饗庭伸他著『津波のあいだ、生きられた村』

災害は繰り返す、人の生きる時間を越えて(評者:佃悠)

佃悠
建築討論
8 min readMar 1, 2020

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饗庭伸、青井哲人、池田浩敬、石槫督和、岡村健太郎、木村周平、辻本侑生、山岸剛(写真)著『津波のあいだ、生きられた村』

本書は、東日本大震災で被災した大船渡市綾里地区が明治以降3度の津波に対峙し、その間を生き延びてきた記録である。そしてその内容は、復興の「時間」の再考を迫るものでもある。大きな自然のサイクルと、その中で生きる営みを考えた時、復興の時間とはどのようなものか。

綾里地区は大船渡市中心部から車で約30分、太平洋沿岸に位置する。明治期に綾里村が成立、昭和に入り、吉浜、越喜来と合併し、三陸村、その後三陸町を経て、2001年に大船渡市に合併している。著者らは、東日本大震災後この地域に入り、丁寧な現地調査を続けてきた。本書では山口弥一郎の「津波と村」を手掛かりに、東日本大震災を経験した現時点から、昭和三陸地震以降の「津波のあいだ」に着目し、「どのような津波のあいだの過ごし方が、どのように被害を軽減することにつながったのか、それがどのような村の仕組みに支えられたのか、一つの村でできるだけ正確に明らかにし」ようとしている。自然からの被害を一方的に被った結果としてではなく、「災害は天災と人災の組み合わせであり、周期と直線の組み合わせ」と捉え、周期的な災害と直線的な社会の発展が邂逅した経験として、「津波のあいだの過ごし方の知恵」を得ようとしている。

本書は、6章から成る。1章「綾里」は対象地である綾里地区の詳細を、2章「空間」、3章「社会」は昭和三陸津波から東日本大震災までの「津波のあいだ」の状況を、4章「避難」、5章「復興」、6章「継承」は東日本大震災後を活写している。

昭和三陸地震の復興で、何が行われたのか

詳しく各章を見ていく。1章「綾里」では、対象地である綾里の、空間的構成、社会的仕組み、生業や人の移動が示される。綾里は3度の大津波、明治三陸津波、昭和三陸津波、東日本大震災を経験し、いずれにおいても大きな被害を被ったが、その死者数は、1296名、181名、27名と逓減している。その原因を高台への移動の観点から説き起こしている。明治三陸津波後には高地の集落への移転も行われたものの低地へ回帰する世帯も多く、そこに昭和三陸津波が襲った。津波後は人工的な集団移転地「復興地」の建設、また、道路や鉄道網の形成などに引っ張られるように行われた「無意識の高台移転」があったことが示されている。

2章「空間」では、近世以降、オオヤと呼ばれる集落の地主層のもと形成された集落の起源を確認したうえで、昭和三陸津波の「復興地」に着目する。津波前年、農山漁村の自立的な運営を促すために国の政策として取り組まれた「農山漁村経済更生運動」において、担い手として設立された「産業組合」の事業に国の資金が導入され、「復旧」もこの枠組みの中で行われた。「住宅適地造成事業」でいわゆる集落移転として「復興地」の建設が四集落で行われ、三集落では個別移転が選択された。個別移転の例では、震災直後だけでなく、数十年後の住宅の老朽化に応じた改築でも高台移転が選択されており、長期的に集落が高台化していった。

3章「社会」では、地域社会を支える組織としてイエ、集落、村、信仰、生業の組織の役割と、時間軸で見たそれら変容が示される。集落や信仰、生業組織の存在が共同体としての意識を醸成・維持することに果たす役割が大きい一方、昭和三陸津波後の移転からはすまいの建て替えや移動は家ごとの判断であり、その際綾里の中での「直線」としての近代(「復興地」などの存在)が移転場所の判断を後押ししたことが示される。扉に引かれた山口弥一郎の言葉は、村が原地に復帰する要因として「元屋敷とか、氏神とか、海に対するなどの民族学的問題」を含んでいる可能性を示唆する。しかし、近代の復興の中で見えるのは、集落の表層に容易には現れない各家の日常をベースにしたそれぞれの判断である。

本書で過去を振り返る際のシンプルかつ重要な問いは、「綾里において、三度の大津波の中で人的な被害が逓減している」理由を見いだすことである。それを短絡的な因果関係に集約するのではなく、多様な視座から歴史的な経緯を描き出すことで、時間をかけた高台への移転が可能になったことを明らかにしている。

東日本大震災から、何を伝えられるのか

東日本大震災後を扱う4章以降では、前段でみた「津波のあいだ」の「空間」「社会」による東日本大震災後に発生する避難・復興・記憶の継承への作用を読み解いていく。

政府のアンケートや個々人の聞き取り調査から把握できる避難は(4章「避難」)、まっすぐ避難先に向かう人よりも立ち寄りや津波観察行動、自宅への待機が多く、震災以前の思い込みの影響を指摘する。ここでの空間は、集落と海とを切り離す防潮堤の存在である。では、忘れたころにやってくる災害に向けて、どのように東日本大震災の記憶を残すのか(6章「継承」)。著者らの実践を例に、「土地に刻み込んでおくと、いざという時の目印になる。行事に津波の由来を組み込んでおくと、津波に対する意識が緩やかにつながっていく」ために、石碑、木碑、ブイによる記憶の空間化、ゲームを用いた中学生への震災の記憶の定着と、「込み入ったこと、複雑なことは書籍や動画などの記録に残していくしかない」として、教訓集の作成や期間限定の津波博物館の開催が示される。

さらに、現在の復興の前提である「近代復興」という政策体系を、「実質的には『起きてしまった予測していなかった災害』に対する事後の対策を、それまでの政策の上に一つずつ積み上げてつくり出してきた体系にすぎない」と喝破する(5章「復興」)。その上で、綾里ではそれをあえて利用することで、地域の自立的な復興を進めた記録が提示される。自発的な組織である綾里地区復興委員会が、地域からの復興の要望を吸い上げる機能を果たし、市も、多くの支援者による提案ではなく、この委員会が紐づけられる公民館から上がってきたものだけを正式な提案としている。これは、「農山漁村更生運動」の組織から連綿と続く地域の自立的な仕組みが発動したものでもある。

このように震災直前の「空間」と「社会」の状況が、災害時の各自の対処、次の「津波のあいだ」 の空間を形作る復興のあり方、さらには知恵を次につなげることに影響を与えている。

津波のあいだを生きるということ

本書からわかることは、同じ津波でも場所によって異なる被害を受けるし、同じ場所でも津波ごとに異なる影響を受けるということである(前者は空間的な要素との関係、後者は時間軸で捉えた社会背景との関係とも言え、本章の「空間」、「社会」に対応する)。このことは、どの場所でもどの時代でも通用するような万能の共通解は存在しないということである。近代以降、社会は均質な商品を大量に生産することを目指してきた。それに合わせるように、社会自体も変容してきたとも言えるし、空間を形成する論理も世界中どこでもユニバーサルなスペースを実現することを是としてきた。どこであっても一定レベルの質が実現できるようになった、その恩恵は確かに大きい。さらに、空間を創造する行為は長期の影響を与えるため、ある程度の将来を見通したうえで行われるべきである。しかし、近代が築いてきた論理は、あまりにも全てが事前に思い描いた通りに動かすことができるという間違った認識の上に成り立っていたようにも思われる。綾里では「津波のあいだ」に、近代的な復興の力を借りながらも、それぞれの生活のスタイルから乖離しない時間のなかで対応することで、徐々に集落の空間を変容させてきた。それが、津波に対するレジリエンスにもつながっている。このような時間をかけた津波への空間としての対応力は、必ずしも当初の計画で見通せたものではないだろう。さらに空間化することは、その記憶を持つ人々が不在となっても、集落が生き延びる知恵をそこに埋め込む行為であるとも言える。自然の環境も、時間も、人間の力ではどうすることもできない大きな力である。しかし、本書は、「村の仕組みを鍛えることによって災害の被害を軽減することができる」として、東日本大震災後に喧しく聞かれた「絆」のような期待的な言葉を排し、「綾里の人たちの日々の暮らしと生業のなかから見つけ出されるものではないだろうか」と締めくくる。村の仕組み−空間や社会の仕組みは、必ずしもいまここで効力を発揮するものではない。その遅効性の効用にももっと意識を巡らせるべきであろう。数百年に一度訪れる津波はその力の大きさを私たちにまざまざと見せつける。しかし、時間を越える人間の強かな知恵を再確認する機会でもあるのだ。

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書誌
著者:饗庭伸、青井哲人、池田浩敬、石槫督和、岡村健太郎、木村周平、辻本侑生、山岸剛(写真)
書名:津波のあいだ、生きられた村
出版社:鹿島出版会
出版年月:2019年9月

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佃悠
建築討論

東北大学大学院工学研究科都市・建築学専攻准教授/1981年生まれ/2004年東京大学工学 部建築学科卒業/2012年同大学院建築学専攻博士課程修了/博士(工学)/専門:建築計 画/著書:『集合住宅の新しい文法』、『復興を実装する–東日本大震災からの建築・地 域再生』など