長谷川豪、ケルステン・ゲールス、ダヴィッド・ファン・セーヴェレン著『ビサイズ、ヒストリー:現代建築にとっての歴史』
歴史の時代に向けて(評者:橋本健史)
本書は、2017年にCCA(カナダ建築センター)にて開催された展覧会「ビサイズ、ヒストリー:長谷川豪、ケルステン・ゲールス、ダヴィッド・ファン・セーヴェレン」のカタログとして制作されたものである。「建築の歴史」というテーマの設定がCCA側からの一方的な決定によるものなのか、あるいは出展者の2組──長谷川豪、建築設計事務所「オフィス」を主宰するケルステン・ゲールスとダヴィッド・ファン・セーヴェレン──からの一定のヒアリングなどに基づいているのかは評者には分からない。だが、彼らが近年、歴史を軸とした思考を共有する機会を持っていることは確かだ。2015年に出版された『カンバセーションズ:ヨーロッパ建築家と考える現在と歴史』(LIXIL出版)で、長谷川とオフィスは対話しているし、「新しい歴史の創造」がテーマだった2017年の第2回シカゴ建築ビエンナーレにも、両者は出展している。歴史に対する世界的な再考の機運と、少なくとも前掲書の主な著者である長谷川の個人的な関心を背景として、今回の展覧会、そしてこのカタログは企画されているといっていいだろう。
前提として、展覧会は以下のような手法で構成されている。①各々のプロジェクトを展示室ごとに平面図、断面図、透視図、模型といった建築の基本的なツールに限定して展示する。②出展している両者のプロジェクトだけではなく、CCAが所蔵しているコレクションを併置する。③それぞれの展示物にコメントを添える。ただしコメントは設計者と一致している場合も一致していない場合もある。こうして、出展者2組の作品と歴史上の建築が交錯している様子を展示しているわけである。

さて、このような展覧会のカタログとしての本書を、出展者が「歴史」をどのように考えているのか、という答えを求めて読み進めると、実にフラストレーションがたまる展開が続く。コルビュジエやミースといった巨匠の図面を参照としながらも、それが出展者の建築観や歴史観に決定的な影響を与えているというような説明がなされるわけではない。また、平面図や断面図といった特定の建築表現について取り上げる意義が、コメントによって理論的・文脈的に補強されるというわけでもなく、いわゆる作品解説的なコメントがあったかと思えば、長谷川の個人的な文脈に強い影響を与えているであろう坂本一成の図面を例外的に(CCAコレクションではないにもかかわらず)組み込み、さらにオフィスがそこでの体験を織り交ぜるなど、かなり自由な「対話」がなされている。
巻末に掲載されている約1年をかけてなされたという(実際の)対話のテキストによって、ようやく出展者が歴史をどう捉えているのかが明らかになる。そこでまずトピックとなっているのが、セーヴェレンの言う「歴史のツールボックス性」である。歴史は自らの設計を正当化する方法である以上に、特定のプラン、技術、モデルといった沢山のツールが入ったアーカイヴなのだという。対して長谷川は「歴史はツールボックスというほど固定的でも明確でもないし、何かもっと自由で曖昧なものではないか」と否定的に応答している。続けて「経堂の住宅」での屋根の勾配を周辺の住宅の屋根との「対話」によって定めたことに触れ、「僕にとっての歴史というのは、ツールボックスというよりは、そのように建物を通して時間とコミュニケーションを取る方法なのです」と言う。
しかし、問題はそれがどのような「対話」であり、その対象は「誰」(歴史上の建築家や建築物、あるいは匿名的な伝統も含むだろう)なのか、そしてそこにどのような筋道を見ているのかということではないか。言い換えれば、歴史観を示すことが重要なのではないか。ゲールスは歴史に対する興味は料理に対する味覚のようにありきたりで偶発的な理由で変化すると言うし、長谷川は「すべてに興味があり、特定の時代を見ているわけではありません」と言うが、それでは元も子もない。歴史とは、単に個別の興味の対象でしかなく、その都度設計者にある種のインスピレーションを与えてくれるだけの存在なのだろうか?
長谷川豪はかつて、野球部での経験から設計とスポーツは似ていると述べたことがある(『考えること、建築すること、生きること』LIXIL出版、2012年)。施工現場から竣工という一回限りの本番である「試合」に向かって、猛烈な練習(スタディ)を繰り返す。「試合=竣工」にこだわれない「プレイヤー=建築家」に価値がないことは確かだろう。だが、長谷川がどのようなプレイヤーを目指しているのか、そのスポーツにおいて個別の勝敗以上に何を成そうとしているのかが、個人的にはよくわからないと思っていた。長谷川の師匠筋である塚本由晴が、個々の住宅プロジェクトを超えて住宅のジェネレーションという枠組みを語ったり、都市の更新システムに注目して「ヴォイド・メタボリズム」という1960年代の日本の取組みを反転させた視点を提示し、同じく師匠筋の西沢大良が、住むだけで健康になるという批判的な身体像を元に住宅を設計したり、スラムが形を変えて再生してしまう近代都市計画の欠陥を痛烈に批判していることなどと比して、長谷川にはそのような歴史的・文脈的な視点があまりみられないように思われたのである。周辺の環境や都市について語ることはあっても、あくまでそれは現象学的と言うべき捉え方であり、都市の隙間を扱った「五反田の住宅」を例に取ってみても、周辺や都市がどのような背景や根拠を背負っているかということよりも、建築のプロポーションやマテリアルの決定根拠として、その雰囲気や質感が動員されている。
傾向に変化が生まれたのは2011年前後だろう。2011年の「経堂の住宅」では、周辺環境に対してプロポーションやマテリアルで応える現象学的なアプローチは、完成度としてある種の到達点(原理的に完成はしないはずではあるが)を迎えたように見受けられる。それによって転向したということではないだろうが、ファサードのフレキシブルボードが、サブロクとシハチという流通している規格サイズを堂々と掲げていることは、次の展開への萌芽である。同年の「石巻の鐘楼」は、展覧会場で展示したものを一度解体してから石巻に移築するという「試合」を二度に引き伸ばした枠組みを設定し、エレベーターで運搬可能な部材のサイズ設定、トラックに積載可能な総量、そしてなにより東日本大震災という大きな社会的背景に応えるという、それまでのプロジェクトにはみられなかった文脈的なアプローチが取り入れられている。本書には掲載されていないので詳細は控えるが、近年の「吉野杉の家」や「横浜の住宅」といった作品では、より積極的な歴史的アプローチが見られる。さらには『カンバセーションズ』のきっかけとなった、スイスのメンドリジオ建築アカデミーでの歴史を考えるための巨大年表の制作も2012年からだという。
『カンバセーションズ』では、アルヴァロ・シザやピーター・メルクリ、ラカトン&ヴァッサルが(ヴァレリオ・オルジャティはかなり反語的ではあるが)どのような歴史観や現状認識を持ち、どういった文脈や伝統、あるいは建築家や建築作品に重要性を見出しているのかを雄弁に語っている。対照的に長谷川は聞き手に徹し、自らの見解をほとんど示さなかった。残念ながら本書でもそれは依然として明らかにはされていない。歴史とはその歴史を語る人、そしてそれが語られる時代を写す鏡である。ホイジンガが「遊び」を人類のあらゆる活動の起源に据えることで今日の社会的な対立を乗り越えようとしたように、アナール学派が大人物や事件を後退させ生活文化・集合記憶そして統計によって世界の構造を見せたように、トインビーが古今東西の文明の比較可能性を説き西欧を相対化したように、歴史というものはその時代を生きる人々の価値観の表明であり、いまここにしかない権利と可能性であるはずだ。
長谷川はおそらく、そこに挑んでいる。「対話」という断定的ではない形式や建築のエレメントをフックとするという回路の開き方は、一人でこれを推し進めるのではなく、同時代を生きるわれわれへの問いかけなのかもしれない。あるいは、ハーバード大学のスタジオで進めているというボストンの住居形式「トリプルデッカー」のリサーチを通じた「モダニズムとヴァナキュラーという対立を超えたタイポロジーを示せないか」という取り組みは、その予告のようにも思える。あらゆる資料(史料)が歴史上もっとも簡単に手に入り、それが指数関数的に増大している現在、多くの人を牽引するような強い歴史の提示は難しいだろう。しかし、だからこそ個々人の歴史観が表明され、個別の実践や経験のフィードバックによってそれが深化していくというようなプロセスは有りうる。建築家にとっての来るべき歴史の時代に向けて、本書はまさにその現在進行形の思考を開示している。
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書誌
著者:長谷川豪、ケルステン・ゲールス、ダヴィッド・ファン・セーヴェレン
書名:ビサイズ、ヒストリー:現代建築にとっての歴史
出版社:鹿島出版会
出版年月:2018年6月

