阪神・淡路大震災からの共有知③

前田昌弘
建築討論
Published in
May 17, 2024

震災の経験を聞く―07│研究者│髙田光雄

能登半島地震の発生から間もない今、これまでの知見を集め、使える知識としての共有を目的に、建築討論では連載「震災の経験を聞く―これまでの試行錯誤の共有知」を立ち上げます。
東日本大震災、熊本地震と重なる震災を経験した10年。すでに多くのプラクティスが存在します。そうした経験はネットや書籍や報告書、ウェブサイトなどで参照できる状態にありますが、そうした貴重な経験に効果的にアクセスできる共有知として本サイトに掲載していきます。4ヶ月で12人の記録を実施予定です。
第7回目は研究者の髙田光雄さんへのインタビュー記事「阪神・淡路大震災からの共有知③」です。なお、本インタビューは、2020/2021年度日本建築学会「災害からの住まいの復興に関する共有知構築(第二次)[若手奨励]特別研究委員会の活動の一環として実施されました。

話し手:髙田光雄(京都美術工芸大学教授、京都大学名誉教授)
聞き手:日本建築学会[若手奨励]特別研究委員会(主査:主査:佃悠、幹事:前田昌弘、委員:須沢栞、大津山堅介、坪内健)

被害状況の把握さえ困難だった

前田:阪神・淡路大震災(以下、阪神・淡路)でのご経験について、発災後の時期にどういう動きをされていたかも含めてお話頂けますでしょうか。

髙田:地震が発生した1月17日の明け方、私は京都の自宅で寝ていたんですけれども、ものすごい縦揺れがあって、これは普通ではないということはすぐに分かりました。その日は、大学の近くで私が幹事を務めていた研究会があり、神戸からも人がくることになっていました。かなりの被害がありそうで、研究会を開催できる状態じゃないことはすぐにわかるんですけど、どういうことが起こっているか、なかなかわからなかったんですね。テレビとかをみてもね。ただ、異常な状況だということはすぐにわかりました。
最初は、電話はかかったんですよ。それで、卒業生とか関係者に電話をするけれど、彼らも何が起こったのかわからないんですね。そのうち電話がつながらなくなりました。まず安否確認をしなければいけないということで、現地に行こうと思ったんだけれども、地元の負担になるということが直ちにわかりました。建築では構造系の先生方が早くに被災地に行かれたんで、被害の状況はそれでかなりわかると最初は思ったんですね。ところが、帰ってきた構造系の先生に聞くと、木造、つまり住宅や密集市街地の被害の調査はしていないんですね。彼らの関心はビルの被害だったわけです。
もう考えられないことが起こっているんですよね。調査に行っている間にも、どんどんものが倒れてくる。行く時には斜めに傾いている建物の下を通ったけど、帰りはそれが倒れているとか。立ち入り禁止とか何もなかったわけですよ。最初は甲子園口まで阪急電車が通っていて、そこから先は交通手段が何もなかったので、最初の日は鷹取まで歩きました。そのうち徒歩でいくことが当たり前になって、とにかく、知り合いをたずねて被災地をまわってみました。
被災地の調査では社会科学系の研究者とも交流することになり、それは私にとって大きな経験でした。あちこちで社会科学系の人たちとご一緒する現場があって、物理的な被害でも社会的な側面というのがものすごくあるんだということが感じられました。
住宅をなんとかしなければいけないのですが、それ以前に、ある種のショック状態というのかな。震災の直後から、死因の大部分が建物の倒壊による圧死だということが伝わっていてね。建築学にしても、建築士、建築法規にしても、今まで本当に何をやっていたんだ、と自己嫌悪に陥りました。
東日本大震災(以下,東日本)の時なんかに比べると国の支援は少なくて、阪神・淡路は非常に地域的な事柄という扱いをされていた。東京からみると、本当に他所の出来事ということだったんですよ。

前田:震災の名称も最初は関西大震災という案があったと聞きましたが、結局は局地的な事象として扱われました。

髙田:ここまで大きな被害があるとわかっていなかったことはたしかです。最初はね。亡くなった人の家族にも会いました。梁の下にいた人は死んでいるけれども横にいた人は無傷で助かっているし、ぺちゃんこになった建物で、運良く生きていた人にも会いました。人の生き死にというのかな、ものすごいことが現地で起こっていて、若干正気を失ってしまうということがありました。
それから、この段階では、知り合いと連絡が取れず、1週間くらいしてから避難所にいるという連絡が来た人もいました。とにかく、連絡が取れない状況なんですね。通信が切れてしまっていて。
そういう混乱のなかで住宅の復興を考えなければならないんですけれども、何からやったらいいかわからないわけですね。都市計画学会で、被災地の調査をやることになって、いろんな大学に連絡がきました。これで住宅の復興の話までいくと最初は思ったんですね。ところが、都市計画では、住宅が何戸無くなったかということへの関心は薄いというか、少なくともそこに重点はないんですよね。結局、住宅に関心をもって、現地で研究者として復興のことを考える人は意外とそんなにいないんですね。
被災地で一体何戸が無くなったのかという単純なことがわからない。それがないと復興計画がたたないわけですよね。なんとかしようということで、檜谷美恵子さんとか、住田昌二先生とかに働きかけて、研究会を作りました。住総研にお願いに行って学生の交通費を工面するために支援してもらったりもしました。
東日本のときなんかはいろんな調査は役所の委託でやっていますが、阪神・淡路のときはそういうのは一切なかったんですね。ボランティアしかなかったんだけれども、住総研がなんとかしてくれるということになって、それはものすごく助かりました。都市住宅学会の関西支部と同じメンバーで研究会をつくって調査することにして。結局、都市計画学会の調査をベースにして戸数を数えることになりました。都市計画学会の最初の調査も学生ボランティアでやっていたんですね。ショッキングな光景ばかりでね。はじめのほうに行った人たちの調査結果は全部全壊なんですね。でもそんなことはなくて。

佃:全部全壊に見えちゃう。

髙田:そう。あと、場所によって被害がばらばらで。結局ね、もう一度やり直さないといけない。被災状況の判断にもだんだん慣れてくる。もう一度、学生の目ではなく、我々の目で見直そうということで、相当修正して、それを元にして、さらに何戸無くなったかカウントしました。本当に単純労働で、住宅地図と見比べて毎日戸数を数えました。これを研究室で学生と一緒にやるわけですけれども、毎日やるのはしんどかったですね。いろいろな調査が行われているんだから、どれかは使えると思ったんですが、結局どれも戸数のカウントには役に立たないということがわかります。例えば罹災証明も場所によって出たり出なかったりするので。

マスハウジングの再生なんてやりたくなかったが

髙田:それで結局、都市計画学会でやった調査をもう一度我々のやり方でやり直してカウントしました。そんな地道な調査をやって、兵庫県の復興計画に間に合わせました。足し算をしただけなんですけれどもね。それが元になって復興計画の戸数算定が行われました。最初はそれだけに頼るわけには行かないと思っていたんだけれども、結局それしかないということになってくるんですね。
よく言われる複線型の復興について、現場でもそういう議論はしていました。単線型の復興にならないように、空いている敷地にプレハブを建てて、そこに家賃補助をしたらいいという発想はあちこちででてきていました。とにかく市街地で復興ができないかということをいろんな形で探って提言したんだけれど、結局全部できなかった。
結局、安定した国庫補助の仕組みが、公営住宅とか、改良住宅とかしか当時はなかった。それから個人補償については、いまとは全く違って、当時はあり得ないと言われていた。家賃補助という考え方もそうです。そのための市場ベースの住宅政策への転換だったにも関わらず、そういうことは全く受け入れられなかったんです。
だから結局、国のお金が一番出てくるのは改良住宅ですから、改良住宅を建てませんかということになるんですが、これもなかなか難しいんですね。不良住宅には違いない。壊れているんですから。だけど、いろんな条件を満たす必要がある。公営住宅が結局やっぱり使い勝手がいいし、当時の政府も他の手段に対しては非常に厳しかった。判断ができないということで公営住宅に一本化することになって、複線型の復興ができなくなったんですね。
被災地としてはケースバイケースでいろんなものを建てて、空き家を使うとか非住宅を使うとかいう話も、この時からあったわけですよ。とにかく、家賃補助の制度さえあれば、もっと多様な復興ができたんですけど、それができなった。結局は、災害公営住宅に特化した復興をした。
ただ、硬直的な制度なんだけれども、現場でなんとかすると、非常に多様なものができる。HAT神戸なんか、安田丑作先生と二人で調整役をやりました。建築家や関係者にも思いがあってね。私もマスハウジグの再生なんて絶対やりたくなかった。なんとかちょっとでもマスハウジングの問題点を解消しようと現場でやるんだけれども、その結果、ぐちゃぐちゃになっていくんですよね。まあ、それを調整して、なんとかおさめるというね。HAT神戸もいろいろなものがあって、いろんな人がいろんなことを考えるから、おもちゃ箱をひっくり返したみたいになるんですね。そのなかでは安藤忠雄さんは特別扱いでしたね。

佃:HAT神戸もやられていたんですか?

髙田:そうですよ。というか、我々よりも先に知事のところに行って、住宅をやりますとか言っていて。デザインが統一されている方が安藤さんで、寄り合い所帯でわいわいやった方がURとかね。あとは、住宅は標準設計があるのでしょうがないということで、南芦屋浜なんかでは空き地でいろんなイベントをやって、事前のコミュニティを作ろうとしたりして。

住宅政策の基本:居住福祉と居住基盤整備

髙田:住宅復興の10年検証にも関わりました。何よりもまず、住宅が死因になったということをもっと重く受け取らないといけないということがあります。けれども、それも忘れられてきているように思います。
その上で、まず一つ目のポイントは、復興住宅のメニューも結局は平時の住宅政策の仕組みの問題なわけですよね。平時のメニューが増えれば、復興のメニューも増えるんだけれども、当時は公営住宅しかなかった。それでマスハウジングの再生をやらざるをえなかったというね。その中でも現場では多様な住宅ができるというのは、一つのシステムをつかっても、工夫次第ではいろいろなことができるんだということです。ただ、平時のハウジングシステムというか、住宅政策の根本的な仕組みの問題というのがあります。
二つ目のポイントは、住宅というのは単体ではなく、まちとの関係が大事だということです。私は住宅政策の基本を居住福祉と居住基盤整備と呼んでいて、公営住宅というのはその二つの柱を重ね合わせたものなんですね。住宅は純粋な意味で公共財ではないんだけれども、公共財的な側面はある。共同で使う部分があるし、長期の間にいろんな人が使うという意味でね。それが、居住基盤整備に対応する。価値財的な側面というのが居住福祉に対応します。これは例えば低所得者の住宅供給に代表されます。
居住福祉というのは、ものすごく単純化して言えば家賃補助の話なんですね。社会住宅を作って、家賃補助をするという施策を講じるというのが、1995年の大改革に際して議論した際の一つの結論です。災害公営住宅というのは、そういう観点からみると、1951年のシステムに戻っているわけですね。
住宅単体だけではなく、街の将来像について議論してそれを実現するための仕組みがなかったので、まちづくり協議会ができるんです。私はいくつかのまちづくり協議会にでて、そこを応援しようと最初は思っていました。けれども、京都から通うということには限界があるし、地元で一生懸命やっている研究者や建築家もおられるので、私はむしろ特定の地域には入らず、いろんなところを回って、情報の繋ぎ手になろうと考えました。

異なる価値観が共存するための原理

髙田:いろんな現場をみようとして、あちこちまわりました。最初は復興に向けてもう一度気を取り直して頑張りましょう、ということでどこも始まるんだけれども、1週間か10日経ったら現場は喧嘩ばっかりになる。ものすごくシリアスな。当事者どうしが喧嘩するのはまだいいんです。でも、間に入っている地域の人格者っていうのかな。自分の利益に関しては何も言わないで、なんとか街をまとめようという人がどの地域にもおられてね。その人たちが一生懸命マネジメントするんだけど、結局みるみる消耗していくのは見ていて痛々しい。でも、そういう場面ばかりになるんですよ。だれ一人、悪意を持ってはいないんですよね。ただ、個人が自分の権利を主張し出したらそういうことになる。
しかし、鷹取とかいくと、全然ちがうまちづくり協議会があるんですよね。なんでこんなに違うのか、当時はわからなかった。社会学者の人たちと一緒に、これは人の違いですかとかいろいろ言ってたんですけど、そうじゃなくてね。要は震災前から街の将来像について何らかの協議のきらいがあったところは、震災後もそれが継続していた。別にみんな仲良しというわけじゃないんですね。あなたと私は価値観は違うけれども、あなたの存在までは否定しない。そういう、違う価値観の人の存在を認め合っているということが非常に大きい。それからね、喧嘩しているのはたいてい、昔の話なんですよ。何かの時にこの人はこうしたとかああしたとか。そういう話はポジティブな協議会では一切でてこず、将来像の話しかでてこない。そういうところは、前に進むんですよ。
結局、まちづくりの協議というのは、地域の人たちが議論して未来のことを考えること、そして異なる価値観の人どうしが認め合っていることという原理があれば、前に進むわけです。実際そういうところが早い段階で復興計画をまとめて、事業もはやくはじまりますから、早く復興していく。
ポイントの一つ目が居住福祉的な話で、二つ目が居住基盤整備の話なんです。街が復興しないと家だけ復興してもしょうがない。家は壊れてないんだけれども街が壊れているので、そこに居住できないという人が沢山いたんですよね。で、当時示された復興計画というのは、再開発にしても、何にしても、これでいいですという人もいないようなものですし。それよりも、もっと地域でいろいろごちゃごちゃやっていたら、AかBかというふうに選択できなくなってしまうんですよね。

佃:行政だけだと再開発を入れようという話にしかならないのでしょうか。

髙田:密集市街地の再生なんて当時はありえない話なんですよね。もう一度木造の密集市街地を作りましょうなんて言ったら大変なことになります。1995年当時の状況と今の状況は違っていて、今の感覚で当時のものを批判するのもちょっと気の毒なところがあります。

まだまだ未熟だった家賃補助制度

前田:災害復興準公営住宅とか、民間賃貸に入った人への家賃補助などもありましたけど、そういったものは髙田先生はどうみられていますか。

髙田:当時は住宅政策の転換点でね。行政主導から市場ベースの住宅政策へという流れの中で特優賃という制度ができて、それを災害公営住宅に適用したのが災害復興準公営住宅です。特優賃という制度はフレームワークからいうと、基盤整備は直接やって、それぞれに家賃補助をするという意味では我々が言っているのと構造は近い。けれども、家賃は上がり続けるという前提の中で設計された制度なので、その点が大きく違っていました。神戸市の住宅供給公社(現・まちづくり公社)にそのまま継承されていますけれども、ああいう解消しようがない負の遺産をつくってしまった。
家賃補助という制度が一部にあっても、まだまだ未熟な状態で、しかも国交省は特優賃を使えとものすごく言ってきたわけですね。つまり、災害公営だけではとてもじゃないけど間に合わない。準公営みたいなものつくれと言ってきて、その尻拭いは各自治体がやらなければいけなかった。大阪府とか大阪市は供給戸数が少なかったので、ようやく去年かな、なんとか解消して。神戸なんかもう解消のしようがない。完全に火だるま状態になったわけです。ハウジングのいろんな仕組みがまだまだ未熟で、その場凌ぎの仕組みを作ったって、住宅はその瞬間で消費されるもんじゃないから何十年か後に大変なことになります。

建築基準法と維持管理の問題

髙田:それからね、10年検証のときに私がやりたかったのは、お金の話。これはここでなんとかはっきりさせておきたかったんです。災害公営住宅というのは感覚的にいうとものすごくお金がかかっていてね。

前田:戸あたり2500万と書かかれていますね。

髙田:これだけのお金が使われているんですね。当時の物価で。資料を集められる限り集めて、全てのプロセスを含めてお金がいくらかったかということを検証しようとして、結構大変だった。だから、補助金を出しやすいかということと、実際どれだけお金かかるか、両方が分かった上でやらないといけなんです。阪神・淡路の時は、1週間後か10日後ぐらいには、どうしたら国庫補助を一番引き出せるか、そういう関心でいろんなものをみんなで一生懸命調べていましたね。それは役所の人もそうだし、我々もそうだし、事業者も。これだったらこういう補助率と基準だからいけるんちゃうんかとか。けどね、東日本のときはそういうことは好ましくないというふうに役所の人は少なくとも考えていたみたいでね。だから、それも地域の文化の違いというか、驚いたところです。

前田:関西人的な、ね。

髙田:あるんかなと。何にいくらかかるかということと、国庫補助がどういう仕組みででるかということが、復興の行方を左右しますからね。それを本当は検証して、こういうことがあるから、平時からこういう多様な補助制度を作っておかなければいけない、という議論が必要なんです。特に家賃補助については、こういう場合にはこういう家賃補助ができるとか、こういう原理で考えるんだ、とか。そういうことを議論しておかないといけないと思ったんですが、東の方にいくとそういう発想はあまり受けないようです 笑。

佃:復興交付金でほぼ全部持ってもらえるという前提でやっていたような感じがしますね。

髙田:そうですね。だから、大学の先生方もわりとみんな委託研究で調査に入っているというのが、我々からするとものすごい違和感があるんですよね。頼まれて調査に入っていると言うのがね。阪神・淡路のときは設計事務所とかの民間事業者も儲からない。むしろボランティアでいろんな人が活動していました。我々が住宅の調査に行くと大体、積水ハウスが先に来ているんですよ。いろんな救援物資を持ってね。こんなときに水と食料を持ってやってきてくれる。これは、自宅の再建を頼むとしたら絶対、積水ハウスや、となる。それは供給の体制がもともと整っていないということなんですがね。プレハブでの住宅再建がこの阪神・淡路のときは突出している。それとね、長谷工も結構はやくから入っていた。でも長谷工の人はかわいそうでね。めちゃめちゃ言われてね。被害がなかったところはいいけど。

佃:おたくのところに住んでたのに、壊れてしまってみたいな話でしょうか。

髙田:分譲マンションの場合、相手は管理組合ですからね。個人じゃないでしょ。まあ、水が止まったとか、あらゆるものの捌け口がいくわけですよ、そこにたまたま来た人に対して。
プレハブの話だと、特に芦屋は本当に風景が一変した。しかし、あんな高級なプレハブ住宅をそれまで見たことはなかった。東日本の時はハウスメーカーがこれまでずっと塩漬けになっていた土地とかを全部抑えていって、そこの権利をまた売るわけですよね。本来だったら地場の大工さんとかがやっていた仕事だと思いますけれどね、土地を抑えてしまうというのはね。
だから東日本の時、私の経験は役に立たないんじゃないかということを言いました。同じじゃないからね。同じじゃなくても失敗したことはやらないように注意した方がいいけれども、成功したことがまた成功するとは限らないから、そんなことはわかったうえできちんと考えてやらないといけない。まあ、うまくいかなかったことは真似しないようにと言っているのに、災害公営の話とかは教訓が全然生かされなかったという感じはしますね。

公営住宅から脱出し、社会住宅化を

前田:阪神・淡路の時は公営住宅をたくさん供給して、後から民間住宅もかなり建てられて、結果的に供給過多になりました。

髙田:まあ、公的住宅のシェアが住宅全体の中で高くなるというのは、必ずしもまずいということにはならないわけで。たぶん民間住宅よりは公営住宅の方が社会住宅にしやすいわけですよね。私は、もっと早く日本の住宅政策が大転換すると考えていたんです。わかりやすくいうと、社会住宅化するというのかな。公営住宅も含めて市場家賃を設定して、もっときちんと家賃をとる。そして、そこに家賃補助を入れて、応能性にする。そうしないといけないと昔から主張してきたんですよね。

前田:公営住宅は根深いですね。途絶えかけたと思ったらまた災害で復活して、より強固になっていく。

髙田:公営住宅からどういうふうにして脱出するのかということ。それと、今言ったね、地域のまちづくりをどのように、このコミュニティが希薄になっていく中でやっていくか。都市住宅についてはね、家に住んでいるよりも街に住んでいるということが大事なんだということをもっと実体化して、そこに住んでいる人が参画して街の将来像を協議していくということを続けていかないといけない。災害が起こった後になんとかしましょうと言ってもなんとかなるはずがない。地域のマネジメントシステムは平時からきちんと考えてやっておかないといけないんですけれども、そういう方向にはなかなかいかないですね。

佃:ヨーロッパとかをみると100年くらい使っている公的住宅もあります。日本では維持管理を仕組みに入れ込めてないということの問題があるんでしょうか。

髙田:公営住宅は単年度会計でね、しかも結局やっているのは改修。長く住んでいると、住戸の改善だって、お金がかかるんですよね。人の二倍の期間住んでいたら割安になっているはずなんだけど、総額が高いとやってくれない。そういう理由で空き家になっているところも少なくないんじゃないかな。まあ、地域にもよりますけどね。それから、住宅需要のないところに建っているものも多い。それはさっさと解消して、そこに使っているお金を他のところに回すべきだと思いますけどね。かつてはどんなに不便なところでも応募はあったんですよね。明らかに住宅市場が変わってきているし、本当に不便なところは住宅需要がない。大都市の中心部は逆に、とんでもない競争率になっていますから。
家賃補助という考え方はまだまだ定着していないですね。公社住宅のようなものを整備して、そこに市場家賃を明確化した上で家賃補助を入れる。ただ、公営住宅を何%かは役所が持っていることに積極的な意義がないとは言いませんけれども、公共が所有して管理するのは非常に非効率。それから今どんどんドライになってきているというのもあって、公営住宅が公営住宅らしくなくなってきている。

佃:東日本でも線引きがきっちりしていますね。他のところとの公平性に問題があるから、個別の事由は認めずに管理費を一律でとってくださいとか、集会所の鍵も自治会がないと渡せませんとか。ルールの厳格化はすごく強い感じはしましたね。東日本では高台移転が多かったんですけれども、元の街とは全然違う街を新しく作るというのはどういうふうに見ていらっしゃいますか。

髙田:私は明らかにやり過ぎだと思いましたね。もっと謙虚に自然との付き合い方を考えるべきです。防災思想というのかな。被害を受けないようにしようなんていうのは、まちがった考え方だと思います。人災と天災というのはいまや区別がつかないというよりもほとんどが人災なわけですよね。減災文化というものがあるわけで、それから学ぶべきことは多い。それは阪神・淡路の時から言われている。その時に減災という言葉が普及したと思っていたんだけれども、首都圏には普及していなかったんですね。

前田:わからないでしょうね。スクラップアンドビルドばかりしていたら。

佃:被災地にいるからなのか、東日本以降は減災というのは言われているかもしれない。どうして情報が来なくなるんでしょうね。

髙田:技術依存的というか、そういうものがね、ますます強くなっている感じがしますよね。あるいは、抜本的な社会システムの問題だということなんだけれども。それもね、結局個々の積み上げをやっていかなかったら大きな社会のシステムの議論なんてできないと思うんですよね。SDGsというのは、私はAかBかじゃなくて、AもBもという、文化と安全とか、文化と環境とか、一見矛盾する可能性があるものを同時に解決するという価値観を持っている目標設定で、私はよくできた仕組みだと思っています。ただ、文化的なものがものすごく弱いんですよね。

平時にできないことは非常時にもできない

前田:さきほどの被害調査に関して、学会とか大学とかがあれほど役に立ったことってそれ以来ほとんどないんじゃないですか?被害調査がなかったらどうなってたんだろう。

髙田:兵庫県がね、都市住宅学会をあそこまでよく信用してくれたというか、それに頼って計画を立ててるわけですよね。

佃:都市住宅学会もできて数年だったと聞きましたけど、そこまで信頼を寄せられていたのはどうしてでしょうか。

髙田:住宅審議会を立ち上げる前だったんですけどね、神戸市も兵庫県も、提言が大体まとまったところに震災がおこったということがあるんですよ。だから、すぐに復興計画がでたでしょ。震災前から考えていたからそれをそのまま横流ししただけで、平時と何も変わっていないわけですよ。

前田:都市計画との連携みたいなものは、全然ロジックが違いますか。

髙田:復興の体制というのは特別チームという感じがしたんで、ばしっとした縦割りというよりも臨機応変に必要な人が必要なところに出たり入ったりしてやっていた感じはしますね。

佃:共有知とするためにはやはり、平時のときにどれだけ仕組みを変えられるかにかかっているでしょうかね。

髙田:そうですね。平時でもできひんことを非常時にできるはずがないんでね。

佃:応援職員とかが出入りしていることで人伝てに伝わっていくことはあるけれども、それだけじゃ限界があるというか、抜本的な仕組みが変わらないので、災害公営住宅もう一回、みたいなことになってしまうということですね。

髙田:全体としていうとね、阪神のときも東日本のときも文化に対する関心はものすごく低いですよね。

佃:東日本のときは公費解体などにより瓦礫撤去が2年ほどで行われたと思いますが、その際貴重な文化財がかなりたくさん失われました。

髙田:阪神・淡路の時はもっと早かったですよ。瓦礫だけが公費で撤去だから、間に合わなへんかったら持っていてもらえへんから。阪神高速道路なんて、あんな瓦礫がやね、横たわっていて。しかし、最初は何かと思いましたよ。道路面がこっち向いているわけですからね。高速道路が横倒しになるなんていうことは想定しない。

佃:被害は受けたけれど倒壊していない建物も公費解体の期間で何とかしようということで失われたということも結局、東日本でも繰り返されていました。

髙田:目の前の状況をクリアランスしたいという欲求が基本的にはあるんでしょうね。

前田:維持管理していくということが根付いていなんでしょうね。

佃:負担のほうが大きくなっているということもありますしね。

髙田:なくなるわけじゃないのにね、場所が他のところにいくだけなのに。

佃:若い人達がこれから復興のフィールドに入るとき、ハウジングの知識をちゃんともっておかないといけないのだなと先生のお話からも強く感じました。

髙田:ただね、我々の勉強してきたハウジングの知識というのはね、まあ、いわば建築学、工学的なものに加え、経済学とか社会学とか社会科学系の知見も踏まえて考えましょうというところ止まりだったんですね。いまある環境問題とか文化の問題とかは今言ったような社会科学の話を超えているんですよね。だから、もっと広い知見から、もっと多面的に考えないといけない。

みなし仮設はもっとみなせるはず

大津山:阪神・淡路の時に提案された中間住宅、20年対応の住宅の現代的再考についてお伺いします。令和元年台風で堤防が破堤した長野市の長沼という地区があるのですが、そこは浸水区域なので、公営住宅が建てられなかったんですね。でも、どうしてもそこに戻りたいという方々がいて、彼らが選択したのはトレーラーハウスという600万円くらいの住宅で、ある意味で中間住宅的なものでした。時代背景も大きく変わってくるなか、こういった中間住宅というのは存在しうるものでしょうか。まさに公営と民間の中間に位置する住宅だと思われるのですが。

髙田:住宅は本来多様ですからね、ありうると思います。けれども、なんていうのかな、住宅というのは本来それぞれの地域で最も安い材料を使って、安い労働力を使って建てる。そうするから維持管理ができるわけで、他所から持ってきたものでやっても建つ時はよくても後がね。維持管理ができない。本来は世界中どこもそうですよね。それがいろんな技術が発達するなかで、できそうにないことができるようになってきた。でも、全体として考えると、今あるものをどういうふうに活用するか、使いまわしていくかというふうに考えるべきだろうと思います。すでに地域にあるもので、現代的な価値のあるものをどういうふうにして発見し、育てていくか。そういう中で中間的なものが出てくるんだと思います。

前田:阪神の時の中間住宅は、空間としてはどんなイメージだったんでしょうか。プレハブでしょうか。

髙田:長屋とか木賃アパートというのは再生不可能な供給タイプだったわけですよね。だからそれに代わるもの、グループホームとかシェアハウスとか、要するにプレハブのアパートじゃなくてもいいと思っていたんですよね。それぞれの地域ごとに考えられたら。家賃補助制度がなかったら、プレハブの仮設住宅だって結構な値段がするわけですから。RCの公営住宅よりは安く上がるかもしれないけれども木賃アパートに元々住んでいた人が入居することができないわけですよね。家賃補助は絶対に必要だったわけですけど、やっぱりものすごい壁があったんですね。神戸市が国に提案する時に「新木賃」という言葉で提案していたらしくて、それあかんで、と。

佃:確かに、また密集市街地つくるのみたいなイメージですよね。

髙田:新木賃は、ある種の面白さはあるんだけれども、そんなの理解しない人の方が多いですからね。だけど、まあ、新木賃なんですよ、結局ね。その主旨としては間違ってないんだけれども、もうちょっと多くの人にポジティブなイメージを与えたかった。

前田:普通の感覚からするとやっぱり抵抗感ありますよね。

佃:仮設住宅は今、性能が結構上がってきていますが、一方で、性能をあげすぎるというのも、仮設の期間ということもあって、悩ましい問題だと思います。ただ、熊本では木造基礎をRC基礎にすることで、いまでも改修して使っています。

髙田:基本的にはみなし仮設がよいと思います。これだけ空き家がいっぱいあるんだから、もっとみなせるはずなんですよ、本当はね。本来、仮設というのはね、元の場所に戻らないといけないかどうかというのがあって、人によっていろいろ選択肢があるわけです。最大限の可能性を考えれば、みなし仮設もいろんなものをいろんなふうにみなしていけばいいと私は思う。ストックをとにかく使うというのが基本です。それから、木造でというのは、地域の生産システムを使うということですよね。よそからやってきて災害公営を作り終わったらいなくなってしまうというやりかたではなくて。仮設も一緒ですよね。ただ、プレハブ建築協会との今までのいろんな約束があるので、それを簡単には変えられない。

佃:プレ協との提携というのも阪神・淡路後に広がっていきましたね。。それもいい面もあれば、一律のものを供給する体制が強化された、マスハウジング的なものが強化されたという意味ではまずい影響もでているということですかね。

髙田:住宅という発想じゃ、もともとなかったからね。

住宅セーフティネット法はまだまだ発展途上

須沢:平時の住宅政策やプランがと重要だというお話がありましたが、いま現在、住宅セーフティティネット法が改正されたりして、家賃補助的な仕組みはある一方で、制約も数多くあって、平時にうまく使いこなせていないという印象があります。

髙田:セーフティネット法はね、まだまだ、なんていうかね、プロセスだというふうに私は思っています。逆にいうと、家賃補助制度みたいなものがすっきりと決まらないから、できる範囲をちょっとずつ広げていっているというね。もう少し安定的な仕組みにしていかないといけない。結局、公営住宅に代わる、社会住宅の仕組みを構築するしかないんだけれども、そのためには家賃補助制度を確立しないといけない。そこがネックになっているんですよね。
ただ、コロナで国費の投入というのがありましたが、同じ価値観と思えないというか、感覚が麻痺してきたような感じがするんですけれどもね。ヨーロッパの家賃補助制度が比較的きちんと整っているところも完全にうまくいっている国は一つもないわけですね。ころころ制度が変わっていっているし。それから公営住宅の方も、公営住宅をずーっと守ってきたイギリスがもうそうじゃなくなっているんでね。そういう意味でモデルがないんですよね。どこかの国を真似したらいいという感じじゃなくて、どこも困っている、悩んでいるという。
時代の流れの中で変化してきているので、ある程度やむを得ないというふうには思いますけれども。だからこそ基本的な原理は共有できるようになっておかないといけない。まあ、国の財政の問題というのはなかなか難しいといえば難しいですけど、基幹的なところがとにかく確立していないというのは、95年の頃には言い出しているわけです。少なくとも10年以内くらいでそういうシステムができると思っていたんですけれどもね。今でもまったくできていないので、それは若い世代でなんとかして欲しいと思っています。

須沢:家賃補助に関しても、厚労省が例えば職を失った人に対して補助をしたりですとか、かなり入り乱れているなという印象で、その辺りも整理して、これから研究し続けていきたいと思います。

髙田:戦前までは住宅政策は厚労省がやっていたわけですから、そういう発想には馴染みやすかったんだと思います。逆に公営住宅というとんでもない球を持ってきたので、制度的にはまだまだ。ただ、国交省と厚労省の関係っていうのは、私が知っている範囲で考えると、昔に比べると連携ができるようになってきたと思います。今でも縦割りという批判はもちろんあるんだけども、やればできるという面はあると思うんですよね。

前田:東日本でも結構連携しているところはありますよね。そうせざるを得ないというのもあるんでしょうけど。

佃:仮設住宅とかはそうですよね。厚労省がやらなきゃいけなかったけど、建てるのは国交省、建設部局だし、災害公営も福祉が入るので。それ以前もサービス付き高齢者住宅とかで。

髙田:そうです。平時の施策としてやらざるを得なくなってきたから、そういうことが災害時にもできるようになったと。

居住立地についての本質的な議論を

坪内:防災集団移転で住宅再建が行われた地域の研究をしているのですが、持ち家に住んでいる人たちに立地適正化計画などで住む場所を誘導したり、あるいは事前復興の話し合いなどで移転や将来のあるべき姿を議論をすることの難しさを感じています。

髙田:災害との関係というよりも、そういった、どこに住むかという問題そのものが今いろんなところで議論されていて、いろんな矛盾を孕んでいるという気がしますけれどもね。舞鶴市の都市計画審議会をずっとやってたんですけどね。舞鶴は、コンパクトシティ化というか、逆線引きをして、調整をしながら市全体をコンパクト化していくというのをやっていて。そういう議論を具体的に積みあげていっていて、実際に都市計画決定しているんですよね。人口がどんどん減少しているところでは、そのことに対して、対立が起こってこない。一方で滋賀の大津みたいな人口が増えているところの都市計画審議会とかで居住誘導するかしないのかという話になると、ちょっと際どいところがいっぱい出てくる。災害の危険性の判断基準だって匙加減でどうにでも変わるわけですから。人口が全体としては増えてきているところの方が、調整が難しい。
いずれにしても、居住立地を何らかの一つの考え方で確定してしまうということ自体、無理な話だというふうに私自身は思っていいます。居住立地を動かしていくいろんな要因を検討した上で、どういう流れが、どういう理由でどういうふうにして人が動いていくのかということがわかった上で、それを応援するのか応援しないのかというふうに考えないといけない。図面の上だけで線を引いてこっちから住んではいけませんとか、そんな発想自体が私自身は馴染めないんですよ。そんな話を審議会ではしています。まあ、いずれにしても、災害に対して危険な立地ということが根拠にはなっているけれども、そこに本質があるわけじゃなくて、むしろ平時の居住立地というものをどういうふうに考えるかということをもうちょっと深く考えないといけないのではないかと思いますけどね。

前田:災害に関しての話になりますが、津波の後に災害危険区域に指定したところをどうするかっていう議論をみていると、危険区域の捉え方自体も自治体によって違って、随分と幅があります。

髙田:震災の直後にね、漁師の人の話を何人か聞いたけどね。漁師の人は元々リスキーなところに住んでるわけでしょ。海に出るということはもっとリスキーでね。命懸けでやって、それが仕事であってね。だから住まいもそういう中で成り立っているのでね、というような説明を受けました。だから、そういう生き方を否定するというのもできないと思うんですよね。その人が命を粗末にしているかというと、そんなわけではなくてね。たぶん津波がきたら1番に逃げていくだけの力はあると思うんですよね。そういう自然との関わりを全体としてどういうふうに考えるかということが大事なんで、それを完全な受け身でかつ何が起こっても安全なようにという発想で防災を考えるというのは、私はやっぱり違うと思うんですよね。

前田:本当にそうだと思います。そういうリスキーなところに住んでしまう人がいるのは、社会的なコストだという論調もあるようですが、違和感があります。そういう人が被災しても助けなければならないという。でも自己責任というのは本来そういう議論ではなく、その人の自由にさせてあげるということのはずなのに、なんか逆な感じがしますね。

佃:災害危険区域の指定も、人が生活するというよりは、土地を守ることのほうが優先されてしまっていて、不合理を感じることが多いです。

髙田:それもあるし、情報がまだきちっと行き渡っていないのに、制度によってコントロールしてしまうというのもおかしい。情報で本当はもっとコントロールできるはずですよね。

佃:始めにこれしかないからという感じで誘導をしてしまっている部分もありましたよね。

髙田:人を信頼しないシステムなんでしょうね。生命と財産を守るのは国の責任だからと言われてしまうと、そうなんだけど、それを直接守りにいくのか、あくまでもその人の自由な行動を保障した上で、守る仕組みかでだいぶ違いますよね。
いずれにせよ、学会で若手の研究者がこういう活動をしているのは非常に結構なことかと思います。震災にかぎらず、いろいろな経験の継承というのは非常に難しく、すぐ風化します。阪神淡路の話は本当にいっきに風化してしまったという感じがいます。実体験を持った人が卒業すると、すぐに風化してしまう。記録の継承の仕方についても、もっと工夫が必要なので、いろいろと考えていただきたいですね。

2021年12月27日(月)京都美術工芸大学東山キャンパスにて

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前田昌弘
建築討論

京都大学大学院人間・環境学研究科准教授/1980年生/2004年京都大学工学部建築学科卒業/2012年京都大学大学院工学研究科博士後期課程修了/博士(工学)/専門:建築計画、住まい・まちづくり/著書:『津波被災と再定住―コミュニティのレジリエンスを支える』(単著)、『世界居住文化大図鑑』(訳書)など