05「アクター・ネットワーク」── 「科学」としての建築学は可能か

[201907 特集:これからの建築と社会の関係性を考えるためのキーワード11 |Key Terms and Further Readings for Reexamining the Architects’ Identities Today]

中村健太郎
Jun 30, 2019 · 13 min read

アクター・ネットワーク理論による建築へのアプローチ

アルベナ・ヤネヴァによる建築理論書、『Five Ways to Make Architecture Political: An Introduction to the Politics of Design Practice(建築を政治化する五つの方法 デザイン実践の政治学入門)』は、政治学者ラングドン・ウィーナーが1980年に執筆した一片の論文、『Do Artifacts Have Politics?(人工物は政治性を有するか?)』の紹介から始まる。それは1920年代のNYで活躍した都市計画プランナー、ローバート・モーゼスにまつわる衝撃的な史実をめぐるものだ。 自身が計画したジョンズ・ビーチへと続く公園道路に、モーゼスは異様な”低さ”の立体交差橋を計画した。8.5フィートの高さしかない橋が架かったその道を、低所得者を乗せた車高12フィートの公共バスは通行できない──。それは実質的に、建築を通じた人種隔離政策だったのだ。人工物そのものに政治的な性質を認めることが可能であると結論づけたウィーナーの仕事は、技術論・都市論・政治理論の領域に多くの議論を巻き起こした。

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Albena Yaneva, Five Ways to Make Architecture Political: An Introduction to the Politics of Design Practice

しかしヤネヴァはこれに批判を加える。ウィーナーは、モーゼスの橋の有する政治性を、「高さ」と「人種差別」へと極度に単純化してしまっている。それはかえって、政治と人工物の分断を再生産しているのだと。そこで対置されるのが、2014年にカナダの建築シンクタンクCCA(Canadian Center for Architecture)が作成したドキュメンタリー作品『Misleading Innocence: Tracing what a bridge can do(潔白のミスリード:橋に出来ることを辿る)』だ。関係者のインタビューや実物の撮影を通じてモーゼスの橋の実際に迫るこの作品は、今現在も利用され、経年劣化し、修繕され続けるモーゼスの橋のマテリアルな次元を明らかにする。またそれは、モーゼスの橋が建設者、都市計画家、警察、議員、エンジニアといった関係者なしには成立しなかったという事実を再確認させるものだ。ヤネヴァがこのドキュメンタリーを引き合いに出すのは、それがモーゼスの橋において「作り上げられてゆく政治」の有様を浮かび上がらせるからである。それは「政治は所与のものである」という、素朴な政治性の存在論を退ける。

ここに、建築物の政治性をめぐる二つの立場を見て取ることができる。ウィーナーの立論は、建築物そのものが何らかの政治性やイデオロギーをそれ自体に内在させていると考えるものだ。ここでの建築は、政治的な性質を受肉(embody)し保存する「固定的な」事物である。これに対しヤネヴァの立場は、モーゼスの橋がどのように「振る舞う」のか、またどのような他者、あるいは事物と関係を結ぶのかという外的な条件へと着目する。ここでの建築は、外的な関係性の組み替えによってその性質を変化させ続ける「動的な」事物といえよう。またそこに見出される「政治性」は、ウィーナーが告発した人種差別という大文字の「Politics」ではなく、モノの連関を通じてささやかに、しかし絶え間なく発揮される小文字の「politics」の運動である。

本書を通じて展開される後者の建築理解の戦略を、ヤネヴァは「アクターネットワーク理論による建築へのアプローチ(an ANT approach to architecture)」と呼ぶ。彼女の師であるフランスの科学人類学者、ブリュノ・ラトゥールが同僚のミシェル・カロン、ジョン・ローらと作り上げた「アクターネットワーク理論(以下ANT)」こそ、建築理論と政治理論、ひいては社会科学理論の融合というヤネヴァのプロジェクトを導く糸だ。

ANTの出自と跳躍──科学としての社会学は可能か

ANTとはなにか。それは科学社会学の領域に出自を持つ新たな社会科学理論である。その立役者であるラトゥールは、ANTを用いた諸科学の分析と、これを通した近代批判理論の構築で世界的に知られる人物だ。その影響力は社会科学の枠を超え、哲学(思弁的実在論)や芸術といった他分野にまで及んでいる。本稿の目的はANTが建築学の未来にどのような影響を及ぼしうるのかを考察することにあるが、本題に入る前にANTというラディカルな思考の出自を押さえておくことは無駄ではないだろう。

時は1980年代、エディンバラ学派を筆頭とする当時の科学社会学は、行き過ぎた社会構築主義(社会決定論)に対する批判をあびていた。これを横目に、ラトゥールらはユニークな研究アプローチを構想する。それまでの科学社会学が公開された論文や科学理論の内容といった「既製品の科学(readymade science)」を研究対象としていたのに対し、ラトゥールらが着目したのは「進行中の科学(science in action)」、すなわち科学的な事実が生成される具体的で経験的なプロセスであった。彼らが「科学人類学」と称して行なった調査研究は、実際に科学者の研究室や職場に踏み込み、その実態を分厚く記述するというアプローチをとる。ラトゥールが『科学が作られているとき―人類学的考察』で取り上げた「科学論文」はその一例だ。科学者は自身の発見がより「真実に近しい」こと、すなわち「自然」の新たな側面を発見したことを示すため、自身に好意的な論者を援護するような引用から、競争相手を批判する攻撃的な引用まで、実に多様な戦術を取る。科学論文のネットワークを通じて科学的事実が確立されるプロセスは、極めて闘争的なものなのだ。

この「科学論文」のように、ある社会的なまとまりにおいて他の事物と関係を取り結び、なんらかの働きを担う事物をラトゥールは〈アクター〉と呼ぶ。ただしラトゥールが論文について、「ひとつの文章はそれ自体としては事実でも虚構でもない。それが事実か虚構かを決めるのは、他の文章である。」と述べるように、アクターとしての論文の性質はそれ自体に内在しているのではなく、他の事物との外在的な関係性の総体、すなわち〈アクター-ネットワーク〉において示す働きによって決定される。また哲学者の金森修が「論文は不平等に、かつネットワークとして総体的に存在している」と述べるように、ネットワークのあり方も固定的で平等なものではなく、外的な要因や状況の変化によって常に変化の可能性に晒されている。その変化のたびごとにネットワークは再配置され、アクターは異なる役割を果たすか、あるいは舞台を退場してしまう。

それだけではない。科学論文を対象に行われた実行中の科学の記述は、科学実験室における研究の構築にも適用される。たとえば科学者が組み立てた複雑な実験装置、かき集めた大量の試料、引き出された目当ての反応、これらの作業を支える助手や技官たち…。それらもまた互いに有意味な関係のネットワークを成し、科学的事実を作り上げてゆくと考えるのだ。このように、ANTは人もモノも分け隔てなく扱い、それらが成すネットワークを記述することで、ひとつの社会的なまとまりの組成へと介入してゆく。

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ブリュノ・ラトゥール『社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門』

しかしANTにおける愚直なまでの記述の戦術は、いったい何のために実践されるのだろうか。ANTが可能にしていることに注意を向けよう。それは、社会的なまとまりの説明に、「階級」や「権力」といった「社会的なもの」を持ち出さない。科学社会学としてのANTは、科学的事実の素朴な存在論だけでなく、科学的事実の社会構築主義的理解──「社会的なものによる社会的なものの説明」という循環論法──をも退けるのだ。ゆえにラトゥールはANTの入門書である『社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門』において、既存の社会学を「社会的なものの社会学」、自らの社会学を「連関の社会学」と明確に区別する。ANTの世界的な流行を決定づけたこの書籍の末尾で、ラトゥールは「社会科学は、自然科学の有する組み立ての力と肩を並べなければならない」と述べた。それは「自然」と「社会」という究極のメタ言語に支えられた近代の枠組み、すなわち自然科学が組み上げてゆく客体の世界と、それには収まらない主体の世界を担当する社会科学という補完関係への意義申し立てだ。なぜ自然科学だけが好きなように、科学的事実へと事物を動員できるのか。ラトゥールはこの力を「政治的なもの」と形容する。そして社会科学にも、事物を収集して組み上げる力能を認めるよう要求するのだ。ゆえにANTは、単に事物のネットワークを記述する方法ではないし、ましてや非人間に拡張された社会学などと短絡されてはならない。それは社会的なまとまりを、より望ましい方へと組み替える「科学」なのであり、自然科学と同じくらいに政治的な実践なのだ。

建築理論としてのANT、その射程

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ソフィー・ウダール『小さなリズム: 人類学者による「隈研吾」論』

さて、ここで科学者を建築家に置き換えれば、建築学に対するANTの実践もまた可能となるのだろうか。すでにヤネヴァの応用的な実践を紹介したが、より直接的な「建築人類学」の試みもまた展開されている。ヤネヴァによる『Made by the office for Metropolitan Architecture: An Ethnography of Design』、ソフィー・ウダルらによる『小さなリズム: 人類学者による「隈研吾」論』は、それぞれレム・コールハース率いるOMA、隈研吾率いる隈研吾都市計画事務所を対象とした人類学的建築研究の成果だ。彼女らはラトゥールらが科学研究室でそうしたように、建築事務所内で「進行中の建築(architecture in action)」が展開するアクター-ネットワークをたどり、「建築」という言葉の背後に隠された事物を明らかにしてゆく。アクターとして記述されるのは、スタッフやアルバイトはもちろん、互いに関係しながら制作されてゆく大量の模型や図面である。

ラトゥール自身もまた、建築学に対する言及を行なっている。ヤネヴァとの共著である『Give me a Gun and I will Make All Buildings Move : An ANT’s View of Architecture(銃を与えたまえ、すべての建物を動かしてみせよう──アクターネットワーク論から眺める建築)』★1がそれだ。ここに登場するのが、エティエンヌ=ジュール・マレーの「写真銃」である。マレーは低速度撮影の発明によって、それまで死んだ鳥から推測するしかなかった「飛行」の実態を、連続的な静止画として可視化したことで知られている。ラトゥールが本論文で訴えるのは、この「写真銃」とちょうど逆の働きをする理念的な銃の必要性、すなわち建築の「動き」を可視化する新たな視覚言語の発明だ。

どういうことか。ラトゥールは、建築とは本来「動いている」プロジェクトである関わらず、あたかも「静止している」オブジェクトかのように扱われるのは問題だと主張する。念頭にあるのは、建築を「静止画」として表現する視覚言語としての透視図法だ。ラトゥールに言わせれば、それが前提とするユークリッド空間は、プロジェクトとしての建築の「飛行」を記述できない。必要なのは、事物によりそう蟻の目線(ANT’s View)なのだと。「写真銃」にひきつけて言い換えるなら、「透視図法による建築は、死んだ鳥の体を弄んで「飛行」を知ろうとするのと同じ」ということだ。(ラトゥールはこうした挑発的な筆致でも知られる)。

隈研吾は『小さなリズム』のあとがきに寄せた文章で、この論考にポストモダニズム建築理論が相対化される可能性を看取している。「この論(ラトゥールとヤネヴァの連盟のGUN論考)は、彼以前の脱構築主義者の建築批判の形式を完全に反転した。フーコー、デリダ、ドゥルーズの建築論とは、ひと言で要約すれば、建築の固定性、不動性の批評であった(中略)その語り口をラトゥールは反転したのである。「建築は少しも固定されていないじゃないか」とさらっと言ってのけて、先輩たちの硬直したロジックを一笑した。その開き直りこそが、ラトゥールの圧倒的に面白いところだと、僕は感じる。」極めて明快な歴史認識といえよう。

建築をして語らしめよ──科学としての建築学は可能か

しかし隈は、先の記述の直後、次のように不満を述べる。「では、われわれは実際どんな空間の中に住んでいるのだろうか。(中略)「ユークリッド空間を忘れろ、ユークリッド空間を大前提とする透視図法というメソッドを捨てろ」とは言うが、それ以上ラトゥールは踏み込まず、ヒントも与えてくれない。ANTはそこで立ち止まっていた。」

残念ながら、ANTに新しい「空間」概念を求めても意味がないのは明らかだ。ここまで見てきたように、ANTは社会的なまとまりを記述する方法であり、メタ的な言語によるアクター-ネットワークの隠蔽を退ける戦術である。むしろANTによる「進行中の建築(science in action)」の記述は、これまで「空間」という言葉に回収されていた様々なアクターの働きに目を向けさせるはずだ。同じことは、現代の建築学に深く根付く社会学概念にもいえる。私たちは建築について語る際、たとえば都市社会学由来の「都市」や「コミュニティ」といった言葉をためらわずに使ってしまう。しかし、こうした言葉にもまた、ラトゥールが指摘した循環論法が埋め込まれているのだしたら? ANTは建築に内在する「社会的なものの社会学」を、「関係性の社会学」へと置き換える。建築の存在論は、社会的な概念や建築の本質主義によってではなく、アクター-ネットワークの広がりと作動によって説明されるようになるだろう。

ではその先の建築学には何が待っているのか? ラトゥールが社会学で行なったように「科学としての建築学」へと離陸することではないだろうか。それはますます多くの非-建築的なものを建築学に取り込むことを可能にする。冒頭のヤネヴァが取り組んだ、建築の持つ小文字の政治(politics)をたどってゆく運動はその好例だろう。

建築は、想像以上に多くの事物と関係を結んでいる。そのことに気づいたなら、あとはアクターに従い、ネットワークを辿るだけだ。


★1:10+1に、吉田真理子による翻訳が掲載されている(http://10plus1.jp/monthly/2016/12/issue-04.php

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中村健太郎

Written by

なかむら・けんたろう/建築家、プログラマ。1993年大阪府生まれ。2016年慶應義塾大学SFC卒。専門はアルゴリズミック・デザイン。学生時代より批評とメディアのプロジェクトRhetoricaに携わる。現在はNPO法人モクチン企画にて建築設計・システム開発に従事。

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