阪神・淡路大震災からの共有知②

震災の経験を聞く―03│研究者│塩崎賢明

佃悠
建築討論
Mar 1, 2024

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能登半島地震の発生から間もない今、これまでの知見を集め、使える知識としての共有を目的に、建築討論では連載「震災の経験を聞く―これまでの試行錯誤の共有知」を立ち上げます。
東日本大震災、熊本地震と重なる震災を経験した10年。すでに多くのプラクティスが存在します。そうした経験はネットや書籍や報告書、ウェブサイトなどで参照できる状態にありますが、そうした貴重な経験に効果的にアクセスできる共有知として本サイトに掲載していきます。4ヶ月で12人の記録を実施予定です。
第3回目は研究者の塩崎賢明さんへのインタビュー「阪神・淡路大震災からの共有知②」記事です。なお、本インタビューは、2020/2021年度日本建築学会 災害からの住まいの復興に関する共有知構築(第二次)[若手奨励]特別研究委員会 の活動の一環として実施されました。

話し手:塩崎賢明(当時:神戸大学名誉教授)
聞き手:日本建築学会[若手奨励]特別研究委員会(主査:佃悠、幹事:前田昌弘)

直面した復興の課題

佃:阪神・淡路の時、塩崎先生は復興にどのように関わられていたのでしょうか。

塩崎:1995年は神戸大学の助教授になって数年経った頃ですね。震災や防災をテーマにしていたわけではないので、専門的なことをやるという感じではなかったですね。教授の室崎先生が専門だったので、即動き出されていて、火災、特に通電火災などを調査されていました。しばらくすると、関西の先生を中心に被害実態調査をしないといけないだろうという話が出てきました。神戸市の都市局があった神戸市役所が被害に遭い、資料が一切ない状態で、行政では手が回らない状況だったと思います。そこで、我々がやろうということを室崎先生たちが言い出して、チーム作りにすぐに取り掛かりました。1月から3月頃だったと思います。神戸大学が中心になって、1,000人くらいいたと思います。私達の研究室もどこの誰か分からない人が泊っていたりしました。被災地域を大学ごとに割り振っていきましたが、建築の学生と言っても素人なので、最初にやったのはマニュアルづくりですね。神戸大の研究者が先行隊として先にやってみて、こういうやり方でいこうと書式を作りました。2,500分の1の図面に、全壊、半壊、一部損壊、被害なしを、赤、橙、黄、緑で塗るといったことです。

佃:応急危険度判定の元みたいなものでしょうか。

塩崎:応急危険度判定は別に行政側であるのですが、全数把握するということだったので、人海戦術というか、人手が要るんですね。道路の啓開もできていない段階だからがれきを乗り越えながら、あそこは壊れているなと目視で見て記録していきました。それを地図にまとめました。すごくエネルギーを使いましたね。そうやって地形図におとしていると、限界があるんですね。中身がわからない。長屋だったら一棟に見えるし、木賃アパートだったら五軒長屋の二層とかわからないんです。これじゃだめだということになり、調査して地形図で判定したものと住宅地図を突き合わせて、住宅地図にもう一度おとしこんでいきました。住宅地図なら居住者名がわかります。これは都市住宅学会の関西支部が音頭を取る形で、僕らがやったわけですが、ものすごく大変でしたね。

佃:紙ベースの作業ですよね。

塩崎:5月くらいまでかかったと思います。作業的にはそんなことをやっていました。その間、僕は、二つのことを問題視していました。
ひとつは阪神高速道路の再建問題ですね。600~800メートルにわたって倒壊したのに、すぐに建て直しという話になったんですね。僕は以前から道路公害問題に関わっていました。裁判にもなっていましたし、公害道路ということは明白だったので、また復活させるのかということで論陣を張ったんです。「ノースリッジ地震(1994)」があった時にも高速道路が壊れて、再建するかしないかで数年もめて、結局ロサンゼルスの財政当局は再建しないほうがコストベネフィット上は合理的だと言って、APA(American Planning Association)都市計画協会の立場で壊したんですね。たまたま別件の調査でアメリカに行ったときに、目の前で壊す工事を見たのですが、こんなことがあるんだとえらく感動した経験があったので、同じことが神戸で起こり、アメリカでは壊したのに神戸では再建するというギャップが驚きで、アメリカのことはもう少し勉強すべきだと思いました。
もうひとつは、都市計画ですね。1月23日くらいから、神戸市がまちづくりニュースを出し始めましたが、そこで建築基準法84条を適用して、都市計画を行うということが発表されました。多くは区画整理で、市街地再開発や地区計画も一部ありました。発表と言っても伝える方法がないので、残っている電柱に貼られていましたが、区画整理の対象となった人たちはばらばらになっていて、みんな居ないんです。聞きつけた人があっちこっちで集まり始めて、「区画整理ってなんや」って話になっていきました。通常なら手続きを経てやらないといけないのですが、結局その都市計画の手続き上で言うと2ヶ月間建築規制がかかる仕組みなので、3月17日までに都市計画決定するとなっていて、これはおかしいと言っていました。
まちづくりの関係では、あっちこっちで揉めだしましたが、一番揉めたのが、東灘区の森南というところで、そこの人たちが強烈に反対していて、大学まで乗り込んできました。というのも当時神戸大の先生が都市計画審議会の会長をしていたのです。僕のところにも来て、力になってくれと言われて森南地区に入るようになり、長く関わることになりました。どういう状況だったかというと、三つの地区が分裂して、住民同士がいがみ合うところまでいってしまっていました。森南地区は、60年前に一度区画整理をやっていて、町割りがキチンとできていたんですね。狭隘道路も3か所しかなくて、再度区画整理をやる必要性はありませんでした。しかし、戦後すぐに、現在の甲南山手駅の予定地に、17メートルの道路を置くという都市計画決定をしていて、神戸市はそれをやるためにもう一回区画整理をかけたんですね。市民からしたらそんな話知らないし、とても便利なところで、ちょっと行けば国道二号線があるし、北に行けば山手幹線があるし、何の不便もないのになんでこんなところでもう一度やるのかということで、強烈に反対していましたね。
また違うところでは、ずっと後にはなりますが、淡路島の富島地区にも関わりました。そこも区画整理をやったんですが、ここは全くの漁村で都市計画区域でもなかったところなんですよ。だけど、地震直前の1994年11月頃に都市計画区域になったんですね。それは、流域下水道を作るということになり、下水道事業の為に都市計画区域じゃないといけないので入れたんです。下水道をつくるからということで、誰も気にも留めなかったけれども、都市計画区域に入ると今度は集団規定が効いてきて、4メートル以上の道路でないと建築ができないということになってしまいました。漁村はみんな道路に拡張しながら家を拡げてきた経緯があり、道路が狭い地域が多いですよね。そうやってできた町だったんだけれども、ほとんどが被害に遭い、さらにそれを建て直すっていうのが出来なくなってしまったんですね。そんなことが関係してくるとは誰も思わないから、ここでも揉めていました。区画整理はご存じの通り、公共スペースをつくるとたくさん予算が入る仕組みですが、区画整理の案を見ると、元の道路パターンを全部無視して、まったく新しい道路を入れる図面になっていました。淡路島の中央が山になっていて、海に向かって扇形になっているのですが、その地形に沿って道が出来ているんですね。それを全く無視した形でした。

佃:住民からするとたまったものではなかったと。

塩崎:それで一緒に関わっていた安藤元夫先生(当時近畿大学)と考えて、都市計画区域のため4メートル道路は無視できないので、家の前の道路が何メートルあるかを徹底的に調べて、最低限4メートル確保できるようなマイナーな計画にしてなるべく元の地形に近い絵を書いて、提案しました。西側はそれが通ったんですが、東側は少し意見が通ったけれど、区画整理の案で行われました。富島は本当は、淡路島の東浦というところでやったように、部分的に道路をひろげるような任意事業でもよかったと思います。ただ、大きな道路がなかったので、県道を拡げて車が走れるようにしたかったんですね。だけど、地元の人も、一番端っこで高速道路や明石大橋ともつながってないし、道を拡げても誰も来ないよと言っていました。

前田:復興記念公園もできたのはあとからですかね。

塩崎:野島断層の露頭が現れているところにありますが、それもどん詰まりのところにありますからね。そのすぐ隣ですよ。

自発的な再建への動き

塩崎:研究はその後で、避難所から仮設住宅、仮設住宅から公営住宅というステップが上がるにつれて、住宅の復興ができているか見ていかなくちゃいけないと考えるようになり、調査研究的なことがメインになっていきました。
割と力を注いだのは、自力仮設住宅の研究です。被害実態調査の頃からぽつぽつでき始めていて、あれは何だろうと学生とも話していました。自力で建て始めてますよと学生と言っていたら、ドンドン増えていきました。ひょっとしてこれは結構大事なことではと思い調査することになりました。私も現場に行くうちに、「自力仮設住宅作るの手伝ってくれ」と言われるようになりました。

佃:論文で拝見しました。自力仮設住宅は、その後どうなったんですか。

塩崎:物置として今も使っているところもありますが、建て替えたところが多いと思います。どちらにせよ小さいので、当座の2・3年はいいとしても建て増ししたり建て替えたりしたのが多いんじゃないかと思いますね。
あれはなかなか大変な調査でした。統計とかはないので、現場に行って確認してこれは自力仮設だと判定して。自力仮設かどうかの判定も難しくて、恣意的になるんだけど、他に言う人はいないから我々が決めたらそれしかないだろうと。テントも含めた9種類くらいに決めて、どう変化しているかを数年追いかけましたね。

前田:塩崎先生は単線型復興には乗らない再建のあり方を研究されていた印象があります。

塩崎:そうですけど、乗らないものをというは後付けですね。だけど一緒に調査していた神戸大の先生たちと話している時にいろんな種類のものがあるねと。仮設住宅に入らない人も多いし、どこかに行ってしまった人も多いし、様々なタイプの復興をしようとしている人が居るというのはわかっていたので、行政が用意してくれる施策に合わない人はたくさんいるなあというのはずっと思っていましたよね。

佃:塩崎先生の論考や本で、阪神・淡路は単線型で東日本は選択肢が増えて複線型になってと書かれていますが、お話をお聞きしていると、被災者自身の行動としては、阪神・淡路の方がいろんなことをやっていて、東日本は公的な選択肢が増えたんだけど、意外とそれに乗っていった方が多かったのかなという気もしたのですが。

塩崎:それはあるかもしれません。都会と地方の違いかもしれないけれど。都会の人は普段からいろんなことをしている人が多いし、職業も多様でそれぞれの生活上の必要があるので、役所から山の裏の仮設に住めと言われても、「うちは店を開かないかんから」みたいな人たちはそれに乗らないですよね。

佃:もっとこういう自力再建仮設みたいなのはあってもいいのではと。

塩崎:そうそう。一回アンケート調査もしたんだけど、工場や店舗も含めて、平均すると900万円くらいするんですね。住宅ならもっと安いけど。その半分の400~500万円でも援助してあげれば、みんな喜んでやったと思いますね。

佃:そうすれば、仮設住宅や公営住宅など作らなくてもよくなる。

塩崎:阪神・淡路の仮設住宅は400万円くらいかかってますからね、それだったら400万円あげたほうがよっぽどよかったなと後から思いましたね。

孤独を招くコミュニティ・日常を取り戻すコミュニティ

塩崎:その後の話は孤独死かな。仮設住宅でも公営住宅でもどんどん死んでいくので、これは変だなと感じ始めました。その前段として、尼崎市築地地区の話があります。ここは、3月17日の都市計画決定をしなかった地区ですが、なぜかというと、一種村的な城下町みたいな地区で、昔区画整理をしようとして、猛反対にあい撤回しているんですね。そういう背景があったので市も無理強いできませんでした。そのため、市も都市計画決定せず、区画整理だけではなく住宅改良なども持ち込んで、事業を重ねてやったんですね。7割くらいが借家で、その人たちは土地を持っていないので、区画整理をかけても無権利者なんですよね。家主がよっぽどしっかりしていない限り、結局出ていかないといけないんですよ。改良住宅を建てないと救えない。尼崎市も色々考えて、知恵を働かせていました。だけどあそこは埋め立て地で地盤からやられていたので、なにもしないわけにはいかない。県が勧める区画整理だけだと無理なので、そういう工夫をして、改良住宅を4か所くらいに建てたことで、ほとんどの賃借人は残ることが出来ました。他の区画整理と比べたらいいなと僕は見てたんですけど、ある時、できた改良住宅で「みなさん良かったですね」と言ったら、「なにがいいんだ。全然あかん。」と怒り出して。あれっと思って。
どういうことかと言うと、どこの誰か分からない人が隣に住んだり、共用部でのマナーがない人がいたり、滅茶苦茶やないかと。みんな築地の人でもあるけれど、1,000世帯あるから、周りの50軒くらいの人は知ってても、離れた人は分からない。そんな人が来て隣に住んでいる。つまりコミュニティがシャッフルされて、ぐちゃぐちゃになって、結局知らん町になってしまっているということでした。改良住宅は建った順番に募集して、抽選で入れたんですね。だから元々の何丁目とか関係のない人がお互い住むようになって、さっきのようなことが起こる。町にはだんじりの祭りとかがあって、町内毎にケンカごしにやっていたから、担ぎ手もぐちゃぐちゃになって、ややこしいことがいっぱいあって。従前の人が残ればいいという、そう単純な話でもないということを思いました。20年も建ったので、今は馴染んでいると思いますが。行政としてはよくやったんですよ。しかし、住民の声を聴くとボロクソに言われて。
また、改良住宅は1階に飲食店が入っているのですが、そこで聞くとお客さんが減っているということでした。8階とか上階の人が、下まで降りてこない、と。廊下からエレベーターに乗って来るという行動が必要ですが、毎日はしないので、総量としてはお客がガクンと減ってしまったそうです。以前は面的に拡がっていたからお風呂屋さんついでに寄れたけど、そういうのがなくなったんですね。少し前に行ってみると、一階の店舗はだいぶ店が閉まってましたね。微妙なもんだなと。平面の路地なら容易にお店に入れるけど、片廊下歩いてエレベーター乗って店まで行くということは、高齢者にはハードルが高いんだなと、一階に店舗を造ればいいという単純な話ではないなと思いました。

佃:築地地区で話を聞いた経験が、孤独死問題を考えることに繋がっていったのですか。

塩崎:孤独死というのはコミュニティが大事だと思っていたんですが、その話を聞いて、コミュニティというのはよくよく慎重に見ないといけない、一か所に集めるとか、施設を造ればいいという話ではないのではないかと思いました。以前の日常生活みたいなものが確保されないと孤独になるんだなと。

佃:当時から孤独死の問題は、一般的だったのでしょうか。

塩崎:出ていましたね。築地地区のことを調べ始めて、コミュニティには意識的な付き合いとか偶然的な付き合いが必要ということを深めていきました。やはり目配せして、お互いを認識してっていう関係は施設的には無視されるんだけどめちゃくちゃ重要だなと。声が聞こえるだけとかね。自治会に入るとか何かに参加するとかだけがコミュニティと思っていたら大間違いで、1割もいないんですね。そうではなくて、日常生活の中で、そこはかとなくつながっている感覚が断たれると引きこもりになる、というのが孤独死の背景にあることが分かりました。そのことが一番大事だなと今でも思ってますね。コミュニティというと、地域の会合とか見回りとかが大事だと言いますが、結構冷たい感じがあるというか、何かに当て嵌めているようで、自然発生的な感じがしないですよね。

佃:外から持ってきている感じですかね。

塩崎:そんな感じですよね。長屋とか木賃アパートの関係では、ちょっと声をかけているとか、手を振って挨拶するとか、なにかあったら助けにいくとかがあったと思います。
最近、借り上げ公営住宅からの退去が問題になっています。わずか300メートル離れただけだからいいじゃないかと言いますが、300メートル離れたら地の果てにいくのと同じで、隣同士で何かあったら助けにいくっていう関係は100メートルも離れたら断たれますよね。そういうことが築地ではよくわかりましたね。

前田:研究者によってコミュニティの定義や指標が違っていると思うのですが、先生の論文では、挨拶とか視線の交わりとか社会的接触と表現されていたと思います。築地地区だと意識的な交流というよりは、日常の中でお互いをそれとなく認識しているみたいな。別の場所でも復興の中で、戻り入居の研究もされていたと思いますが、その際の指標というか、コミュニティの捉え方は場所ごとにやはり違うのでしょうか。

塩崎:そうですね。ちゃんと整理できているわけではないので、他の地区はどうだとは言えないのですが、森南地区はまったくコミュニティがなくて、地震が起きるまでは隣は誰か知らないとか、町内会もなくて話したのは初めてだとか、そういうところなんですね。富島だともっと濃密で。様々ですよ。
もうひとつ典型的なのは、芦屋市若宮地区で、あそこは国道43号線と阪神電車に囲まれた4ブロックほどの街区が全滅したところなんですが、区画整理を入れて公営住宅を4棟建てる案を行政が出しましたが住民が反対しました。その後、コンサルの人が頑張って、改良事業をいれてほぼ平面的にやりました。5階建てもいくつかあるんだけれど、1番低いものでは2階建て4戸の低層公営住宅を建てたりして、素晴らしい地区ですよね。少なくとも、高層住宅を公営で建ててということは避けられましたが、ちょっと頑張りすぎたと他所から見られているところもあるようです。

佃:公営住宅を作りすぎたのは問題だったという意見をよく聞くのですが、住民の力があって立ち止まることができれば、もう少し若宮地区みたいなことが出来たのではと思ってしまいます。

塩崎:結局若宮地区にしろ築地地区にしろ、立ち止まったところは、相対的にいうと良い結果になっているんですよね。築地地区は改良住宅の人は文句を言っていたけれど、区画整理も入って、普通の住宅を建て替えた人が居るので、地域としては多様性があります。

事業をどう活用するのか

佃:区画整理の話が多く出てきましたが、阪神・淡路では都市部ということもあって、区画整理で問題が起こったところもあれば、有効に使えたところもあると思います。東日本でも区画整理による問題が出てきたと思うんですが、阪神・淡路の時は話題になっていなかったんでしょうか。

塩崎:それはいっぱいあったと思いますよ。区画整理って結局地面の事業で、地主がターゲットで、地主とその地面をどうするかという事業であって、町をどうこうするというコンセプトはないんですよね。できたあとその町にどんな生活があって暮らしがあるとか、都市活動が展開されるかは範囲ではないという、思い切りがあるんですよね。
区画整理も非常に詳しい人はいいんだけども。森南地区でも入れ替わり立ち代わり色んな行政の担当者が来ましたが、「とにかく減歩はいれます」と言う人もいれば、区画整理はなんとでもできると知っている人もいました。

佃:いろいろなことに通じる話ですね。杓子定規にやってしまうと、住民が置き去りにされてしまう。区画整理も使いようによってはうまく使えるから、使う人次第。

塩崎:それと、もう一つの話題は、新長田の再開発ですかね。神戸は六甲道と新長田で再開発をやったんですが、六甲道は研究者も入って、かなり頑張って広場の形状を替えるといったことが行われました。しかし、新長田はそういうことが全然できませんでした。住民の側からはあまり強い意見はなくて、追随していくみたいな感じだった。住民もうまくいくんじゃないかと思っていたみたいですね。研究者的には、やはりオーバースペックというか、明らかにやりすぎやろうと言う話は出ていましたが。

佃:建設される前からそういう意識があっても、特段住民からも反対意見はないので、だれも止める術がなくそのままいってしまったと。

前田:住民側から反対意見があったと勝手に思ってました。

塩崎:そういうわけではなかったですね。住民側も分からないですよ。再開発事業って区画整理よりももっと難しい。まして出来上がったらどうなるかなんて誰も予測できなくて。再開発事業も区画整理事業と似たようなところはあるけど、結局出来上がったビルでどんなことが展開されるかは事業者には責任がないんですよね。それはビルの中に入った人たちの問題になります。事前に商業調査とかはするんだけれどもそれには責任も何もないでしょ。結局事業が成り立つかどうかを最初に見ているだけの話で、出来上がった後それがうまくいく保証にはなにもならない。

佃:場所によっては、うまくいくということはあるんですよね。

塩崎:成長の勢いのある所では、事業後に全体の価値があがることはあるんですが、どこでもそういうことが起こるということはない。沿線の全部の駅でやった場合、全部の駅で価値の増加が起こることはあり得ないわけで、一番優秀なところだけちょっといけるかもしれないけど、両横はそうはならないですよね。
新長田は昔から神戸市が西の副都心と位置付けていたので、都市計画マスタープラン上は重要な位置になっているんだけれども、客観的に言うと三ノ宮より向こうは、難しいですよね。六甲道でさえもほとんどの人は梅田の方を向いている。しかし、新長田で20haの再開発をやってももうまくいくと思い込んでいたのでしょう。神戸市は戦後ずっとそういうことをやったという成功体験があって、失敗していないんですよね。

佃:時代の局面が変わりつつあるところだったというのもありますよね。

塩崎:研究者はみんなそう言っていました。神戸市は都市経営の優等生だと言われてきました。原口忠次郎(第12代市長1949~1969)、宮崎辰雄(第13代市長1969~1989)が凄かったということもありますが、やはり高度成長の波にちゃんと乗れたということがあって、そのときに賢い方法をとったから成功しただけで、同じ方法を取っていつでもどこでも成功するのかと言ったら、そんなことはないんですよ。

前田:阪神・淡路の時は借地人が元のところに戻れるという権利が大事だったと思うんですけど、受け皿住宅等の取組についてはどのように評価されていますか。

塩崎:受け皿住宅は住宅市街地整備総合事業をかけて作っていました。それを最初にやったのは西宮市ですね。事業とセットにして出していました。神戸市は2年半か3年くらい経ってからです。神戸市の御蔵地区では後から区画整理の受け皿住宅をつくりますとなったのですが、その時にはもう遅くて、家を借りたりどこかに行ったりしてしまっていました。反省点として言えば、区画整理の時に借家人が救われるようにするためには、受け皿住宅の整備をセットで出して救わないといけないということですね。
さっき言ったように、区画整理は地面の事業なので、上に誰が住んで誰が商売しているかは関係ないから、テナントでパン屋をやってるとか、そういうアクティビティは全部吹っ飛ぶわけですね。それが区画整理の原理的にまずい点の一つですね。御蔵とかはほとんど戻れていないし、新長田の北のエリアもかなり長い間空き地がありましたよね。空き地も換地を受けているんだけれども、二つも工場を作ることにはならないし、別のところで店を構えた人はそうそう戻れないから、事業としては終わってもアクティビティとしてはスカスカになるということは区画整理で起こるんです。町を再生するということに目的を置いていないというか、地面を整理するということですよね。

佃:調べていると、西宮市は台帳なども作っていろいろな新しい取り組みを行っていた印象ですが、どう思われていますか。

塩崎:西宮市と尼崎市は都市計画能力が高いんですよ。森具地区という一番早くできたところや西宮駅北口北東部の区画整理なども特徴的です。北東部地区は元々農地で、抵抗がものすごく強かったので、議論をするたびに計画が変えられてグニャグニャの区画整理になっちゃったんですね。ところが僕からみたらそのグニャグニャというのが素晴らしくて。真四角ではないんですよ。鍵の手になっていたり、卍になっていたりする。後から見ると通過交通を抑えられて、すごく素晴らしくできがあがっているのですが、担当者の人は真四角にならないことをはじめは恥じていましたね。なんでこうなったかというと、住民とやりとりしてるうちに、こうならざるを得なかったと。公園なんかも素晴らしいですよ。そこの区画整理は、私は好きですね。

東日本大震災大船渡市の取り組み

佃:東日本でもいくつか委員会に入られていると思いますが、大船渡市の差し込み型防災集団移転事業(以下、防集)は評価が高いですね。あれはどういう経緯でできたのかということと、東日本全体をどうみられているのかをお聞かせいただければ。

塩崎:大船渡市に関わるきっかけは、大船渡市出身の大学からの友人が声をかけてくれたことからです。復興計画の策定委員会に入ることになりました。彼は役所にも幼なじみがいて、キーパーソンでした。
戸田市長はかつて高台移転をした吉浜地区の出身で、当初から高台移転だと言っていました。高台移転の適地を探しに行くのに、我々委員も参加しましたが、こんなところに作れるのかという場所ばかりでした。面積はあっても、どうやって道路を上げて、電気や水道を通すのかと。津波からは安全だけど、すごく違和感がありました。そうするうちに津波に浸かっていない畑が結構あるので、まとまっていなくてもそこを使って空いているところに建てていってはどうだと言う話になりました。山を切って団地を作る前に、空いているところに建てた方が早いんじゃないかと。そこで意見の一致があったのが最初ですね。ちょうどその頃、下館下というところで60戸の防集団地を造る計画があり、6月7月頃には希望者が殺到して、みんなが手を挙げて入りたいと言っていたのですが、12月になると全部手が降りて、6軒しかいなくなってしまいました。最初は津波が怖いからみんなも手を挙げていたけれど、車で5、6分で行けるところでも、地元の人からするとそれさえも不便だと気が付き始め、半年くらいでやめておこうとなったんですね。委員会でも、みんなを説得して辞めましょう、ということになりました。大規模に山を切って団地を作るのは時間もかかるし揉めるし、行きたいと言っていた人たちの手もおりている訳だから、もう辞めようと。そういう経緯で、空いているところを探して、そこに建てていくことにしたらどうか、ということになりました。国の防集の条件もどんどん下がってきて、10戸から5戸になりましたし、道を隔てて2戸と3戸となっているところも一つの団地として認めるという対応をとってもらえました。

佃:それも柔軟に事業を読むことや運営ができる人が居るかどうかですね。

塩崎:委員に入っていた地元出身の専門家の実体験というか現場感覚があって、だれそれの土地が空いているのではというのがやはり説得力がありました。結局、後から考えたら空いている土地は近くに誰かいるんですよね。家があったり畑があったり、以前誰かが使っていた土地だから、道路整備も元々できているんですよ。だから早いんですよね。そこを使わなくなったとしてもきっと使い手が現れるという、そういう可能性も高い。山の上に何十戸もの団地を作って、まわりに誰もいないところに空き地ができても誰も行かないかもしれないというリスクを考えると、やはり既存の村の近くで、空いているところに入れていく方が、どの面からみてもいいんじゃないかということで、これをメインにしていこうとなったんです。

前田:空いている土地というのは民地で、民地を行政が買い上げて。その時に(土地の)持ち主を説得して取得すると言う感じだったんでしょうか。

塩崎:そうですね。だいたい地元の人が知っている人だから、頼み込んで。比較的やりやすかったみたいですね。

前田:逆に、再建される方の立地などのニーズはどうだったんですか。元の近隣でまとまってとか、そういうのはあまりなかったのでしょうか。

塩崎:それは様々だと思います。東京の災害復興まちづくり支援機構が関わった「りあすの丘」では相当住民で議論をして、全員であの丘がいいと決めていったそうです。公営住宅もあり民間住宅もありですが、あそこはみんなが分かった上で移転しているので良かったんだと思います。
防集で驚いたのは、提供する100坪(最大)は民間に渡すのが100坪で、斜面だったら法面とか側溝とかが出てきますが、100坪には入らなくて、役所が負担するんですね。だから法面が多いと整備費や維持費も増えるので、あちこちで防集を作ると大変みたいですね。そういう意味でも元ある土地を使うというのは、非常に楽ですよね。

前田:現地を訪れてみると、どこが防集かほとんど区別がつかないぐらい、普通の宅地造成に自然に溶け込んでいました。

佃:大船渡は地形的にも海に対して斜面地で町が出来ているから、同じ地区でも少し上がるとそういう場所がありますよね。陸前高田市みたいに大きく平地が広がっていると同じ地区で移るということが難しくなりますね。

前田:地形的な要件だったんでしょうね。

塩崎:東日本全体で考えると、みなし仮設が出来たのは良かったですし、木造仮設もできました。国レベルで言えば、もっと前から色々研究する必要がありましたね。ほとんど既存の制度を使いこなすことに終始していますよね。外国の例なんかも調べて考えておくと、いろんな方法が考えられたのではないかなと。ヘッドクォーターみたいなところがあって研究しているっていう状態が必要でしょうね。

復興まちづくりのためにやるべきこと

佃:今日のお話を聞いていると、住民の話を聞くということへの意識だけでなく、ちゃんと制度を理解して、使いこなせるようになることを若手も考えなければと、より強く感じました。

塩崎:住民の声を聴くのはもちろん大事ですが、制度をよくするということ、制度の組み換えというか改善というか、新しい制度へ変えることにもっと力を注がないといけません。今はほとんど平時の制度をそのまま非常時に適用しようとしているので、やはり無理があるんですよね。区画整理も平時の制度だから、10年かけて、地権者の要望を聞きながら交渉して進めていく仕組みなんですよ。ところが非常時に家がなくなって路頭に迷っている人にそんなことができるかというと出来ないわけで。その負担はほとんど全部被災者のところにいくわけですよね。家を失って、どこで商売を始めようかという人に区画整理の減歩や換地の相談を数年掛けて交渉するのは無理でしょう。平時の区画整理の原理的な限界なんです。それを非常時にどうするかという制度はないわけですよ。

佃:結局それしか使えないことに問題があると。

塩崎:非常時にどう運用するのかというのがないので、結局全部ツケは被災者に回ってきます。どういう制度にすれば、住民の意向もくみ取れて、事業が出来るのか、というのを考えないといけないですよね。復興のまちづくりには重要な課題です。

佃:委員会には若いメンバーが居るのですが、今何をしておくと良いでしょうか。東日本では阪神・淡路の時に関わっていた先生たちが活躍しているというのが多いと思うのですが、学生で見ていたけれど現場に入っていないという世代にも伝えないと、繋がっていかないと思っています。

塩崎:被災地と寄り添うとか繋がるとかのニュースはよく見ます。もちろんそれも非常に大事なことですが、骨太というか、根本のところでの前進をさせるにはどうしたらいいかというのは、ボランティアみたいな作業だけでは絶対に出てこないので、研究の分野にいる若手の人たちは、失われた町とか住宅とかをどうするのかということに、もう少し焦点を当てて欲しいなと思います。美談に終わらせずに、どうやったら一歩でも近づけるのかという取り組みは、難しいし分かりにくいですが、研究者としてはそこを志してほしいし、それは住民に聞きに行ってもなかなか答えはでてこないですよね。ヒントはあるかもしれないですけど。
僕はさっき言った築地地区で「こんなんどこがええんや」って言われたのが、割と大きかったですし、そういう現場感覚は重要だと思いますけどね。あれは一番ショックだったな、すごくいい事例だと思っていたのがボロクソに言われて。

前田:津波の被災地は特にそうですけど、復興はゼロからスタートするみたいな、前提があるなと感じていて、元の日常を白紙にするのは違和感がありました。築地地区の話でも新しい建物は建ったけど、住民の人は日常を取り戻したかったと言う話がありました。後から振り返ったらわかるんだけども、これから復興するというときに、そういうことってなかなか気づかないし、普段から考えて根本的なところで共有しておかないといけないと思いました。

佃:スピードも復興の時に前面にでてきます。東日本でもそれで苦しんだ部分がかなりあると思います。

塩崎:もちろん早くやれればいいんですが、スピードが全てじゃないですからね。半年くらいの遅れなんかはもう全く無視できるくらいですよね、5年10年経ったら。その後の方が長いですから。半年早かったからって、なんぼのもんやって感じですよね。そこで間違ったら取返しがつかないですからね。

2021年12月25日(土)智積院会館にて

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佃悠
建築討論

東北大学大学院工学研究科都市・建築学専攻准教授/1981年生まれ/2004年東京大学工学 部建築学科卒業/2012年同大学院建築学専攻博士課程修了/博士(工学)/専門:建築計 画/著書:『集合住宅の新しい文法』、『復興を実装する–東日本大震災からの建築・地 域再生』など