阪神・淡路大震災からの共有知①

震災の経験を聞く―02│研究者│室崎益輝

井本佐保里
建築討論
Feb 23, 2024

--

能登半島地震の発生から間もない今、これまでの知見を集め、使える知識としての共有を目的に、建築討論では連載「震災の経験を聞く―これまでの試行錯誤の共有知」を立ち上げます。
東日本大震災、熊本地震と重なる震災を経験した10年。すでに多くのプラクティスが存在します。そうした経験はネットや書籍や報告書、ウェブサイトなどで参照できる状態にありますが、そうした貴重な経験に効果的にアクセスできる共有知として本サイトに掲載していきます。4ヶ月で12人の記録を実施予定です。
第2回目は研究者の室崎益輝さんへのインタビュー「阪神・淡路大震災からの共有知①」記事です。なお、本インタビューは、2020/2021年度日本建築学会 災害からの住まいの復興に関する共有知構築(第二次)[若手奨励]特別研究委員会 の活動の一環として実施されました。

話し手:室崎益輝(当時:兵庫県立大学教授)
聞き手:日本建築学会[若手奨励]特別研究委員会(主査:佃悠、幹事:前田昌弘、委員:須沢栞、坪内健)

佃:日本建築学会の若手奨励委員会として、「住まいの復興の共有知」をテーマに活動しています。過去の災害復興における成功例や失敗例だけでなく、その過程で何が議論されていたのか、またそうした知識や知見をどのように次に伝えていけばよいのかを模索しています。今回は阪神・淡路大震災の経験について、教えていただきたいと思います。

合意形成の時間

室崎:まず始めに、いい教訓も悪い教訓も含めて、正しく伝わっていないと感じています。例えば、災害公営住宅は大量に作るべきではないというのが、私の阪神・淡路大震災からの教訓ですが、まったく反省もなくまた東日本大震災で大量に作られました。もちろん災害公営住宅は困った人を助ける重要な仕組みですが、やはり今は自力再建、被災者が自立をしていくプロセスを大切にしなければいけません。そのために災害公営住宅を作り過ぎてはいけない、という点が発信できていない。阪神・淡路大震災の復興の自慢話ばかりを強調しすぎて、失敗を伝えない形はよくない。失敗も含めて伝えいくことが、続く被災地の相手の立場に立って伝える事だと思います。
神戸では「酒田大火(1976)」から学べと言われました。都市計画が非常にスピーディーに合意されたのですが、酒田では住民の方が折れたんです。住民が国とか県と議論していて、いつまでも復興が遅れるのは良くなくて、ある程度県の原案を飲むということで、合意したそうです。しかし阪神・淡路では、この情報をもとに「早く都市計画決定して区画整理をして一気にやるといいんだ」、というように誤って受け取ったわけです。スピード感も重要ですが、酒田の場合はきちんと合意形成しています。そういった意見調整をやらずに阪神・淡路ではスピードだけを真似たんです。本当はどういう議論をしてそういう意見調整のプロセスを経たのかを一緒に学ばねばならなかったと思います。

佃:東日本も阪神・淡路の時のような住宅再建とそのスピードがセットになっていて、とにかく住まいだけどんどん供給するということになってしまいました。

室崎:いつも言っているのですが、美味しい料理は「始めちょろちょろ中ぱっぱ」なんです。一方、いいまちづくりは「始めぱっぱで、中ちょろちょろ」なんです。瓦礫を片づけたりするのは急いでぱっぱとやらないといけないけど、構想を練る段階はゆっくりやる。そうすると復興が早くなるんです。早くしなければならないと思って、多数決で決めたりしていると前に進まない。みんなが合意するまで時間をかけて待つっていうプロセスができているところがうまくいっている。
阪神・淡路でもまちづくり協議会で議論したところはうまくいっています。例えば尼崎の築地地区は事業が一年遅れになっています。1995年6月までに決定しないと予算が付かないという〆切があったので、普通は急ぐのですが、築地地区はあえてパスし、一年遅れて決定するんです。お寺の街並みとか残す計画を、限りなく時間をかけてほぼ全員合意でやったんです。自分たちで決めた計画には責任を持ちますが、誰かが作ったものには無責任になってしまう。やっぱりみんなで決めるプロセスをどうやってやるかが大事ですね。

佃:それはまちづくりの基本ですね。復興においてもそれを飛ばしてはいけない。

室崎:阪神・淡路大震災では、都市計画決定を3月17日に一気に発表したんですよね。突然(都市計画決定の)絵が出てきて。それから反発が出たので二段階復興論というのが妥協策として出てくるんですね。
この二段階復興論もアメリカには事例があって、「サンフランシスコ地震(1989)」と「アラスカ地震(1964)」の中で「段階復興論」というのが出来ているんですよね。アメリカの段階復興論を真似して中国の「唐山地震(1976)」での段階復興論が出来てくるんですが、これは創造的復興やビルド・バック・ベターにも通じるような、とりあえずの復興からより良い復興にどうしていくのか、という理論につながりました。そういうことをきちんと学んでおけば神戸の場合も段階的に大きなフレームを決めて、各論はみんなで個別にやっていくっていう考え方が出来ていたと思うんですよね。
一方、阪神・淡路大震災から台湾の「集集地震(1999)」、そこから「中越地震(2004)」は比較的知見が伝わったと思っています。特に台湾から中越は同じ環境だったので、中山間地域のいろんな文化資源を活かしてやっていくというやり方はスムーズにいっている。

地元主導の復興

前田:阪神・淡路から台湾はどのように伝わったのでしょうか。

室崎:具体的な計画論じゃなくて、中間支援組織みたいな組織論なんですね。台湾では、阪神・淡路のやり方が伝わり、921基金ができました。
では基金について、阪神・淡路がどこから学んだかというと、これも酒田大火で、もう一つは「雲仙普賢岳の平成噴火(1991)」での復興基金です。阪神・淡路の時は本当に自由に使える復興基金があったので、住宅再建についても「被災者生活支援金」が創設されていない時代でしたが、自主的に「高齢者自立支援金」や「住宅再建支援金」、あるいは住宅の修理にもお金を出すことが出来ました。そういう自由な財源があったかどうかというのも、とても大きいです。
雲仙もすごくて、火砕流で農業ができなくなり、みんな経済的に困っていたのですが、生業を支援する制度がなかったんです。そこで「食事供与事業」で年間100万円程を被災者に渡しているんですね。「食事供与」という名目で、大義名分は食事代の補助ですが、実質的には生活に足りないものを補助するものです。そういう復興基金があると割と自由にできます。そういうやり方を学ぶように当時の兵庫県知事から指示が出されました。兵庫県が動き出したのは4月1日ですが、復興基金で住宅再建や、仮設住宅団地内に設置したふれあいセンターの建設費に使ったりと、復興基金はいろんなところですごく役立ちました。

前田:基金を立ち上げようというのは直後からですか。やはりそういうものは誰かが助言をしているのでしょうか。

室崎:直後です。例えば仮設住宅の建設戸数は、全壊戸数の三割という原則があり、その基準ではだいたい3万戸くらいしか作れないんです。だけど、1月中に知事が希望者全員に仮設住宅を供給すると宣言し、最終的には5万戸になりました。希望者全員にと言った段階では超過する分の予算はつかないので、単費で出す覚悟がないといけない。そういった国のメニューがないものをやろうとしたときに、復興基金といった自由に使えるお金が要るだろうという判断は、おそらく知事からだと思います。

前田:国との駆け引きとか、法制度の後ろ盾がないという面で苦労されたという県職員の声も聞きました。

室崎:例えば、既に建ててしまった仮設住宅に対して、お金を出さないとは言えないので、たいていは先にやってしまってから、後追いで、国からお金が来るという形なります。なので、そこまで赤字にはならないですが、それでも自己資金の額が多かったので、つい数年前まで職員の給料はカットしたままです。20年以上職員の給料をカットしています。それくらいの覚悟を持ってやっていたわけです。それは国の指示を受けないという考え方なんです。
最初は「関東大震災(1923)」のように、復興院をつくれと国からいわれていたのですが、知事が断固として拒否をしました。「復興基本計画委員会」を作り、実質は地元で計画案を作って国が支援をするいう関係性を確認してやっていて、地元の意思をその計画案に入れられたと思います。

前田:復興院みたいなものを作ってしまうと国の言いなりになるということでしょうか。

室崎:国の言いなりになります。今と状況が違うので、当時の貝原知事は自治省出身で地方自治の権化みたいな人で、それも僕らにとってみたらとても大きかった。自由にできる部分があったのはとても大きかった。だけどその分、国からお金をもらえないわけです。
さらに、計画をつくる体制も重要です。通常、復興計画を作るためのいくつかのラインが走ります。
一つ目は行政ベースの委員会です。国と県で「復興計画策定懇話会」が立ち上がりました。神戸大学学長だった新野幸次郎先生がリードし、建築からは、名古屋工業大学の西山康雄先生(故)と元兵庫県職員で当時大阪大学の鳴海邦碩先生が入って意見を言えています。一方、私は神戸市の方にチームに入っていました。神戸市側と兵庫県側のいずれかに分かれ、両方に関わる人はいませんでした。
二つ目は学会ベースです。日本建築学会都市計画委員会の高見沢実先生は、東京から神戸にアレコレ言いに行くのはやめよう、神戸の研究者に任せようと言っていただきました。基本的には計画の中身については日本建築学会や東京からは誰も関与していない。そういう意味では地元優先主義でした。地元に力のある研究者やプランナーが居たからできたということではありますが。
東日本では外から研究者やプランナーが入ってきて計画を作っています。外から入るのはいい面もありますが、地元の主体性というのもとても重要なポイントだと思います。

前田:被害状況の調査も日本建築学会でされていましたよね。

室崎:3月17日の都市計画決定をやるために黒地白地、つまり区画整理や再開発事業をやる地域を決めないといけませんでした。神戸市は、被害の大きいところを黒地(特定地域)にしようとして、土木系の先生に頼んで被害状況を調査しました。その際、瓦が落ちただけで「全壊」と判断していたりして、もっと詳しく建築の目で被害状況をみないといけないということがひとつのきっかけです。また、きちんとした記録を残さないといけないという気持ちがあり、学生の教育にもなると考えました。大阪芸術大学からは学生100人でも200人でも出せると言ってくれて、それを聞いて神戸大学も京都大学も出せるという話になり、そうであれば全部調べようとなりました。今から考えるととんでもないことですが、最終的には30万戸程度を一つ一つ調べました。おそらく世界で最初で最後ですよね。「熊本地震(2016)」の際に学生が千人集まり、やりかかったのですが、全部は調査できていません。
また、東京からも本当に交通手段のない時に神戸まで来てもらいました。
みんな我々の調査の手順通りやってくれる。それは素晴らしかった。そういう人たちとの関係性ができたのも良くて、学生も被災地をみて、あとの復興にもずっと繋がっていきます。神戸芸工大が一番活躍したんじゃないでしょうか。神戸大は灘区とか東灘区で、淡路島は近畿大学が担当で船で行きました。京都大学は尼崎でした。そういった意味で関西の大学は全部動いたし、東京の場合はいろんな形でサポートしてくれて、それはとても助かった。行政も学会レベルも神戸の主体性をすごく尊重してもらった。三つ目は市民レベルです。
市民レベルでは幾つも出てきていました。「兵庫創生研究会」というのがあって、例えば神戸の中に高速道路を再建する必要があるとか、自律分散型ネットワークなどを提案した復興ビジョンを出したんです。神戸新聞社の解説委員の方や神戸大学の先生方を中心として、2カ月で議論してまとめました。これはその後の復興の考え方のまとめになっています。そういう動きを受けて、「神戸復興塾」が一年後にでき、「神戸まちづくり研究所」という形に発展し、その後の神戸のまちづくりの中心的な部隊として動きました。例えば、仮設住宅では運営がうまくいかず、コミュニティがつぶれてしまったのですが、公営住宅をつくるときにはうまくやれました。このやりかたは東日本でいうと石巻で使われています。入居前交流というものがあって、入居者が決まったら、建設中から集まって交流してコミュニティづくりをしてしまうものです。要するに、抽選でいろんなところから人が集まるのですが、入居前からコミュニティづくりをするということを、兵庫県からの応援職員が「神戸復興塾」の提言なども参考に取り入れてくれました。
また、「復興支援機構」という、弁護士、土地家屋調査士、建築士ら士業の組織もできました。法律的な課題があったことで、今の弁護士の動きに繋がり、大きな役割をしています。
四つ目は、行政と被災者の中間に入るような中間組織です。
そのひとつである「被災者復興支援会議」では住宅再建の提言をどんどんしていきました。これも第一期、二期、三期とあって、貝原知事から呼ばれて私が二期と三期の座長をしました。突然(貝原知事から)電話がかかってきて、賀川豊彦(社会運動家、キリスト教、生協の父)のような人がこの復興では必要だと。被災者の声をちゃんと聞いて、被災者の声の是非も判断して、それを政策にして行政に届けてほしい。直接行政と被災者がやるとぶつかり合って、対立してしまうので、間に入って、被災者の声を私に持って来いと言われました。仮設住宅の下からウジがわいてきたとか、蟻が上がってくるとか、隣の声が聞こえるから何とかしろというような声もありましたが、一番大きいのは、仮設住宅の場合は何回も抽選して何回も外れる仕組みになっていた事です。それは良くないということで公営住宅は「一括抽選方式」を被災者復興支援会議で提案し、何回も外れることがないようにしました。一週間バラバラに仮設住宅に入っていって、被災者の声を集めて、こういう問題があると共有し、それで提案を作って県に出すんですね。それに対して必ず知事か副知事がきて、回答する事をしました。
また、被災者復興支援会議には色んな立場の人たちがいて、NPOボランティア、行政、我々の専門家もいてみんなの意見を戦わすわけです。現場で何が起きているかというのは共通の事実として踏まえると、ものすごく議論がしやすかったです。やっぱり現場を大切にするというのがとても重要でした。しかもその会議のまわりの席に行政職員の幹部が座って聞いているので、計画をつくる際にまとまりやすい。急に知らないことをやれと言われても困るので、行政職員は全部参加しています。そういう人たちが県の部長とかになってます。
経験からいうと、被災者復興支援会議でとてもいい仕組みで、それでいろんなことが動いたというのはあります。そこでいろんな矛盾とか対立が乗り越えられたように思います。

前田:被災者復興支援会議はどれくらいの期間活動をされていたんですか。

室崎:10年近くです。地震が起きた1月中に第一回をやりました。小林郁雄さんが最初から入っていて、私は二期から入りました。支援会議は、復興フォローアップ委員会に発展的解消をしました。
被災者復興支援会議で自由に意見が言えるようになり、意見が通るようになりました。それまではものすごい県から嫌われていましたが、いつの間にか、御用学者のように取り込まれているところはあります。

前田:自治体に直接入るよりは中間支援という形で入った方が自由に動けるという事でしょうか。

室崎:私たちは、常に被災者側7、行政3というバランスを意識していました。要するに、被災者寄りだけど中間という立場をとりました。被災者に対しても仮設の運営方法の提言などしましたが、基本的には行政の住宅再建施策をどうするかという観点で提案をしていました。

前田:神戸市だけではなく被災地全域が対象だったのでしょうか。

室崎:「被災者復興支援会議」も3期になると被災地だけではなくて兵庫県全域に展開し、まちの賑わいづくりなどへとひろがりました。特別予算がなくなり、日常予算の中で復興施策をしていくので、その辺りは支援会議の次にできたフォローアップ委員会で取り組みました。
フォローアップ委員会の存在がまさにそうですが、検証をすごく大切にしたんです。状況はどんどん変わっていきます。仮設も3万戸から5万戸に増やしたり、だんだん自力再建で困っている人がいっぱい出てきて、そこから「被災者生活支援法」に繋がっていく運動に移っていきました。全国で2500万名の署名を集め、自民党も共産党もみんな味方で、労働組合も連合系も。最終的には神戸生協と全労済(こくみん共済)の二つが頑張って、住宅再建の公的助成という形に結び付きました。

前田:復興支援会議の活動の予算も基金ですか。

室崎:基金でしょうね。

前田:すごく重要な役割を果たしていると思うのですが、どのようにして、そうした組織ができたのでしょうか。

室崎:やはり知事だと思います。必ず住民と行政は対決姿勢になるので、やっぱり間に入るところがないといけないと。私の学生の頃は学長との団体交渉方式だったんですが、そういう時代じゃない。お互いの意見を聴いてお互いの言い分を聞き判断する仕組みがないと、復興みたいな対立点が多い時はうまく合意が出来ないと思います。合意形成のための中間組織というのが必要で、私の神戸の経験で言うとこれが一番大きかったと思います。ただ、やっぱり地元をまとめるのはまちづくり協議会じゃないといけないので、まちづくり協議会も一気に震災で増えていきました。

仮設住宅・公営住宅の展開

室崎:東日本では仮設住宅をつくらなかった花露辺(釜石市けろべ)に関心があります。東日本の住宅再建の集落づくりと公営住宅と一般の住宅をうまくミックスしたりと考えたり。そういうのは阪神・淡路にはなかったことです。その成果が今は熊本地震や球磨川の復興に活かされている。それはまさに東日本の成果だと思います。「みんなの家」から始まって、球磨川でも仮設がものすごく進歩して、仮設住宅はそのまま公営住宅になるくらいの、きちんと基礎も作って、木造の素材を活かして、部屋の間取りもすごく弾力的になっていますね。

佃:熊本地震後も、公的な恒久的な住宅へと転用されている仮設住宅がでてきていますよね。
一方で公営住宅の基準と仮設の基準が合わないので、完全に公営住宅に転用するというのは難しい。仮設の性能があがりすぎることの問題点はどう考えればよろしいでしょうか。

室崎:最終的には性能はあげるべきだという意見です。本来であれば仮設と公営住宅を一体にして、最初から公営住宅に入居するようにしてもらうことだってありえます。また最近は木造もあるので、取り壊すことも含めて、空き家ストックを抱え込まないようにすることは大事です。雲仙普賢岳の噴火の時に木造を作り、すぐ取り壊していました。そういう弾力的な形で仮設から公営という形だけではなくて、もうちょっと緩やかにやれると思いますね。

前田:雲仙の時は地元の工務店の支援の意味合いもあって木造が採用されたようです。

室崎:木造仮設は雲仙が最初です。阪神・淡路の時は、雲仙の仮設から住宅再建の過程を見た方がいいと思っていました。雲仙が当時まだ復興の進行中だったのでその方式を阪神・淡路に取り入れるということは出来ませんでしたけど、雲仙は今から見ても進んだことを一杯やっていると思います。
逆に、阪神・淡路では20年任期の借り上げ公営が問題です。公営住宅はすぐに建てられないので、URの空き家などを借りたら20年で返せと言われ、20年間そこに住んだ人を追い出すという形になってしまいました。説明責任の問題が大きいのですが、神戸市は追い出しますが、兵庫県とか西宮市は丁寧にやっていて対応が分かれています。

佃:みなし仮設についてはどうお考えでしょうか。

室崎:私はみなし仮設は反対なんです。阪神・淡路の時の一番の命題はコミュニティが生き続け、コミュニティが支えていく事でした。みなし仮設にすると分散して見えなくなってしまいます。例えば、熊本県南阿蘇村では、みなし仮設に入った人にも連絡し、月に一回ホテルに集まって食事したりしています。そうすれば、みなし仮設に行った人の意見を復興に取り入れることができますが、多くの場合、復興の議論をする段階でみなし仮設の人は切り離されてしまいます。既存ストックを活用する面ではいいのかもしれないですが。やっぱりコミュニティから切れてしまって、いろんな意味での情報が届かないしケアも届かないというのは大きな問題ではないかと思います。

前田:みなし仮設自体が悪いというよりも連絡システムの問題でしょうか。

室崎:情報が全ての被災者にちゃんと行くようなネットワーク、これは現代では情報化の面では発達しているので取り組めると思います。阪神・淡路の時は避難所にパソコンがようやく入ってきた時代です。パソコンでようやく名簿を作るところもあったけど、ほとんど紙ベースで手渡しでしか情報が渡らない。県外被災者と呼んでいいた人は糸が切れたままで、ほったらかしなんですよね。糸が切れた人をどう拾い上げるのか、多様な弾力的な再建の仕組みをどう作るのか、というが大きな課題ですね。

前田:同時に、ある程度は建設仮設が必要ということですね。

室崎:やはり、まとまって入るということをしないといけないと思います。一方、阪神・淡路では、仮設に入らないと次の公営住宅に行けない「単線型」で、神戸大学の平山洋介先生は批判しています。例えば、乳児のいる若い夫婦は避難所にいられなくなって出ていく。出て行ってしまったら、仮設の情報とか公営住宅の情報が一切届かない。だから嫌でも仮設に入っておかないといけなかった。親族のところに行くなど自由な選択があるのは良いのですが、そういう人たちをうまく拾い上げたコミュニティの仕組みがつくれなかった。なので、我々徹底して現地再建をやりましたが、結局半分くらいしか戻ってきてないですね。
また、仮設を建てる場所がなくて遠方になった。もっと思い切って民有地を使うこともしないといけなかったと思います。公有地だけでは、神戸市のように山奥とかポートアイランドに大量に作ることになります。大量に建てると、コミュニティの形成される単位ではないので、それだけで雰囲気が悪くなりますます。そこでコミュニティが壊れてしまうし、さらに遠い西神ニュータウンに行った人なんかは、通院だけで電車代が往復500円とかかかるという不満の声もとても大きかったですね。また、芦屋市は用地がないので学校の運動場に仮設を作りましたが、学校の運動場が占拠されてしまって、教育とのバッティングが大きい。仮設住宅の用地確保とコミュニティ継続の点は、阪神・淡路大震災の反省点です。

前田:阪神・淡路は「単線型の復興」だったとよく聞くんですが、実際みると民間賃貸とか自力再建とかいろいろされていますが、それでも単線型が強かったのでしょうか。

室崎:公的な助成が単線だったという意味です。例えば、公園にテント村を作ったり、自分で木材持ってきてバラック型の自力仮設もいました。資産のある方は空いているマンションに入っている人も結構いて、後付で家賃補助をするようなことはしました。しかし、それを当て込んで民間が集合住宅をつくりすぎました。おそらく、5万戸程度で足りるところを民間が10万戸程建設し、家賃が下がりました。結果、大阪から人が入ってきて、人口の戻りは早かったですが。

前田:そうですね。準公営住宅も結局入るメリットがなく、民間住宅が供給されて家賃が下がってしまって。

室崎:民間の入居サポートしたほうが無駄な公営住宅を作らずに済んだのかもしれません。公営住宅を作りすぎると、住宅供給公社がつぶれるんですよ。要するに、家賃を集めたりするのに、税金も上がってこないし、空き家の管理運営もしないといけないので。本当は壊せるような公営住宅があればいいんですけど、コンクリートのがっちりとしたものを作るとやっぱりうまくいかない。被災直後はみんな公営住宅入りたいというから建ててしまうのですが、後から考えたらそうした公営住宅の空き家がいっぱい出て、管理費が集まらないといった問題もおこっています。
もう一つ重要なのは、優先入居です。高齢者を優先的に入居させると、平均年齢70~80代となりコミュニティの運営もできない。普段から住んでいる隣の若奥さんと一緒に入れるとか、バランスの取れた年齢構成で公営住宅は入居しないといけません。

佃:東日本の数年後に公営住宅の空き家の問題が出てくるだろうなと思い、神戸の社会福祉協議会の方にお話を聞きに行きました。震災の後にもリーマンショックなどによって所得が減った方もいて、公営住宅は人気が出たと聞きました。

室崎:立地にも依りますね。元住んでいたところに建てれば人気がでます。そういう場所に民間がマンションを造っていたりするので、民間を活用したほうが本当はいい。

佃:公営住宅を造らなくても民間がいずれ造るだろうから。

室崎:そういうところの財政援助をまずは公的住宅再建助成といった形にすればいいんです。しかし、結果としては、さっき言ったように、大阪から安いマンションを求めて入ってくるんですよ。そういう人たちは元々地元ではなく、職も大阪にあるので、大阪で食事をして帰宅する。なので、地元でお金をつかいません。要するに神戸は大阪のベッドタウンになってしまったんです。例えば新長田の集合住宅では、1・2階の商店街が全部シャッター商店街になってしまった。大阪から移り住んだ人の問題はとても大きい。

産業の再生

室崎:阪神・淡路大震災のとても大きな反省点は、住宅再建しか考えてなかったことかと思います。住宅さえ建てば回復できると。しかも中に居る人のことじゃなくて戸数さえ揃えばいいという考えでした。しかしもっと重要なのは産業再建、地域の経済再建をして、しっかり働ける場所をつくることです。
被災者復興支援会議でも、地域の地場産業にお金を貸し付ける事はやりましたが、ほとんど中小企業でした。例えば、神戸製鋼をもっと応援すべきだったと思います。神戸製鋼がダメになれば下請けも全部だめになります。公営住宅や仮設住宅をつくるときは必ず産業と経済、暮らしを支える基盤と一緒に、経済と住宅を車の両輪のようにして考えていかないとだめです。
また、限られた資源と人材を被災地にどう集中し集約するかというのも大事な視点だと思います。1666年のロンドン大火の際は、7年間ロンドン市外での建設活動を禁止したんですよ。職人と資材を全てロンドンに集めて。そうすると一気に復興が進むんですよね。日本では、東京オリンピックが開催されましたが、日本全体の経済が良くなることは東北も元気になることだというように示されました。復興構想会議が最初にそういった提案をして、沖縄のトンネルも、佐賀の堤防もこの復興予算で出るという形になってしまった。結果、資源を分散させてしまった。
神戸の際は、結果的に資源は集約されました。なぜかというと、復興も既存の予算の枠組みの中でやるという考え方があったからです。例えば、小学校の年間予算は文科省が持っていますが、阪神・淡路が起きた際には、新潟県に3年間待たせ、被災した学校の再建を優先的にやっています。そのことによって、学校や災害公営住宅だって、3年で一応(工事は)五万戸近く完成しています。民間住宅も入れて3年で建設できたのはそれだけの資源があったからです。東北ではそれが分散してしまいました。やはり人が集まらなければ遅れるということだと思うので、資源の集中というのもきちんと分析して発信すべきでした。
オリンピックとの兼ね合いでは、東京の方が環境もいいし働きやすいので、職人さんは結局東北に行かないことになる。そういう資源管理みたいな視点でもみないといけないと思います。

被災状況の申告

室崎:今の国の被災者台帳はやっかいだと思っています。あんな労力をかけるのはどうかと思います。阪神・淡路以前は、住宅の被災度は被災者の自主申告制で、それを民生委員が認定していました。ところが阪神・淡路の時から国から補助もでるようになったことで、点数をつけて判定するという形に変わりました。例えば芦屋市では、自己申告制でやっていたのを、途中で国から横やりがはいってやり直すことになりました。西宮市もです。
住宅被害の認定が出来ると、今度はそれで足切りをしたり、判定にものすごく労働力がかかって、人件費にしたらものすごく高い。そんなことをやらず、税金と同じく自己申告として、違反した人に罰則を与える方法にした方が良いと思います。

前田:応急危険度判定と住宅被害判定の違いもあまり理解されていないです。

室崎:被災度区分判定は相談システムです。建て替えてもいいし、修理もできます、こういう方法がありますよ、などの相談に乗ってもらいながら、被災者の意思を汲んで道筋を示せばいいのですが、結果的にこれが軌道に乗りませんでした。また途中から公費解体の補助を入れたので、機械的にどんどん家屋が解体させていく。阪神・淡路の時の反省は壊し過ぎたことです。その後の災害でもずっと続いていて、ますます壊すようになっていますね。

佃:東日本でも壊し過ぎている部分があります。

室崎:住宅の応急危険度判定と住宅被害調査と住宅再建のメニューがリンクしていますが、リンクすればするほど、住宅被害調査がでないと仮設にはいるか決まらない仕組みになっていきます。極端に言うとそれが出ないと戸数も決まらないという自治体も出てきます。
しかし、阪神・淡路では早いところでは1月20日(震災三日後)から、正確な戸数がわかる前から建設が始まっています。住宅被害認定調査の結果が出てから動くと本当に遅れてしまう。そこは拙速要諦でいい加減でいいと思っています。
コンピューターで詳細なカルテを作ってやると時間もかかるし、それによってかなり切り落とされます。例えば水害だと床上から1.8mで全壊になるのですが、調査員が物差しもって178cmだから全壊ではないですとなる。基準が出きると、1点の差で全壊と半壊で分かれてしまう。半壊の人には補助がないので、中規模半壊という妙なものをつくったりもしています。住宅被害の判定の仕組みを丁寧にしすぎることによって、手間もかかるし、本当は救える人が救えなくなる状況が生まれています。なので、こうした情報は全部リンクさせない方がいいと思ってます。被災度判定は、お金の補償にだけ適用し、住宅再建は希望する人はみんな入るってことにしないといけないと思います。また、阪神・淡路の時は壊し過ぎたのですが、もっと修理のための事業を充実しないといけません。

佃:公費解体の申請期間も短くて、初めの二年くらいで壊されてしまった古い街並みもありますよね。

室崎:最初の5年間は修理しながら住んで、5年後に解体して再建するなどすれば、建設の時期もばらけます。5年後でも10年後でも同じように補助金が出るとなると、ストックを活用する上でだいぶ変わってくるのではないでしょうか。1948年の福井地震ではコアハウスの考え方が取り入れられていて、3坪までは無償でした。熊本の豪雨水害の時にも、核の部分だけつくって、経済的に豊かになったらまわりに手をいれる(増築等)ことを念頭に、核の部分だけ修理をするような取り組みをする事例もありました。

佃:東日本でもコアハウス的なことがやれないかという話もありましたが、一番初めに建てた段階で補助金がつくので、それが出来ませんでした。

室崎:そこを柔軟に、コアハウス的な発想とか、修理を中心とした発想をもう少し日本建築学会で提案してもらったらいいなあと思ってます。阪神・淡路の時も壊し過ぎたという反省があります。壊したがれきを海に捨てるなどという、とんでもない処理の仕方をしました。今は逆に分別をしっかりしなければならず、瓦礫処理にものすごい時間がかかっています。

佃:実際は、東日本の時も全壊判定になっているのだけども、二階が大丈夫なので、改修してそこに住み続けるという人が居ました。

室崎:元の場所に住み続けたいという人もいます。みんな財布の状況を考えているんですよ。いっぺんにはできないけどそのうちに、という人は、壊して別のところで大きな家を作るよりは、そのまま住み続けることを選ぶのだと思います。
また、時間をかけるという考え方は、基盤づくりでも重要だと思います。普通であれば、復興にあたって火事で燃えない街をつくろうという意見が強いのですが、私は、まさに段階復興の考え方で、まずは元通りに木造で再建し、まちが戻ってから遮断帯つくったり防火建築帯作ったらどうかということで、あまり「燃えない街」にすることを言いませんでした。それですーっと復興が早くできた。そこで津波がどうのと言い出してたら前に進まないし、絶対燃えない街なんか作れないと思っています。
計画にあたって、多少道路は広げましたが、20m幅員の道路で火事が止まるはずはないんです。早く元に戻すということと安全にするということのバランスをどうとるのかが重要で、防災だけで考えているととても難しくなる。防災は「隠し味」なので表に出てはいけないと盛んに言っていました。
今から見たら防災はいい加減にしたという気はしますけども、阪神・淡路では生活再建、住宅再建が最優先でした。

坪内:室崎先生は、東北の高台移転の問題点を指摘されていますね。

室崎:首相までがろくに検討もしないで高台移転して海まで車で通勤するんだと、とんでもないことを言いました。私は、高台移転も沿岸にすむ選択も自由だと思っています。でも何が何でも津波で危険だから高台というのはどうかと考えています。こうしたことを早い段階で本に書いたんです。そうしたら私が高台移転反対論者みたいになってしまって、東北の復興には入れてもらえませんでした。
アチェの復興庁のクワトロ長官とNHKの国際放送で対談した際に、JICAがやった高台移転の問題を聞きました。アチェはまた海辺に街を戻しています。隠し味の議論と一緒で、安全は必要条件だけど十分条件ではない。安全だけで生きているわけではないし、家族のだんらんも必要だし、毎晩美味しいものも食べたいと。そうすると毎晩美味しいものがつくれるまちをつくらないといけない、という意見なんですよ。そういう意味で言うと、南三陸とか陸前高田の遅れているところはとても心配で、いまのあそこをどうしたらよくなるかというのが我々の責任だと思います。

「伝える」の経緯

前田:「伝える-阪神・淡路大震災の教訓-」を辞書的に使わせてもらっています。この本を作られた背景をお聞きかせください。

室崎:検証は5年目、10年目、15年目、20年目、25年目とやっています。最初の10年は、被災地自身の復興をどうするか、何が遅れているかといった検証が主でした。しかし15年くらいからはむしろ次の被災地に「伝承」することが被災地責任だと考え、いい経験だけでなく失敗したことも全部かけと言いました。世界中に配るという意気込みでやりました。25年目には「活かす」をつくりました。この「活かす」で最後ですが、これは復興のマニュアル集みたいになってしまいました。

前田:東日本を意識されたということですね。

室崎:東日本大震災をとても意識しています。東日本に対して思うところはありますが、ストレートに批判は出来ないので、東日本はこうしてます、という書き方をしました。またできるだけ多くの取り組みを掲載しようとしましたが、やはりこの書籍は阪神・淡路が中心であることからは抜け出していません。県の職員に書いてもらって私達が修正を入れていきました。その際に各取り組みの評価についても議論しました。そうすると、県職員の中に蓄積していきます。県の職員、行政の職員にちゃんと経験を伝えていくという意味も大きくて、なので全部職員に書いてもらっています。また、途中段階での検証はとても重要で、3年目には国際会議をやりました。これも復興基金を使っています。やっぱり世界から学ぶという意味で色んな人の意見を聴くっていうのはとても大切です。
あとは伝承教育ですよね。これがうまくいってないと思います。「しあわせ運べるように」を歌っても災害に強くならない。家の家具の転倒防止とか、ビル火災の逃げ方などをちゃんと教えないといけない。
また、阪神・淡路で伝承施設のあり方を議論した際に、研究をやらないと伝承できないということで、専任の研究員10人、上級研究員10人の人件費をいれているんです。普通だと学芸員になるのですが、そうではなくてやはり研究員が要ると。それが「人と防災未来センター」という研究機関の仕組みとなり、多くの人がここから巣立っています。そういう意味でも伝承と研究を一体的にすることが出来たのは素晴らしいと思います。ただ、この研究のセクションが必要という点は東北や国に伝えきれていませんでした。単にミュージアムを作ったからいいというのではなくて、何をどのように伝えるのか、ということが大事だと思います。

2021年12月24日(金)兵庫県立大学 神戸防災キャンパスにて

--

--

井本佐保里
建築討論

1983年生まれ。日本女子大学家政学部住居学科卒、同大学院修士課程修了。藤木隆男建築研究所を経て、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士後期課程入学。博士(工学)。東京大学復興デザイン研究体助教を経て、現在、日本大学理工学部建築学科准教授。