に組み上げていくさまを、面白いものだと考えていた。3Dデザインゲームの基本はスタイロフォームに街並みの写真を貼り付けた積み木を積み上げていく、というものであったが、それを並び替えたり、積み上げたりを無心で繰り返す人たちの手つきと、そこにあらわれた表象をどのように分析しようか、という研究に取り組んだりもした。そのときに、誰かが「箱庭療法に似ているかもしれない」というようなことを言い出し、少しだけ心理学の文献を読んだことがある。箱庭療法は20世紀の前半にユング心理学を基盤としてヨーロッパで開発され、1960年代に河合隼雄によって我が国に紹介されたものである。どの文献で読んだことなのか忘れてしまったのだが、意識と無意識の関係は太陽と星空のようなものだ、という比喩を覚えている。
日食の瞬間に空を見上げたことがあるだろうか。太陽が月に隠れたその瞬間に、そこには一瞬だけ星空が広がる。このことは、私たちが昼間に見上げている一面の青空にも、常に星は輝いている、という当たり前のことに気づかせてくれる。その星が見えなくなっているのは、太陽があまりにも強く輝いているからであり、太陽が姿を隠すと、そこに星の輝きが見えてくるのである。もちろん滅多におきない日食を待つことなく、このことは日々の日没で十分に経験することができる。
意識と無意識の関係は、この太陽と星空の関係に例えられる。つまり日中の、私たちが「起きている」時間帯は、意識が強く輝いているため、無意識は星空のように隠れている。しかし一度私たちが眠りに落ちると、意識が日没のように光を失い、そこに無意識が星空のように燦々と輝き始める。それはいわゆる「夢」として、私たちを楽しませてくれることもある。
ワークショップでの表象にも、意識的な手つきと無意識的な手つきでつくられた表象がある。意識的な手つきとは、例えば「みんなが納得するような街をつくってやろう」というようなことを考えながら動かす手つき、無意識的な手つきとは、スタイロフォームの積み木が手のひらに与えてくれる感触を頼りに、無心で造形に取り組んでいるときの手つきである。いつもいいことを言っている張り切ったリーダーは、意識に縛られた造形をすることがあるし、逆にほとんど発言をすることのない目立たないおばさんが、にっこりと笑って無意識の造形を作り出すこともある。
張り切ったリーダーが、最後に民主的な手つきでいくつかの造形を統合し、「みんなで考えたこの形でいこう」と高らかに宣言し、目立たないおばさんも含めた参加者が意識をあわせて「賛成だ」と同調するのが、ワークショップである。ワークショップはそもそも何かを決める場であって、セラピーの場でも、芸術的才能を高める場でもない。何かを決めるときに、無意識はそっと隠れてしまい、白昼の意識が物事を決めていく。しかし、そこにはいつも無意識が弱く輝いており、私はいつも、それをそっと覚えておくことにしている。
コミュニティ
ワークショップは戦後に培われた地域社会における民主主義の現場の一つであるが、もう少し地域社会の全体にこの太陽と星空のイメージを展開してみよう。
この特集の問題提起に沿うと、近代の国民国家と帝国が形成されていく19世紀以降、社会はバラバラなものとなった。バラバラだと問題を解決することができないので、地域社会に様々な概念と政策が導入され、バラバラになる人々を繋ぎとめようとしてきた。よく知られているものは1969年に導入された「コミュニティ」であろう。同年に国民生活審議会より出された「コミュニティ 生活の場における人間性の回復」というレポートでは、コミュニティという言葉を「生活の場において、市民としての自主性と責任を自覚した個人および家庭を構成主体として、地域性と各種の共通目標をもった、開放的でしかも構成員相互に信頼感のある集団」と定義している。とくに人口が流入した都市部の地域社会では人々の紐帯が十分に形成されていなかった。コミュニティという言葉はそういった地域社会に対して、人々を結び付けるための命題として提出された。命題とは、みんなが力をあわせて解く、なぞなぞのようなものと考えたらわかりやすいだろうか。「コミュニティとは何か」というなぞなぞに対して、多くの人たちが答えを考える。そのなぞなぞにはばっちりとした正解が準備されているわけではないが、面白そうなので、解きたくなってしまう。バラバラな地域社会に対して、さあみんなでこのなぞなぞを解きましょう、と呼びかけ、その答えを考えることを通じてコミュニティらしきものができていく、という仕掛けである。建築や都市計画も、その謎解きに取り組んできた。コミュニティセンター、コミュニティ広場、コミュニティ道路など、コミュニティを表象する建築や都市空間はたくさん開発されてきた。
完璧な答えにたどり着いた人々がどれくらいいるのか分からないが、このなぞなぞは、とてもよいなぞなぞだったのだと思う。戦後の都市拡大期に都市に出てきたばかりで、弱い紐帯の手がかりしか持っていなかった人々の行く手を照らし、紐帯を形成するエネルギーを与えたもの、というと言い過ぎだろうか。弱く光る星空のようだった地域社会にもちこまれた太陽のようなものだったのである。
コミュニティとアソシエーション
コミュニティというなぞなぞは、どれほど有効なのだろうか、まだそれは太陽のように輝いているのだろうか。少しだけ用語にこだわると、コミュニティという概念はマッキーバーという社会学者が20世紀初頭に「アソシエーション」の対概念として提唱したものである。コミュニティは「一定の地理的範域に居住し共属感情をもつ人々の集合体」を、アソシエーションは「共通の目的を持った機能的な結社」を指す。土地で結びつくのがコミュニティ、目的で結びつくのがアソシエーションである。この二つの概念に照らし合わせてみると、1969年のなぞなぞは、もともとのコミュニティという言葉に、アソシエーションの要素を混ぜ込んだものであると理解できる。1969年のコミュニティの定義には「各種の共通目標をもった」、とはっきりと書かれているからである。そして私たちがなぞなぞを50年間解き続けるうちにおきたことは、コミュニティがどんどんアソシエーションの集合体になっていくこと、コミュニティに仕込まれたアソシエーションの要素がどんどんふくらみ、それがコミュニティというなぞなぞの正解にならんとしていることである。たったいま、多くの人たちが「コミュニティデザイン」という言葉のもとで実践しているものを、二つの概念に照らし合わせてみると、そのほぼすべては「アソシエーションデザイン」であろう。そして、その人たちがたくさんの言説のなかで強調していることは、アソシエーションの目的をさらに尖らせること、「やりたいことをやろう」「ビジョンを明確にしよう」「稼げるようにしよう」といったことであり、それは要するに、マッキーバーが唱えたほうの「コミュニティ」の軽視である。地域社会は「尖ったアソシエーションと弱いコミュニティ」の組み合わせで構成されているのである。
筆者は、あちこちで尖ったアソシエーションが出来ている状況を肯定的に考えてはいるが、これから先のこと、人口が減っていくなかで、地域社会がどうなるのかという問題を考えておきたい。そのときに前提としなくてはならないことは、共通の目的によって結びつくというその定義上、アソシエーションには「終わり」があり、一方のコミュニティは、それを結びつけている土地がなくなることはないので、その土地から最後の人が立ち去るまで「終わり」はやってこない、ということである。
転換期にある都市社会
人口が減っていくとどうなるだろうか、ここ10年ほど、あちこちでそんな議論が重ねられてきた。人口が減る、だからこれからコミュニティの時代です、という言説を目にすることもあるが、これはあまり正しくない。人口が減少すると、政府も縮小するし、市場も縮小するが、コミュニティも縮小するからだ。とくに、政府や市場に比べるとコミュニティはほぼ人的な資本だけに依存しているため、人口の変動の影響を最も受けやすい。1969年以降の地域社会は「コミュニティ」というなぞなぞを解くことによって、人々の紐帯を形成し、それがアソシエーションに主役の座を取って替わられてしまったとしても、紐帯を形成し続けている。それはあとしばらくは続くだろうし、できるだけ長く続いてほしい。しかしいずれ、日が沈むように1969年のなぞなぞが魅力を失い、その紐帯は失われていくはずである。私たちが終わりがあるアソシエーションにばかり注力し、終わりのないコミュニティを、結局のところうまく育てられていないからである。
そのときに、地域社会において紐帯が弱まり、人々が再びバラバラになりアトム化する、ということを言いたいわけではない。太陽と星空のイメージを思い出してみよう。太陽のような「コミュニティ」が薄れたときに、そこに現れるのは暗闇ではなく、太陽の光によってかき消されていた星空のはずである。
コミュニティという概念が持ち込まれる前の人々はなぜバラバラだったのだろうか。「アトム化」という言葉からは、均質なバラバラさを連想してしまうが、人々のバラバラさは均質ではなく、様々なバラバラさを持っていたはずである。例えば大都市に鹿児島から出てきた人と北海道から出てきた人の、ゲイの人とヘテロの人のバラバラさは異なっていたはずだ。1969年以降の地域社会はこういったバラバラさを「コミュニティ」という概念で塗りつぶしてきたのであるが、それが光を失ってくときに、人々がそれぞれバラバラであることの固有の根拠が、星空として不均質に輝き出すのである。
太陽ほどの価値はないが、星空が無価値であるとは、誰も考えないだろう。そこには読み取るべきたくさんの意味に満ちている。そして、空間的なもののプランニングや、設計や、デザインを職能とする私たちがすること、できることは、このバラバラであることの固有の根拠を丁寧に読み取り、それに逆らわないように、それを支えたり、すこし整えたりするように空間をつくるということなのではないだろうか。私たちはデザインに強い力があると信じたいが、やりすぎると弱い星の光をかき消してしまうので、支えたり、少し整えたりという、控えめな態度がちょうどよいのだろう。
東北の震災復興の表象
最後に記憶に新しい東北の震災復興について検討しておきたい。
震災復興のあとのことを「復興まちづくり」と呼ぶことがあるが、普通のまちづくりと比べると、復興まちづくりは正反対のプロセスをとる。普通のまちづくりが、まちの問題を顕在化し、それをだんだん明らかにして、意識を一つに集中させていくプロセスをとるのに対し、復興まちづくりはいきなりすべての人たちの意識が覚醒した状態から始まる。あれが必要だ、これも必要だ、市役所はなんとかしてくれないのか、みんなで助け合おうよ、この町のリーダーはだれだ、親戚を頼るしかない、市長を呼べ、神様助けて、ボランティアが来てくれるかもしれない、twitterで発信しようよ、今こそコミュニティだ・・・など、あらゆる意識が総動員され、それぞれが持つ根拠を手掛かりとした紐帯が起動して、そこから資源を調達したり、それを通じて資源を交換したり、分配したりしてなんとか元の状態に戻ろうとする。それは外発的なビッグバンのようなものであるが、外発的であるがゆえにビッグバンは急速に収束する。「元どおりの、当たり前の仕事と暮らし」が復興において大多数の人が定めるゴールだからだ。太陽よりも強い光が一瞬発せられるが、急速に星空が顔を出す、と考えればわかりやすいだろうか。
プランニングや、設計や、デザインを職能とする私たちは、ついそこにコミュニティという紐帯や、それが表象する空間を持ち込んでしまうことがある。「市長を呼んでこい」と怒鳴っている人の隣で「コミュニティで助け合いましょう」と囁いたり、ほとんどを失って途方にくれている人たちに「コミュニティで集まる場所をつくりますよ」と呼びかけたりしてしまう。東北の風土に根ざした美しいまちを復興しましょう、みんなのシンボルとなるような建物をつくりましょう、こうした表象を実現するための根拠として、私たちはついコミュニティを持ち込んでしまいがちである。
もちろんそれは、やってはいけないことではないが、ここまで述べてきたように、コミュニティは太陽のように意識が輝いているときにだけ成立するものである。人々は、コミュニティも含めたたくさんの紐帯から資源を得て、それを使って復興していく。そのときに、コミュニティの紐帯がどれくらい使われたのか、つまりコミュニティの紐帯を通じて人々がどれほど復興の資源を手に入れたのか。1995年の阪神淡路大震災において、東北よりはるかに都市化され、まだ人口も増えていた神戸においては、コミュニティは政府の提供する資源を差配する機能をはたした。実に100近い「まちづくり協議会」がつくられ、なんとか差配をやりきったわけだが、そのことと比べると、東北ではコミュニティが差配した例は少ないのではないだろうか。
しかし、コミュニティが差配しなくとも、復興した地域はたくさんある。かわりにどういった紐帯が起動し、資源を差配したのか。被災地をくまなく見ているわけではないが、家族や一族の紐帯や、生業の紐帯が起動した例が多くありそうである。例えば筆者が調査した小さな村では、コミュニティは政府とつながってある程度の高所の土地を人々に差配したが、それ以上に家族や一族の紐帯が人々に土地を差配していた。そして一つ一つの建物やその外構にコミュニティっぽさがあらわれることはなかったが、気仙大工をルーツに持つ地元の工務店が、もう息子が帰ってこない老夫婦には小さな家を、子供世帯と同居することになった家族には大きな家をつくっていた。そこに出現したのは、地場産材をふんだんに使った街並みでも、緑豊かなエコタウンでもなく、素敵な路地がある空間でもなく、一見するとバラバラの風景であるが、それはコミュニティ以外の紐帯がよく表象されたものということなのかもしれない。
この景観は、決してよい景観、素晴らしい景観というわけではない。この景観に「コミュニティ」という言葉を使わないようにして、どのように介入できたのだろうか、筆者は繰り返し考えている。とはいえ、あらゆることが切実な速度で決定されていく復興まちづくりにおいて、そうした介入を試すことはそもそも難しいのであるが。
いずれにせよ東北の震災復興から学べることは、太陽のようなコミュニティをつくらなくとも、非常時には星空のような様々な紐帯が起動し、そこを通じて資源が差配されていくということであり、日没後の星空を嘆いたり、過度に恐れたりする必要はないということである。
そして、日没後の資源の差配の方法はコミュニティとは異なるはずであり、私たちはそれをあらためて注意深く学ばなくてはならない。
日が暮れた後の表象
日が暮れた後のひとつひとつの空間の表象は不均質でバラバラであるはずである。しかし都市のなかにそれらを並べてみると、その密度は低く、バラバラであることにすら人々は気づかないかもしれない。連帯や調整を求めないバラバラさ、とでも言えようか。そしてさらに都市を俯瞰して見ると、そのなかのあちこちに、コミュニティや公共や市場が資源を差配してつくる、太陽の強い光のもとで作られた、白昼の空間が散在する。
例えば美術館では、ファサードの装飾、空間の狭さや広さ、長さや短さ、高さや低さ、明るさや暗さ・・といったものを組み合わせることを通じて、経験の順序、歩く速さ、作品を見るときの目や手足の動き・・といったものを制限し、豊かな経験をつくりあげることができる。こういった空間はなくてはならないし、それは白昼の空間としてでしか作られない。空間の経験を通じて、人々の気持ち、人々の心の動きを整えることが白昼の建築の役割である。
都市の中を動き回る私たちは、日が暮れた後の空間と、白昼の空間を行き来することができる。白昼の空間での経験は、日が暮れたあとの空間をより豊かにするものであるだろうし、豊かな日が暮れた後の空間は、新しい白昼の空間を作り出すかもしれない。太陽と星空は交互にあらわれる。それぞれから相互を照らしあうことによって、新しい空間の可能性が見出されてくるのではないだろうか。■