追悼 磯崎新

日埜直彦
建築討論
Published in
Feb 10, 2023

磯崎新は追悼文の名人であった。『挽歌集』(白水社、2014年)と題して追悼文だけをまとめた本さえ遺した。紋切り型に流されず、ごく個人的な亡き人との思い出を語るようでいて、読むにつれたしかにそうであったと思いを致すことになる、そんなテクストがそこに並ぶ。だからなおさら磯崎新の死を受けて、これを書く荷は重い。

ことは単に文章がうまいへたの問題ではない。文字通り、同志を送る言葉を骨身を削って綴っていた磯崎が体調を崩したきっかけの、すくなくともひとつは荒川修作の追悼文だったように思う。荒川が芸術の枠に収まりきらないプロジェクトに賭け、しかし思うように理解を得られないことも多い、その孤独への哀悼がテクストに刻まれている。もちろんその心労だけではなかったろうが、書き上げた後しばらく伏せって、持ち直しはしたが、なかなか本調子とはいかなかったのではないか。

その頃から磯崎は、もう自分にできることは「翁の舞」ぐらいですよ、と自嘲していた。高齢の翁が天下の安寧を祈って舞う能の型だ。世の無常を見つめた末に執着を離れた翁が、残るものに向けてせめて幸多かれと祈願する。もちろん手元の仕事への執念を緩めたわけではなかったが、公に自分が出来ることはそれぐらい、それ以上はもはや見苦しいだろう、という諦念がうかがえた。もうこうなってしまえば自分がどうこう言ってもはじまらない、と匙を投げる気分も潜んでいたはずで、翁の心中はいかばかりだったろう。

磯崎が自分自身のキャリアを総括する作業に意識的に取り組みはじめたのは、その少し前からだった。私が聞き役をした、磯崎のキャリアを振り返るインタビュー・シリーズに取りかかったのも大きくはその一部だったはずだ(『磯崎新Interviews』LIXIL出版、2014年)。インタビュアーの務めとしては、既に語られたことが膨大にあるのだからそれを踏まえて、まだ語られていないことを集中的に掘り下げるのが本来だったかもしれない。だがそうした用意がてんで出来ていない素朴な問いかけに、磯崎はいとわずあらためて懇切丁寧に語り直してくれた。

その語りはそのまま、建築史が未だ書いていない日本の建築の二十世紀後半の見取り図であった。もちろん一人の人間の見方であり、それなりの偏りや歪みはあるだろうが、時代を切り開いてきた当事者であり、また状況を俯瞰する眼力に定評ある識者である。一本筋が通っていた。時代の断片が繋がり、見通しが開ける。時代の状況に順応せよと強いる世情などおかまいなし、むしろ状況に切り込み緊張をもたらした単独者ゆえの明察であった。ひょんなことで現代建築史レクチャーを特等席で聞くことになった。ありがたいことだった。それがそのまま拙著『日本近現代建築の歴史』(講談社、2021年)に繋がったわけではないが、そこで受け取ったことから問いが立ち上がってきて、その問いに答えを求めるなかで書いたような気がする。

順応を拒むこと

順応を拒むことは何事によらず磯崎新の基本的な態度であった。流れに棹差すのではなく、流れに抗うこと。運動の世代だったからというわけではない。同年配の建築家で相応に活躍した建築家は少なくないが、磯崎をその列に並べてもどうにも収まらない。例えばメタボリズム・グループの面々の生真面目な姿・身振りに対して、磯崎はすこし反抗的でへの字グチだ。そんなわざわざ言うまでもない違いさえ見過ごされてしまう昨今ではある。

ともあれ順応を拒み、異議を申し立て、クリティカルなヴィジョンを提示した。建築家ではなく敢えて「都市デザイナー」を名乗った1960年代、「都市破壊業KK」や「孵化過程」、「空中都市」のような、カテゴライズがなんとも難しいユニークな仕事を今あらためて見れば、よくも抜け抜けとこんなことをあの時代にやったものだと思わざるを得ない。それが許されたのは丹下健三門下のプリンスとして周囲に認められた例外的存在であったからに違いなく、だが不逞の問題児と持てあまされていた気配もないではない。ちなみに丹下が同じ年齢だったのは戦争末期で、つまり「大東亜建設記念営造計画」の頃だから、方向はもちろん全く違うにせよ重なるものはある。

不逞の問題児は建築・都市の界隈から大きくはみ出していた。「孵化過程」は美術評論家・滝口修造がゲストエディターを務めた『美術手帖』の特別号「現代のイメージ」のために、滝口に求められて製作された。そこで建築・都市界隈の生真面目な技術楽観論から遠く離れて、「未来都市は廃墟だ」と磯崎はマニフェストし、不穏なはみ出し仕事は周囲を苛立たせた。敢えて反抗のポーズを構えた、というのではないはずだ。時代の無理をその身に受け止めんとするネオ・ダダのアヴァンギャルドたちと付き合っていた磯崎が、メタボリズムのナイーブさと相容れなかったのはごく自然なことだったろう。

都市デザイナー時代の集大成は、「お祭り広場」初期案(「修景調査報告書 お祭り広場を中心とした外部空間における、水、音、光などを利用した綜合的演出機構の研究」日本科学技術振興財団 日本万国博イヴェント調査委員会、1967年)として残されている。企画をわずか三ヶ月の短期間でまとめることを求められ、どさくさ紛れにかねてから付き合いの深いアヴァンギャルドの美術作家たちを潜り込ませた。「お祭り広場」のスペースフレームの構造体自体は単なる支持体と見切っていた。むしろそこにさまざまなセンサーや演出機器をインプリメントし、大掛かりなシステムによってその場の環境をダイナミックに変容させる野心的構想だった。行政機構内の企画書としてはもちろん、同時代にこれだけのものはまず見当たらない。あまり具体的内容が知られていないこの計画は今後十分研究される意義がある。

”大阪万博「お祭り広場」初期案”[提供:磯崎新アトリエ]

その後の万博実現過程において、このいささかゴリ押し気味の計画は官僚によって当然のように切り崩され、磯崎は「心情的に脱落」した。「都市からの撤退」であり、磯崎新は都市デザイナーあらため建築家となる。そうなれば環境に焦点を置いて構造体を単に支持体と扱ってきたそれまでのアプローチは、ひっくり返さざるをえない。そこに磯崎言うところの「手法」が始まる。都市デザイナーにとって環境が主であり構造は従であった。それを反転して、建築によって環境を具体化する。ただしそこで建築を建築のさらに向こう側にある幾何学的定型に委ねる。幾何学的定型自体は主には美術におけるプライマリー・ストラクチャーから来たに違いないが、幾何学的定型と空間のあいだに、建築を挟み撃ちにする戦略=「手法」だった。

メタレベルへの指向

大阪万博における磯崎の「脱落」は、建築家が国家から放り出されるより大きな時代状況の一部だった。その具体的経緯については拙著を参照願うとして、要するに、明治以来一世紀にわたる「国家のための建築」をミッションとして課された建築家たちの時代が終わり、国家はもはや建築家にミッションを与えなくなった。当然、丹下健三の1960年代までの仕事に象徴されるような「国家のための建築」もお払い箱になった。既に高度経済成長期には時代を画する建築は大規模化、複合化、高層化していて、個人としての建築家の手に負えるものではなくなっていた。また民間経済が日本の建築の状況に占めるシェアが圧倒的になっていて、そうして建築家は梯子を外された。国家から見放され、経済から浮き上がり、個人としての建築家は孤児のようになった。この地滑り的変化のリアリティを実感してもらうには、この前後の時代に建築メディアで語られていた言葉をある程度の量、実際読んでもらわなければならない。ともあれ「国家のための建築」を担うなにか晴れがましいエリートの言葉が、一転して足元が崩れていく戸惑いと活路を求めて順応を模索する困惑の言葉へと変わった。丹下の雄弁はもう響かなくなった。

磯崎は元来順応を拒むのが習い性だったから、この変化はかえって望むところだったかもしれない。いちはやく「国家のための建築」より上位にある「メタレベルの建築」をテーマに据えた。生真面目な建築家たちの多くは、「国家のための建築」の幻影を追いかけ、あるいは「本来の建築」への憧憬にしがみついた。もちろん洋の東西を問わず国家と建築の関係は深いものだ。ロジックだけで切れるような繋がりではない。だが後期近代とはそのような結びつきが形骸化する時代であった。そしてとりわけ日本においては、この変化が明治維新以来国家に奉じてきた建築家のアイデンティティを切り崩していた。失われゆくものに未練がましくとらわれて多くの建築家が自家撞着におちいった。一面において「メタレベルの建築」はその解毒剤でもあった。

「メタレベルの建築」のケーススタディとして同時代の新しい動きをレポートしたのが『建築の解体』(『美術手帖』に1969年から連載)だった。時代の変化に敏感な当時の若い建築家はそれに鼓舞されて新しい方向へ走り出した。彼らにとって「国家のための建築」は違和感をもたらすうさんくさいものであったから、そこで示されたヴィジョンに彼らが飛びついたのは当然だった。その連載から少し間をおいて付された結論で磯崎は「メタレベルの建築」への意識をはっきり提示しているが、それは響かなかったようだ。その影響はもっぱら「オルタナティブな建築」へと拡散した。若い建築家がそれぞれに建築のリアルを追求し始めた。いわゆるアトリエ建築家の系譜はここから始まる。現代に至る半世紀の状況がこうして生まれた。

「メタレベルの建築」を、「手法」によって語るにせよ、「大文字の建築」で語るにせよ、「テンタティブ・フォーム」として語るにせよ、核心的には変わらない。建築が、「建築」として成立し、かつ〈建築〉であることを、いかに可能にするか。その問題の発展だ。そのかたわらには、途方もない混沌へと変貌を遂げつつある現代都市への磯崎の関心が絶えずあり、その両面が折々に連動するところで磯崎の仕事は展開した。建築・都市を両にらみするのが建築家だと考える丹下の教えを、磯崎は根本的に変質させはしたが、揺るぎなく堅持した。

磯崎新の建築

イデオローグとしての磯崎新についてはひとまずこのぐらいで切り上げたい。磯崎新の建築について書かねばならない。

「大分県医師会館」と「大分県立大分図書館」のあいだに、丹下の圏内から磯崎が離脱するプロセスを見てとることができる。医師会館は、とりわけ増築部分を除いた当初の姿を想起するとかなり奇妙な建築だ。ある意味では丹下の「広島平和記念資料館陳列館」をワンスパンに切りつづめたような格好で、事実どちらも門構えの形式を採るが、構築的な丹下のそれに対して、磯崎はモノコックのチューブ構造をなんとか実現しようと苦心している(実際は変形ラーメン)。そして異物のようなチューブとそれを掲げる柱の下に、モダニズムに則った匿名的構造体が控え、主となる上部と従となる下部は明確に分節される。この構図はその直後の「空中都市」において、超然たる上空のモニュメントと下界の市街地の不定形な繁茂の対比に変奏された。そしてさらに大分県立大分図書館は、いくらか空中都市の建築版といったところがあって、上空を箱型断面の梁が延びて、その下に図書館スペースが水平に広がる。建物規模も医師会館と比べれば格段に大きく、空間は立体的で変化に富む。そのロビー空間はエッジの柔らかい光の表情で満たされる磯崎らしい空間の萌芽を見せる。

”大分県医師会館 断面図” [提供:磯崎新アトリエ]

「群馬県立近代美術館」は「手法」の原型を示す作品だが、敢えて言うなら典型ではないだろう。単位となる幾何学的定型の配列により形態を定める点で「手法」の分かりやすい例であることは間違いないが、計画的にはごくコンベンショナルで、計画と形態のあいだにほとんどズレがない。「手法」のその後の展開は、ズレを生み出すことに集中した。基本的には計画上のまとまりと幾何学的定型は一致しているのだが、いくつもの幾何学的定型が重ね合わされて、そこかしこに淀みやゆらぎやあいまいさが生まれる。漂うようなかすかな流動性を感じさせる空間に柔らかな光が満ちる、泰然とした空気がさまざまにあらわれた。「還元」と題されたシルクスクリーンのシリーズは幾何学的定型の重ね合わせだけを見せるが、建築そのものとは一致せず、そこに描き出されるものはあくまで建築のメタレベルにある。いつだか磯崎は「手法」のシリーズのなかで「神岡町役場」が実は一番気に入っているんだ、とふと漏らしていたが、その意味はこのズレにあるように思われる。かつての上下の分節に対して、「手法」はより複雑で柔軟な建築的作為を可能にした。

”「還元」シリーズから 「神岡町役場」” [提供:磯崎新アトリエ]

「つくばセンタービル」は事件として重要だが、建築としては「水戸芸術館」により明確な発展を見ることが出来る。水戸芸術館は美術館・劇場・音楽ホールの三つのプログラムを一つの建築に取りまとめているが、建築全体の下敷きとなる型から派生するヴァリエーションとして各プログラムがあるのではなく、プログラムに応じて具体化したそれぞれのブロックが、ひとつに組み合わされて全体を構成している。正四面体を積み上げたタワーを併せることで、クロイスター的中庭を成立させ正面のない建築の全体像を成立させている。それぞれのブロックは本来別々なのだが、組み合わされることで建築の固有性が生まれる。このようにプロジェクト固有の条件から導かれる一回性の建築の形式を、磯崎は「テンタティブ・フォーム」と呼んでいた。

”水戸芸術館 1F平面図” [提供:磯崎新アトリエ]

ア・コルーニャの「人間科学館」は「テンタティブ・フォーム」の到達点を示す。ユーラシア大陸のちょうど反対側、スペインの西北の端に位置して訪れるだけでひと苦労だが、とりわけこの建築は現地に行かなければわからない。シェル構造とジグザグの屏風壁の組み合わせは県立ぐんま天文台でも踏襲されたが、潮風荒いビスケー湾に向き合うからこそ盾のようなシェル構造が意味をなし、背後の旧市街があればこそマッシブな石積み屏風壁が意味をなす。それぞれは対面するコンテクストを個別に反映するもので、その組み合わせが水戸芸術館よりもさらに強力に、この場所でなければ意味をなさない建築を成立させた。内部空間はそのあいだに挟まれてあり、シェル構造が倒れないようつっかえ棒する華奢な屋根トラス越しに光が落ちて、この地に産する石でなにもかもが作られた洞窟のようなその下の空間が、人類の太古からの歴史を見せる展示室となった。そうしてシュルレアリズムが言う「手術台の上のミシンとこうもり傘の偶然の出会い」のように、偶然の取り合わせにより全体が手品のように現れる。場所のコンテクスト・構造技術・プログラム・素材がそれぞれたまたま寄り集まって、しかしこれ以上なく緊密に結び合う建築が生まれた。「Nagi MOCA」や「秋吉台国際芸術村」のように外部環境を丸ごと組織化する試みは「アーキペラゴ」と呼ばれたが、これらも同じ発想の延長線上にあった。異物が隣り合う都市的様相を建築において具体化するものでもあり、こうした離接的構成は、例えばフランク・O・ゲーリーやOMAの仕事にもときおりあらわれる、現代建築のフロンティアとでも言うべきものだ。

”人間科学館” ©︎Hisao Suzuki

磯崎の都市論に由来する上下の分節から、「手法」を経由し、「テンタティブ・フォーム」に至るこの展開に、「メタレベルの建築」の発展を見ることができる。軸線をてがかりにする丹下の空間編成が上下のあいだに宙吊りにされ、オーダーやプロポーションのシステムは幾何学的定型の匿名性へと換骨奪胎された。「手法」において幾何学的定型はあくまで抽象で、その組み合わせを駆使して剰余に空間を生み出すことに建築の技芸は集中した。そして幾何学定型がローカルなコンテクストと結びついた建築的エレメントに転じて、その組み合わせがシュルレアリズムさながらの建築形式を体現するようになった。

そうして辿り着いたところは、古典的・近代的な建築の構成技法から遠く離れている。例えば機能の合理的な配分とそれを支える構造その他のシステムの設定により進む、ごく当たり前の建築設計からは生まれ得ないような、プロジェクトの断片的条件の絡み合いの只中から創発し、自由自在な破調とともに生まれる個性が建築として具体化した。部分と全体の相互的調和のような古典的規範は棚上げにされ、部分の衝突により全体を一気に成立させる手品めいた妙技が建築を支えた。これを定型詩から散文詩への飛躍に喩えることもできようか。建築のより自由で柔軟で固有な可能性がそこに展開した。真にラディカルな達成だ。「メタレベルの建築」は、抽象的な問題でなく、実践的な問題であった。

言説とその影響

磯崎の言説は日本の現代建築に批評をもたらした。それ以前は保守派と左派が対立するややルーティン化した近代建築の構図が建築をめぐる言説の基調にあり、そこに浮き彫りになる矛盾の止揚者として丹下健三が構えていた。「国家のための建築」が色褪せるなか、この構図は解体した。磯崎は貪欲に同時代の人文学的思潮を吸収して、それを建築の概念と論理に注ぎ込んだ。近代批判は建築だけの問題ではなく、近代の困難を直視するアプローチがさまざまな分野で現れていたから、そうするのは自然なことだったろう。モダニズムの単純化された問題設定により視野狭窄に陥った建築を、あらためて押し拡げること。まず批評的であれ、と磯崎はアジテーションし、実際にその意思は若い建築家に広く共有された。先鋭化した言説は日本の現代建築に緊張を与え、きわめて多様な問題設定が日本の現代建築の前提となった。

磯崎は「間」・「大文字の建築」・「ポストモダニズム」・「日本的なもの」といった時代を画すトピックを提示してきた。それぞれに議論を呼ぶテーマだが、磯崎は単に答えを求めるというよりは、問い自体を豊かに耕し、建築の問題を充実させる契機としてそれらを存分に発展させた。例えば「間」は海外から求められて日本の空間・時間概念を紹介するために登場したキーワードだが、決して単に啓蒙的なものではなかった。西洋のオリエンタリズムのフィルターを相対化しつつ、同時に日本の伝統美に関するモダニズム的理解を解体し、自明なものとしての空間自体を問いに付した。そういう批評的試みは、「手法」で試みられていたズレの問題と繋がり、また「メタレベルの建築」をめぐる挑戦と絡み合っていた。それら個別のトピックを群盲象を撫でる式に見るだけでは、建築家・磯崎新には辿り着けないだろう。批評が建築に緊張を呼び込み、建築の実践が批評に質量を与えていた。これに対してその影響を受けた建築家において、批評はどう機能していたか。もちろん新しいイメージを喚起することでそれぞれの建築家の挑戦を導いてはいたが、しばしばデザイン自体に近すぎてその正当化へと短絡したことも多かったのではないか。

こうして起こった建築における批評の前面化を冷ややかに見る先行世代は、1970年代に登場してきた若い建築家たちを「野武士」と呼んだ。結局のところ先行世代は、先に述べた「国家のための建築」に奉じる未練をあいまいに維持し、奉ずるべき主君がいるつもりでいた。だからこそ若い建築家たちを主君を持たぬ野武士にたとえたのだろう。時代の変わり目の心情的時差を浮き彫りにする、きわめて率直な言葉であった。

彼らの「野武士」への疑念が案じていたように、批評への指向はしだいに衒学的調子を帯びて、あげく建築家の言葉は意味不明だ、と言われるようになった。どだい全ての建築家が批評的であることなどあり得ず、全ての建築が批評的ということもあり得ない。建築の批評性を研ぎ澄ますことは孤児のようになった彼らにとって存在証明にも似た根拠となっていたが、批評性の空回りに気恥ずかしさもあった。そうして批評性に対するシニカルな見方がしだいにつのり、その反動としてナイーブな言葉がかえって美徳とさえ感じられるようになったのが現在だ。漫然とした緊張の弛緩もあるだろうが、そのナイーブさが批評へのシニカルさから来るなら、ここにもまた自家撞着的な病いを見るべきだろう。磯崎新の影響そのものは、磯崎本人というよりは影響を受けた側の問題であった。

そんなわけで磯崎新の存在はかつてよりも遠く感じられるようになった。もともと視野はズレていたのだから、なるべくしてそうなったとも言える。いきおい翁は韜晦せざるをえない。考えてみれば、「メタレベルの建築」に向かう磯崎に対して、既に1970年代末には問題設定の自閉を批判する声はあった(石山修武「更なる“違反”へ」『新建築』1979/8)。だが結局のところ、その批判は当たっていただろうか。

可能性の中心

磯崎の盟友・柄谷行人がかつて言ったように、作家の「可能性の中心」を問うならばその作品を問わねばならない。「饒舌なスフィンクス」に擬せられたこともあるこの建築家が繰り出した、あれやこれやのトピックを云々することは単に迂回ではないにせよ、あらためて建築そのものに向き合い、そこで実現したものを問わねばならない。

建築の技芸の抜き難い古典性を乗り越える息の長い挑戦がそこにあった。建築の構成原理がより柔軟な可能性へと拡張された。建築をその効果よりもその成り立ちにおいて問う、厳しい建築家の達観が「メタレベルの建築」への意思を支えていた。順応を拒み、建築家という主体でありつづけた軌跡は実に重いものだ。とりわけいつのまにかものわかりが良くなった我々にはほとんどいたたまれないような重みであるかもしれない。その実像を確かめ、そのまま受け取るのでなくともなんらかのかたちで受け継ぐこと。磯崎に対して我々が負う大きな負債に応えようとするなら、そこから始めなければならないだろう。■

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日埜直彦
建築討論

ひの・なおひこ/1971年生まれ。建築家。芝浦工業大学非常勤講師。2002年より日埜建築設計事務所主宰。著作に『日本近現代建築の歴史』『磯崎新Interviews』ほか