「都市化」に抗う建築の可能性とは?(サマリー №17)

Pier Vittorio Aureli, “The Possibility of an Absolute Architecture”, Cambridge and London: The MIT PRESS, 2011.

上野有里紗 | Alyssa Ueno
建築討論
20 min readJun 12, 2023

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2011年に出版された『ある絶対建築の可能性』(The Possibility of an Absolute Architecture)は、当時ロンドンの大学で学生だった我々の間で話題の一冊となった。著者のピエール・ヴィットーリオ・アウレーリ(Pier Vittorio Aureli)は、当時はAAスクールの名物教授として人気のユニットマスターであり、同時に東海岸のイエール大学でも教鞭をとるという驚異的な活躍をしていた。

Fig.1 Pier Vittorio Aureli, “The Possibility of An Absolute Architecture”, Cambridge and London: THE MIT PRESS, 2011

本書は、序章と第1章において「ある絶対建築の可能性」の理論化が試みられており、後に続く第2章から5章は、アウレーリが「絶対建築」性を見出した建築家達:アンドレア・パラディオ(Andrea Palladio)、ジョバンニ・バティスタ・ピラネージ(Giovanni Battista Piranesi)、エティエンヌ・ルイ・ブーレー(Étienne-Louis Boullée)、オスワルド・マティアス・ウンガース(Oswald Mathias Ungers)とOMA、と彼らのプロジェクトが事例的に紹介されている。本書は、事例と分析に広がりがあり、多くのページ数が割かれている。それら全てを本稿で触れることは不可能なため、各建築家の分析の一部のみを切り出しつつ、アウレーリの意図の輪郭をなぞるようにサマリーする。「彼らの作品を、群島としての都市、という考えの中で表現することが、まさしくこの本の論点なのである」(p.xiii)とアウレーリは序章でまとめている。

「絶対建築」で使われる概念の整理

まずは序章と第1章においてアウレーリは、本書に通底している概念をいくつか定義している。タイトルにもなっている形容詞としての「絶対」(absolute)、近代以後の都市において避けて通れない現象としての「都市化」(urbanization)、その論理に巻き込まれ、政治性を失った建築としての「アイコン建築」(the iconic building)、そして都市化の海の中に存在しつつも拮抗する存在としての「群島」(archipelago)、など。これらは何度も登場するので、先に定義と、関係性を整理しておきたい。

まずは「絶対」である:

私は、「絶対」(absolute)という語を、従来的な「純潔さ」(purity)のような意味で使っているのではなく、より原初的な意味である〈他〉から切り離されたものとして、結果としてそれ自身として在る」ものとして用いている。〈他〉とは、都市空間、その管理体制、そしてその統治体制のことを指す。(p.iv)

著者は、absoluteを、「切り離され、唯一性のある」建築の形容詞として用いている。それは何から切り離されているのか? それは、その建築の形式が存在し、創り上げられた周辺環境、つまり「都市」(the city)である。都市は、共生の政治的次元と解釈され、それが「都市化」(urbanization)、つまり社会管理の経済論理に吸収されることに近代的統治体制があるとアウレーリは論じている。「都市化」は19世紀のスペイン・カタルーニャの都市計画家であるイルデフォンソ・セルダ(Ildefons Cerda’)の定義である、「近代的統治の形式の基礎にある、永続的に拡大する全てを包摂する装置」(p.x)、というものを用いている。

したがって、「都市化」の本質は、それ自体の再生産の無限かつ強制的な反復と、この無限化のプロセスを保証する制御の結果としての全体化メカニズムではない、あらゆる限界、境界、または形態の破壊にある。(p.16)

セルダの「一般理論」(General Theory,1867)、ルードヴィッヒ・ヒルバサイマー(Ludwig Hilberseimer)の「大都会の建築」(Groszstadt Architektur, 1925)、そしてアーキズーム(Archizoom)のノーストップシティ(No-Stop City,1968–1972)などのプロジェクトは、現代都市にとって「都市化」が不可避の運命だという事態を理論化している、と著者はいう。

今日の「都市化」されてしまった都市の中で、国家ではなく大企業が建設する「アイコン建築」(the iconic building) は、市場競争の結果として存在し、その唯一性、反復不可能性に経済的価値がある存在となっている。つまり、経済原理の中でのみ存在し、意匠的な唯一性に価値がある建築は、政治性を失った建築となってしまっている。それに対し、「群島」(archipelago)の建築は、海洋によって分断されると同時に統合されている島の集合体である。中心の欠如により、一つの大きな塊になり得ないことを特徴としている。

群島の建築は、絶対建築である必要がある。それは、都市における「制限」(limits)の存在を明白にする作用をもち、それによって定義される建築である。(…)「絶対建築」は、多様性のアイコン自体になるのではなく、且つ新規性に対する刺激の一切を退け、乖離性、つまり政治的行動の道具であるべき可能性を受容すべきである。(p.45 — p.46)

著者は本書の他の章においても、度々「群島」的建築を「絶対建築」と同義的に使っており、彼にとって「群島」の概念がいかに大事なものであるかが見て取れる。

建築を都市から切り離す装置としての基壇

抽象的な定義が続いたが、本章の後半は、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe) のプロジェクトが絶対建築の具体例としてあげられている。それでは、ミースの建築における都市性と、彼の建築に継続的に登場する「基壇」という要素に注目して、みてみよう。

Fig.2 シーグラム・ビルディング(Seagram Building, Ludwig Mies van der Rohe,1958), p.39

大企業のために計画されたミースのプロジェクトの多くは、「都市化」の論理を創り上げた価値を体現したようなものである。例えば、シーグラムビルディング(Seagram Building,1958)のファサードにはI型鋼が使われることにより、このように、建築技術の大量生産という形で「都市化」の力が、彼の建築の外観そのものとなったのである。他方で、ミースの建築は、初期の郊外住宅からアメリカにおける大企業のオフィスまで、殆ど全てが基壇に乗っている。基壇は、自身で定義する制限を自らに課すことになる。基壇の存在がその敷地と建築の関係性をつくり直すという事態は、その上に建つ建築を強調すると同時に、基壇の外の、都市における経験に影響を与えるのだとアウレーリは言う:

ニューヨークでもベルリンでも、ミースの基壇に登った人が感じる最も驚くべきことのひとつは、都市を見るために建物に背を向けるという経験である。突然、そして一瞬、都市を動かす流れや組織的なパターンから離れながらも、それらと対峙しているのである。(p.37)

このように、ミースの基壇は、都市空間の経験をまるで「群島」のように再発明する。基壇の存在によって生じる、自己制限と乖離性は、「都市化」の価値を体現したミースの建築だからこそ、より一層政治的なものとしてあらわれてくる、とアウレーリは分析する。

パラディオのヴィラの都市性

第2章は、20世紀半ばにおけるルドルフ・ウィトカー(Rudolf Wittkower)とコーリン・ロウ(Colin Rowe)によるパラディオ論の話から始まる。1944年にウィトカーはパラディオの建築に関して2本の論考を出版し、ロウは1949年の「マニエリスムと近代建築」においてパラディオの建築を引き合いにだした。両者はともに、そのドローイングの手法から、パラディオの作品のサイトスぺシフィシティの否定を主張している。しかし、一見、周囲の状況から著しく切り離されて存在しているかのような、パラディオの田舎のヴィラ群は、アウレーリの丁寧な分析により、後に、サイトスペシフィックな性質を持っているということが徐々に明らかになる。

また、アウレーリはパラディオのローマへのリサーチトリップに注目する。彼はそれを経て、何冊かの本をつくったが、そのうちの一冊は聖地巡拝者のための手引きであり、その際の郊外や人口密度の低い場所における教会のマッピングは、「彼に都市をモニュメントの群島で表現する手法を与えた」(p.51)。また、この時学んだ古典のオーダーは、彼の設計の基礎となり、彼はそれを「反復可能な形式的要素として、建物の建築だけでなく都市全体を表象する手法として用いた」( p.53)。

パラディオにとって一番有名な作品群である地方のヴィラ群は、質と同時にその量が印象的である。それらにはいくつかの設計的特徴があるが、アウレーリが注目するのは、帝国ローマの大浴場と共通する空間構成だ。パラディオはリサーチトリップにおいて、大浴場を執拗に記録し、描いた。それらは、対称軸に沿って並べられた一連のモニュメンタルな空間構成を持っており、それによって彼の地方のヴィラは、「ある種の都会的な空気を孕むことになる」(p.60)。また、彼は、古代ローマの遺跡を、古典的オーダーの正しい解釈の教科書としてみただけでなく、都市の豊かな建築的質を再生産した、複雑な組織としてみていた。「彼は大浴場を、寺院やバジリカとは違って、複数のプログラムやアクティビティを一体化する仕掛けをもっているユニークで公的な構造だととらえ」(p.80)、自身のヴィラや城や教会の空間性に反映させていった。

Fig.3 アグリッパの浴場のスタディ (Study of the Baths of Agrippa, Andrea Palladio, 1570s), p.61

パラディオの作品は連続可能なプロトタイプの形式をとっているのに対し、その多くは常に厳格にサイトスペシフィシティを持っている、とアウレーリは述べる。その結果として、14,16世紀における建築文化において他の著名な建築理論家たちがこぞって提唱した「理想都市」(ideal city)というトピックに、パラディオは参加しなかった。また、彼のローマの教会の群島的マッピングや、大浴場の建築のスタディを設計に応用したことなどから、我々はアウレーリを通じて非常に豊かな「都市性」を持った新たな建築家像としてのパラディオの側面を見ることが出来る。

科学的製図法に抗う廃墟都市の可能性

第3章は、主に18世紀のイタリア人建築家のピラネージと、同時代のジョバンニ・バティスタ・ノリ(Giovanni Battista Nolli)による対照的な、都市ローマの描写の狭間で繰り広げられる。ピラネージのカンポ・マルツィオ(Il Campo Marzio dell’antica Roma (1762)には、既存の都市も古代都市も描かれておらず、ピラネージの時代までに残っていたいくつかの廃墟が描かれているのみである。これは15世紀から18世紀の間で発展した、古代都市ローマの再構築を目指しつつも、近代世界においても首都としてのローマの存在感を回復させる試みである、「都市のローマの再建」(Instauratio Urbis)という形式の集大成といえる。

Fig.4 古代ローマのカンポ・マルツィオよりカンポ・マルティの一場面(Scenographia Campi Martii from Il Campo Marzio dell’antica roma,Giovanni Battista Piranesi 1762), p.86–87
Fig.5 ノリの図( Nuova pianta di Roma ,Giovanni Battista Nolli, 1748), p.110

時を遡り、その数十年前に作成されたノリの図(Nuova pianta di Roma (1748)を見てみよう。こちらは、ピラネージの描写よりも、科学的正確性が見て取れる。政治的権力による、より繊細且つ洗練された都市の管理のためにも製図法はめざましく発展した。結果として、正確な地理学的な寸法が使われ、ローマという都市は、それまでの歴史的な華々しいアイコニックなイメージと切り離された姿で出現した。これに対し、ピラネージが「ローマの再建」の概念を取り込んだことなどの態度は、ノリの図に示唆されている近代的な建築と都市の表現への反動だとみることもできるのではないか、と著者は問うている。「科学的精緻さをもって製図された地図において、建築空間は内的要因によって、そして都市空間は、動線や所有、そして密度などの外的要因によって定義されてしまっているように見える。つまり建築のような一義的な形に還元されるものではなくなってしまったのだ」(P.113)とアウレーリは読みとく。

キャンポ・マリツィオには、あらゆるインフラが存在しない状態の都市が描かれている。そしてその都市に描かれた建築は、廃墟である。しかし、アウレーリは、その廃墟は「必ずしも時の流れに屈したものなのではなく、寧ろ時の流れの中で生き延び、新たな都市の始まりを予兆させるようなもの」(P.139)、として読んでいる。 建築と都市の境界線を明確に切り分けて塗り込んだノリの図に対して、ピラネージの描く廃墟の都市は、その自由さ故に、限りない可能性を孕んでいるかのように見える。

メトロポリスに穿たれた、単純幾何学のモニュメント

第4章は18世紀のパリが舞台である。その時代を背景に、ブレーのプロジェクトに注目し、彼の「モニュメント」の形態に宿る、メトロポリスへの批評的精神を取り上げている。どれも実現されていないブレーの公共的なモニュメント群は、一見アイコニックに見えるものの、実は単純な幾何学的ボリュームの構成という、「アイコン建築」と相反する特徴を有している。

1967年、ロッシがブレーの「建築、芸術のエッセイ」(Architecture, Essay on Art)をイタリア語に翻訳した。この本は、公共的なモニュメントのみにフォーカスした、はじめての建築の論文であった。ロッシはブレーが建築を表現した類まれなる単純さや厳格さ、そして有限な形式の連続が、デザインの手法を提示した理論的一貫性に魅了された、という。しかし、ブレーが本書を「メトロポリスのためのプロジェクト」だと表現したにも関わらず、ロッシは、ブレーの文章は都市となんの関係もない、と結論付ける。これに対し、アウレーリは、ロッシの議論を否定せずとも、彼の解釈に意を反する。「ブレーの理論的な原理は、17,8世紀のパリという都市の発展の形態的特徴を、モニュメントの中に凝縮して表象した「自律的」な建築を創り上げたのだ」(p.145–6)。

これに関しては、同時代の建築家ピエール・パット(Pierre Patte)の1765年のパリの都市計画との形態的親和性が、解読の重要な鍵となる。本計画は、個々の建築の存在感を背景に押しやり、人間や商品の効率的な動きである「道路動線」が都市にとってのスペクタクルになるように仕上げられているように見える。これに対して、ブレーの孤立したモニュメント群は、その強い対称性、自律性、などから、パットが描いた広場(place)や大通り(boulevard)を「ネガ」とみると、その穴を埋めるような「ポジ」の図だと読み取ることが出来るのではないか、とアウレーリは述べている。

Fig.6 パリの全体計画の部分 ( Partie du plan general de Paris, Pierre Patte, 1765) , p.157

また、ブレーによる対称性は、フランスの古典主義的な使われ方とは違い、どこまでも広がるようなメトロポリスに対し、戦略的に「例外状態」という穴を穿つモニュメントとして使われた、と著者は分析する。つまり、ブレーのモニュメント建築群もまた、都市化の海の中において独立して点在する、群島的建築なのである。

都市の凝縮化の礼賛、海の可能性

最終章となる第5章の主役はウンガースとOMAである。1977年「都市の中の都市 — 緑の群島としてのベルリン」(The City within the City — Berlin as a Green Archipelago)というプロジェクトがウンガースによって率いられた建築家の集団によって発表され、その中にレム・コールハース(Rem Koolhaas)も参加していた。

戦争によって破壊され、しかし政治的密度ゆえに冷戦の「首都」となったこの都市は、ウンガースにとって「大型の都市計画に拠るのではなく、沢山の島々によって構成された都市」という解釈を与え、「彼らにとって戦後の西ベルリンの諸問題は「都市の中の都市群」(cities within the city)という考えの強いモデルとして映った。」(p.177) 本プロジェクトの画期性は、17世紀以来、統治者にとっての最重要課題であるとされてきた都市の拡大に反する、人口減少という現象を目指したものだったことにあるとアウレーリは語っている。つまりその根底からして、「都市化」に抗うプロ
ジェクトとして存在していることにある。

Fig.7 都市の中の都市 緑の群島としてのベルリン (The City within the City — Berlin as a Green Archipelago, Oswald Mathias Ungers, Rem Koolhaas, Hans Kollhoff, Arthur Ovaska and Peter Riemann,1977) ,p.179

また、ウンガースの協力者であり、生徒であったレムの存在も見逃せない。この思想は、「エクソダス、あるいは建築の自発的囚人」「(Exodus, or the Voluntary prisoners of Architecture 1972)は言うまでもなく、「ホテル・スフィンクス」(Hotel Sphinx 1975)や、「ウェルフェアパレスホテル」(Welfare palace Hotel 1976)などのOMA初期の都市型ホテルのプロジェクトに影響を見ることが出来る。また、本プロジェクトの重要な要素として、島と島との間に存在する「海」(sea)がある。「海」は、緑色に定義され、森林や、農業用地、庭園、そして島の住人の自主的な活動の場として想定された。つまり、島の間に横わたる「緑」(green)は、島の「都市性」(cityness)へのアンチテーゼとして存在した、と著者言う。つまり、永続的に広がり続ける「都市化」に対し、一つの境界線として「海」という要素が存在することになる。

メトロポリスのエネルギーと、それらを収納する建築のデザインは、ウンガーズと初期OMAに共通している。OMAのビッグネスは、スプロールなどの都市現象ではなく、建築自体の大きさのことを述べている。ビッグネスは、その大きさ故に作家性をもちえない、それゆえ形態的単純さを要している。ウンガースはこの立ち位置を予見しており、以下の様に述べている。「『都市の中の都市』になろうとしている建築の基本的な側面として、更なる発展や変化に対応する、交換可能な形式、そしてその可能性は有限な形態のほうが成り立ちやすい。」(p.219)これは、第4章のブレーのモニュメントの形式的特徴にも通じる表現であるかもしれない。

絶対建築は実現されるか?

アウレーリが選んだ建築家たちは、近代都市の変容やその都市的意味を、一般的な視点や都市計画としての形では提示せず、具体的かつ戦略的な建築的形態の展開によって問うた。つまり「サイトスペシフィックな介入の群島として己のプロジェクトを表出させた人々」(p.xii)であった。ミースの「基壇」、パラディオの「都市的なヴィラ」、ピラネージの「遺跡としてのローマの描写」、ブレ―の「幾何学のモニュメント」、ウンガースの「海」。アウレーリは、これらの建築的要素に再解釈を与えることで、「絶対建築」の輪郭が浮かび上がらせる。

しかし本書の終わりが、理論書としてはなんとなく唐突な終わり方だと感じてしまうのは、結尾の章の不在にあるかもしれない。序章と第1章で広げられた風呂敷が、第2から5章において具体化するものの、理論的まとめが取り立てて存在しないため、それを求めて再度第1章を読み直す読者も多いのではないだろうか。

AAにおいてユニットマスターであったと同時に歴史と理論の授業も受け持っていたアウレーリは、常に「自分は建築史家ではなく、建築家である」という立場を明確にした上で、「建築に出来ることは何か」という問いを学生に向けていた印象がある。本書の序章でも、「これらの建築家を選んだ理由として、歴史家としてではなく一建築家として興味を持った建築家達の仕事を取り上げた、主観的なものもある。」(p.xii)と認めている。なので、本書は理論書として読むよりも、一建築家のマニフェストとして読む方が正しいのかもしれない。現在EPFLの教授となったアウレーリは、設計事務所であるDOGMAの活動も継続しているとのことだ。実作はまだ少ないとはいえ、メディアに発表しているプロジェクトには「絶対建築」の特徴が伺えるものが数多ある。まだ50代に突入したばかりの彼の今後の建築家としての活躍からも、目は離せない。■

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★Further Readings
ピエール・ヴィットーリオ・アウレーリ『プロジェクト・アウトノミア──戦後期イタリアに交錯した政治性と建築(原タイトル:THE PROJECT OF AUTONOMY)』北川佳子訳、鹿島出版会、2018年
原著は2008年に出版されたアウレーリの著作。1970年代のイタリアの新左翼運動であった「アウトノミア(自律)運動」がマンフレッド・タフーリやアルド・ロッシ、ラディカルアーキテクツなどの同時代の建築家や建築思想家にどのような影響を与えたかを追う。本書におけるイタリアの部分と内容が多少かぶる箇所もあり、イタリア人としてのアウレーリの思想的背景を理解するのにも役立つ一冊。

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上野有里紗 | Alyssa Ueno
建築討論

1986年東京生まれ。建築家。Goldsmithsにて視覚文化論学部を首席卒業。AASchool、Royal College of Artにて建築を修了した後、2019年よりULTRA STUDIO一級建築士事務所を共同主宰。http://ultrastudio.jp/ 2021年より TŌGE 代表理事(共同)