03「中動態」── 実践は作者をこえる

[201907 特集:これからの建築と社会の関係性を考えるためのキーワード11 |Key Terms and Further Readings for Reexamining the Architects’ Identities Today]

青井 哲人 AOI, Akihito
建築討論
11 min readJun 30, 2019

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外の真実と内の真実

ある画家M氏は、リンゴの絵を描きながら、どんなに真に迫ろうともこの絵は本物のリンゴの影にすぎないと知っている。プラトンなら目の前のリンゴさえ「リンゴなるもの」それ自体(=イデア)の影だというだろうが、まあそれはどちらでもよい。いずれにせよ真実とはM氏がこの世にいようといまいと変わらないもののはずだ。であれば、彼はその不完全な再現者であることを出られない。

ところがある日、M氏は反逆を試みる──真実ははじめから私の外になどありはしなかったのだ。他ならぬ私自身の内面に、私自身が見出す取り替えのきかない私独自の想念、それこそを私は私の絵に描くべきだったのだ。私、私、私・・・M氏は新たな苦しみに直面する。この絵を、いったい、誰にどうやって分かってもらおうというのか私は。

このふたつ──自然主義とロマン主義の単純化されたモデル──は鋭く対立するが、それゆえに似ている(ねじれば手も結べる)。M氏の外にある不変の真実にせよ、M氏の内なる生きた真実にせよ、絵の制作に先立って、具現化されるべき何か本質的なものが「ある」と考える点で両者の基盤は共通だから。そしてそうした何ものかが「ある」、「なければならない」と念じるほど、M氏は「何ものか」にすがる下僕となってしまう。

制作は超過である

もっとも、今日芸術創作をこんなふうに理解するとしたら時代錯誤というものだろう。にもかかわらず主題、コンセプト、オリジナリティへの素朴な信仰はしぶとく残っているようにも見える。建築設計教育や建築メディアはどうか? ──しかし今は話を進めよう。

ブリュノ・ラトゥール『近代の〈物神事実崇拝について ── ならびに「聖像衝突」』荒金直人訳、以文社、2017

実践は主体を超える ── ある科学人類学者の言葉だ(Bruno Latour, Sur le culte moderne des dieux faitiches suivi de Iconoclash, 2009|ブリュノ・ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について ── ならびに「聖像衝突」』荒金直人訳、以文社, 2017)。

制作は制作者を超える。実践そのものがはらむ過剰さ。そうでなければ何のために描くのか。M氏は新たな確信を得る。自身の制作の実際を事細かに思い起こしながら──。

最初の線はいつも半ば無根拠だった。M氏はリンゴを描くときも、自身の苦悩を描くときも、はじめからどんな絵にするか明確には分からないまま、いくらか凹凸のある柔らかい紙に最初の線を描いた。それは仮設的な足場で、足場がなければ作業がはじまらないが、それもいつしか絵の一部に転じていた。線は増えつづける。100本目を迎える頃には、腕と指先が紙の鉛筆への反発を心地よく感じる、そんな自動運動のなかにM氏の意識はすっかり溶け出している。

音を立て紙を刻むように描かれる鉛筆の線を、M氏はたしかに見ている。しかし、第三者が客観的に「見る」のとはまるで違う。彼の目は研ぎ澄まされた視覚の海に溶け、「見る」のではなく「見える」状態に浸っているのだが、多数の線の見えは記憶中のパタンとの同一性や差異といったフィルターで瞬時に解釈され、それが彼の腕と指先に次の運動を促し、線を増やしている。

外からの観察や指示を欠いた内的な連携のプロセス。いわば薄暗いトンネルのなかにいて、その中央の視界が前方へ順次澄むように開けていく、そんな通路性こそが実践なのだ。

線はM氏が描いたものだが、彼自身に再帰的に作用する。再び同じ科学人類学者の用語法にならえば、ここでの線は、生まれると同時に制作実践に参画する行為主体(agent)あるいはアクター(actor)になる。いや、彼の目、腕、指先、鉛筆、紙の凹凸、描かれた線、ひっかき傷のような紙の窪み・・・といったアクターたちが相互に作用しあって動的な体制を組むことで、トンネルは前方へ産み出されつづける。

身体各部は、おそらく身体というまとまりをほどかれて、他のアクターたちとの連携を組んでいる。腕も指先も、あるいは目も、連携して似た運動を反復しながら、ときおり新たな解釈へとジャンプし、それが別種の運動につながり、さらに・・・。こうした生産性が、制作のトンネルそのものを刻々と変容させ、そのパフォーマンスを高める。作品とはこうした実践の通路を通って予期せぬ姿で生成するものだ。

そんな豊穣な超過こそを本質とする制作実践の過程を、どうして「何ものかの具現化」などという説明に押し込めていたのか。晴れやかな開放感に一瞬浸ったM氏だが、しかし間もなく再び悩みはじめる。制作実践を真摯に反省してみたM氏にはもう、作者とは何かが分からなくなってしまったのだ。

中動態とは何か

芸術の制作実践のこうしたありふれた複雑さについて、「中動態」概念を導きとして説明してくれる良書がある。森田亜紀『芸術の中動態 ── 受容/制作の基層』(萌書房, 2013)である。

森田亜紀『芸術の中動態 ── 受容/制作の基層』(萌書房、2013)

読者には森田の説得力ある議論をぜひ堪能してもらいたいが、ここでは本稿の文脈で筆者なりの説明を試みることをご容赦いただきたい。まずは中動態について簡単に説明しよう。

「私は彼を説得する」は能動態だ。主客をひっくり返すと受動態──「彼は私に説得される」となる。動詞の態は基本的にこのふたつしかない。〈能動↔受動〉の図式は私たちに刷り込まれていて、能動態で「私は絵を描く」と言うとき、「私」が創作行為の排他的な源泉=主体であるかのような乱暴な単純化が、発話において固定されてしまう。そして、私が線を描き、逆に線が私を触発するという、運動と解釈の相互作用的な連鎖、それが持ちうる過剰さが、この簡単な発話によって抑圧される。

だが、世界のより古い言語には〈能動↔受動〉とは異質な対立図式が見出されるという。それが〈能動↔中動〉の図式である。受動態では「私」に説得される受け身の役割であった「彼」は、中動態に活用させた動詞を使うと「彼は納得する」「彼は確信する」といった積極的な意味を担うようになる。他方、さきほどは変化の起源を独占する主語だった「私」は、古い能動ではたんに彼の変化にきっかけを与える役割になる。実際に自らを変化させたのは「彼」であり、彼こそが「変化の座」である。

整理しよう。

図式① 能動態 active voice↔passive voice 受動態:変化の原因を重視。

図式② 能動態 active voice↔middle voice 中動態:変化の座を重視。

後者(図式②)では、「私」はその外へと作用を発するが、変化の座である「彼」はそれを入力として受け、自らの内的な変化を推し進めた、ということになる。この〈外↔内〉の対比を採用して、〈外態 external voice↔internal voice 内態〉と言い換えると分かりやすくなる。

M氏が紙に線を描く、あの複雑なプロセスを思い出そう。M氏の腕の運動が紙に線を刻み、この線がM氏に作用する。アクターたちは連鎖的な連携関係に沿って次々に〈外態↔内態〉を入れ替えながら各々を変化させていく。制作のトンネルそれ自体を主語とするならば、これはもう中動態しか役に立たない──「制作実践の通路は(多くのアクターたちを使って)自ら変容しつづける」──というわけである。

作者の事後性

しかし森田の本で最も重要なのは、「作者の事後性」の指摘である。

すでに述べたように、M氏の制作実践は、不断に直前のM氏を超えていく。そうして作品ができあがったとき、これは私の作品かとM氏は戸惑った。この事態をM氏はどう扱うのか。森田の理論的解決はこうだ。

一方に、自分がつくったとは思えない作品それ自体から構成されうる理論上の作者X を考えることができる。森田はXを「作品の作者」という言い方で捉えるが、本稿ならXとはその作品を産んだトンネルの名前に他ならないといえるだろう。対してM氏自身は「実在の作者」だが、それはトンネルを掘り進んだ多数の労働者のひとりだった。

そのM氏(実在の作者)が、自身を超えた作者X(作品の作者)を引き受け、「M」と署名する。ゆえに作者とは原理的に事後的なものなのだと森田は論じる。本稿の文脈でいえば、作品への署名とは制作実践の超過分を引き受けることである。

建築家の主体性、そのふたつの位相

建築の場合、スタディのドローイングを描き重ねるプロセス、模型を系列的に多数つくるプロセスなどは、さきほどのM氏の絵の場合と同様の中動態的な制作実践とみなすことに違和感はなかろう。

もうひとつ、施主、多数のユーザ、エンジニア、官庁・・・といった社会的なアクターとのコミュニケーションが、同様に〈外態↔内態〉の交替と連鎖であることもそれほど難なく理解できよう。公共施設設計の市民ワークショップなどは、そのアリーナそのものの中動態的なパフォーマンスの最大化が肝要であり、そこからファシリテーションの意義なども説明できる。

またリノベーションでは、現状では不可分の構法的・生活的な統合性を解きほぐすので、膨大なアクター間の関係の繋ぎ変えを起こしうるが、それは、それらアクターたちが、鉛筆でスケッチを描いたり、模型をつくったり、CAD図面を描くためトラックパッドを叩いたりする手に、何らかの解釈と運動を次々に迫る事態だとも言い換えられる。

こういう状況だから、現代の建築設計では設計者が「作品の作者X」の権利を独占することに抵抗感が増したとしても不思議ではない。たしかに今日、一般にプロジェクトが動く通路は多様化し、階層化し、流動的である。しかし、それ自体は良いも悪いもない。どんな通路に参加しても、その通路が発揮しうるパフォーマンスを最大化させ(必要とあらば奇形的に変質させ)、予期せぬ作品を生み出す可能性を模索すればよい。

そして、制作のプロセスが結末を迎えたとき、設計者Mは、作品の作者X、つまり通路の全体性(ヒトやモノの相互作用の集合性)を引き受けて署名する。このとき現れるのが「建築家」である。それは責任の形式であって、つまり設計者が「建築家」を名乗るのは(第一義的には)創作者としてではなく、社会的機関としてであろう。またこのとき、作品を説明する虚構がつくられることがある。例の「何ものか」=コンセプトと、作品はその具現化であるという言説。これも元来が事後的な虚構であり、やはり良いも悪いもないが、彼はこのようにして創作者でもある。

やめるべきは、第一に通路の社会性(ヒトやモノの相互作用の集合性)がもたらす超過性をこそ本質とする制作実践を「コンセプトの具現化」といった息苦しい図式に押し込めること(ただし虚構としての事後的言説は抑圧すべきでない)、第二にそうした社会的産物を署名によって作品化することを、建築家による「創作の独占」と勘違いすることであろう。

要するに、建築家の主体性は、「制作実践の超過性の通路内的な探求」と「通路の集合性の引き受けとしての事後的署名」という、不連続で異質なふたつのフェーズに腑分けできる。作家性をめぐる忌避や執着に類する感傷は、これらを混同して現れるナイーブな言説にすぎないと思われるのである。

平易に言い換えよう。実践とは個を開くことで豊かさを得る過程であり、署名とは作品の成立を個の意志と責任をもって引き受ける形式である。建築教育はこのことを朗らかに学生に伝えるべきだろう。

國分功一郎『中動態の世界 ── 意志と責任の考古学』(医学書院、2017)

なお、國分功一郎『中動態の世界──意志と責任の考古学』(医学書院, 2017)は、中動態をめぐる言語学研究の系譜を追う前半はともかく、意志と責任をめぐる後半の倫理学的議論になると、筆者にはどうも似た種類のナイーブさが感じられてしまって素直に読めない。建築に携わる人にもぜひ一読を薦めたいが、社会的機関としての建築家の責任という問いを忘れて読んではいけない、というのが筆者の意見である。

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青井 哲人 AOI, Akihito
建築討論

あおい・あきひと/建築史・建築論。明治大学教授。単著『彰化一九〇六』『植民地神社と帝国日本』。共編著『津波のあいだ、生きられた村』『明治神宮以前・以後』『福島アトラス』『近代日本の空間編成史』『モダニスト再考』『シェアの思想』『SD 2013』『世界住居誌』『アジア都市建築史』ほか