阪神・淡路大震災からの共有知④

震災の経験を聞く―09│研究者│檜谷美恵子

前田昌弘
建築討論
39 min readSep 27, 2024

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能登半島地震の発生を受け、これまでの知見を集め、使える知識としての共有を目的に、建築討論では連載「震災の経験を聞く―これまでの試行錯誤の共有知」を立ち上げました。
東日本大震災、熊本地震と重なる震災を経験した10年。すでに多くのプラクティスが存在します。そうした経験はネットや書籍や報告書、ウェブサイトなどで参照できる状態にありますが、そうした貴重な経験に効果的にアクセスできる共有知として本サイトに掲載していきます。
第8回目は研究者の
檜谷美恵子さんへのインタビュー記事「阪神・淡路大震災からの共有知④」です。なお、本インタビューは、2020/2021年度日本建築学会「災害からの住まいの復興に関する共有知構築(第二次)[若手奨励]特別研究委員会の活動の一環として実施されました。

話し手:檜谷美恵子先生
聞き手:日本建築学会[若手奨励]特別研究委員会(佃悠(東北大学/上記委員会委員長),前田昌弘(京都大学/委員会幹事,大津山堅介(東京大学)※オンライン参加 須沢栞(日本女子大学),坪内健(北海道大学))

行政と学会の連携による被災地調査

佃:阪神淡路大震災(以下、阪神淡路)について、先生はどのような関わり方をされていたか、教えていただけますか。

檜谷:私は当時、大阪市立大学にいて、住田昌二先生のもとで助手をしていました。その頃、先生は都市住宅学会関西支部の支部長でした。都市住宅学会は1993年に設立された学会です。発足から2年の1995年に阪神淡路が生じ、これに対応すべく、支部長として陣頭指揮を執られることになりました。住田先生はご出身が神戸で、「復興に役に立つことをしなければいけない」という意識とともに、「神戸のために何かしなければいけない」という思いも相当強かったと思います。被災自治体に出向かれ、どういう支援をしてほしいかを聞いてこられました。そのとき、行政では手が回らないので、まずは「調査をして住宅被害の実態を把握してほしい」といわれたのです。

その要請に応えるべく、髙田光雄先生と私が幹事になって都市住宅学会で研究会が組織され、調査活動を始めることになりました。研究会では各メンバーにどの地域を担当するかを割り振り、行政の方と連携して、被災状況を調査することになりました。前後して、日本建築学会と都市計画学会が合同で建物調査を開始していました。都市住宅学会としてはそちらの調査結果も活用させていただいて、住宅の被災戸数をカウントしました。どういうタイプの住宅がどういう被害を受けたのか調べたんです。当時研究室にいた学生はフルでこの調査に協力してくれました。私も現場との連絡調整のため、右往左往していました。

作業をすすめると同時に、関西の住宅研究者や都市住宅学会の関係者が定期的に集まって情報交換をしたりもしていました。ともかく、当時はものすごくタイトな時間を過ごしました。あまりちゃんとした展望もなく、言われたことをしっかりと早くやって、被害の実態を行政に伝えていました。

佃:何ヶ月くらいそういう期間が続いたのでしょうか。

檜谷:そんなに時間はかけず、被災の実態をデータとしてまとめて報告したように思います。住総研から助成をもらっていたので、それを活用して、調査結果を報告書としてまとめています。都市住宅学会の機関誌にも報告しました。被災住戸のカウント調査はともかく急いでやりましたが、その後も次々に課題が出てきました。被災した人たちに住宅再建に向けてどういうニーズを持っているのかを尋ねるアンケート調査にも関わりました。調査がひっきりなしに続いているという感じでした。

佃:先生方が調査された結果は行政のほうで活用されていたのでしょうか。

檜谷:被災住戸のカウント調査はそうですね。これは、行政の要請を受けて、そこで活用していただくために行ったものですから。その後の調査はどちらかといえば学術的な意味合いが強かったです。もちろん、それらも復興のための基礎資料になることを意識していました。行政は、かなり早い時期から避難所に入ってアンケート調査を何回もやっていました。そこで、研究会ではアンケートだけでは見えてこない、もっとリアルな被災者の声を拾っていきたいということで、インタビューをベースとした調査も行いました。

その中で、今でもすごく鮮明に覚えているケースがあります。それは、関東大震災も経験された方のインタビュー調査でした。その方は神戸市中央区に住まわれていて自宅が部分的には被害を受けたんですけど、幸いにも住める状態でした。

前田:幼い頃に関東大震災を経験されたということですか。

檜谷:そうですね。当時既にかなり高齢の女性でした。その方は関東大震災を経験していたので、ずっと水だけは絶対大事と思っておられて、日頃から水の備蓄を欠かさなかったらしいんです。なので、避難所に行かなかった。「水があるから大丈夫」とおっしゃっていて。

佃:当時で80歳とか90歳ぐらいの方ですよね。

檜谷:そうですね。当時、神戸は震災が起こるとは想定されていなかった場所でした。それでもちゃんと準備をされていたんですね。準備をすることで、避難所で生じていた様々な問題を回避することができたというケースです。

前田:日本建築学会や都市計画学会の調査をもとに都市住宅学会では調査をされたのでしょうか。

檜谷:フィールドで貴重なデータを作ってくださっていたので、私たちはそれを町丁目別、建て方別に集計して、行政に渡しました。住宅復興計画を立てるには、被害の実態把握ができていないといけないので。それは行政からのリクエストを受けて、やったことです。

都市住宅学会は、できて間もない学会ということもあって、作業を迅速に行える勢いがあったのだと思います。くわえて、関西には国公立で住居学科という看板を掲げていた大学が3つもあり、住宅研究者にも一定の厚みがあった。それで、「住居」という旗印でまとまったのだと思います。

佃:住宅の被害が大きい震災だったので、住宅研究者が活発に活動されていたということですね。

檜谷:そうですね。私の場合は、友人が西宮市で被災して、発災から1週間くらい経った頃でしたが、避難所に訪ねに行きました。その時の被災地の光景に本当に圧倒されたということもありました。「あ、これは何とかしないと。何か役に立つことがあったらしなくちゃ。」という気持ちになりました。それで、研究はちょっと置いておいて、という感じの入り方だったかな、と思います。

坪内:阪神淡路では調査公害の問題もあったと聞いたことがあります。そういった問題にはどのように対処されていたのでしょうか。

檜谷:当時、調査公害というような言葉で認識していたか定かではありませんが、いろんな大学が個々ばらばらにフィールドに入っていくと被災された方や行政の方にも負担をかけることになるので、それは調整した方がよいというふうに私も感じていました。

私の場合は、行政の担当者から要望があったことを、学会員の一人として分担するという立ち位置で調査に入りました。行政と連携するという仕組みをつくることや、それが本当に役に立つ調査になるのかという判断は、とても大事だと思います。

もっとも、行政の要望だけを聞いていたらよいというわけではないので、それぞれの研究者がそのことを自覚して、必要な行動をとるということはあってよいと思います。阪神淡路の時はあまりコントロールされていなかったと思います。現場にはいろんな主体が入ってきていたので、全体をコントロールすることもきっと不可能だったろうと思います。大規模な災害が起きたとき、そういうことをしっかりと考える人が必要です。

既存住宅を活用することの障壁

檜谷:当時、研究者の間では既存の住宅をできるだけ使った方がよいと言われていました。仮設住宅を大量に作るのではなく、既存の住宅を被災者向けに活用しよう、と。けれど、それがなかなかうまくいきませんでした。

前田:どのような障壁があったのでしょうか。

檜谷:当時は、みなし仮設という考え方はなかったんですね。その後の東日本大震災(以下、東日本)ではありましたけど。それから、私も阪神淡路を経験したのでわかりますけど、当時はずっと余震が続きましたから、やはり不安なんですね、被災地で既存の建物にとどまることが。

前田:余震の不安もあるので被災地から離れたかったということでしょうか。

檜谷:そうですね。「他のところに行かないと」という気持ちはあったと思います。今考えると、最初の揺れほど大きい揺れは来ないはずなんですが、そのときは、「この揺れがもうずっと永遠に続くのかしら」と思うくらい、不安でしたね。

中越地震のときにもそういう話を聞きましたし、実際に大きな余震が続きました。そういうことがあるととどまるのが不安になりますね。それで、当時から被災地に仮設住宅街を作って、そこで徐々に復興していくというアイデアもあったんですが、リアリティをもってすぐには受けとめられませんでした。

前田:心理的、心情的な部分が大きかったということでしょうか。

檜谷:それに加えて、制度的な後ろ盾がなかったということもあります。肝が据わった方と言ったら変ですけど、先ほど申し上げた関東大震災を経験した女性みたいに、誰の力も借りずに自宅にとどまるという方もいらっしゃったんですけどね。

前田:阪神淡路のときも民間の借家の空きを使って、今でいうみなし仮設みたいなものが139戸提供されています。でも、それはおっしゃるように現在のような仕組みが後ろ盾としてあったのではなく、どうしても避難所に入れないとか、どこにも行けないっていう方のために、県庁の職員の方が一軒一軒、オーナーさんを説得して善意のもと無償で提供してもらったと聞きました。

檜谷:当時、行政職員の方は現場で本当に頑張られていました。一番大変だったのは、土地の確保ですね。10年検証の報告書にも書きましたが、法務局が持っている登記情報をもらえないというか、やり取りができないんですね。復興公営住宅をつくる段階で既に、「今後ここにニーズがあるのか」みたいな場所を選ばざるを得ませんでした。立地の問題は行政側でも十分に認識されていて、汗をかいて土地探しに奔走されたんですけど、結果的に使える土地が非常に限られていました。自治体が先買権みたいなものを持っていたら、もう少し条件の良い土地を確保できただろうと思います。

阪神淡路で被害が集中したインナーシティでは民間賃貸が大量に失われ、入居者がいなくなったことで借家権も解消されました。それを機にオーナーの方は土地を次々に売却されて、マンションがどんどん建っていきました。それで神戸では人口が急速に回復しましたが、もともと住んでいた方は他の場所、しかも遠く離れた場所にいくことを余儀なくされました。それは、かなり胸が痛くなることでした。もう少し仕組みを工夫できなかったのかと思います。例えば民間が使うにしても、何割かは公的な借り上げ賃貸などをそこに組み入れるような仕組みをつくっておけば、その場所にいた方に入居してもらうことはできたはずです。

民間との連携、持ち家再建支援の課題

佃:震災に限らず、公営住宅を行政が作るのではなくて民間にやってもらって、そのうちいくつかはソーシャルなものにするという考えは当時からあったのでしょうか。

檜谷:関西では大阪符の企業局が先導してニュータウンを開発して、その中で公営住宅もたくさん造ってきたという実績があります。公営住宅を作るノウハウは他地域の自治体に比べてあったと思います。加えて、URが当時すごく頑張っていて、URが建てた住宅を買い取って公営住宅にするというケースもありました。

当時は特定優良賃貸住宅制度もでき、民間に優良な賃貸物件をつくってもらい、家賃補助、建設補助を入れるという、いわゆるヨーロッパの社会住宅のような仕組みも開発されていたんですね。背景には、バブル経済の時代の住宅価格の高騰の影響があり、アフォーダブルハウジングの仕組みをつくろうとしたわけです。ただ、それがあまりうまくいかないということも見えてきた時期でした。

そういう時期に阪神淡路があり、これを契機にして、公営住宅という制度がまた盛り返してきました。公営住宅が最も国の予算を注入しやすい仕組みだという理解が、行政関係者のあいだで共有されていました。研究者もそういう認識だったかもしれません。だけど、被災自治体は財政的にかなり厳しい状況に陥りました。今もずっと借金に苦しんでいて、ようやくその問題に片がつくところまで来たかなというところだと思います。

事業主体は色々あったんですが、「公営住宅はこうですよ」という基準を民間に渡しただけのようなものもありました。もちろん最低限の基準は満たしているんですが、急いで公営住宅を増やそうとしたことが、結果として、その後あまり使われない、魅力的ではない公営住宅ストックを作ることにつながってしまった、という反省はあると思っています。

佃:阪神淡路でも、早く復興しなきゃいけないという切迫感が強かったでしょうか。

檜谷:それが当時の行政のトップの考え方でしたね。それと元の状態に戻すのではなくて、「住宅復興というのは住環境を以前より良くすることだ」という考えのもと、良質な公営住宅を建てようという意識がありました。だからこそ、コレクティブハウジング型復興公営住宅を含め、今後のモデルとなるような公営住宅をつくっています。

佃:行政による住民のニーズ調査は、どういうふうに進んでいったんでしょうか。

檜谷:公営住宅の入居希望者が調査のたびに増えていきました。最初は自力再建したいと思っていた方も、融資制度が硬直的で利用が難しいとわかってくると、公営住宅にどんどん流れていきました。

私が思う阪神淡路の教訓というか失敗は、持ち家再建への支援が薄かったことです。

その後、被災者生活再建支援制度などができて、住宅再建に対する支援の位置づけが変わりました。しかし、阪神淡路の当時は私有財産には補助できないという考え方が金科玉条のようにあって、持ち家再建への支援ができませんでした。それでまちの復興が遅れた。その問題はものすごく大きかったと思います。

意欲のある人も、お金の問題でつまずいて諦めていく。協調建て替えや住宅の共同化など、随分いろんな働きかけがありましたけど、もっと支援がないと難しかったというのが実情ですね。

大津山:高齢で賃貸物件を持っている方の選択が町の復興を左右するという状況は首都直下地震でも起きることが予想されます。阪神淡路ではオーナーの方々はどのような選択をしたのでしょうか。

檜谷:土地を売却された方が多かったと思います。その後、本当にびっくりするほどたくさんのマンション建設が進みました。賃貸住宅の経営をされていた方の何割かは、あるタイミングで土地を売却して、お金に変えたのだと思います。

借地借家法の問題もあったと思います。法律が改正され、定期借家制度が施行されたのは2000年です。それ以前はみんな普通借家契約です。非常に利便性の高い場所に不動産を持っていても、古くからあるアパートでは入居者が固定化していたので、家賃を上げることもできませんでした。それで市場家賃との乖離がどんどん進んでいく。お金に困っていなかった経営者はそれでもいいと思っていたかもしれませんが、震災で入居者がいなくなって、「この際、違う形で不動産を活用しよう」という考えになっても不思議ではありません。

大津山:東京はまさに、放っておいたら震災を機に外資が入ってきて、土地の所有もどんどん変わってくる可能性があると思います。

檜谷:そうですね。だから、そういうことも想定し、早めに、その不動産を誰に、どのように引き継ぐのかを、家主さんに考えておいていただくことが大切ですね。賃貸物件だけではなくて持ち家も含めてそうです。物件をもっておられる高齢者はたくさんおられますし、子どもがこれを相続しないというケースも多い。放って置くと、法定相続人が多数出てくるなどして、手のつけられない状況になります。登記や相続については法改正も進められていますが、借家人の権利をどのように保障していくのかという視点からの検討は十分ではないと思います。

そもそも公営住宅に向かった方の中には、できれば慣れ親しんだ場所で民営の低家賃の借家があればそこに住みたいと考えていた方もいたはずです。そうした願いを可能にするためには、民間住宅をコントロールする仕組みを整える必要があります。今はセーフティーネット住宅を家主さんに登録していただいて、そこに家賃補助を入れていくといった仕組みもできてきています。でも一般の家主さんに浸透していませんし、なかなか難しいところもあります。現状のセーフティーネット住宅制度では家主にうまみがないので、社会貢献という面を評価して、金融機関が家主に有利な条件で住宅改修への融資を行うといったことも必要だと思います。

復興まちづくりと専門家、住民リーダーの役割

前田:先ほどの協調建て替えや住宅の共同化について、専門家が入って進められた地域もありましたね。

檜谷:すごくうまくいったところもありますよね。たとえば現代計画研究所の江川直樹先生が入られた芦屋の若宮地区とか。ただ、あれくらいうまくいったところは、やっぱり例外的なんですね。私はある地区でまちづくり協議会の方にインタビューをしていたのですが、本当に熱心にされていて、もう頭が下がる思いでした。なんとか共同化にもっていかれたんですけど、終わったらもう本当にヘトヘトという感じで疲れ果てておられましたね。それほど献身的な人がいないと共同化ができないのは問題だなと思いました。

コンサルタントの方の中にもいろんな考え方の方がいました。地権者が大事だという方と、まちづくり協議会のような仕組みが大事だと言う方では、重視されることが違います。専門家の中には、リアルな現場のことをあまり分かっていない方もいます。法律や制度の問題もそうですけれど、わりと理想論的なことをおっしゃる。そうすると、住民の皆さんがちょっと混乱されてしまう。それで摩擦が起こったことは確かです。また、それが取り組みの遅れにつながっていく。専門家が現場にどう関わるのかについては、入り方を含めて、いろんな教訓を残しているように思います。

佃:東日本でも、いろんな方が一斉に入ってきたところは混乱して、整理に時間がかかったように思います。

檜谷:もちろんやっている人はそれぞれ使命感をもって、やってくださっているんでしょうけど、多くの情報が一気に入ってくると、住民は混乱しますよね。

佃:まちづくりとして復興できたところには、何か特徴があるのでしょうか。

檜谷:例えば、神戸の真野地区は有名ですね。リーダーに対する一定の信頼感が普段の活動を通じて醸成されていました。そういう信頼性の資源って大事ですね。それがあるとリーダーの言うことはみんなある程度リスペクトしますから。

他方、そうしたリーダーがいなかった地区で、にわかに復興まちづくりをしようといってもなかなかうまくいかない。そういう地区で、ある方がイニシアティブをとられて、頑張られたのですが、ちょっと空回りしていましたね。震災前から信頼関係が醸成されていなかったということが大きいと思います。町内会でもよいので、普段から住民が何らかの形で緩やかにつながる仕組みがあるということが大切で、それが復興まちづくりを進めるための基盤になります。

前田:まちづくり協議会は震災を機に大幅に増えましたが、震災後に新たにできたところは、行政が進める復興事業を説明するだけの場になってしまっていたケースもあったと聞いたことがあります。

檜谷:それはあると思いますね。もちろん、現場で汗を流された行政職員や専門家の方を何人も見てきました。でも、住民さんとの関わり方で、「もうちょっとこの方の言うことを聞かれたらいいのにな」って感じることは傍から見ていてありました。やはりお住まいになっている方々の共感がしっかり得られないと、前に進まない。議員さんも重要なプレイヤーなんですけど、政治的な立場や考え方の違いなどもあり、なかなかうまく回っていなかったところがありました。

インナーシティの被害の構造と迅速な住宅復興

佃:賃貸住宅にもともと住んでいた方はやはり公営住宅を選びがちということはあったのでしょうか。

檜谷:阪神淡路の特徴はやはり、都市部、特にインナーシティと呼ばれる場所で大きな被害が生じたことですね。老朽化した賃貸住宅、長屋とか木賃アパート、文化住宅の被害が大きかった。そこには、低所得の高齢の方がかなり多く住んでおられた。そこで低家賃で自立して暮らしておられたわけです。それがなくなったことで、一気に公営住宅階層になってしまいました。

佃:借家を持っていた家主さんが再建を選択しないと、そこに住んでいた人たちは公営住宅に移らざるを得なくなる。そうなると、それまでは自立して民営借家に住んでいた人たちが皆、公のサポートのもとで生活しなきゃいけなくなりますね。

檜谷:大きくみるとそういう状況があったと思います。もちろん、公営住宅だけでなく小さな戸建ての持ち家が密集して建っていたところもあったので、そういった人たちはサポートがあれば持ち家再建が可能だったと思いますね。

前田:神戸市内だけみてもかなり地域性の違いがありますね。

檜谷:そうですね。私が中央区で関わっていたところも、お商売をやっていたりして自力再建ができる方と、そうでない方が混ざっていましたね。

前田:当時は、住宅をまずは再建するというのが大きな命題だったと思いますが、商売を再建するための支援もされていたのでしょうか。

檜谷:もちろんありましたよ。でも、お商売を再開しようとしても、震災直後は街に人がいなかった。仮設的なものを建てて商売をするという意欲のある人もいましたが、住んでいた人が戻ってこないと、商売をするのもなかなか難しかったと思います。

当初は、家を無くした方がこれだけ大量にいるので、再建にはとても時間がかかるだろうと思っていました。でも、結果的には、ものすごく短期間で再建が進んでいきました。98年ぐらいには復興公営住宅もできていって、震災から3年ちょっとで住宅復興は概ね完了しました。その点は、行政の方々がとても頑張られたと思います。公営住宅がどんどんできて、街が変わっていき、そこに被災された方が入居していく。そういった実態が議論よりも先行していたように思います。

当時あれだけの短期間で再建ができたのは、UR都市機構(以下、UR)の力がやはり大きかったと思います。URはその後、住宅管理だけをする組織のようになってしまいましたが、機動的に住宅を建設できる部隊を持っておかないと、大都市で大量の住宅が一気に失われた時に困ると思いますね。

政策の実行機関とノウハウの継承の重要性

佃:東日本でもURが果たした役割は大きかったと思います。当時、URでは蓄積されたノウハウがうまく継承されていたといったことがあったのでしょうか。

檜谷:そうですね。それが今はちょっと弱くなっていますね。住宅供給公社のような組織もそうです。公社はかつて、賃貸住宅の供給や分譲住宅もやっていて、それなりのノウハウを持っている人たちがいました。それが今はもう管理をやっているだけみたいになっています。政策を遂行する実動部隊が、今はものすごく先細りしています。

「民間を使ってうまくコントロールしていけばよい」という議論もありますが、阪神淡路を振り返ってみると、民間を使えばよいものが必ずできる、というわけではありません。やはりそれをコントロールするマンパワーが行政側に必要なんですね。そのようなマンパワーを育てるには、いろんな経験を積んでもらわないといけない。机上の行政事務をやっているだけでは難しいと思います。そういう体制を構築して、いざというときに、素早く住まいを提供できるようにする。そういうことが大切ではないかと思います。

阪神淡路の経験を踏まえて、神戸市も兵庫県も、「公営住宅の1割は空き家でいい」という方向に転換しています。今は震災だけじゃなくて大雨洪水とか災害が頻発していますから、いざというときに受け入れるために空き家を無駄ではなくて余裕と捉えて持っておく、というスタンスです。ただ、誰も住みたくないようなところで持っていても仕方がないので、使い勝手の良いストックを分散してキープしておくのがよいと思います。

前田:阪神淡路で公営住宅をスピーディーに供給できたのは、当時、住宅政策の転換期だったけれど、まだ行政側にも住宅の大量供給のノウハウがあって、それを使えたというのが大きかったでしょうか。

檜谷: 90年代はちょうど、国の審議会の方で「民間市場を活用しましょう」と謳い始めた時期なんですね。だけど現場ではまだ市場の整備・誘導・補完とは具体的には何をすることなのかがぼんやりとしていて、共通理解にはなっていなかったと思います。住宅市場の活用って国が盛んに言っているんだけど、「それってどうすること?」みたいな議論をしているうちに災害が起こりました。それで結局、「公営住宅しかないでしょ」という流れだったと思います。

前田:実質的な選択肢としては公営住宅しかなかったという現実があったんですね。

檜谷:当時はそうですね。だからこそ、民間住宅のコントロールも含めて、平時から複数の選択肢をつくっておくことが問われていると思います。

平時からの備えで住宅再建の選択肢を増やす

前田:今後また大都市で大きな震災が起きたとき、行政と民間がもっと連携したり、空き家を使ったりするためにはどういったことが必要でしょうか。

檜谷:基本的には、災害が起きたとき主体的に行動できる人を増やしていけるとよいと思います。学校教育も含め、防災教育を強化してほしいですし、その上で、災害が起こったときにそなえて、複数のシナリオを作っておくことが大事だろうと思います。行政としても複数の選択肢を提供できるような体制を整えておくことが大切ですね。阪神淡路の時は公営住宅しかなかった。今は「公営住宅以外にも選択肢はある」ということをもっと発信していかないといけないと思います。

それから、「住宅政策の空間化」という言い方をしますが、地域という単位で住宅政策の仕組みを柔軟に組み立てられるようにしておくことが大切です。コミュニティの観点からも、基礎自治体の対応力がもっと強化されないといけないと思っています。

公営住宅の管理を巡っては、いろんな課題があります。たとえば、民間大手の会社を指定管理者にするのではなく、地域のいろんな主体にやってもらったらいいんじゃないかと思っています。そんなふうに、地域の資源を地域の主体でコントロールしていけるようにしておかないと、いざという時に「どこか遠くの誰かが決めたことに従わないといけない」みたいな状況になるんじゃないかと危惧します。

もう一つは、居住権を保障するとはどういうことかを確認しておかないといけないと思います。住宅が商品化されてしまっているので、「個人の力量でやってください」という考え方に偏りがちですが、住宅は生活基盤として不可欠で、そうした観点からの政策を構築してほしいと思います。居住権っていうと、「それは公営住宅で最低限確保できている」と言われますが、住まうという営みはライフスタイルの選択の問題でもあるので、ハードとしての住宅があれば事足りるわけではありません。

フランスの住宅研究をして感じていることですが、住宅への権利は、都市への権利とつながっています。住む場所の問題がすごく大事ということです。これから日本はさらに高齢化社会になるわけですが、高齢者にとって新しい環境への適応というか、住み慣れた地域から動くのは大変です。そうすると、そこに留まりたいというニーズをコミュニティとして支えていくための仕組みが必要になる。具体的な制度でいうと、終身居住やリバースモーゲージのような制度をうまく使えないのかなと思います。つまりそこにとどまりたいという高齢者にそのまま住んでいただき、後々は社会的なものにしていくという仕組みです。

前田:西日本豪雨の際、岡山の真備町ではリバースモーゲージが活用され、持ち家の再建が進んでいました。ただ、修復中とはいえ堤防が決壊した河川の近くの低地に平屋の住宅が再建されているようでした。それは家を失った方のここに「住みたい」という希望に沿った結果だったのかもしれませんが、災害のリスクという点で疑問も感じました。

檜谷:災害のリスクも考慮して,その人が納得して動いていただくというプロセスが大事です。そういう中で協力していただいたら、「一代限りですけど、お住まいをサポートしますよ」というようなことがあってもよいと思います。それと、高齢になると自分でなかなか判断できないっていう問題もあるかもしれません。

佃:東日本の場合、これは東北の人の性質かもしれないですけど、「ここは公がやる」といった線引きの意識も強かったのかなと思います。行政の支援も住民の選択肢をサポートするという考え方になるので、そういう中で公営住宅の希望が多くなると作らざるを得なかったのかなと感じました。

コミュニティで日頃から支えるというのは、公をうまく使いながら自分たちでやるということですが、悩ましいですね。阪神淡路で起きたことを東日本でも繰り返しているように感じることもあります。「平時の選択肢を増やす」ということが阪神淡路以降、はたしてどれぐらいやれてきたのかなと思います。

前田:地域で防災まちづくりのお手伝いなどをしていても、もし被災した時に、住宅の再建のことまで普段から考えておくのはなかなか難しいという感覚があります。先ほど先生がおっしゃっていたような、住宅管理、地域管理の視点からの行動の積み重ねが結果的に防災につながるんだと思います。

檜谷:住宅って、ちゃんと維持管理していないとどんどん傷んでいきますよね。いろんな活動団体が住宅の維持管理の重要性を指摘されていますが、日頃から大工さんといい関係作っておくとか、そういう地道な取り組みも大切です。2018年9月の台風21号では関西でも大雨等による住宅被害がありました。自宅の修理でみんな電話するんだけど、日頃から関係を作っていなかったらそんなすぐには来ていただけないですよね。でも平時にはそんなところにまで意識がまわっていない。

佃:最近の住宅は「ノーメンテが良い」といった発想ですよね。それはすごく便利なんだけれど、そうするとできたものは固定的なものになってしまうから、「雨漏りしているからあそこの工務店に頼もう」といった経験が日常からできなくなっているっていうのも大きいですよね。

檜谷:古い建物で、表面だけ綺麗にされていて耐震補強には全然手を付けていないという物件もあります。「内装が綺麗だし大丈夫」という間違った印象で入居されています。

前田:住まいに関する情報や知識を市民がもっておくことの大切さも阪神淡路を契機として認識されたことなのではないかと思います。関西では住情報支援や住教育などの取り組みが震災を機に広がってきているという印象があります。

檜谷:神戸の場合は確かにそうですね。大阪ではもともと、震災とは関係なく進めていました。バブル経済の後、市内にもっと多くの人に住んでもらうための政策に注力していて、そういう流れの中で大阪市立住まい情報センターも作られました。京都はだいぶ後ですね。ただ,いずれも、住宅政策において市場の活用を重視するという話と結びついていることは確かです。

90年代の初頭にそういう方向性が国の方から出されました。それで、何をやるのかってなったとき、情報の非対称性を解消する政策が大事でしょうと。一般の方と事業者が持っている情報量は違うので、そこを埋める役割が住まい情報センターには期待されていました。

借り上げ復興公営における居住継続の問題への対応

檜谷:借り上げ復興公営住宅の問題に長く関わってきました。兵庫県は、当時の井戸敏三知事が「ずっと住み続けたいと思っている高齢の方をまた別の場所に移すのはいかがなものか」という考えを持っておられたので、世帯ごとの事情を見て丁寧に検討する枠組みを作ったんです。それで、借り上げ公営の入居者であっても、条件を満たせばその方が亡くなるまではずっと借り続けるようにしています。

借上げ公営は当初、「20年で出ていってください」ということでしたが、20年は意外とあっというまに過ぎていきます。20年後にどういう形で転居するのか、最初からしっかりと説明を尽くし、了解をいただいておかないといけなかったのです。しかし、そこが不十分で、入居者からみれば、14年、15年と経った時に急に言い始めたという感じだったのだろうと思います。

神戸市、西宮市では退去をめぐって裁判にもなりましたが、兵庫県では入居継続希望者について、退去予定の4、5年前に審査をしています。入居継続要件には、本人や同居家族の年齢、地域の医療・介護の利用状況などがあり、審査委員会を非公開で開催して、継続申請を丁寧に検討してきました。

前田:審査委員会はどういったメンバーですか。

檜谷:メンバーには弁護士、福祉、医療の専門家等がいます。それと私のような住宅分野の専門家ですね。そういったメンバーで継続的に個別のケースについて議論しています。

前田:自治体によっては、20年という当初の規定通りに退去してもらうという方針をとっているところもあるようですね。

檜谷:やはり自治体の首長の考え方が大きいのでしょうね。当時、専門家が提言していたのは、URや公社賃貸、公営住宅をすべて一元的に管理して、応能応益家賃という考え方でやればよい、ということでした。そうすると必要な人に家賃補助が入りますから、先程述べたような借り上げ公営住宅の入居期限問題はなくなるわけです。

当時は、借り上げ復興公営という制度しかなかったのですが、退去の期限を迎える頃には、家賃補助の仕組みが入ってくるだろうという楽観的なイメージがあったかもしれません。ところが、それがそういう仕組みにはならなくて、借り上げ期間が終わると退去しなければいけないという問題に直面しました。

居住って一旦開始すると、継続性が出てきます。地域との関係も含めて人間関係ができてきますからね。それを全然違う場所に、しかも歳をとってから、行政が施策として「移ってください」というのは、かなり厳しいものがあります。

それは当時から言われていたことです。被災者はまず仮設で移らされて、次に復興公営で移らされた。「何回変わらなあかんの」という不満の声はありました。阪神淡路では公平性を重視して硬直的に進めていました。もちろん、グループ入居等の制度も作ったんですけど、そういう制度を使えるのは、やはり一定のリテラシーがある人です。だからリテラシーがない方、本当に孤立している方はいろんな関係性から切れてしまう。新しい場所への適応も困難でした。

居住には年齢とともに継続性が出てきますし、どうしたいかは自分で決めたいですよね。自分で決められず、「期限ですから出てください」となることに問題を感じました。兵庫県ではスムーズに退去してもらうために、できるだけ近くの公営住宅に空き住戸を確保して、移転にかかる費用の補助をするなど、様々なサポートを用意しました。それでも相当数の人が「移りたくない」と言われたのです。

佃:兵庫県の借り上げ復興公営には今もどれぐらいの方が残っていらっしゃるんですか。

檜谷:350世帯以上は残られていると思います。80歳以上の方は残られている割合が高いですね。でも、入居者が高齢者ばかりになると、その方々を誰がお世話するのかという新たな問題もでてきます。そこで、たとえば高齢の方の見守り活動をやっている60代の方がいたとき、その方の継続居住も認めましょうと。そういうケースもでてきています。

佃:その人がいなくなったら他の人の生活が成り立たないから、十分な理由ですね。

檜谷:そういった方のことも含め丁寧にサポートしているという点では兵庫県は頑張っていると思いますね。もちろん、震災当時に入りたかったけど入れなかった方や、いろんな思いで退去された方がいますから、公平性という観点も念頭にあります。それで、十分に審議をして判断しているのだと思います。

佃:まさに福祉のセーフティーネットとしての住まいの重要な部分ですね。

檜谷:一般の公営住宅でも、社会的弱者が集中する状況になっています。だから制度のデザインをもっと工夫しないといけません。公営住宅法の第1条で、住宅に困窮している者に提供するということが謳われているから、それ以外の方の取り扱いがすごく難しいんですね。本来は、いろんな人が住んでいる普通のまちのような状況をつくらないといけない。住宅セーフティーネット法では、住宅確保要配慮者に子育て世帯など一般的な世帯も含めていますが、まずはそれぐらいに対象を広げられないかと思います。阪神間や神戸の公営住宅では高齢者化が急速に進んでいて、その状況をなんとかしようと、シングルマザーや子育て世帯の優先入居枠を活用して、入居者構成の均衡をはかろうとしていますが、難しいです。

須沢:審査委員会は非公開とのことですが、入居継続の要件みたいなものも発表されているのでしょうか。東日本の借り上げ仮設からの転居の際にも同じようなことが問題になっていたので、そのあたりが上手く発信できると今後,制度が変わってくるのかなと思います。

檜谷:どのような考え方で審査しているのか、概略は公開されていたと思います。ただ、個々のケースについて、個別のどのような事情を勘案して判断しているかという詳細は非公開です。

須沢:たとえば借り上げ仮設から災害公営住宅に移るときに、介護の継続だとか通院とかの問題で難しいという話があって、その辺り、もう少し柔軟な対応ができればよいのにという話は現場でもよく出ていました。あと、近場の民間賃貸住宅に転居するときに家賃補助が出るとか、そういったことができると選択肢がもっと増えていくのかなと感じています。

住宅復興のその後の住宅政策への影響

前田:阪神淡路を機に実施された施策などで、その後の住宅政策でも機能しているものはありますか。

檜谷:公営住宅自体が今すごく大変な状況になっているのですが、災害復興公営住宅というカテゴリーができたことは大きいですね。その仕組みはその後もずっと使われているわけですから。公営住宅制度の役割を拡張し、長く使い続けられるようにした、ということはあるのかなと思います。また、コミュニティ形成を重視して、公営住宅団地で従来の基準を超える集会所が設置できるようになったこともあります。公営住宅制度のもとでは、集会場の規模を含め、事細かに規則で縛られていますが、それを見直して、柔軟に対応できるようにしたのです。

佃:東日本の時も広めの集会場がつくれるように要件が緩和されました。

檜谷:阪神淡路ではコミュニティプラザという名称の集会所を作りました。高齢の入居者が多かったので、「いきいき県住推進員」という見守りの仕組みを設けました。もっとも、大変な仕事だったので、推進員の方が精神的にしんどくなってしまって、あまり機能しなかったんじゃないかと思います。

一般的な見守りの仕組みとしては、LSA(生活援助員)がシルバーハウジングとセットで配置されました。シルバーハウジング制度は、2000年に介護保険制度ができて、見直されるようになりました。他方で、一般の公営住宅にも高齢世帯が多数居住していることから、神戸市のように、見守りの仕組みをひろげた自治体もあります。

いろんなトライアルがあったのですが、当然,うまくいったものもあれば、そうではないものもあります。でも、その後の震災では、それを教訓としてバージョンアップが行われました。例えばコミュニティを重視という点は、中越地震や東日本で改善されたと思います。

佃:コミュニティ重視という考え方が東日本の時にも当然のように出てきたのは進歩だなと思います。一方で、コミュニティづくりを支える仕組みはまだうまく組み入れられていなという感じもします。

檜谷:コミュニティづくりはずっと課題ですね。阪神淡路で、仮設住宅から復興公営住宅に入られた方の第一声が「やっとプライバシーができた!」でした。そういって喜ばれていました。プライバシーの問題は切実で,プライバシーがしっかり保たれていないと、コミュニティもつくれない。強いられた中での協調はストレスフルです。

もちろん、ちょっとしたお祭り感、特別感があったので、避難所ではみんながすごく優しくなって、お互いのことを支え合っていました。海外のメディアも称賛していました。みんなちゃんとお行儀良く列に並ぶし、素晴らしいって。ただ、それをずっと持続させるのは難しい。特異な状況に置かれていたので、無理をしてでもちゃんと振る舞わないといけないと思って行動されていたように思います。

前田:東日本でも公営住宅に入られた方のお話を聞くと、やっぱり「入れて良かった」「安心した」という方と「仮設とか避難所の時は楽しかった」「寂しくなった」とおっしゃる方がいますね。

檜谷:高揚感はありましたね。みんな大変だから支え合わなくちゃ、みたいな。そういう意識が共有されている時期があったと思います。だからこそ平時から緩やかにつながることが大事で、ずっと課題なんですけど、そこをうまくやっていく仕組み作りはまだ十分にはできていないなと思いますね。

ゆるやかなつながりを求める現代のコミュニティづくり

前田:東日本でも、ある集団移転団地につくられた災害公営住宅では、もともと集落のような人間関係が濃密なところに暮らされていた高齢の方であっても、災害公営に入ってからはお互いの見守りや生活を支えあうためのゆるやかなつながりを求めるようになっていました。そういった最低限のつながりというのは年齢に関係なく現代的なニーズとしてあるんだなということを感じました。

檜谷:阪神淡路でのコレクティブ型復興公営の経験を大事にしようということで、兵庫県はそうした取り組みに対してはその後も補助をしていました。でも、施設的なものしかできていない気がします。住宅らしいのは「芦屋17℃」くらいじゃないですかね。分譲住宅ということもあり、理解と意欲がある人が入っておられる。ただ、持続させるのは簡単なことではないと思います。そういう意味では、「かんかん森」などを手掛けたコレクティブハウジング社の取り組みはすごいなと思います。

佃:かんかん森には若い人や子育て世帯も結構入っていますね。

前田:コレクティブという理念が明確にあり、それが居住者の方と共有されていると思います。

檜谷:私も早い時期に、小谷部育子先生にお話を聞く機会がありました。その時、これってすごく有意義だなと思いました。ジェンダーの問題を考えても、コレクティブは女性が自立して暮らすという理念とマッチしています。また、個人として暮らすということともフィットします。もちろん、家族でグループをつくってもいいんですけど、もっと対等な個人間の関係を前提にして、18歳以上はいろんなことを分担して、支え合って暮らしを成り立たせる。ただ、そういった理念を日本社会で共有し、実践していくのは簡単なことではないですね。

佃:家族っていう単位が強すぎるんですかね。

檜谷:それもありますし、日本の場合は外部サービスがものすごく発展している。そのことも大きいと思います。サービスが便利すぎるとそれにどうしても依存してしまう。住まいが商品化してサービスが発達したことに対して私たちはあまりにも慣れきってしまっている。家事に対する捉え方もそうで、家事が楽しみにならない。もちろん家事も労働でありアンペイドワークだという考え方は大事だと思うんですけど、家事って本来は楽しみにもなる活動のはずなんです。ところが、「代替できるんだったら商品やサービスを買った方がいい」みたいになっている感じがしますね。

佃:便利にはなりたいけれども、そこで失っているものをどう考えるかということは大事ですね。

檜谷:楽しみ家事みたいなことが選択的に作れたらいいんでしょうね。これからは意識的に他者とどう繋がって豊かさを享受するかっていうことを、もう少し考えたほうがいいでしょうね。日本もだんだん経済的に貧しくなってきていますしね。

学際的なプラットフォームで大きな社会的事象に向き合う

佃:最後、若手に期待しておられることはありますか。

檜谷:皆さんのような方がいらっしゃって、頼もしいなと思います。東日本が起こって、関東の先生方を中心に危機感を持ってやらなくちゃいけないという感じになった時、関西であんなにたくさん発信していたのに「皆さんに何も伝わっていなかったんだ」と感じました。そういうことが次はないように、若い方がしっかりとつないでいってくださることが大事だと思いますね。

佃:記録だけでなくその伝え方ももっと考える必要があるということでしょうか。

檜谷:そうでしょうね。阪神淡路では本当にたくさんの出版物や報告書が出ています。ですが、皆さんそんなに見ていらっしゃらない。

佃:人材育成やネットワーク形成とセットで、「この記録をどう読みとくのか」みたいな形で繋がないとダメなんでしょうね。

檜谷:そうですね。それと、建築学の領域もどんどん広がってきています。これからも大きな社会的事象や自然災害を経験していくでしょうけど、その時にいろんな分野の方がどうやってプラットフォームを作って交流しながらやっていけるのかということが問われると思います。

建築や住居を専門としている人間は、とにかく建物とそこでの生活に関心があって入っていきますが、被災地には他の分野の人たちもたくさん入ってこられますよね。そういう人たちとのネットワークの作り方がなかなか難しいなと感じてきました。それを若い人達には作っていただきたい。日頃から学際性を意識して頂ければと思いますね。

2021年12月25日(土)京都府立大学下鴨キャンパスにて

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前田昌弘
建築討論

京都大学大学院人間・環境学研究科准教授/1980年生/2004年京都大学工学部建築学科卒業/2012年京都大学大学院工学研究科博士後期課程修了/博士(工学)/専門:建築計画、住まい・まちづくり/著書:『津波被災と再定住―コミュニティのレジリエンスを支える』(単著)、『世界居住文化大図鑑』(訳書)など