近藤正一[1930-]システムを設計する建築家 近藤正一とRIA

話手:近藤正一/聞手:石榑督和・佐藤美弥・青井哲人・橋本純・辻泰岳・市川紘司[連載:建築と戦後70年 ─ 02]

KT editorial board
Jun 8, 2017 · 79 min read

日時:2016年7月25日(日)14時~17時
場所:株式会社アール・アイ・エー 本社(東京都港区)
同席:永澤明彦氏(株式会社アール・アイ・エー 東京支社計画統括部長 兼 横浜支社長)
聞手:石榑督和(担当、Is)・佐藤美弥(担当、S)・青井哲人(A)・橋本純(H)・辻泰岳(T)・市川紘司(Ic)

近藤正一氏は戦後の日本において、住宅を重要なテーマとして幅広い仕事をされてきた建築家の一人である。近藤氏は、戦後に早稲田大学で建築を学ばれた。在学中には、武田満すと明石信道が立ち上げた住宅研究会に吉阪隆正とともに参加し住宅について議論し、卒業論文では建築研究所の依頼のもと不良住宅地区の研究をされた。一方で、自宅に下宿していた画家の金山康喜の影響で絵画を描くようになり、新制作(派)協会に参加し猪熊弦一郎とも親交を深めている。大学卒業後は、山口文象、植田一豊、三輪正弘ほか3名が設立したRIA建築綜合研究所に入所。住宅の設計に取り組まれた。個別の住宅設計をしながらも、戦後の住宅難に対して建築家としてどのように量に答えるかということに取り組まれ、その考え方はのちの都市再開発におけるRIAの仕事にも繋がることになる。他方で、近藤氏は1930年に東京の白金に生まれ田園調布へ引っ越されたのち、現在まで同地に住まわれている。本インタビューでは、そうした東京郊外の戦後の風景も近藤氏の生活を通して浮かびあがってくるだろう。RIAの創設期からのメンバーであり、長くRIAの社長を務められた近藤氏の建築家としての思考は、つねに対象を俯瞰的に見つめ課題に対して物的な空間の設計だけではなく、仕組みを提示し、システムをも組み上げていくものであった。本インタビューは、近藤氏の活動と仕事を通じて、戦後の建築・都市に迫るものである(Is)。

出生から高校まで 東京郊外の風景

Is:まずはお生れからうかがいたいと思います。ご出身は東京ということですが。

近藤:東京です。東京しか知らないんです。親父は経営者で、割と裕福な家だったと思います。戦前の生まれですが、いろいろなことを意識するようになったのは戦争中からです。

Is:お生れになったとき、ご自宅はどちらにあったのでしょうか。

近藤:最初は白金の三光町です。

Is:そちらにはいつ頃までお住まいだったんですか。

近藤:そこは3、4歳までで、田園調布へ移って来ました。その頃の田園調布は全くの郊外でした。東京というのは山手線の中だけですからね。あとはみんな田舎です。そうした田舎のなかに渋沢さんの東急が開拓した、はしりのようなところへ引っ越しました。何にもないようなところに、家がポツポツと建っているような状況でした。

Is:田園調布駅前の放射状に街区が形成されているエリアですね?

近藤:そうです。

Is:引っ越された頃、まだ田園調布には家がそれほど建っていなかったんですね。

近藤:そうです。駅前にはほとんど家がありませんでしたね。空き地が広がっていて、目蒲線(現東急目黒線・多摩川線)が走っていましたが、1両での運転でした。

Is:1両ですか。

近藤:20分間隔くらいで走っていましたが、ほとんどは砂利電車です。

S: 多摩川からの?

近藤:そのために作った電車ですからね。それでその余力で田園調布みたいなのができた。砂利電車の間に客車が1両あるだけでした。だから電車が連結になるだけで子供ながらに嬉しくて、それだけを見に行ってましたよ。

Is:白金から田園調布へお引越しになるということは、普通に考えると都落ちのようにも思うんですが、どうして郊外に移られたんですか。

近藤:いや、そうじゃないんです。戦後になると郊外にいい団地ができたでしょ、あの感じですよ。当時は新しいプチブルジョワの街をつくろうという意思がありました。そこで当時、1000坪くらいはあったと思いますね。

H:そんなに大きい区画がありましたか。

近藤:いや、1区画は300坪くらいですから、それを3つか4つ買いました。

Is:それを一体で購入されたと。

近藤:そうです。それが戦争中は家庭菜園になっていました。野菜を育て、兎や鶏も飼っていて、それらを潰したりもしました。コメも作っていましたし、ある程度そこで自給自足ができたわけです。そういう土地の活かし方もあったわけです。

Is:近藤さんのご自宅で食べるもの以上に家庭菜園では作物を作られていたんですか。

近藤:いや、あの頃はちょっとした空き地があったらみんな作ってたんじゃないですか。

Is:確かに戦後はとくにそうでしたでしょうね。

S:お父様はどういった会社を経営されていたのですか。

近藤:化学工業。だからちょうどあの時、公職追放にはならなかったですけど、寸前だったですね。軍事産業ですよね。

Is:お父様は会社をどちらで営まれていたんですか。

近藤:保土谷化学です★1。今でもありますけど。

Is: 昭和10年ごろに田園調布へ移られて、その後、戦争中は田園調布ですごされたんですか。

近藤:そうですね。ずっとです。今でも住んでいますから。

図:1930年代の田園調布周辺(「今昔マップ on the web」より)

近藤:私は学校が遠くて、成城だったんですよ。旧制の成城高校だった。あそこまで通っていましたけど、電車が焼けてほとんど動かないんですよ。だから自転車で通っていましたね。

H:田園調布から成城学園までですか。

近藤:ええ。自転車がないときは歩いて。歩くのは平気だったですね。そういうときは。小学校の時もね、私は青山師範だったんですけど、田園調布からだと3つくらい向こうの駅ですから十数キロはあるでしょうね★2。それをやっぱり歩いていましたね。あの頃の子供達は歩くのは平気だったんじゃないですかね。

Is:田園調布は家があまり建っていなかったということですが、田園調布から成城学園までの風景はどうでしたか。

近藤:やっぱり畑が広がっていましたね。家がポツポツあって、あとは農家があって。とにかく田園調布の隣の九品仏まで行くとほぼ田舎ですからね、田んぼがあって農家ばかりでした。うちの女中はそのあたりから通って来ていたんですよ。

H:田園調布周辺は、その当時は食糧不足がそれほどひどくなくて、むしろ東側の方から食料を求めて人が来るような感じでしたか。近藤さんのお宅はとくに困らなかったですか。

近藤:それでもね、何でもやれるわけじゃないから。やっぱり欲しいものになると、闇に買い出しに行きましたよ、親父が。

Is:どのあたりに買いに行かれたんですか。

近藤:埼玉県とか群馬県です。東京はもう焼けて何にもないんだから。そこで物々交換で、ちょっとした洒落た着物かなんか、母の持ってるやつを持って行って、換えて来る。食物は大変だったですよ。

Is:そういった状況はいつ頃まで続きましたか。

近藤:戦争後の3、4年は続いたのかな。それは今の人には想像がつかないと思いますね。とにかく学校休んででも買い出しに行くとかね、そういう感じですから。食うことが先だな。

S:小学校は青山師範の付属の小学校、中学校は。

近藤:中学校は成城に入ったんですよ。

S:では中学校から成城に入られて、旧制高校を出られて早稲田に。

近藤:だから小学校から電車には乗ってたんですよ。

Is:電車ではどういうルートで成城まで通われていたんですか。

近藤:それはね渋谷に出て、井の頭線に乗り換えて、下北沢から小田急線に乗ってね。

H:そこは今と変わらないですね。

近藤:時間はもっとかかりましたけどね。電車だけで一時間以上。

金山康喜の影響と新制作協会

Is:その頃、田園調布のご自宅には金山康喜[1926–59]さんがいらっしゃったということですが。

近藤:そうです。

Is:金山さんのお話を伺えますか。

近藤:金山さんはね、うちと親父同士が友達でね。金山さんのお父さんは、富山の燐化学工業という会社の社長なんですよ。金山喜久さんといったかな、その倅でね、非常にユニークな男だったんです。私は弟がいますが兄貴がいませんから、私の兄貴代りじゃないけども。戦争中泊まるところがないですからね、寮もないし。それでうちで引き取ったんですよ。東大の経済の学生だったですからね、頭はすごくよくてね、東大からパリ大学へ給費生で行くんですよ。それでパリで長く生活していましたね。経済学の学者としても確かに優秀だったんじゃないかと思うんだけど、それ以上にやっぱり絵が好きでね。僕の家でも絵を描いてくれた。僕は中学校の頃で、彼は大学生で、その時にいろんな影響を与えてくれたんですよ。金山さんの影響は非常に強かったですね。彼は新制作に属していました。なかなか優秀で賞をもらったりして。彼は猪熊弦一郎の弟子ですから、それで新制作の会員になった。その頃、僕も一緒に絵を描くようになって猪熊弦一郎のところへ行くようになりました。私も絵を描き始めて、高校時代かな、新制作に出して合格して、それで最終的には新作家賞という賞をもらう寸前まで行ったんですが、そこで僕は絵をやめたんですよ。建築をはじめました(学び始めた)から。

S:近藤さんご自身が新制作の展覧会に出品されたんですか。

近藤:そうそう。僕も一時は絵描きになるようなつもりでいました。金山さんの影響です。金山さんというのはね、ベン・シャーンとかね、それからアメリカの日系のYasuo Kuniyoshi(国吉康雄)の影響が大きくてね、非常にファンタジックな、しかもちょっと滑稽な、そしてニヒルな、そういう絵を描いた人です。だけどいろいろなことがあって思い悩んで、30代で早逝してしまうんです。

T:近藤さんご自身は、その時どういった絵を描いていらしたんですか。

近藤:非具象というのかな、具象でもないし抽象でもないし、わりあいとメランコリックなやつですね。幻想的な絵でした。

Is:新制作に関わられていた頃、建築の山口文象などとの関わりはありましたか。

近藤:私はとくに猪熊弦一郎さんにお世話になりました。家が近かったこともあって、猪熊家には本当によく出入りしていました。猪熊さんは僕が建築でやっていくということもよく知っていて、また建築に対して造詣が深い人で、非常に優秀な目を持っていました。山口文象と猪熊弦一郎は昔から仲がいいんですよ。新制作に建築部をつくるときも山口文象を中心にして、前川國男とか谷口吉郎とかを引き入れました。のちにですが、私も山口の家具の展示を手伝ったりします。私が就職の時期になって、猪熊さんが「近藤君はどこへ行くんだ? 行くんだったら丹下のとこがいいよ」って言うんですよ。猪熊さんは丹下さんとも仲がいいですからね。確かに丹下さんのところはいいけど、自分がやりたいこと、主義とは違うし、入ると向こう(丹下)の影響をかなり受けるんじゃないかと、生意気なんですが思いまして、山口文象のところへ行きます。当時、僕は久ヶ原教会を見まして、かなりレベルの高い仕事だと感じたんですね。今残っていても、文化遺産にこそならないにしても、あれだけいろんなものをそぎ落としてシンプルでありながら日本の教会を表現したものはないんじゃないかと思います。そういうところにやられたんですね。

S:久ヶ原教会です。

近藤:プロポーションの問題、屋根の形の問題、なかなか洒落てるんですよね。とにかく、日本の教会として、まずこれ以上のものは出てこないだろうと思いますね。プランニングがものすごくいいんですよ。

建築へ──早稲田大学へ入学

Is:すこし話を戻して、新制作に出入りし猪熊さんのところで絵を描かれていた頃、建築を学ぶことを選ばれたきっかけは何だったのでしょうか。

近藤:僕が子供のころ、中学校くらいかな、最初は飛行機の設計をやりたかったんですよ。それはね、このあいだ槇文彦[1928-]さんに会ったんだけど、槇さんもおんなじなんだよね。やっぱり僕らの世代には、飛行機というのは憧れだったんですよ。別に零戦だけじゃなくてね。航研機(こうけんき)っていう非常に長い間飛べる飛行機の形が良くって。その航研機を設計した山中さんという先生に、高校で図学を教わったんですよ。戦争後だから、その先生はもう飛行機を作れないでしょ。それで図学を教えながら、航研機の話をしてくれたりしたんですよ。そういうのもあったんだけど。結局、戦後は飛行機の科目は東大でもどこでもなくなったんですよね。それで航空機は駄目だ、その次は船だなと思ったんです。船は綺麗ですよね。結局今から考えるとね、形の綺麗なものはね、抵抗が違うんだな。要するにね、建築は一番綺麗じゃないんですよ。

一同 :(笑)。

近藤:建築は地面だから自由がないんですよ。一方、飛行機は気体でしょ、船は液体でしょ。固体を相手にする建築は不自由なんですよ。自由じゃないんですよね。だから残念だったけど、一番不自由なところでやるしかなかった。僕らの世代は、本当にやりたいことは飛行機だという人は多かったんじゃないかな。

H:いろんな方に話をうかがってきましたが、多くの方がそうおっしゃいますね。

近藤:やっぱり違うんですよね、形の自由さが。羽ばたいていくというのは、素晴らしいことですよね。やっぱり固体っていうのはどうもね。でも車になるとまた自由になる。その頃はまだ、あんまり自動車はなかったですから。

H:当時はまだ大学で自動車を学ぶような環境はなかった。

近藤:ないですね。

Is:早稲田を選ばれたきっかけはありましたか。

近藤:早稲田はね、単純に言えば旧制の東大に落ちたんですよ★3。結局、新制になるとまたもう一年同じようなことをやらなきゃならないから、来年まで待ってもしょうがないと、早稲田に行きました。早稲田は旧制も新制もないですからね。

Is:早稲田で建築を学びながら、猪熊さんのところで絵を描いていらっしゃった。

近藤:そうですね。ただ大学の途中で絵はもうやめて、建築に専念したんです。

Is:建築に専念された理由はありましたか。

近藤:やっぱり絵の限界がわかったんじゃないかな。

吉阪隆正との出会い──住宅研究会への参加

Is:吉阪隆正先生とはいつ頃から関わるようになるのでしょうか。

近藤:大学に入ってすぐですね。吉阪さんの家の方と私の母とがすこし関係があった。それから、吉阪さんの奥さんが成城の女学校を出ていて、たまたま成城の集まりがあったときに、もちろん奥さんは出席されていて、そこに吉阪隆正さんも出てきたんですよ。それで「あなた成城じゃないでしょ」と話しかけたら、「私は、今日は父兄として出てるんです」と言うんです。そんな笑い話もあり、関わりがありました。まだ吉阪さんが吉阪研を持つ前ですから、助教授になる前、専任講師のときかな。それからル・コルビュジエのところへ行って、帰ってくるのが、僕が4年生のときです。本当は彼のところで卒論を書きたかったんですが、彼は余裕がなくてそれどころじゃなかった。それで建研(建設省建築研究所)から出てきた不良住宅地の研究をやったんですよ。早稲田で、張り紙で募集してあった。そんなの行くやついないんですよ(笑)。

Is: 廊下の掲示板に張り出されていたんですね。

近藤:そう。それで吉阪さんにも相談をしたんですよ。そしたら「それはいいよ、住宅はやったほうがいい」と言われました。もともと吉阪さんと僕は住宅研究会に参加していました。明石信道[1901–86]先生が住宅研究会というのをつくって、日本女子大と一緒にやっていました。わりあいと早稲田と日本女子大は仲がいいですからね。日本女子大の武田満す先生と明石先生が一緒に立ち上げて、吉阪さんがそれの手伝いをしていました。僕も吉阪さんと一緒に行ったわけです。そしたら林昌二の女房の林雅子さんが、あのときは山田雅子といいましたが、初々しい女性としてやってきてその会が華やいだんです(笑)。林雅子さんだけじゃなくて、何人か来たんですよ。そういう風に集まって、月に1回くらい住宅研究会をやっていましたね。

Is:その研究会ではどういった研究をしていたんですか。

近藤:それはわりと社会派の会なんですよ。やっぱりあの頃住宅をやると、単に格好がいいとかではなくてね、むしろ社会派のこれからどういうふうに住宅をつくっていくかという問題を考えていました。今とは全く住宅の概念が違う。まず住宅がなかった。住宅に住めるということは大変なことですよね。あのころ一番大変だったのは住まいが変わることですよ。畳から板の間の生活になった。ダイニングルームができて、ちゃぶ台の生活から一気に変わる。あれほど住生活が変わるというのは、世界で見てもすごいことですよね。日本人の性格も変わるし、体格も変わる。だからあの当時の改革のなかで、住宅の改革は、教育の改革、農地の解放に次ぐ改革だったと思いますね。今ではほとんど誰もそんなこと言わないけどね。住宅の改革によって家族制度も変わりました。襖で隣り合っていたのが壁に変わるということは、大変な変わり方ですよ。個人生活ができていく。子供もほとんど一緒に寝食してたでしょ、それが変わって、今のマンションの成立の基礎ができていく。マンションも最初は畳の部屋だったのが、だんだんそれがなくなっていった。

H:戦後、1950年代前半、住宅から畳がなくなったというお話でしたが、それは時代的に畳がつくれなかったということではなくて、もっと理念的に畳を外そうという力が働いていたということだったんですね。

近藤:そうです。それは西山さん(西山夘三[1911–94])なんかの仕事もあって、僕らは信奉者ですよね。

H:だけど51Cができたとき、さっそく畳は入っていましたよね。

近藤:それは畳を入れないと生活のバリエーションに合わないからですよ。畳の生活はいろんなタイプの生活に対応していて、夫婦でも生活できるし、子供がいても雑魚寝ができる。板の間というのは壁ができて個室ができて、ベッドが入って、 ふたり部屋だとかに固定されるわけでしょ。

A:それはやはり面積が絶対的に足りない中での、フレキシビリティということでしょうか。

近藤:そういうこともあるし、板の間の生活が日本人に定着していないということもあった。畳じゃないと寝られないという人がいました。畳に対する抵抗をなくすのは大変で、インテリでも畳じゃないと寝られないというのがいましたよ。畳と板の間の違いは世の中の違いにつながることで、それが今の制度を保っています。それが良いか悪いかということではなくて。今の社会現象にあっているから成立しているけど、本当に家族制度なり人間としての生活のあり方としてどうか、というのはまだわかんないですよね。

S:住宅研究会は西山夘三の食寝分離などの理論をベースに研究を行なっていたんですか。

近藤:それもありましたけど、新しいアメリカのモダンリビングからの影響も大きかったですね。その一方に西山さんの考え方がある。我々はその両方を見ていた。

S:その研究会は当時あったNAUの動きと関係はありましたか。

近藤:全く関係ないです。明石信道さんにはモダンリビングを引き受ける体質があったんですね。それで僕なんかは住宅の問題だというんで関わっていました。あの頃は建築の問題といえば住宅の問題でしたから。

H:明石さんの専門はどういう方向だったのでしょうか。

近藤:あんまりこう言っちゃうと良くないんだけど、僕はあんまり好きじゃ無かったんですよね。

一同 (笑)。

近藤:というのもね、極端に言うとアメリカのモダンリビングを紹介するだけなんだよ。それは悪いことじゃないんですよ、だけどこっちも生意気だからね。やっぱり社会的なことを考えないと駄目だろうと。こう言うところが問題だと定義してくれないと。紹介なんていうのはコピーがあればできますからね。そのころはコピーなんてなかったから、雑誌を最初に手に入れたら勝ちなんですよ。

H:なるほど。

近藤:そういうのはやっぱり丹下健三さんのところは早いんだな。やっぱり体制的だからね。

H:ものすごい勢いで奪い合って読んだということを聞いたことがあります。その頃の早稲田は1学年何人くらいでしたか。

近藤:僕らの頃は一年生が100人くらい。

H:そのころからけっこうなマスプロだったんですね。

近藤:そうですね、人数は多かったですね。その中で設計やデザインをやるというのは、そう多くはなかったですけどね。施工とか構造へ行きますから。

Is:その頃、吉阪さんの授業は受けていたのでしょうか。
近藤 吉阪さんの教えを受けたのは、授業ではあんまりなくて、飲み屋でしたね。

一同 (笑)。

Is:どちらへ飲みに行かれたんですか。

近藤:新宿ですよ。あの当時としてはけっこう良い飲み屋でね、若い女優が来たり、なかなか賑やかな店でしたよ。そういうところでわけのわからないことを言っていたんでしょうね。

H:大学に入られたころ吉阪さんが早稲田にやってきて、すぐに仲良くなられて、その後吉阪さんはフランスへ留学され、戻ってきた時に近藤さんは4年生になられていて、2年、3年のときには直接指導は受けていないわけですね。

Is:新宿へ飲みに行かれていたのはいつですか。

近藤:帰ってきてからですね。一升瓶を担いで、先生の家へ飲みに行ったり、そのまま寝転がって一晩過ごしたり、そういう生活ばっかりでしたよ。それが授業だと思ってましたしね。

H:その時はまだ吉阪邸はないですよね。

近藤:ないです。吉阪邸ができてから、またそこでやりました。

H:それはご卒業後ですよね。

近藤:そうです。

A:住宅研究会ができたのは、近藤さんが何年生の時ですか。

近藤:1年生のときですね。

A:そうすると何年頃ですか。

S:1950年か51年頃ですね。

近藤:僕らの学校だけじゃなくて、他の学校でもそういうのはあったんじゃないですかね。

S:その頃、NAUの部会として東大の吉武研究室や千葉大でサークルができていたようなんですが、例えば農村建築研究会★4とかLV★5だとかですね。そういった他の大学の学生の動きを意識されていたことはありますか。

近藤:いや、あんまりなかったですね。先生のレベルではつながりがあったと思うけど。

H:その頃の早稲田だと、まだ今先生(今和次郎[1888–1973])がいらっしゃったと思うんですが、住宅研究会には参加されていましたか。

近藤:今先生はいましたけど、住宅研究会には参加してません。今さんは今さんでやっていましたね。私は今さんとも親しくて、今さんの棺も担いだしね。

H:お亡くなりになられたのは1970年頃でしたっけ。

近藤:そうですね。卒業してから今さんとは対談をしたことがありましたね。

Is:テーマは住宅についてでしたか。

近藤:そうですね。あの頃、こっちも生意気でしたから、今さんとやりあってたんじゃないですかね。

建研で取り組んだ不良住宅地区研究

Is:不良住宅地区に関する卒業論文についてうかがいたいのですが、張り紙にはどのような募集が出ていたのでしょうか。

近藤:卒論のテーマとして、建研から募集が出ているというものでした。それで吉阪さんに相談したら、「いいんじゃないか」と彼は言ったんです。吉阪さんは決して左翼ではなかったけど、右翼でもなかったから理解があったんだな。それで大久保の建研に訪れるわけです。そしたら都市計画の親分の新海悟郎さんがいて、その下に日笠端さんだとか、入沢恒さん、住宅公団へ行った三輪恒さんだとかね、そういうのがゴロゴロしていて、いろいろ盛んに論じていましたね。新海悟郎さんのところへ行ったら「お前、就職はどうするんだ」と言うんですよ、それで「私は建築のデザインをやりたいんだ」と言いましたら、「それだったらここへは来ない方が良いよ、ここは赤の巣窟だから」と言われました。当時、私はもう山口文象のところへ行こうと思っていた頃かもしれません。

H:それは建研の人に言われたんですか。

近藤:面白いでしょう。そういう時代なんですよ。来ないほうがいいと言われたんですが、私の返したセリフも良かったな。「社会に出たら、もうこういう仕事はできないと思う。だからここでひとつ自分の基盤になる経験を積みたいんだ」と、そういう話をしたんです。そしたら新海さんというのはさすがの人で「君、良いこと言うな。やりたまえ」と言ったんです。僕だけじゃなくて、千葉大の学生も2人ほど来ていて、3人でスラムの調査から始めたんです。あれは卒業論文としては大変なもので、実態調査も、資料の翻訳もあったんです。実態調査は、三河島と南千住、それから高田老松町。

H:高田老松町と言うのは。

近藤:高田老松町は木造の老朽化の問題。建物が老朽化で倒れた事件がありました。これは日本独特なんだよ。三河島と南千住はスラムなんですよ。戦後に建ったバラックは、隣の家との境がベニヤ板1枚、それにトタン板が貼ってあるだけでした。

H:その当時、ベニヤ板はあったんですか。

近藤:あった。

H:普通の板材じゃなくて。

近藤:あった。ベニヤ板もあったんです。バラックは雨が漏るんですよ、それである家では天井からシーツを張ってバケツを下に置き、ポタポタと落ちる雨を受けていましたね。土間にスノコを置いて、それに板を貼って床にしたような生活です。そういうのを三河島や南千住では見ていました。建研は国の機関なので、直接調査としてスラムの中へは入っていけないんですよ。

Is:住民が入れてくれないんですか。

近藤:そう。僕らだから入れてくれるんです。

H:国がそういうところへ介入しようものなら、えらいことになってしまう時代だったのですね。

近藤:そう、僕らが学生だから入っていけた。だけど殴られたり、刺されたり、身の危険がある。だから建研の人は僕らを乗せてきたジープの後ろで控えてるんだよ、何かあったら行けるように。そんなふうに家ごとに個別に調査をしたんだけど、ほとんど答えが返って来ないんだよね。ノーコメントで。

S:質問しても返事が返って来ないと。

近藤:とくに職業については返って来ない。みんなけっこう金は稼いでるんだろうと思うんだけど、それを言ってしまうと、立ち退きを勧められてしまうから言わない。だから住民の中にはけっこういい生活をしているような人も多かったですよ。それが実態なんだよね。

H:何となく今の公営住宅に見られるような現象があったんですね。

近藤:もともとあるんですよ。間近で見るというのはすごい経験でしたね。

Is:調査に入られたときは、どのような質問をされていたんですか。
近藤 質問票があるんです。それは新海さんのところで一緒で考えたもので、不良住宅度、つまり不良住宅の度合いを決める調査でした。それが住宅地区改良事業の制度の原点になっています★6。不良住宅度にはアメリカの基準があって、それを翻訳したんだ。僕は翻訳なんて苦手でね、それでも3人で翻訳しましたよ。それでその翻訳を参照しながら、今度は日本の状況に照らし合わせて、日本の制度をつくる。あのころはだいたいみんなそうだったんですね。日本は自分たちでやらないタイプだから、向こうから導入していました。以前はドイツから制度が入ってきてたけど、戦後はすぐにアメリカに変わっちゃって、そういうのは早いんだね。お医者さんでもそうですよね。戦前はドイツ語でやってたのに全部やめちゃって、戦後には参ったからとアメリカになるんだよ。

T:進駐軍の図面のトレースをやっていたと書いておられますが、それは具体的にはどのような施設だったんですか。

近藤:施設っていっても軍事施設ではないですよね。だいたい住宅とか。

T:どういうエリアでしたか。

近藤:それはわからない。とりあえずトレースをやるだけ。場所などは書いてないし。

T:進駐軍の図面のトレースを描くときは、具体的には東京のどのあたりでやっていたんですか。

近藤:図面のトレースは自分の家でやっていましたよ。

T:ご自宅で、なるほど。その時のご経験が翻訳に生かされた。

近藤:それとはあまり関係ありませんね。

Is:不良住宅地に入られた際は、具体的には建物のどういった部分を見られたんですか。

近藤:主に建物の設備です。トイレがないとか、共同便所であるとか。それがだんだん良くなっていって、男女の便所が別になるとか、水洗になるとか、そういった設備の度合いです。それから居住性能ということでは部屋数だとか。老朽化の問題は、修繕が可能かどうか。そういった指標でグレードをつけていくわけです。その度合いから建物を壊すべきだというようにスラムクリアランスをするか判断したわけです。

Is:調査に入られた3ヶ所以外にも、東京には戦前からスラムと呼ばれる場所がたくさんありました。

近藤:一番典型的なところですね。

Is:そうですね。そういった場所も戦災で焼け、戦後になってバラックが再建されていたわけですが、調査対象地以外でそういったスラムを見に行くということはありましたか。

近藤:調査に行ったということはないですが、いたるところにあったでしょう。闇市のところなんかまさにスラムで、今でも新宿のしょんべん横丁なんかあるじゃないですか★7。あれなんか上等なほうですよね。

Is:あれが上等なほうですか。

近藤:新宿東口の飲み屋なんか、本当にベニヤ板1枚で仕切られているだけでしたよ。今だとテント小屋が並んでいるようなもんですよ。それが飲み屋街です。だから隣行くのはわけないんだよ。

A:戦前にも東京市ではスラムの調査をしていますが、そういった資料は新海さんのところでご覧になったりしましたか。

近藤:見なかったですね。

A:では戦前の資料は見ずに調査に入ったと。

近藤:むしろアメリカの基準を日本化するというものでしたね。

S:不良住宅地の度合いを調査されて、スラムクリアランスをした後のプランを考えるというようなこともされたのでしょうか。

近藤:それはやってないですね。それはとてもじゃないけど、できない。だけど私としては、いい経験をしたなと思っていますよ。スラムの凄まじさというのは、今の災害後の応急仮設住宅みたいなもんじゃないですよね。

A:それはそうですね。調査はどのくらいの期間やられたんですか。

近藤:夏休みです。

A:じゃあ1、2ヶ月。なるほど。毎日通われたんですか。

近藤:そうだったですよ。

H:実測をされたりもしたんでしょうか。聞き取り調査でしょうか。

近藤:いや、聞き取りが多かったですね。実物については、もう図面見たいなものがあるんですよ。

H:あるんですか。

近藤:ありますよ、スラムでも。行政がつくっていました。

A:スラム調査はいい経験だったとおっしゃっていましたが、面白かったですか。

近藤:面白かったですね。

A:その後に何か繋がっていると思いますか。

近藤:つながっているというか、もうあの凄まじさは味わえないなと。それがどう影響を及ぼしたかということはわからないけど。

A:ひとつの世界を見た、という感じですかね。

早稲田大学の学友、先生

H:早稲田大学に1950年に入学され54年に卒業されますが、その間のご学友といいますか同級生、先輩後輩含めて、どういう方がいらっしゃいましたか。印象的な方はいらっしゃいましたか。

近藤:上は菊竹さん、菊竹清訓[1928–2011]だな。図面が抜群に上手かったからね。

H:そうですか、2つくらい上ですよね。

近藤:そうですね。

H: 確か菊竹さんは学生のころからコンペに入選したりしていましたよね。

近藤:菊竹さんは抜群だったですね。

H:上の世代では彼の存在が圧倒的に大きかったわけですね。

近藤:そうですね。

H:同級生ではどういった方がいらっしゃいましたか。

近藤:同級生はね、技術移民としてブラジルに渡った相田(相田祐弘)というのがいる。坂倉に勤めて、4、5年でやめてブラジルに渡った。そうだな、あとは佐藤総合計画の佐々木群が1年上だったな。

H: 佐々木さんもかなり目立つ方でしたか。

近藤:そうね。佐々木さんも長く代表をやっていましたね。あとは下の方だと、いっぱいいて名前を挙げだすと長くなっちゃうな。

A:先生はどうですか。やっぱり吉阪さんと、今さんですか、影響を受けた方は。

近藤:いや、他にもいろいろいますよ。僕を認めてくれたのは、安東さん(安東勝男[1917–88])。「お前みたいな汚い図面をここまで認めてやったのは俺だけだ」って言ってね、飲み仲間ですからね。最期まで飲んでましたよ。彼が死ぬ間際までね。飲み仲間が多いんですよ。松井源吾[1920–96]さんとかね。彼とも一緒によく飲んだね。先生とはわりあい分け隔てなくおつきあいしてたから。今井さん(今井兼次[1895–87])とも仲よかったし。今井さんは、まだ僕が絵を描いてるころはわざわざ見に来てくれましたからね。「君、絵は生涯書き続けろよ」と言われていたのだけど、やめたもんだから「すみません」と謝りに行った。一番悪いことで世話になったのは田辺泰[1899–1982]さんだ。歴史の先生。京都に修学旅行へ行ったときに、僕ら悪いもんだから夜中遅くまで宿屋に帰らなくて、悪い遊びをしてたら取っ捕まってね。迎えに来た田辺さんに「今日は俺に付き合え」と言われて、三畳間のいい飲み屋に連れて行かれて、山品っていう学生と二人で付き合わされた。付き合う人がいなかったんだろうな。

一同 (笑)。

近藤:あんないい飲み屋初めてでね、懐石料理を食べて、しこたま飲んで、まだ時間があるってことでパチンコに行きました。そのころはパチンコが流行り始めたころでね。先生が球を買ってくれて3人でやって、それで帰ったんですよ。そういうふうに、僕が仲よかった先生はほとんど飲む先生だね。秀島乾[1911–73]っていう都市計画の先生とかね。秀島さんは、かまぼこ兵舎を改良したかまぼこハウスに住んでてね、そこにやっぱり一升瓶を担いで行って、夜まで飲んでましたよ。

A:いろんな先生と飲んでますね。すごいですね。

近藤:だから教室でなんかしたってことよりは、飲んだことが印象的だね。向こうもそう思っているんだ。だから最期まで親しかったですよ。

A:楽しいお話がたくさんありましたが、そういうなかで、学生のころ建築について影響を受けた先生の考え、あるいは先輩の考えはありますか。

近藤:影響を受けたのは、そうだな、早稲田からは特にはないかもしれないな。

Is:学外で刺激を受けていたということですか。

近藤:学外のほうが多いかもしれないね。僕は西山夘三さんの影響を受けているんだよね。吉阪さんには影響を受けるところが・・・ないんだなあ。あんまり僕は形の上でとか、理念的なものだとかで影響を受けたことはないんだなあ。

Is:西山夘三さんとはお会いされる機会があったのでしょうか。

近藤:いや、そのときはなかった。

A:読んでおられたと。

近藤:そうですね。それで、西山さんが晩年になってから親しくなって、一緒に本を書いたりしてね。普通、本の監修する人はそれほど細かいことは言わないよね。だから勝手に書いても、監修者はそんなに文句は言わない。ただ、西山さんが本の監修をやるとすごいんだよ。「君の書いたこの部分は、自分としては気に入らない」とか言って、「訂正してくれ」と言ってくるんだよ。こっちも訂正するのは嫌だから頑張る。そうすると、また手紙が来るんだね。しつこいんだよ。

一同 (笑)。

近藤:それで「てにをは」くらいを修正して折れたことがありましたよ。西山さんも僕のことをしつこいと思ったのか、それから断片的にお付き合いをしていました。

H:修正箇所のなかで、いちばん西山さんと合わないなと感じた箇所は覚えてらっしゃいますか。

近藤:思想的な問題のところでしょうね。思想的なところは、もっとよく話し合ったほうがいいんじゃないかと感じていました。西山さんは大した人ですよ。僕は高山英華さんとも仲が良くって、大学は違うけども随分と世話になったんですよ。

戦災復興期の山口文象・RIAの仕事

Is:大学時代、住宅研究会での活動、卒業論文での不良住宅地区の研究と、幅広く住宅について考え、経験をされ、その間に山口文象さんと出会い、大学卒業後はRIAに入られました。先ほど戦後の社会では、家族制度の改革が非常に大きな問題であったとおっしゃいましたが、RIA入社後も住宅を重要なテーマとして考えれおられたのでしょうか。

近藤:我々みたいな設計事務所は住宅しかやるものがないんだよ。あとは進駐軍の兵舎や建物です。だいたいあのころの建築設計事務所はそういう仕事をしていましたよ。ところが山口文象も意気が揚がってるから、兵舎なんてやらないし、結局住宅しかなかったんですよ。

T:猪熊弦一郎もそういう山口文象をみかねて、仕事を紹介していますよね。

近藤:紹介していますね。そういうのは、例えば神戸博(日本貿易産業博覧会)の仕事だとか、堺の大日本精糖だとか、それから久ヶ原教会も猪熊さんの紹介ですよね。

T:あまり資料がないんですが、高松近代美術館も猪熊弦一郎の紹介ですか。

近藤:あれもそうですね。

T:高松近代美術館は近藤さんがいらっしゃるより以前の山口の仕事ですが、それをご覧になったり、お話をうかがったりということはありましたか。

近藤:それはなかったですね。

T:どういったものが展示されていた美術館なんですか。

近藤 それはわかりません。

T:あれは鎌倉の神奈川県立近代美術館よりも設立が早いですよね。おそらく日本国内で「近代美術」という名前がつく最も早い時期の美術館なんですが、猪熊と山口の関与ということ以外、なかなか情報がないので、もしご存知だったらと思いまして。

近藤:永澤さん、そのへんどうなの。

永澤:RIAにも図面などは残っているんですが、資料としてはそれほどありません。

H:戦後の話ですよね。

T:戦後です。

永澤:栗林公園の中にあって、今はもう取り壊されていますが。

近藤:あれ、取り壊されたのいつ頃なのかな。

永澤:1988年ですので結構経ちますね。最後、伊達さん(伊達美徳[1937-])が少し写真を撮っておられました。

T:そうなんですか。

近藤:作品としては、あんまり良くないのかな。

一同 (笑)

永澤:たまに仕事で香川に行く際に県庁のベテランの職員の方に伺うと、栗林公園の中の美術館へ子供の頃に行ったという方もいらっしゃいますね。

H:それは金子正則[1907–96]知事の時代のお仕事ですか★8。

近藤:そう、金子さんの時代だよね。金子さんが知事の時代は、丹下さんが仕事をされたころでしょう。

H: そうです。金子さんの時代の最後の建物は、猪熊弦一郎美術館じゃないかと思います。丹下さんの香川県庁舎や香川県立体育館よりも高松近代美術館は早いということですよね。

T:竣工は新制作(派)協会の建築部の設立と同じ頃です。

S:そうすると本当に戦後すぐですね。

量を担う住宅の仕事──住宅産業形成にいかに関わったか

Is:戦後のRIAのお仕事の中でも、とくに量を担うようになっていく住宅の仕事、戦後の住宅難に建築家として答えていった仕事についてうかがいたいと思います。初期のRIAは個人住宅の設計も多く手がけていらっしゃいますが、いつ頃から量を意識するようになったのでしょうか。

近藤:やっぱり個人住宅と並行して考えていましたね。小さいけども生活協同組合の木造の団地を設計したりしていました。府中にある大和住宅[1954年]です。RIAの植田一豊さんもそこに住んでたんですよ。今はもうほとんど無くなってるでしょうけどね。そういった団地や、モデル住宅など、いろいろやってるんですよ。

Is:なるほど。

近藤:それからカウンセリングシステムでやろうということを考えた★9。ひとつの住宅を設計するのに、小さいものでもひと月くらいかかるんですよ。しかも僕らがもらう設計料は、建物の規模が小さいですから、何十万円ですよね。百万円に達するものなんてない。それで計算をしてみると、良心的になればなるほど、採算が合わなくなってくる。RIAに住宅の設計を頼みたいという人が増えてきて、そういう希望にまともに答えていくには、選別とは言わないけれども、希望を聞いて個性の強いものと、そうではなく一般的なものとをこちらで判断する必要が出てきた。そうすると、向こう(クライアント)もお金が安く済むということにもなる。カウンセリングシステムだと4万5千円で済むとかね。4万5千円で最低限の矩計くらいの図面は入る。僕がそういうことを考えていると、住友信託銀行なんかが「それはいい考えだ」と言って、「ぜひ店頭でやってくれ」ということになって、やったことがあるんですよ。そういうことをやりながら、効率の良いカウンセリングシステムをつくろうと考えた。それからすごくできる人がやらなくても、ある程度建築のことがわかる人であれば誘導ができるようになるシステムを考えました。要するにカウンセリングは誘導なんですよ。質問をしながら、どういうふうに誘導するかによって、プランニングでもなんでも案が決まるんですよ。誘導の技術、それがカウンセリングなんですよね。こうしたことを考えた背景には、住宅設計を希望する人が多かったということもあるしね、こっちもどうそれに応えるかということもあった。僕なんか、とくにそのあたりが普通の建築家と違って、こういうことをすぐ発想しちゃうんだよね。僕だけじゃなくて、その当時一緒にやっていた3人組(三輪正弘・植田一豊・近藤正一)は、みんな同じような考えを持っていたんだけど、具体的にこういうことをまとめるのは僕だったんだよ。発想は僕だけじゃないよ、他の2人も悩んでる。山口はそういうことに興味はあるけど、もともと明治の人だから考え方が全然違うんだよね。今だって、あなたたちからしたら、僕は変な人間だろうしね。

一同 (笑)。

近藤:本当にそうなんだよ。そういう感じで山口と3人組(三輪・植田・近藤)は、絶えず融合していたんですよ。

Is:初期のRIAの4人がどのように仕事をしていたのか、イメージがなかなかできないのですが。

近藤:難しいよね。難しいんですよ。建築家を志す人たちが4人集まるとね、うまくはいかないんだよ。でも、ある程度みんな我慢して、それである程度はやりあって、やりあうことで新しいものができる。今の人を見ていると思うんだけど、ものをこなすことは非常によくできるんだけど、やりあってものをつくっていくということがない、反対の意見を言い合ってつくっていくということがない。こなしていくことはいいんだけど、途中で折れた時に非常に弱いところがあるんじゃないか。世の中の違いがあるから、それはしょうがないんだけど。別の意見を求めて言い合っていると、なんだかアイデアが固まってくる。そういう時代でしたよ。

H:他の3人の方と議論するなかで、協調できたところと、自分との差異がはっきりしたところ、印象に残っていらっしゃることはありますか。

近藤:そうですね。それぞれの性格が違うから、発想も違うし、だけどうまくいっているときは阿吽の呼吸ですね。譲れるところは譲れるし、まとまっていくんだよね。だからカウンセリングなんかは、基本的なことがはっきりすれば、あとは担当者に任せるということで進んでいた。

Is:発注者の希望や敷地の条件など与条件を整理して、そこから想定される、あるタイプあるいは方向性の案に誘導していくということですか。

近藤:そういうことだね。だから誘導の仕方が難しいんだよね。生活の状況などを聞いてまとめていく方法がカウンセリングで、最後に形にまとめるときに建築家的な匙加減を加えれば、すっと行けるんだよね。

Is:カウンセリングシステムの頃から、あらかじめ平面図を用意されていたんですか。

近藤:そうです。もちろん平面は用意してあって、どれに結びつけるか、という問題なんだよ。それからセミオーダーだから、図面は多少変えることもできるわけだ。

Is:それは何年頃のお仕事でしょうか。

近藤:何年だろ。60年代末だね。

永澤:まだ大判の『建築文化』(1969年9月号)がそのときのものですね。

Is:1969年ですね。カウンセリングをして、ある方向性の案へ導いて、図面を渡すんですよね。

近藤 そうそう。

Is:そのあと、建物を建てる際にはどのようにRIAは関わられたんですか。監理までされたのでしょうか。

近藤:いや、しない。監理はしません。

永澤:カウンセリングの本当の初期は監理もしていたと思うんですが、システム化されてからはやっていないと思います。

近藤:カウンセリングの初期の頃は、1、2回は現場にいったかもしれませんね。

H:なぜ住友信託銀行さんとやったのでしょうか。この時代、コンピュータを使うというのは一般的ではないと思うんですが、どうして住宅設計にコンピュータを入れようと思われたんですか。

近藤:それは笑い話になるんだけど。僕が住宅のことをやっていたから、当時ずいぶんとマスコミに出ていて、テレビにもNHKで週1回30分の住宅専門の番組を持っていたんですよ。くらしのなんとかっていう番組で、相手をしてくれるのが、五代利矢子さんとかいったかな。名前忘れちゃったけど。それから民放にもずいぶんと出ていました。テレビがカラーになる前ですね。テレビがカラーになってからは宮脇檀[1936–98]さんが住宅のことを喋っていましたが、カラーになる前は僕が同じようなことをやっていました。それで一般的にも名前が売れていたので、住友信託銀行から連絡がありました。住友信託銀行では、お客さん向けに美容や料理、道徳や話し方などの講座が開かれていて、私は暮らしの講師として呼ばれて定期的に講演を行っていました。

H:その背景には、住友信託銀行で住宅ローンを組んでもらうという目論見があったのでしょうか。

近藤:そうです。そうしたお手伝いをしているときに住友信託銀行でコンピュータを買ったんですね。笑い話だけど、高額で買ったにもかかわらず、住友信託銀行では使い道を想定していなかった。だから遊んじゃってるんだよ(笑)。住友信託銀行にはコンピュータ担当の役員がいて、その人と僕は親しかった。それでなんとかコンピュータを使ってもらえる方法はないか、と相談を受けたんだよ。僕はコンピュータとまったく関係のない人間で、今でもコンピュータは使えない。アンチ・コンピュータ人間なんだけど、どうしてかそのとき、その相談を引き受けたんだね。たまたまそのとき、カウンセリングシステムをやっていたから、コンピュータを使ってカウンセリングシステムをやってみたんです。バカバカしい話ですが、いちおう使ったことになってるんです。

H:実際にお使いになった。

近藤:使ってはいるんだけど、それがうまくいっているかはわからない(笑)。

一同 (笑)。

H:どのような使い方だったんですか。

近藤:うーん、よくわかんないですね。

一同 (笑)。

H:当時のコンピュータですから、電算機室にパンチカードを持って行って計算してもらうわけですが、図面を読み込んだり、描いたりはしてくれないですよね。

近藤:そうですね。だから読み込みだけですよね。僕はそのコンピュータは1回だけ見せてもらっただけで、「あー、すごいな」というだけでしたね。

一同 (笑)。

近藤:それが何億だって言うんだけどね。

Is:そうすると、コンピュータを使ってカウンセリングシステムを運用するときの考え方の部分をRIAでは担当されたわけですね。

近藤:うちに石村勇二さんという人がいて、彼がそういうことが好きでね。もちろん彼もコンピュータの専門家ではないから、別に専門家がいて組んだわけですが、僕は橋渡しをしたんです。僕はうちのカウンセリングをコンピュータにかけたらいいんじゃないかと言って、石村さんに相談して、彼も調子のいい男ですからどんどんやってくれたわけですよ。テクノロジーに強い人でね、あとの連中はテクノロジーに弱いんだよ。おかしな話ですよね。今から考えると落語みたいな話ですよ。

H:でも極めて先進的な試みですよね。

A:生活協同組合の団地というのがあったということなんですが、それはどういうものですか。

近藤:いわゆる生協ですよね。生協が住宅団地まで手を出したというものです。横浜の生協なんか団地をつくって、建売住宅もつくってるんだよ。

Is:カウンセリングも横浜生活協同組合でやられたと書かれていましたね。

近藤:そうですね。団地全体をとにかくカウンセリングしたんですよ。

Is:それはレディメードの団地空間ではなくて、何らか住民の希望を汲み取った団地をつくっていこうということですか。多様性を持った集合住宅をつくるという意図があった?

近藤:そうそう。実際に建設するのは生活協同組合ですね。

H:生活協同組合が住宅地を開発するときには、土地や建物の所有方法で、たとえば土地を共同所有するとか、土地と建物の権利を分けるとか、なんらか斬新なことは行われませんでしたか。建売だとオーソドックスな方法ですが。

近藤:あんまりそれは経験がないですね。とにかく単純で、建売に近いものですね。

Is:出資を共同化するということですよね。

近藤:そうそう。

A:そういうことだね。みんなでつくるということだね。

住宅産業の起こりと建築家

近藤:カウンセリングをコンピュータでやったころの話でいうと、住宅産業が始まるんですよね。僕らはそのとき「これは大変だな」と思ったんです。要するに、我々のような建築家の仕事は、よほどのことがないとなくなるなと。

H:どこがいちばん脅威に感じられましたか。当時の住宅産業は年間着工戸数で言えばそれほどではなかったはずですが。

近藤:将来のことを思うと脅威だと感じましたね。時代の変わり目であることがわかってきて、そのかわり僕も住宅産業のお手伝いもずいぶんとしましたよ。大成プレハブ(現・大成ユーレック)もそうだし、住友林業もそうだし、積水ハウスやミサワホームもそうだし。

H:お手伝いされていたんですか。

近藤:そうですよ。すぐに来てくれ、とお呼びがかかりまして、プランニングをどうするだとか、架構をどうするかということでお手伝いしました。石村さんともずいぶん一緒にやりました。住宅産業の人たちともけっこう仲が良くてね、仲が良くなると、余計大変なんだよ。

H:それが、RIAが住宅産業から撤退するきっかけにもなったわけですね。

近藤: 住宅産業というよりも、住宅はやめようと思ったんですね。そのころには別荘だとか特別な設計はできるかもしれないけど、我々がやってきた一般的な住宅はとても無理だなと。その辺は潔く、気持ちよくやめたんですよ。やめるときは徹底的にやめますから、中途半端に住宅をやるということはしない。

H:当時のRIAホームの仕組み自体は、今見ても十分にハウスメーカーと対峙できるくらいのすごいシステムじゃないかと思えます。しかし当時、近藤さんは伸びてくるハウスメーカーを見て、彼らに分があると考えられた。

近藤:分があるというか、まったく資本力が違いますから。やり出したら彼らはすごいですよ。その感じがわかったんだな。

H:なるほど。確かに積水はもともと財閥系ですしね。でもミサワはベンチャー系ですよね。

近藤:そうそう。ミサワだったら一緒にやるということもあったかもしれない。だけど一緒にやるにしても体質は違いますから、我々の貧しくても頑張ろうという体質とは違いましたね。

H:なるほど。RIAホームカウンセラーズのお話をもう少し突っ込んでうかがいたいのですが、先ほどカウンセリングは誘導だ、という大変興味深いお話がありましたが、カウンセリングシートみたいなものをつくって、それに則ってカウンセリングをされていたのでしょうか。

近藤:質問事項だとか、カウンセリングのなかで自動的に出てくるような事項というのはリスト化していました。それでリストを確認しながらカウンセリングを進める。だからカウンセリングをする人は、デザインができるかはそれほど問われないんです。多少はデザインの心がなけりゃいけないけれどね。人間には差がありますが、ある程度のレベルがあればできる仕組みになっていました。

H:実際のカウンセリングに近藤さんご自身が出て行かれていては、とても数が合わないですよね。

近藤:そうですね。だから誰でもやりましたよ。

H:RIAの社員の方が出かけて行ってやったのですか。

近藤:そうです。私もやりましたけどね。

H:最初のころは近藤さん自らが出て行き、こういうカウンセリングの仕組みをつくるとよいだろう、というたたき台をつくった感じですか。

近藤:そうです。

H:興味深いのは5回打ち合わせをするとうかがったんですが、5回と決められた背景は。

近藤:それはお金からですよ。全体で4万5千円。1回打ち合わせするのにいくら、というふうに考えていって決めました。弁護士と同じですよ。面談の時間を厳守して、その間に判断をする。第1ラウンドでここまで決めて、2回目にはここまで決めるというふうに。最後には仕上げまで決めなければいけませんからね。それをすべて決めてやっていた。それでも向こうに文句があるときは、少し金額を載せてさらにやるというかたちです。

H:最初の1回はヒアリングですよね。あとの4回はどんなふうな。

近藤:配置があって、プランニングが2回くらいあるのかな、それから構造と設備があって仕上げ、そういうのが順繰りに入ってくる。

S:住宅の設計について相談をするということでお金を取られていたわけですが、そのお金の取り方について、当時議論はありましたか。

近藤:どうやったら大量の需要に対して答えられるかということですが、内部では議論がありました。どこらへんに照準を合わせるのかで。初めはこういうシステムを考えてはどうかということから議論しました。いやらしいのではないかということもありました。とにかくこういう新しいことを考えるのが好きなんですよ。

A:そこで「建築家とは?」というような議論はありましたか。

近藤:絶えずありました。建築家であるために、こういう姿もあるんだと。たんにひとつの姿なんだよ。カウンセリングもコンピュータも。新しい建築家というのはこういうもんだと。そこで、あとはデザインが問題になる。それはずっと引っかかっていますよね。それは今の都市再開発でも思っている。建築家にとってデザインの問題が一番重要だからね。まず、自分がどれだけデザインに自己満足できるか。それから他人をどれだけ引きつけられるかということ。永遠の問題ですね。

A:カウンセリングで言えば、システムをつくるということがひとつの建築家の姿であると。

近藤:そうですね。だからそのときに、本質的な建築家を失うことはないと。カウンセリングを通じて建築家のある半面を見せているんだと。それがすべてだとは言いませんよ。

A:なるほど。建築家が持ち得るいろいろな像を試していくと。

近藤:そう。そういう集団があってもいいんじゃないかと思います。

山口文象との出会い

S:山口文象についてうかがっていきたいと思います。まず、大学時代に山口さんの事務所へ入りたいと思っていたと先ほどうかがいましたが、以前の座談会で猪熊弦一郎のもとで三輪正弘さんに出会うことで山口さんを知ったと語っておられました。実際にはどのように山口さんを知って、RIAに入ることになったのでしょうか。

近藤:三輪さんとは僕が高校のころから、新制作で一緒にやっていたんですよ。彼も絵を描いていたからね。それで三輪さんが山口文象と一緒にRIAを設立したというのは聞いていた。別に三輪さんと出会ったからというわけではなくて、山口のところへ行きたいと思っていました。もちろん三輪さんが山口さんと一緒に仕事をしていたので、そういう話はしたと思いますが。三輪さんを通じてお願いをしたわけではなくて、僕はひとりで山口さんに会いにいったからね。

S:そうですか。久ヶ原のお宅に。

近藤:ではなくて事務所の方に。そこでまた三輪さんと会うわけだね。

S:山口さんの事務所へ行こうと思うようになったたとき、彼をどのような建築家としてみていましたか。

近藤:僕が大学の4年のとき、山口文象がRIAをつくった時点の話ですね。当時、『新建築』で山口文象に関する記事が掲載されたんですが、植田一豊が山口について書いていて、それが必ずしも褒めるばかりではなく、問題点も書いているんです。それを見て、こういう自由な組織ができたのはすごいなと感じましたね。だから普通の建築家に憧れたというのとは違う。それで久ヶ原の教会も見に行きましたね。教会を見て、ものすごく感動して、よけい行きたくなりました。

S:RIAという組織が魅力的であったと。

近藤:それがひとつありましたね。山口文象の事務所が、それまでのワンマン体制であったら行かないでしょうね。僕は、それは嫌だったね。猪熊さんは丹下健三のところへ行ったらいいと言ってくれたんだけど、あそこもワンマンだし、あのころだと東大に入り直さなきゃいけないですよ。それで心配してくれた僕の親戚が、吉田五十八のところへ行かないか、と言ってくれたんだけど、俺は吉田五十八のところへ行くのはあまりにも・・・。その当時、生意気なんだよ。

一同 (笑)。

近藤:あんな日本式のところへね。やりたいこととは違うんだと。

S:丹下健三、吉田五十八という選択肢のなかで、山口文象を選ばれたと。

近藤:それから、竹中へ来いというのもあった。あのころ不景気だったから、建設会社の設計部へ行く人はなかなかいなかったんだよ。竹中の伴野さん(伴野三千良)が、僕と家が近くてよく知っていたんだ。彼から来ないかと言われた。今から考えると、ずいぶん贅沢だなと思うんだけど。贅沢なものを全部振って、こんなところへ来て、変なふうになっちゃったよ(笑)。

S:そうすると大学の就職のころというのは、朝鮮特需まではいかない、なかなか厳しい時期だったんですね。

近藤:厳しい時期だ。僕らの就職はそんなに良くなかったですよ。

A:事務所を選ぶ時、ワンマン体制は嫌だったということでしたが、当時は若い人はみなそういうふうに思う雰囲気があったんですか。

近藤:そうだと思いますね。老いも若きも、戦後の時点ではみな横一線でスタートでしたから。若くても、50歳でも、その人がかつてどれほど偉くても、関係なく横一線でした。

A:戦前と戦後で大きく変わったということがあるんでしょうか。

近藤:まったくあるでしょうね。

A:やはり戦後だと。

近藤:そう、だから僕らは何をしてもいいんだと。これは余談だけど、そういうヤツらが最近は死んでいってるんだよね、永六輔とか大橋巨泉とか、みんな自分勝手にやったんだよ。

A:確かにそうですね。やはりこれは戦後であると。

山口文象という人

S:RIAに入られて、実際に人間としての山口文象はどういう人でしたか。

近藤:やっぱり身近に見ると、欠点もたくさん見えてくるんだよ。ちょっと離れて見ているとかっこいいけどね、実際一緒にやると、誰でもそうだと思うけど難しいですよ。ただ彼は感覚がものすごいですよ。なんて言うのかな、建築の美しさに対してだったり、図面の精度もものすごかった。エレベーションを描くと、そのなかに遠近が出てくるんですよ。まったくの平面だけど、鉛筆ひとつの動きで遠近を出せた。あれも凄まじかった。自分のなかにしっかりとイメージがあって、それが鉛筆に伝わっているんだね。それから、なんだかんだと言っても、若い奴のことを認めるんだな。彼は一度挫折しているからというのもあるだろうけど★10。彼からしたら、若い奴らに相当イライラしたと思いますよ。この馬鹿野郎と思っていたでしょうが、けっこう認めてくれるんですよ。彼も大変だったと思うけど、RIAという組織をつくる礎として、彼が我慢したということは大きかった。

S:山口さん自身が抑えていたということでしょうか。

近藤:あると思いますね。

S:RIAのなかでの山口文象についてうかがいましたが、当時の建築界全体からは山口文象はどのように見られていたのでしょうか。というのも、久ヶ原の教会などのように山口さんの感性、作品に注目している人もいたでしょうし、あるいは彼の社会のなかでの立場に注目していた人もいたと思います。どうも戦後の時期によって、山口さんの見方が変わっているように思います。その変遷についておうかがいできますか。

近藤:僕は久ヶ原教会のような彼の持っている建築の感性に惹かれたんだけど、そういう作家がRIAのような柔軟性のある、いい加減と言っちゃあれだけど、そういう集団をつくったということも重要だった。そのもっと前、山口文象の事務所をつくって黒部の発電所を設計して、莫大なエネルギーを持って近代建築を引っ張ってきたと思う。すごい歴史を持った人ですね。彼のイデオロギーはいい加減だけどね(笑)。今だから言えるけど。いい加減なんですよ。いい加減じゃないと世のなか生きていけなくて。山口さんをたとえるなら、黒川紀章さんに似ているところもあるし、安藤忠雄さんに似ているところもある。黒川紀章と安藤忠雄を一緒にしたような人です。

A:その心は、どういうことですか。

一同 (笑)。

A:黒川紀章と安藤忠雄というのは。

近藤:難しいね。時代によって違うんだよね。なんとも表現できないね。やっぱり要領がいいんだな。建築家も最終的に要領が良くないと生き残れないからな。

永澤:安藤忠雄さんに近いかわからないですけど、文象先生も大工から凄まじくたたき上げできたというところはありますね。

近藤:あの凄まじさ、すごいですよ。しかも20代で海外へ、グロピウスに会いに行ってるんだから。その一方で、共産党で働いていたとも言われている。そんな人生なかなかないですよ。

T:そうした戦前のイメージは、戦後に実際に接するようになられてからも、変わりませんでしたか。

近藤:RIAをつくった当時ですか。いやー、変わったな。変わらなかったらつくれなかったな。あれだけ僕らを我慢したんだからね。我慢が半分以上でしょうね。

S:そうしたなかで1959年に朝鮮大学校の設計をやられています。3人(植田・三輪・近藤)で担当して、2週間くらいの短期で設計をしたと書かれていますが、なかなか詳細なことがわからないところがあります。1968年くらいに川添登さんが山口さんへ聞き取りをして経緯をまとめられていますが、受注の経緯やその後の過程がわかれば教えていただけますか。

近藤:この点については、それだけです。この前、50周年の記念がありまして、私も朝鮮大学校に呼ばれて行ってきましたよ。他にも早稲田大学の総長をやった奥島孝康[1939-]さんも来てて祝辞を述べてました。あの時代、奥島さんが朝鮮大学を認めたんだよね。

A:大学設置の際の・・・。

S:1968年の美濃部都政のころですか。早稲田が入学を認めたといいうことですか。

近藤:いや、審議会があって。確か審議会の会長でしたよ。

A:東京都の私学審議会で大学設置の認可を出したんじゃないかな。

近藤:それで久しぶりに奥島さんにもあって、ふたりでご挨拶してきましたよ。

T:そういうお話と切っても切れないかもしれないんですが、朝鮮大学校は建築物としては建築年鑑賞を受賞していますね★11。

近藤:そうです。でも建築年鑑賞はすぐなくなったんですよ。

T:受賞の際の審査員の先生方のコメントを資料で拝見したんですが……。
近藤 ありましたよね。先ほどの竹中の伴野さんは批判的だったんだよ。

S:作品としてはRIAのストイシズムといいますか、ローコストだけど、建築本来のかたちを示している。

近藤:そうそう。おっしゃる通り、ストイシズムなんだ。今はわかんないけど、RIAはストイシズムがものすごいあったんですよ。それはあなたの言う通りですよ。

S:建築年鑑賞の選考の過程だと、東京文化会館と並べられて、装飾が出てくるような時代にむしろRIAは構造を直接表現しているという評価が多かったですね。

近藤:RIAのストイシズムを多少軟化させたという罪が、僕にはあるかもしれませんね。ストイシズムだけでやっていると、ものすごく限界がある気がしてきたんだよ。基本的にはいろんな問題を考えるときに、ストイシズムというのは大事なんだけど、これにこだわっているとものがなくなっちゃう、無に近くなってくる。それにストイシズムに合う建築がだんだんとなくなってくる。だから僕の時代は、ストイシズムを多少軟化させてきたという気がしますね。それは申し訳ない話ですね。

S:その限界というのは? ストイシズムでは建築のニーズに応えられないというのは、どういう部分だったのでしょうか。

近藤:うーん。それは再開発だと良くわかるんだけど、イトーヨーカドーは建物にマークをつけるでしょ。あるいはイトーヨーカドーの色にする。あんなのはストイシズムとしては許せないでしょう。商品化はストイシズムと反対ですからね。商品化のなかには、ストイシズムを売り物にするものもあるでしょうけど、売ることが専門だとストイシズムだけじゃ売れない。それに気がついたということがあるでしょうね。イトーヨーカドーのマークや、ダイエーのマークをつけることを許したというのは、ストイシズムじゃないですよね。ストイシズムというのは厳しいもので、ゆるやかなストイシズムというのはないんだな。

一同 (笑)。

近藤:その辺が難しいんだな。

Is:ストイシズムの軟化、あるいはストイシズムを捨てるということは、今日これまで伺った住宅の仕事とは何らか関係していますか。

近藤:住宅をやめるというのは、ストイシズムを捨てるというところがある。

H:RIAで第一森ビルの設計をやって、1回で決裂していますよね。これはストイシズムを捨てることのきっかけとしてあったんでしょうか。
近藤 くだらない話なんだけど、今だからいいでしょう、時効になってるし。サッシを窓台の内側に入れたんです。森ビルの森泰吉郎は全部外へ出せと言ったんです。そうすると面積が稼げるから。それが揉めた理由です。それをうちが譲らなかったんだな。それで訴訟になったんです。

永澤:構造的には上に行けば行くほど柱を細くしていけるが、森ビル側は経済的に各フロア同じ状態にしたいと考えており、両者の意見がぶつかったと、あの時のことが森ビルさんの本に書かれています。

H:先ほどのストイシズムということでいうと、近代合理主義で突き詰めれば上に行けば行くほど柱は細くて済むから細くする必要がある。それが建物の機能主義をきちんと表現することになる。それがストイシズムにつながる。ですが、森ビルは経済合理主義で近代合理主義ではない。そこがぶつかったんですね。

近藤:要するにコマーシャリズムの問題だと思うんですよね。今、世の中はコマーシャリズムですからね。コマーシャリズム以外のものというのは、教会やお寺だとかしかなくなってくる。

都市の共同化 そして都市再開発

Is:もう少し後の時代のお話を聞かせてください。戦後は建築の主題が住宅であったということですが、その後、都市の共同化が大きなテーマになると近藤さんは書かれています。住宅から再開発へと仕事がシフトしていきますが、そのきっかけにはどういったことがあったのでしょうか。

近藤:防火建築帯事業のはしりだった大阪の立売堀(いたちぼり)の仕事があって、それが最初です。この前、安井建築設計事務所の椚座正信[1922-]さんがここへきてくれて、インタビューを受けたんだけど、うちの植田一豊と椚座さんは仲が良くて、その縁もあって防火建築帯や防災建築街区をやるようになりました。防災建築街区は植田が担当していて、彼は形の問題やシステムの問題を考えるのに非常に長けた人で、共同のシステムを建築化しようと取り組んでいました。共同化を建築の問題としてやってきたんですね。そういうなかで都市の問題をやろうというんで、公団にいた藤田邦昭[1927–2001]さんと仲良くなった★12。飾大ビルという天理教の教会が入った公団のゲタ履き住宅の設計をしに僕は大阪事務所へ行ったんだけど(1957年)、その時期にRIAに藤田さんを呼んだ。彼も公団じゃ満足しない人だから。彼も面白い人生なんだけど、彼にとってうちは足場であって、そのうち独立して事務所を構えることが最初からわかっていた。独立前に仕事を持ってRIAに来て、設計事務所としてどんなことをやっているかということを見て、地ならしをした。その当時は僕も大阪にいたもんだから、藤田さんともよく飲んだもんですよ。彼は苦労もしてるし、再開発の特に商業経営については力を持ってやっていた。この前、蓑原敬[1933-]さんにあったんだけど、蓑原さんも藤田さんを非常に敬愛していた。藤田さんは、在野の人として商業経営のことも含めて都市建築を扱える人でした。

Is:RIAとしては再開発以前の仕事である住宅のカウンセリングから、なんらかの方法的な連続性はあったのでしょうか。

近藤:それはありましたね。共同化のことをやっているうちに、事業の問題、お金の問題が出てきた。調整の仕事ですよね。いわゆるコーディネーション。それにはカウンセリングでやっていたことが、直接的でないにしろ影響していたと思いますね。そういう調整の仕事の訓練を住宅のカウンセリングでさせられていたという部分があるんじゃないでしょうか。

Is: 木造の戸建てとその下にある権利がバラバラな土地を一体化し、ひとつの建物にしていくというのは、時代的に考えて非常に新しいことだったと思うのですが、形としてはどのようなものをつくるのかというような議論はありましたか。

近藤:最初の頃は単純なものが多かったですが、システムを考えて、できるだけ一体化するようなデザインを考えていきました。それは新大阪センイシティーでもそうですし★13、和泉府中や泉佐野でもそうです。そのあたりは植田さんがかなりやっていました。再開発の設計自体をシステム化し、意匠としてもシステム化しようというのは、建築家の仕事だと思っていましたね。その辺りは我々も大きなテーマとして考えていましたね。そのうちに相手が強くなってきた。再開発の相手はまず銀行でしょ。その次が百貨店やダイエーなど大きな商業主体。今はホテルやマンションになっちゃったけど。再開発はその時代ごとに顔が変わるわけです。その顔に対してどうするかということを考えると、システム化に載らない部分が出てくるんだね(笑)。

H:住宅産業をやっておられたときも、都市の共同化をやっておられたときも、最初は新しい建築家像としてシステムを考えるという概念の部分からスタートして、でも実際は事業化しなければならないから、経済という下部構造がガチッと組み込まれて、そこでカウンセリングなどの手法が生まれてくるというような流れが、どちらにも共通してあるということなんでしょうか。

近藤:それからうちの場合、事業化の専門家が誕生するんですよ。今うちは何人いるの。

永澤:今うちは200人ほどいて、そのうち私のような事業担当が60人ほどいます。

近藤: それだけの人数を抱えるようになったんだから、事業化がいかに大変かということですね。それと事業化自体の面白さというのも出てきた。

Is: 銀行や百貨店など資本の問題が前面化してくる時期と、それ以前の個人住宅や商店街が集まって不燃共同化するような時期では顔が違うということだと思いますが、この転換は再開発において大きな転換だと思います。それはいつ頃、どのように起きたのでしょうか。

近藤:うーん。時期としてはね、市街地改造事業(1961–69年)や防災建築街区造成事業(1961–69年)が終わって、都市再開発法(1969年施行)になったときだね★14。再開発法制度は、日本では公益施設、たとえば広場などをつくるために生まれたんですよ。それと都市の不燃化。そのふたつが課題だった。だから大資本を呼ぶつもりはなかったんだ。だけどそういうことをやると、大資本でないとできないだとか、都市の目玉になるような場所だから大資本が入ってくることになった。だから再開発は制度の問題が大きいと思いますよ。それまでの防災建築街区や市街地改造なんかは立体換地ができないから、新橋や熱海みたいなべったりしたものになる。それが変わるのはやっぱり再開発事業だな。新橋の佐藤総合計画がやったビル(新橋駅前ビル1・2号館)と、松田平田がやったビル(ニュー新橋ビル)がある。あれは建築家的に一生懸命考えてますよ。立体換地がないから、あそこまでは考えられるんだよ。今日は逆にいいことを聞いた。

近藤:近藤さんがおっしゃったように、センイシティや和泉府中など初期のものは、ある程度ファサードをダブルスキンにして物事を処理していくというもので、その中に沿道型のまちをつくっていたのが、だんだんとデパート系が出てくるとファサードではもう処理しきれなくなっていきます。

Is:近藤さんがおっしゃられたことの繰り返しになってしまうかもしれませんが、つまり、地べたに張り付いていた地権者をいかに共同化するかということ、これは建築の問題だと。それに対して、そのあと都市再開発事業となり、大資本が入ってくる段階になると立体換地をすることになり、設計としてはそれまでとは違う次元になっていったと。

近藤:立体換地は平面じゃないからね。容積率は当時どんどんと上がっていくし、そうするとそれだけのヴォリュームを埋めるものが必要になっていく。

永澤:初期のものに続くのが吉祥寺で、吉祥寺も伊勢丹さんが入っていますがファサードのつくりもしっかりとできている。それが町田なんかになっていくと、いかにもデパートとしてつくられるようになっていく。

近藤:町田はまだデパートだけだからいいんだよ。ところが、今度はこれにゴチャゴチャ小さなものまで入ってくると、もうどうしようもなくなるんだよ(笑)。

一同 (笑)。

近藤:ほんと大変なんですよ。

S:『新建築』の別冊『都市空間へ−RIAの計画と技法』(1996)でも、都市再開発法以降は権利者の調整が難しくなると、まちとの関係が希薄になっていくと、RIAの方が書かれています。

近藤:その通りです。だけど最近は再開発ビルからそういう大資本がどっかに出て行っちゃうでしょ。そうするともう全部ダメですよ。だからね、世の中ってのは、なかなかうまくいかないもんですよ。

S:RIAは1970年代から90年代にかけて、地方の駅前再開発で広場を整備し商業ビルをつくっていくお仕事をされたわけですが、そうした事例を現時点から見てどう評価されますか。

近藤:やっぱりしょうがないんじゃないかな。駅前広場だとか国道を整備するという、国の政策が強く働いていた。自動車の問題だったんですよ。公共の福祉って言うけども、駅前が便利になって通勤がうまくいくようにもなった。だから生活サイドの改善という意味もあった。世の中も変わってきたからね。もう今は自動車の問題なんて言わないじゃないですか。当時は自動車の問題が大変だったんだよ。

S:交通戦争と言われた時期もありました。

近藤:人間が使っている道具によって、まちは大きく変わりますよね。新幹線なんてまさにそうです。新幹線でどれだけまちが変わったか。

Is:都市の「共同化」というテーマは、RIAの思想にリンクする部分があったのでしょうか。

近藤:僕は関係が深いんじゃないかと思いますね。何で飯を食うか、あのころはそれを真剣に考えました。ちょうど僕自身が社長になる前、35〜40歳くらいのころだなあ。社長になってからのほうが楽になったかもしれない。とっかかりになった吉祥寺の仕事から、それまでの住宅の仕事と比べて、ものすごく規模が大きくなっていったんですよ。僕は割とでかいのは平気でね、伊豆富士見ランドだとかやって、みなさんもう知らないだろうけど。吉祥寺以降、コーディネートの仕事が増えていきました。それで僕は北海道を除いて、全国を歩き回ったんですよ。北海道も回ったんだけど、うまくいかないと思ったんだね。そうすると可能性のある場所がいくつか出てきた。もちろん金沢はずいぶん前からやってたし、まちのことを永続的にやっていくべきだと考えて、支店をつくり始めたんです。普通にいくと設計事務所の支店は、営業所なんですけど、うちは違うんですよ。それ以降、支店を中心にして重点的にいい人を置いてるんです。東京はそれをコントロールするものとして考えて、地方の足りないところを補うことを考えたりして。そういうふうにして、金沢なんかは長いこと続いてるんですよ。これからまたどうやったら長く続いていくか、考えなきゃならない。今もそうですが、コーディネートでお金を取ることを考えるのは大変なんですよ。仕事が長いんだよね。10年かかるか、20年かかるか。僕らの仕事は30年なんてへっちゃらなんだよ。その長さに耐えるにはどうするかを考えた。すぐに成果が出なくても、戦地に弾丸を送るような気持ちで、考えましたよ。だから東京では逆に建築の仕事を取りまくりました。つくば学園都市だとか、オリエンタルランドだとか、単体の建築の仕事をして、弾丸を地方へ送りましたね。

H:東京でキャッシュフローをよくして、地方で運用に回すと。

近藤:今はそれぞれで採算があってるから、東京で稼ぐということはないんですけどね。長いし、成功するかわからなかった。だけど最近は長くやってると成功するんですよ。誰もやり手がいなくなっちゃうので。沖縄もほとんどうちがやってます。最初頼まれて、どうしようかと思って、苦労もしたんだけど。東北や九州もそんなつもりでやってます。

H:東北や九州もまだこれから長くなりそうですね。

近藤:日本の政治の問題でもあるけど、一極集中でしょ。これはまた時代が経つと変わるかもしれないね。そのへんはどうなるんですかね(笑)。

H:なかなかナイーブな状況ですね。近藤さんが社長になられたのは何年ですか。

近藤:何年かな。45、6歳のときだったな(1975年就任)。26年間やりました。でも社長になったって言ったって、その前から社長みたいなもんでしたからね。

一同 ハハハハハ(笑)。

近藤:社長になった方が楽だったんだよ。社長じゃなくて社長みたいな仕事するほうが大変なんだよ。

Is:繰り返しになりますが、都市の「共同化」ということと、RIAの組織としての思想的な関係性はありましたか。

A:「共同化」ということに思いはありましたか。

近藤:今でもありますよ。それがなかったらできないですから。最初の頃はむしろ、建築のシステムをつくって、住民に納得させるということを考えていました。防災建築街区ぐらいまではそれができた。ところがさっき言ったように、いろんな資本が入ってくると資本のほうが強いから、それのいいなりにならないと成立しないんですよ。それを別個で扱って、そのほかで考えるしかない。そういう意味でそれぞれに作戦を考えなきゃいけなかった。

Is:つまり住民組織の共同性を考えるよりも、システムとしてどうつくるかを考えて、住民を説得してつくらせるところに力点があったと。

近藤:そのへん難しいんだけど、大資本のほうを見過ぎてしまって、一方を見失うわけにはいかない。だから小さい権利者を、再開発ビルのなかでどう活かしていくかに神経を使っているし、それについて造形的に考えているところは今でもありますね。資本の力を認めながら、もう一方をいかにコンビネーションするかということに苦労をしていますね。

永澤:都市再開発は非常に特殊な世界なんですが、日本は土地本位主義ですから、必ず誰かが持っている土地に挑みに行くことになります。何も建っていない駅前につくるわけでも、公団さんのみが持っている土地につくるわけでもなくて、もともと家が建っている土地にチャレンジしに行っている。当初はみんなで建て替えましょうということだったのが、今は巨大な資本が入ってきて一緒にやるんです、という枠組みになっている。だから地元側だけに立ってもダメだけれど、一方で資本の側はどこに行っても同じように自分たちの姿を出そうとする人たちだし、加えてパブリックな空間もつくらなければならない。いろいろなことをやらなきゃいけないし、その上でデザインもする。そこが一番面白いところであり、気を使うところでもありますよね。看板の問題なんてとくにそうで、事業パートナーとしては外すことはできないし、どうよりよくデザインで見せるかということでもあります。

近藤:僕は、看板のことはけっこうやりあったことがあって、草加の駅前のイトーヨーカドーで市を巻き込んでやったことがありますね。市から願い書を出してもらって、看板のデザインを少し変えてもらったことがありますね。マークひとつ変えるだけで大変ですので、なかを変えるなんて至難の技ですね。行政と大資本と、地域の零細な権利者との間をコーディネートするだけで、本当に大変ですよ。ただ、そこで我々が怠けると、建築の問題としても考えることができない。ねえ、そうじゃないですか、永澤さん。

一同 (笑)。

永澤:そこがいつも怒られているところですね。

H:今日、お話をうかがいながら、日本の土地の問題は区画整理の時代から今日まで、それほど大きくは変わってないんじゃないかなという印象を持ちました。つまり、誰かが持っている土地を当該者の利益を確保しながらどう組み替えるかということは実は区画整理の時代とさほど変わらない。それが扱う土地の条件が変わって立体換地という概念が開発されたとき、資本が入ってくる割合がぐっと増えてきた。それによってデザインが圧迫される部分もあったかもしれませんが、資本と地主と公共の利益を担保しながら開発をシステムとして考えるのが建築家という職能だと言われた。そういう視点から建築をご覧になっているんだなという印象を持ちました。でもそういうふうに考えていかないと、デザインがただの形だけの問題に堕ちてしまいかねない。

Is: 新しい状況において、常にシステムとしてのデザインを考えるということを、一貫してなされてきたということを強く感じました。

近藤:まあちょっと他の事務所と違うのはそのへんですよね。最初は完全にストイシズムから出てきたけど、それが完全に破られたかわからないけど、でもある部分では常にストイシズムは持っていないといけないから。

永澤:再開発に大資本が入るようになって、どこの再開発も同じに見えるという議論があり、都市再開発法からくる均質さはありますが、都市再開発法を知っているから応用できるという部分があって、近藤会長が関わられた近江町市場や、直近では多賀城のTSUTAYAを含めた再開発などでは、新しい試みも行なっています。下にお店があって、上にマンションが載っているだけという解き方ではない実践をしていると思います。

近藤:まちというのはしょっちゅう生きてるんですよ。だけど、大きな資本の事務所ビルやホテル、百貨店はそうじゃないんですよね。その違いがあるんだ。

永澤:むしろ地方の再開発では資本参加が難しいことを逆手にとって、行政にお金を出してもらうことになりますが、広場とか質のいい公共空間を駅の前につくっていく方向へと変わりつつありますね。最近うちでやった福井なんかは、デパートがダメでなくなったけども、むしろ質の高いパブリックスペースが多い建物に生まれ変わっています。

A:重要ですよね。

永澤:もしかしたらそっちのほうが、永続性があるのかもしれないですね。

A:周回遅れのトップランナーで、面白いことが地方でできるかもしれませんね。

永澤:そこをうまく解いていくということが、むしろ新しい面なのかなと思っていますね。

S:「身の丈開発」とおっしゃってますね。

永澤:そうですね。

近藤:そうだよね。それはうちには合ってるかもしれないよね。

永澤:生きた広場、生きた空間をつくる活動が増えるのかなと。使い勝手も含めてですが。

RIAの組織論

A:五期会というのはご存知ですか。

近藤:知ってますよ。

A:何か関わりはありましたか。

近藤:いや別にありません、私は。

A:そうですか。

T:前川事務所のMID同人はどうですか。

近藤:私は直接は関係ありません。ただ前川事務所も苦労をして、前川さんが立派すぎて、経済的な問題もあってね、労働組合ではないけど、田中君ってのはさかんに狼煙を上げてましたけどね。前川事務所もいろいろあるんですよ。ようするに設計料の半分は前川が取り、あとの半分はMIDがもらう。まあレーモンドのところもそうだけど、あのころは設計料に関して、そういうことがありましたね。前川國男のところに入るのは勉強のためなんだから、それでもやりなさいと。そういうのはやめようと山口さんと話していまして、山口さんにとっては大変だったと思うんですが、なんとかやってくれましたね。

S:そううかがうと、同じ共同設計組織に見えてけっこう違うということですね。

近藤:僕らは平等だということがあって、そのために苦労してRIA憲章をつくったんですよ。内部に組合をつくらない代わりに、所員が全員株主ですよ。それで運営管理委員会というのがあって、株主会社と絶えず折衝をしている。そういうちょっと特殊なことをやってるんですよ。それも形骸化してきたけど。あの時代というのは、そういう時代なんですね。

A:山口文象さんも、それについては戦後という空気を感じて、対等な組織をつくりましょうということを考えられていたと。

近藤:頭の中ではそうなんだけど、実際になると(笑)。

一同 (笑)。

A:その雰囲気のなかで、みなさんが面白い組織をつくって規約にして、その組織論にはこれまでの仕事の仕方、これまでの経緯、全部が関わってくるわけですね。

近藤: 植田さんや三輪さんが会社を離れたときに、会社が右傾化するんではないかと危機感もあって、株式会社と運営管理委員会という組織の憲章をつくったんですよ。

H:株式会社と運営管理委員会の関係はどういうものなんでしょうか。

永澤:株式会社であって所員がみな株を持っている。それで役員も株を持っているんですけど、運営管理委員というのは役員ではなくて、ある一定の年齢以上の所員、いまでいうと6人で組織されていて、そのメンバーが役員とともにいろいろなことを話し合って決めています。

H:役員ではない人がなるんですね。

永澤:そうです。毎年、役員以外の選挙によって3人が選ばれます。2年交代なので、1年に半数ずつ入れ替わっていきます。

H:その6人が役員と対等に会社の将来について話すと。

永澤:はい、そうです。

Is:先ほど近藤さんが、植田一豊さんや三輪正弘さんが会社を抜けられたときに、会社が右傾化するのではないかと危機感が高まったとおっしゃっていましたが、右傾化というのはどういう意味でしょうか。

近藤:会社の運営側がワンマン化するという意味です。

Is:なるほど。

A:強い人がいなくなると、会社の経営側の発言力が強くなるということですね。

永澤:当時の話を聞くと、三輪さんにしろ、植田さんにしろ、年に一度の所員総会で何を決めるのか、決めないのかでかなり揉めたそうです(笑)。

近藤:まあそれも戦後ですよね。僕らのときは組合の問題があって、どんどん会社が潰れていったんですよ。創和設計、三座建築事務所、桜井建築設備研究所とか、けっこういいところが潰れていったんです。そういうところの組合には、よそからオルグが入って赤旗が立って、それで潰れていくんですよ。だからうちもそうなるのではないかと、けっこう恐れていましたね。

H:オルグが入って、赤旗が立つというのは、具体的にはどういうことですか。

近藤:別の組合が応援に来るんですよ。

H:そういうことか。

近藤:全港湾労組とかね。

A:それはもう潰れかかっているということですね。

近藤:そういうことですね。今日はけっこう長くしゃべっちゃったね。

Is:本日はお生れから現在の都市再開発、RIAの組織論についてまで、多岐にわたるお話をいただきありがとうございました。(おわり)

1)保土谷化学は横浜市保土ケ谷区にて日本で初めて電解法苛性ソーダを製造する企業として誕生した化学メーカー。2016年に創業100年を迎えた。保土谷化学ホームページより(2017年4月4日アクセス)。

2)東京府青山師範学校。1936年4月に世田谷区下馬町に新校舎を建設し、赤坂区青山北町から移転。近藤正一氏は移転後の校舎へ通われた。

3)戦後の教育制度の改革(学制改革)では、学校体系の「6・3・3・4制」への変更、義務教育の9年間(小学校6年間、中学校3年間)への延長が行われた。高等教育機関もこの改革によって改変され、多様に存在した旧制の高等教育機関(大学、大学予科、高等学校、専門学校、師範学校など)は、4年制大学に改編された。旧制大学(3年制)は大学予科と高等学校とを前期の教育機関としてもち、実質5〜6年の課程をもつ高等教育機関であった。この改革による移行期間は1947年から1950年であった。(文部科学省ホームページを参照。2017年4月4日アクセス)

4)農村建築研究会。新日本建築家集団(NAU)に設置された農村建築分科会を源流に、農村建築以外の研究者を含む組織として1950年に結成された研究会。農林省からの委託による開拓地住居の調査、また学生による農村住宅調査などが行われた。(建築研究団体連絡会『建築をみんなで』日刊建材新聞社、1956年)

5)LV(les Vendredies=金曜会)。東京大学の吉武泰水研究室を中心に開かれた研究会。1950年に、英文や欧文の雑誌を相互に紹介することを目的として研究会を開催したのが始まり。1956年の段階で二百数十回の研究会が開催されていた。会則等のない緩やかな組織で、参加者による共同設計などが試みられた。(建築研究団体連絡会『建築をみんなで』日刊建材新聞社、1956)

6)住環境整備事業とは、住宅地区改良法にもとづき、「不良住宅が密集すること等によって保安衛生等に関し危険又は有害な状況にある地区(改良地区)において、不良住宅をすべて除却し、生活道路、児童遊園、集会所等を整備し、従前の居住者のための改良住宅を建設する事業であり、改良地区の環境の整備改善を図り、健康で文化的な生活を営むことのできる住宅の集団的な建設を促進する」事業。(公益社団法人全国市街地再開発協会のホームページ参照。2017年4月4日アクセス)

7)新宿西口の思い出横丁は、かつて「しょんべん横丁」と呼ばれていた。戦後の闇市から続くバラックの飲み屋街で、かつてはトイレ設備が整っていなかったために、道端で用を足す客が多かったため、そう呼ばれていた。現在は共同トイレが設置されている。

8)金子正則は、1950年に香川県知事選挙に出馬し当選して以来、6期24年間香川県知事を務めた香川県丸亀市出身の政治家。イサム・ノグチや猪熊弦一郎などのアーティストとの交遊があり、香川県庁舎の建設にあたっては猪熊弦一郎の助言もあり丹下健三に設計を依頼している。その他、県内の公共施設の設計に多数の建築家を起用している。

9)カウンセリングシステムについては、近藤正一「RIAホームカウンセラーズ」(RIA住宅の会編『疾風のごとく駆け抜けたRIAの住宅づくり』彰国社、2013年)および「[補足解説]RIAホームカウンセラーズ」(同書)が詳しい。

10)山口文象は、逓信省、片岡・石本建築事務所を経て、渡欧後、設計を担当した日本歯科医学専門学校の完成を契機に、1934年に山口蚊象建築設計事務所を開設し、黒部川第二発電所などを手がけた。しかし敗戦後には仕事が減少、猪熊弦一郎との関係から、高松の近代美術館や久ヶ原教会などを手がけるものの、経営難となり、26人いた所員は離散、1949年2月頃には山口文象建築事務所を解散することとなった。(伊達美徳『新編 山口文象 人と作品』アール・アイ・エー、2003年)

11)建築年鑑賞とは、宮内嘉久を含む建築年鑑編集会議が編集する『建築年鑑』(1960年〜1969年)が設けた賞。

12)藤田邦昭は、再開発プランナーの先駆者。戦後の都市再開発事業において、関係者の合意形成と事業の経営的成立性を担う職能の重要性を認識し、再開発の調査、計画、立案、調整などを包括的に行う都市問題経営研究所を、都市再開発法が施行された1969年に創業している。

13)新大阪センイシティ。国鉄大阪駅の南側に存在した繊維問屋街を市街地改造事業によって再開発する際に、新大阪駅の北側へ集団移転させた商業施設。現存せず。(初田香成『都市の戦後』東京大学出版会、2011年)

14)戦後の再開発事業に関わる制度的変遷および制度と事業との関係は、石榑督和・市川尭之・髙橋元貴・高道昌志・似内遼一・福村任生・宮脇哲司「東京の土地・空間史年表」(『建築雑誌』2012年11月号、14–19頁)が詳しい。

近藤正一
建築家。株式会社アール・アイ・エー名誉会長。1930年東京都生まれ。早稲田大学卒業。1954年、RIA建築綜合研究所に参加。1975年、同代表取締役社長。2001年、同会長。2005年より現職。

石榑督和
東京理科大学工学部建築学科助教、ツバメアーキテクツ。建築史・都市史。1986年岐阜県生まれ。明治大学大学院修了。博士(工学)。明治大学助教をへて現職。著書に『戦後東京と闇市‐新宿・池袋・渋谷の形成過程と都市組織』ほか。2015年日本建築学会奨励賞受賞、住総研第1回博士論文賞受賞。

佐藤美弥
埼玉県立文書館学芸員。日本近現代史。1979年秋田県生まれ。一橋大学大学院修了。博士(社会学)。一橋大学特任講師、埼玉県立歴史と民俗の博物館学芸員をへて現職。著作に『近代日本の政党と社会』、『戦争と民衆―戦争体験を問い直す』(いずれも共著)ほか、担当展覧会に埼玉県立歴史と民俗の博物館企画展「埼玉の自由民権」ほか。

青井哲人
明治大学理工学部准教授。建築史・建築論。1970年愛知県生まれ。京都大学博士課程中退後、神戸芸術工科大学、人間環境大学をへて現職。博士(工学)。主著(共著含む)に『植民地神社と帝国日本』『彰化一九〇六年‐市区改正が都市を動かす‐』『日本建築学会120年略史』ほか。

橋本純
編集者。1960年東京都生まれ。早稲田大学大学院修了、新建築社入社。『新建築住宅特集』『新建築』『JA』の編集長を経て2008年より新建築社取締役。2015年株式会社新建築社を退社し、株式会社ハシモトオフィス設立。東京理科大学非常勤講師。新建築社時代の担当書籍に『現代建築の軌跡』『日本の建築空間』ほか。

辻泰岳
建築史・美術史。1982年生まれ。東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了。博士(工学)。日本学術振興会特別研究員、コロンビア大学客員研究員などを経て現在、慶應義塾大学特任助教、芝浦工業大学非常勤講師。

市川紘司
東京藝術大学美術学部建築科教育研究助手。1985年東京都生まれ。中国近現代建築史。2013–15年中国政府奨学生(高級進修生)として清華大学建築学院に留学。東北大学大学院工学研究科都市建築学専攻博士後期課程修了。博士(工学)。編著書に『中国当代建築 — — 北京オリンピック、上海万博以後』など。

建築討論

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建築討論委員会(けんちくとうろん・いいんかい)/『建築討論』誌の編者・著者として時々登場します。また本サイトにインポートされた過去記事(no.007〜014, 2016-2017)は便宜上本委員会が投稿した形をとり、実際の著者名は各記事のサブタイトル欄等に明記しました。

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